第八章 別れの式
大学の研究棟の窓から、午後の光が差し込んでいた。
机の上には論文の束と、書きかけの数式。
それらを見つめながら、俺は深く息を吸った。
「……教授、少しお時間をいただけますか。」
部屋に入ると、恩師のグレン教授が顔を上げた。
白髪まじりの髭を撫でながら、ゆっくりと椅子に座り直す。
「どうした、蓮。久しぶりに真剣な顔だな。」
俺は手にしていた辞表を机に置いた。
紙の上に、英語で書かれたわずかな文。
――“I would like to resign my position as Professor.”
沈黙が落ちる。
グレン教授はしばらくそれを見つめ、微笑んだ。
「理由を、聞いてもいいかね?」
「……音楽を、やりたいんです。」
「音楽?」
「ええ。
ずっと、何かを失くしたまま生きてきました。
でも、ギターと出会って、遥と出会って……
もう一度、生きてると感じたんです。」
グレン教授は静かに頷いた。
その瞳には驚きではなく、温かい理解があった。
「なるほど。ようやく君の中の“方程式”が解けたようだ。」
「……すみません。ご迷惑をかけてしまいます。」
「いや、迷惑なんて言葉は似合わないさ。
むしろ、誇らしい。
だがひとつだけ、お願いがある。」
「……お願い?」
「籍だけは、この大学に置いておきなさい。
君が数学をやめないのなら、教授の肩書はそのままでいい。」
言葉が出なかった。
胸の奥が熱くなる。
「数学は、どこにいてもできる。
ギターを弾いていようが、空の下にいようが、
君の中に数式が生きている限り、それでいい。」
視界が滲んだ。
何かを失う寂しさよりも、
理解してもらえたことの嬉しさが、涙になってあふれた。
「……ありがとうございます。」
「行きなさい、蓮。
君の次の活躍を、心から祈っているよ。」
その言葉に、俺は深く頭を下げた。
教授室を出た瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
扉の向こうで聞こえるチョークの音が、
まるで“これが新しい始まりだ”と告げているようだった。




