虚飾のライラック
1
水の音、風呂に沈むは、私かな。
と、辞世の句を読んでみる。ちなみに季語は「私」。季節は絶望と別れの冬。風呂の底で、お湯が降ってくるのをただ眺めている。風呂がお湯でいっぱいになる頃には私は溺死しているはずだ。
後悔はある。やり残したことだって、やりたいことだってまだまだあった。これは、後先の考えない突発的で自己中心的な自殺。悲しむ人がいるのは知っている。同居人が帰ってきたときに私の死体を見た瞬間どんなことを思うのか想像もつかない。……もしかしたらもう帰ってこないかも。
でも仕方がないのだ。私は取り返しのないことをしてしまった。これから、彼女とどう顔を合わせればいいのかわからない。
彼女と同居して五年ちょっと、私の人生二十数年の中で、一番楽しかったかもしれない。それが、一度の過ちですべてが消え去ってしまったのだ。
やってしまったことは変えられない。彼女はもう帰ってこない、これが現実。一人で罪の意識を背負ったまま孤独に生きていくなんて私には耐えられない。
……暗い話はここで終わりにしよう。さようなら、幸せ同居生活。こんにちは、絶望孤独生活。そして、グッバイ今世。私は一足早く来世に期待するぜ!
しかし、溺死と言ってもなかなか死なないものなのか?
さっきから、苦しいには苦しいが、一向に死ぬ気配がしない。走馬灯だと思って今までの思い出を振り返って見たが、もう見る物も見てしまった気がする。寂しいな私の人生……。
息を止めているのがダメなんだろうか? いや、でも息を止めないと肺に水が入ってしまう………あ、それでいいんだった。うっかりうっかり。
……でも、水中で呼吸しようとするのって結構勇気いるんだな。結構怖い。
高いところが苦手で、自分の手首を切るのも怖かったから選んだ方法だったけど、もしかしたら一番苦しい死に方じゃないか?
やめとけばよかったかな……。いや、これで死ぬって決めたんだ。ちゃんと耐えきって死んでやる。
なんて考えてるうちにだんだん息を止めているのがきつくなってきた。なんだか意識もぼやけてきたような気もする。
あ、やばい。死にそう。
口から空気が漏れ出す。酸素が足りなくなった私は、無意識に水中で空気を求める。その結果、
「ぼぉごっ⁉ ぶふぁ⁉」
鼻や口から水が入り、条件反射で湯船から顔を上げ、胃や肺に入った水を体が必死で吐き出す。
危ない。あとちょっとで死んでいるところだった。
「……あ」
静かな浴室には、蛇口から出るお湯と私の髪から滴る水滴の音が響いていた。
2
私は黒井場寛子。彼女は鈴井凛。
私たちは、高校で出会った。身長や性格、趣向は正反対に近かったが、お互いに無二と言えるほどの親友になった。卒業後、私は看護学校へ、凛は国立大学へ進んだ。お互いの家からは遠かったが、学校同士が近かったので、互いにお金を出し合ってルームシェアを始めた。
今思えば、あの時からもうすでに、私は凛に対してある感情を抱き始めていたのかもしれない。
ルームシェアは、いたって順調に進んだ。看護学校と国立大学を卒業し、私は近くの病院に、凛も近くの広告代理店に勤め始めたが、同居は依然として続いた。
今の今までは。
事の起こりは、私が入水自殺を図る三時間前。
私は夜勤が続き、精神的、肉体的共に疲弊していた。今日がその連続夜勤最終日。もちろん私は朝帰り。おぼつかない手つきで玄関を開け、重い足取りで廊下を歩く。あとは自室に入ってベッドにダイブするだけで、私はこの苦しみから解放される。明日からは休みなのだ。メイクも落としていないし、お風呂にも入っていない。でも、今の私には寝間着に着替える余裕すらない。
ふと、私は廊下の右手側の扉が開いていることに気が付いた。扉の側には掃除機も立て掛けてある。あそこは風呂場だ。凛にしては扉を開けっぱなしにするなんて珍しい。もしかしたら中にいるんだろうか。でも、電気はついていない。私は風呂場を覗く。
「ん?」
私は風呂場の違和感に気づく。いや、いつも見ている風呂場とは変わりないのだが。いつもより手前に置いている洗濯籠、開いた洗濯機の蓋、そして、戸棚にしまっていたはずの洗剤。
しばらく考えて、これは凛が洗濯をしようとしたってことなのかな、と結論づける。
凛は頭もよくて、気が利くし、何より優しいのだが、家事だけはまるでできない。小学六年生に少し毛が生えた程度のことしかできないのだ。洗濯はおろか料理もインスタントラーメンくらいしか作れない。なので、普段家事全般は私がこなしていたのだが、今日までの夜勤続きでできていなかった。
凛が、私の負担を減らそうとしてくれていたことに、嬉しさと同時に罪悪感が胸の内から溢れ出す。私はせめて片付けようと、洗濯機の蓋を閉め、洗剤を棚に戻し、洗濯籠を元の位置に戻………そうとしたところで、手が止まる。
私は見てしまった。寝不足で、理性もまともに働かない。抑えが効かないのだ。心臓が、これまでにないほど激しく脈動し、呼吸も荒くなる。私の手は私の意思と関係なく動き、私の目が釘付けになっているそれを取る。ゆっくりと、それが私の顔に近づく。
今、私の中で罪悪感と欲望が戦っているのだ。
勝ったのは欲望。
五年の間、知らず知らずのうちに抑圧され、溜まっていた感情を、私は欲望のままに吐き出す。凛が履いていた、まだ洗っていないショーツを自身の鼻に押し当てる。鼻腔内に凛の甘い香りが……これ以上言うのは控えよう。言っているうちになんだかもう一回死にたくなってきた。
そして、こんな時に限って……いや、こんな時だからこそ、起こってしまうことがあるのだ。
「え?」
聞き覚えのある声が私のすぐ後ろでする。
吹き飛ぶ眠気と襲い来る罪悪感。一足遅れて気づく。私は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。今振り返ったら、私たちの関係はいとも容易く瓦解してしまうのではないか。……もしかしたら、私の一挙でこの場を乗り切れるかもしれない。
なんてことはない。今すぐショーツを置いて、何事もなかったかのようにいつも通りに振る舞えばいいだけだ。……それだけのはずなのに、私の体は動かない。凛にどんな顔を向ければいい?いつもはどういう顔で会話してた?……わからない。
互いに固まったまま数秒……或いは数十秒。先に動き出したのは凛だった。
「ねぇ、何してるの?」
私は僅かに肩を震わせるしかできなかった。
凛が続けて言う。
「それって、わたしのパンツだよね。何で持ってるの?………ねぇ、もしかして、………におい……とか嗅いだりしてた……?」
戸惑いと僅かな羞恥を孕んだ言葉は、私の胸を深く突き刺す。
私は否定すればいい。凛の言葉に対して、「違う」と一言だけでいい………なのに私は、ここでも最悪の選択をしてしまう。
「………うん」
「…⁉」
それは、蚊の鳴くような声だっただろう。弱弱しく、今にも掠れ消えそうで、私自身本当に声を発していたのかもわからない。
しかし、凛の耳には届いたようだった。
ガタンッと音がして、咄嗟に振り替えると、凛が扉の側に置いてあった掃除機を倒した音だった。
凛と、目が合ってしまう。私はどんな顔をしていたんだろう。……少なくとも、凛がその場から逃げ出したくなるような顔だったらしい。
凛は、怯えた様子で私から顔を逸らし、そのまま玄関へ向かっていく。
体が、自然と凛を追いかける。このまま、凛を行かしてしまったら、私たちの間に、一生癒えることのない亀裂ができてしまう気がしたからだ。
「まって……!」
靴を履き玄関を開ける既の所で凛の手を掴む。
「…………」
しかし、掴んだはいいものの、なんて言葉を掛ければいいのかわからない。
私自身、私がこんなことを起こすなんて知らなかった。前兆はあったのだろうか、私は凛のことを恋愛対象として見ているのだろうか、それとも今まで溜まっていた性欲が単に爆発しただけなのだろうか。
とりあえず、何か言い訳を、
「凛、あの———」
「放して」
凛の冷たい目と声が私を射抜く。こんなにも冷たい態度で接してくる凛は初めてだった。強引には振り払わず、あくまで、私から解放するのを待っている。
「凛、違うの———」
「……気持ち悪い」
雷に撃たれた気分というのはこういうことなんだろう。いや、もっとひどい。雷を集めて打って作ったハンマーで頬にフルスイングされた気分だった。
私の体の中の何もかもが音を立てて壊れたような気がして、全身から力が抜け、その場にへたり込む。凛を掴んでいた手も、自然と放していた。
私はただ、玄関から出ていく凛の背中を眺めることしかできなかった。
以上、回想終わり。
3
「………すいません、優斗先輩。こんな休日の朝早くから呼び出してしまって」
「フフ、全然かまわないわよ。かわいい後輩の頼みだもの。私、いくらでも相談に乗っちゃうわ」
「あ、ありがとうございます……」
「それにしても、随分慌てて出てきたのね。メイクもヘアセットしないで、部屋着のままで出てくるなんて、あなたらしくないわね。私のコートを貸してあげるわ。この季節の朝は特に冷えるからなるべく暖かくしてね」
「すいません………」
「それで、早速なんだけど、相談って何かしら?こんなとこに呼び出して聞くくらいだし、仕事のことではないわよね…?」
「はい……えっと、あの………コホン、失礼を承知で聞きますが、優斗先輩ってほんとに『同性愛者』なんですか?」
「……ええ。そうよ。相談ってそのことかしら?」
「あ、い、いえ。本題はここからなんです……その、わたしの同居人のことなんですけど……」
「……?」
「今日、朝起きたら、ひろ……同居してる子が、その、わたしの下着のにおいを嗅いでて、それで、わたし、何が何だかわかんなくなって、そのまま、家を出てきました」
「………それは、見間違えとかではなくて?」
「はい……。それで、わたし、少し頭を冷やそうと思って、一番近くのこの公園でいろいろ考えてたんですけど。その時、他の同僚が、優斗先輩が同性愛者だって噂してることを思い出して、取り合えず何かわかるかもしれないって思って、連絡しました。……なので、その、具体的な内容とかは、まだ考えられていなくて……」
「……今のあなたの状況はわかったわ。じゃあ、まず、その同居人ちゃんのことを教えてくれるかしら」
「は、はい。えっと…まず背が高いです。一八〇センチ超えてるって、本人は言ってました。ここから近くの病院で働いてます。甘いものが好きで、辛いのと熱いのが苦手です。あと———」
「そうじゃなくて、あなたから見たその子のことを聞いているのよ。主観でも偏見でも構わないから、あなたにとって同居人ちゃんはどんな子だったのかしら」
「わたしにとって………」
「そう。例えば、料理は上手だけど、洗濯物を畳むのが下手。とか、買い物してきてくれるのはありがたいけど、余計なもの買いすぎ。とか、そんな簡単なことでいいわ」
「……わかりました。………本人は否定するんですけど、わたしたちって案外似てると思うんです。……確かに、身長も、食べ物の好みも、服の選び方も、買い物にかける時間も、まるで違うんですけど、でも、お互いに合わせることはできるんです」
「合わせる?」
「はい……わたしたち、お互いに空いてる時間があったらよくショッピングに行くんです。それで、一緒に服を見たり、日用品を見たり、化粧品を見たりしている時、驚くほど歩調が合うんです。わたしも彼女もわざと歩調を合わせたりなんてしてないのに……それに気づいた時、なんだかわたしたちって似てるなって思っちゃって」
「そうかしら?聞いている感じ『似ている』っていう表現はなんだか的外れのような気もしたのだけど」
「えっと、相手が止まったところに止まって、一緒に見るって行為が自然と発生してるってことは、相手がどんなものに、何で興味を持ったのか、を知りたいってことですよね。それが、お互い歩きづらさを感じずにいられるってことは、同じような行動意識で動いてるって思ったんです。だから、歩調もずれることはない」
「なるほどね。そんなこと考えたことなかったわ」
「あとは……そうですね。似てるって点で言えば、お互いに身長を気にしてるところとか……まぁ、理由は真逆なんですけど」
「あら、あなた身長気にしてたの? 初めて聞いたわ」
「めちゃくちゃ気にしますよ! 二十四にもなって、中学に上がった甥っ子に身長を抜かされる複雑さを味わったことはありますか⁉」
「ご、ごめんなさい。今後あなたの前で身長の話題は出さないようにするわ」
「お願いします!」
「「………」」
「……えっと、じゃあ、相談の続きをしましょうか」
「………はい。えっと、わたし、次どんな顔して彼女と会えばいいんでしょうか…」
「あなたは直接告白されたわけでも、迫られたわけでもないのよね?」
「はい……」
「じゃあ、あなたは同居人ちゃんのことが好き?恋人関係になってもいいと思ってる?」
「……友達としてなら好きですけど、恋人になってもいいかって言われると……なんか違うような気がします」
「そうね……私のこれは、答えになってるのかわからないけど。下着の件は、あなたが許したくなかったら、別に許さなくてもいいと思うわ」
「え……?」
「愛ってのはね、押し付け合いじゃないの。あなたがその子を受け入れようが、受け入れまいが、大事なのはあなた自身の気持ちよ。あなたが気を使って、その子を受け入れても、それはあなたのためにも、その子のためにもならないわ。只々、関係が歪になって、生活そのものが崩壊していく。あなたも、それは嫌でしょ?」
「わたしの気持ち………」
「私だって、許可なくカレシが私の下着のにおい嗅いでたら嫌よ。別に、あなたがその子に合わせる必要はないんじゃない? あなたはあなたの秤で考えていきなさい」
「わたしの秤……それって、寛子の秤は考えなくていいってことですか?」
「もちろん、秤の押しつけはダメよ。お互いの秤のメモリが違うなら、すり合わせて、新しい秤を作ってしまうのもいいわね」
「はぁ……」
「……これはまだ聞いていなかったわね。……あなたはどうしたいの?」
「どうって……?」
「寛子ちゃんとこのまま一緒にいる?それとも離れ離れになる?」
「……嫌、寛子と今離れたらもう二度と会えなくなるかもしれない。そんなの嫌……!」
「フフ、もう答えは決まったみたいね」
「ごめんなさい、明日先輩!わたしやらなくちゃいけないことができたので、帰ります!コート、ありがとうございました!」
「いいえ、気にしないで。寛子ちゃんと、仲直りできるといいわね」
「えっ、何で寛子の名前知ってるんですか⁉」
「あなた、さっき自分で言っていたわよ⁉」
4
『はぁ⁉ 鈴井先輩のパンツ吸ってたら、本人に見られて出て行かれた⁉』
「い、妹よ。瀕死のお姉ちゃんにそれ以上ナイフを突き立てないで、ほんとに死んじゃう」
『……いや、まさか自分の姉が性犯罪者になるとは思ってなかったから……』
「せ、性犯罪者ではない……と思う」
『で、今どこ? 警察署? 留置所? それとも、もう刑務所入ってるの? 迎えに来て欲しいとか?』
「だから、捕まってないって……」
『じゃあ何?』
「えっと、どうやったら凛の誤解を解けるかなって……」
『誤解って何? 全部事実でしょ?』
「……それはそうなんだけど……」
『じゃあ、「誤解を解く」じゃなくて「許してもらう」じゃないの?』
「えっと、どうやったら凛に許してもらえるかなって……」
『私が知るか! 鈴井先輩って、めちゃくちゃ優しかったけど、そんな人が、何も言わないで出て行っちゃうって相当だよ。これは、もう諦めるしかないね……』
「そ、そんなぁ……これから私、どうやって生きてけばいいんだろう」
『……お姉ちゃんって、鈴井先輩のこと好きだったの?』
「え? わ、わかんない……これが好きってことなのかな……?」
『お姉ちゃんは鈴井先輩過ごしてるときに、なんか意識したこととか無いの?』
「意識……? えっと……テレビのリモコンを取ろうとして、凛の手と当たったときはちょっとドキドキしたかな。あと、洗い物を手伝ってもらうときに並んでキッチンに立つのは、すごく楽しいって思ったかな。……凛に会いたい」
『……何それ、めっちゃ好きじゃん……』
「え……? これが好きに入るの?」
『はぁ……それが、好き以外の何になるって言うの⁉ これだから恋愛経験ない奴は……』
「え? ……それってどういう——」
『いい? お姉ちゃん。今すぐ玄関まで行って五体投地で鈴井先輩が帰ってくるのを待つの!』
「え、それっていつまで……?」
『帰ってくるまでに決まってるでしょ!』
ブツッと電話が切れる。電話を切った後も妹の怒りがスマホから送られてきているような感じがする。
私って、凛のこと好きだったんだな………。
……? 五体投地って、礼拝の一種で謝罪の意はないのでは?
5
帰ると、寛子が土下座して私を迎えてきた。
ん? よく見ると、土下座とはちょっと違う。……五体投地?何に祈ってるの?
「……何してるの?」
一向に起き上がる気配がないので、仕方なく声を掛ける。
「えっと、合わせる顔がないなって思ってこうして待ってたんだけど、ちょっとしたら足が痺れてきて、今一ミリも動かせないの」
「……」
「……」
何?わたしなんて言えばいいの? このまま話を切り出すの?いやなんだけど。
寛子の横を通り過ぎて奥のリビングへ進んでいく。
「とりあえず、リビングで話そ」
「あの、だから、私今動けな———」
「えい」
「ヒィィィィィィぃ⁉」
足の痺れから回復した寛子を席に座らせ、その対面に座る。寛子は終始無言、目も合わせてくれない。まあ、わたしも今気まずくて寛子の顔を直視出来てないんだけど。
「……凛。あの、私———」
「ごめんなさい。寛子の話も聞かないで出て行って。パニック状態だったとはいえ、酷いことも言っちゃった」
わたしも冷静さを欠いていた部分はある。寛子が何をしていたのか、わたしは考えるべきだった。あの時、わたしは寛子のことがただ怖くて、一秒でも早くその場から離れたかった。今はその選択を後悔している。
「そんな! 私の方こそ———」
「でもね、寛子。わたしはあの『気持ち悪い』って言葉、取り消すつもりはないから」
「ウッ……はい……」
「普通かどうかはともかく、人の、それも洗ってない下着のにおいを嗅ぐなんて、わたしは気持ち悪いと思う。それに、不衛生。あなた看護師でしょ?」
「……返す言葉もございません……」
寛子は項垂れ、顔を机に押し付けている。あれから、すごく反省したらしい。
突然、寛子が立ち上がる。
「今すぐ、荷物をまとめて出ていきます……不快な思いをさせてしまってごめんなさい。それと……今までありがとうございました」
「待って!」
わたしは咄嗟に立ち上がって、自室に向かう寛子の手を掴む。
「寛子、まだ話は終わってないから……わたしの話を最後まで聞いて。お願い」
「……うん、わかった」
「寛子がしたことを許す気はない。たとえ許そうとしても、わたしの心のどこかで今日のことを思い出して、きっといろいろ考えちゃうから。そんなことになるくらいなら、わたしは寛子のことを許さない方がいいと思う」
「……うん」
寛子はこちらに振り返らず返事をする。
「でも、こんな一度の亀裂でわたしたちの生活が終わるのも嫌」
「………」
「わたしたちの関係って、こんなことで終わってしまうものなの?」
「………」
寛子は答えない。
「……わたしは違うと思う」
「……」
「わたしは、寛子がいいなら、まだ一緒に暮らしいたいって思う」
「え……?」
ようやく寛子が振り返り、目が合う。寛子の瞳はガラス玉のように輝いており、そこから一滴の涙が零れる。
「いい……の……?」
「大丈夫。わたしたち、五年も一緒に住んでたんだよ? きっと何とかなる」
寛子の瞳から次から次へと大粒の涙があふれだす。わたしがどんな返事をするのか、よほど怖かったのだろう。肩を震わせ、鼻水まで垂らしている。
「私、これからも、凛と一緒に暮らしていいの……?」
「うん……うぉっ⁉」
寛子が突然、わたしに抱き着く。感極まってしまったのだろう、横ですすり泣く声が聞こえてくる。下着を嗅いでるところを見られた相手に抱き着くって何考えてるの?なんて無粋なことは言わない。今はただ、寛子が泣き止むまでしばらくそのままにしておこう。
わたしは膝をつかないとハグもできない事実に絶望しながら、寛子のことを抱き返した。
AFTER
「……寛子って、わたしのこと好きだったの?」
「……うん。……でも、気づいたのはついさっき」
「もしかして、……初恋だった?」
「え……えっと……わかん…ないけど多分……そうなのかな……?」
「そっか……」
「……ほんとに、良かったの?」
「……? 何が?」
「えっと……私とこのまま暮らしていくって」
「うん。でも、条件があるの」
「じ、条件……?」
「これから、家事は分担したいの。わたしも今まで寛子に頼りすぎてたって反省した」
「え、そんなことでいいの?」
「そんなこと⁉ 寛子はわたしにとっての家事の難しさがわかってないようね。昨日なんて、いつもまかせっきりはよくないからって、インスタントラーメン作ってる間に洗濯しようとしたら、いつの間にかお湯が溢れ出してて、危うく火事になりかけるし、伸びた麵を食べるはめになるし、それに、そのまま洗濯のことを忘れて寝ちゃうし、散々だったんだから」
「それって、ちゃんと分担できる……?」
「そう、だから寛子に教えて欲しいの。家事の仕方。まだ慣れないこともあるし、お互いに探り探りだけど、頑張ってみる」
「そっか……」
「あと」
「……?」
「今度、またショッピングに行こ?」
「……! うん」
初めまして。春秋冬と書いて『ナツナシ』と言います。作品に関する質問、感想はお気軽に。一応校閲はしていますが至らない点もあると思いますので、誤字脱字、不明点があればいつでも聞いてください。出来る限り答えます。




