第二部・第十章 揺れた指先、落ちた声(瑠美視点)
ライブ当日のSOLEILは、いつもより熱っぽかった。階段の上まで人が列をつくり、開演前からざわめきが店の奥まで届いてくる。それだけで胸が少しざわついた。
控え室のソファに座り、私はベースのネックを握ったまま小さく息を吐いた。緊張とは違う。もっと変な、胸の奥をくすぐる感じ。理由は分からない。でも落ち着かなかった。
隣では遥くんが机を指で叩いていた。普段よりテンポが速い。そのリズムだけで、彼も隠れた緊張を抱えているのが分かる。蓮くんはというと、表情は静かで変わらないのに、少しだけ遠くを見るような目をしていた。
気になって、声が自然に落ちた。
「蓮くんは?」
蓮くんはこちらを向き、少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「大丈夫。……ちょっと緊張してるけど。」
その笑顔を見た瞬間、胸のざわつきがむしろ強くなった。
何かを隠しているようで、でも決意しているようで、言い表せない違和感だった。
ステージに出ると、ライトが顔を影に落とし、楽器だけが光に浮かび上がった。客席の熱気が波のように押し寄せてくる。
遥くんのピアノが始まった。
柔らかくて、静かで、
まるで“深呼吸そのもの”みたいな音。
私はその流れに身を委ねるように、ゆっくりとベースの音を重ねた。
今日の曲――『息吹』。
何度も練習したメロディ。
でも蓮くんのギターには、いつもと違う空白があった。音と音のあいだに、小さな沈黙が落ちている。
まるで、何かを待っているみたいに。
胸のざわつきは、ずっと消えなかった。
そして、曲が中盤に入ったとき。
遥くんのピアノが、ほんの一瞬だけ“止まった”。
一拍の空白。
その合図のような間で、私は蓮くんを見る。
蓮くんが、息を吸った。
え……?
そう思った瞬間、蓮くんの声が落ちてきた。
胸が強く揺れた。
蓮くんが、歌っていた。
頭では理解が追いつかなかった。
でも耳は一瞬で飲み込んだ。
優しくて、なのに、強くて、真っすぐで。
触れた瞬間じんわり広がっていくみたいな声。
どうして今まで聴かせてくれなかったの。
どうして今日まで隠してたの。
そんな疑問と、
それでも圧倒されていく感動が混ざって、
呼吸が一気に乱れた。
気づいたら頬に涙が伝っていた。
でも、ベースを止めることはできなかった。
蓮くんの声を支えるために、
指が震えても必死で動いた。
遥くんが横目で私を見て、
「大丈夫だよ」とでも言うみたいに微笑んだ。
その微笑みで、また涙が落ちた。
サビに入り、蓮くんの声がさらに深く響く。
胸の奥をぎゅっと掴まれて、
痛いのに温かくて、
息が苦しいほどに心が満たされていく。
こんな声、反則だよ……。
そう思った瞬間、涙がまたあふれた。
曲が終わり、照明が落ちる。
客席は静まり返っていた。
その静寂が、何より大きな称賛だった。
ステージ裏に戻り、
蓮くんの姿が目に入った瞬間、
胸の奥が溢れて足が勝手に動いた。
「……蓮くん……いまの……」
声が震えて、うまく言葉にならない。
でも気持ちだけはあふれていた。
だから、絞り出した。
「なんで……言ってくれなかったの……
こんな……歌詞があるなんて……
そんな声……反則……ずるいよ……」
遥くんがそっと肩に手を置いて、笑った。
「ほらね。泣くって言った通り。」
「うるさい……」
そう返しながらも、涙は止まらなかった。
蓮くんは照れたように息を吸い、
私の方を静かに見て言った。
「今日から、本当のユメトセツナだ。」
その言葉が胸に落ちた瞬間、
私の中で小さな光が生まれた。
あの日の涙は、
その光が生まれた証だった。




