第六章 声のない歌
数日後、俺と遥は小さなカフェの片隅にいた。
旅先の偶然が導いた場所だった。
「昨日、宿の人に教えてもらったんだ。
このカフェ、夜になると演奏していいらしいよ。
オーナーが音楽好きなんだって。」
僕はそう言ってカップを両手で包みながら微笑んだ。
昼の光が窓から差し込み、テーブルの上でコーヒーが淡く揺れていた。
「君の演奏、動画になってるの知ってる?」
「動画?」
「うん。広場でのやつ。投稿した人がいて、もう一万再生超えてる。」
「……冗談だろ。」
「本当。コメントも、“心に刺さる音”とか、“泣いた”とか。」
俺は言葉を失った。
数学の世界にいたとき、評価は数値でしか表されなかった。
でも今は、名前も知らない誰かの“感情”がそこにあった。
それが、妙に胸を締めつけた。
「ねぇ蓮。」
遥がカップを置いて、少し真面目な顔をした。
「君、演奏してるとき、何か言いたそうなんだ。」
「言いたそう?」
「うん。音が、まるで言葉を探してるみたいに聴こえる。」
俺は少し黙り込んだ。
確かに最近、音を出すたびに“何か”が喉の奥に引っかかる。
でも、それが何なのか分からなかった。
「君のギター、歌ってるみたいなんだよ。」
「歌?」
「うん。声がないのに、ちゃんと歌になってる。
僕、そういう音が一番好きだ。」
その言葉が、胸の奥にゆっくり沈んだ。
“声のない歌”。
それはまるで、俺たちの関係そのもののようだった。
言葉より先に、音が通じる。
説明できないけれど、確かに理解できる。
「弾いてみようか。」
遥が立ち上がり、カフェの隅にある古いピアノの前に座った。
俺もギターを取り出し、隣に腰を下ろす。
最初の音が、静かな午後の空気に落ちた。
ピアノが語りかけるように鳴り、俺のギターがそれに答える。
音が重なり、消えて、また生まれる。
その繰り返しの中に、確かに“言葉”のような何かがあった。
俺は弦を弾きながら呟いた。
「……もし、この音に言葉を乗せたら、どうなるんだろうな。」
僕は鍵盤から目を上げて微笑んだ。
「たぶん、それを“歌”って言うんだよ。」
俺は息を止めた。
“歌”という言葉が、今までよりも近くに感じた。
けれど、まだ手を伸ばす勇気はない。
遥はまた静かに鍵盤を叩いた。
音が波のように広がる。
その中に、確かに“声”が聴こえた気がした。
それは、俺自身の心が歌っているような声だった。




