第四部 第二章 “あの子”の名前
「……ひとり、いるの。」
瑠美の言葉に、俺と遥は同時に顔を上げた。
空気が一瞬だけ止まる。
「いるって……誰のこと?」
遥が慎重に尋ねる。
瑠美はグラスを指でつつきながら、
言葉を選ぶようにゆっくり口を開いた。
「蓮くん、覚えてるかな。
“一ノ瀬亜香里ちゃん”って。」
その名前は、胸の奥に静かに落ちてきた。
幼稚園のときに一緒に遊んでいた、あの子。
なかなか輪に入れず、いつも端っこに座っていた子。
俺が声をかけたら、ぱっと花が咲くみたいに笑った。
"一ノ瀬亜香里"
まさかその名前を、今ここで聞くとは思わなかった。
「……覚えてる。
でも、なんで瑠美が知ってるんだ?」
瑠美は照れたように眉を寄せた。
「音楽系の専門学校に私通ってたんだけどね、そこで出会って友達になったの。
中学の話になったときに偶然“蓮くん”の名前が出てね。
『え!?知ってるの?』ってあっちが驚いてた。」
遥が興味深そうに身を乗り出す。
「どんな子? ドラムは?」
瑠美は即答した。
「めっちゃ上手い。
本当に、別格。
リズム感も音の選び方も……もうプロと同じレベル。
先生たちにも認められてた。」
俺も遥も、思わず息をのむ。
瑠美は続けた。
「でね……
幼稚園の話になったとき、
あの子、こう言ったんだよ。」
瑠美は柔らかく微笑んだ。
「『蓮くんには、本当に感謝してる』って。
幼稚園で友達がいなかった自分に
初めて声をかけてくれたのが蓮くんで、
そこから全部変わったって。」
胸が少し熱くなった。
あの時の何気ない一言を、
そんなふうに覚えていてくれたなんて。
瑠美は言う。
「最近はね、自信がついてきたみたいで……
“もっと音で勝負したい”って言ってた。
今なら誘ったらきっと来てくれると思う。」
遥がニッと笑った。
「蓮。これは運命でしょ。」
「……運命だな。」
自分でも驚くくらい自然に言葉が出た。
瑠美がスマホを握りしめる。
「じゃあ……亜香里ちゃんに連絡してみる?」
「頼む。」
俺の声には、迷いがなかった。
CrossPoint の窓の外では夕焼けが伸び、
赤から青へ移ろう空が店内を照らしている。
新しいページが、静かにめくられた気がした。
──一ノ瀬亜香里。
まだ姿も音も知らない四人目の心臓が、
確かに近づいてくる。




