第三部 第十章 CrossPoint 初リハーサル
CrossPoint の扉を開いた瞬間、
空気が違うと分かった。
天井は高く、
客席は闇の中なのに広さだけが伝わってくる。
機材の匂いと、かすかな湿気。
SOLEILとはまるで別世界だ。
スタッフが淡々と案内する声が響く。
「では、順番に音出ししてみてください。
モニターは必要に応じて調整しますので。」
遥が小さく息を呑む。
瑠美はベースを握る指が少し震えていた。
俺も喉の奥が乾いていた。
昨日まではただの勢いだったが、
ここに立つと、現実の重さが一気にのしかかる。
まずはピアノから。
遥が鍵盤に手を置き、
ゆっくりと最初の和音を鳴らした。
……あれ?
音が、薄い。
SOLEILでは心の近くに落ちてきたあの音が、
この空間では遠くに吸い込まれていく。
瑠美も思わず呟く。
「……え……今の、ピアノ……?」
遥は焦ったようにもう一度叩く。
音は出ている。
でも“届いていない”。
遥の顔色が見る見るうちに青くなった。
「……なんで……?
同じ力で弾いてるのに……」
スタッフが淡々と言う。
「この箱、音が散りますから。
ある程度“飛ばす”前提で弾かないと響かないですよ。」
遥は大きく息を吸い、
強めに弾き直した。
しかし今度は鍵盤の音だけが浮き上がり、
曲の輪郭が壊れた。
遥は自分の手を見つめたまま動けなかった。
次は瑠美。
ベースを構え、
深く息を吐いてから指を弦に落とす。
……その瞬間。
ズン……と重いはずの低音が、
耳の横で変に跳ね返り、
遅れて腹に響いてくる。
瑠美の顔が歪む。
「え……遅れてる……?
私、ズレてる……?」
スタッフが言う。
「反響が返ってきてますね。
慣れてない人は混乱する音です。」
瑠美は慌ててテンポを合わせようとするが、
返ってくる音と自分の音がズレて、
指がもつれ、とうとう止まってしまった。
「……ごめん……無理……
これ……合わない……」
涙をこらえる瑠美の肩が震えていた。
最後は俺だ。
ギターのストラップを握り直し、
深呼吸して弦を弾く。
……軽い。
圧がない。
いつもの俺の音じゃない。
さっき買ったばかりの安物みたいだ。
スタッフが確認する。
「ギターは問題なく出ています。
ただ、この箱は音の“芯”が消えやすいので……」
意味は分かるのに、
心が追いつかなかった。
遥のピアノが消えて、
瑠美のベースが遅れて、
俺のギターは軽くて薄い。
三人の“武器”が全部、
この空間に吸われて消えていく。
そしてスタッフが言った。
「では、通しで一曲やってみましょうか。」
俺たちはそれぞれの位置につき、
カウントを始めた。
「……いくぞ。」
「うん……」
「……は、はい……」
遥のピアノから曲が始まる。
すぐに俺がギターで追い、
瑠美がベースで支える。
……はずだった。
違う。
全然、違う。
ピアノが遠い。
ベースは遅い。
ギターは軽い。
そして俺は、歌えるだろうか。
喉に力を込めて、
声を前へ押し出す。
「――あ……」
響かない。
声が、消える。
音の海にそのまま溺れていく。
遥も、瑠美も、
俺の声を追えない。
俺も、二人の音が掴めない。
曲はどんどん崩れていく。
もはや音楽ではなかった。
途中で、誰ともなく音を止めた。
しん……と静まり返ったステージ。
スタッフのメトロノームの電子音だけが無情に響く。
瑠美が震える声で言う。
「……無理……。
私……邪魔になってる……」
遥も同じように目を伏せる。
「僕も……全然届かない……。
こんなはずじゃなかったのに……」
そして、俺も言葉を失っていた。
さっきまでの自信が、
全部嘘みたいに消えていた。
リハーサルは「今日はここまでにしましょう」で終わった。
帰り道、三人とも 一言も喋らなかった。
街の音だけが遠くで響いていた。
クロスロードの交差点で、
遥が立ち止まって言う。
「……蓮。
今日の僕たち、ひどかったね。」
瑠美も下を向いたまま続ける。
「このままじゃ……本番……笑われちゃう……」
二人の声が痛いほど刺さる。
でも、それが現実だ。
だから、俺は言った。
「……逃げたくねぇ。」
二人が顔を上げる。
「今日は……悔しい。
でも、やる。
もう一回ここに来る。
絶対に届かせる。」
遥はゆっくり頷いた。
「……うん。
僕も、やる。やりたい。」
瑠美も涙を拭いて言う。
「私も……そのためにここに来たんだもんね……」
三人の足元に、
街灯の明かりが重なった。
挫折は痛かった。
苦しくて、情けなくて、
逃げたくなるほどだった。
でも、この夜を越えなければ、
外の世界には立てない。
ここからが本当の始まりだと、
俺たちは三人で確かに感じていた。




