第二部・第九章 声が落ちた
ライブ当日のSOLEILは、いつもより静かな熱気で満ちていた。
階段の上まで伸びた列。そのざわめきが狭い地下に響き、空気が微かに震えている。
顔を出さない三人組──その噂が、思っていた以上に人を集めていた。
控え室の古いソファに、俺と遥と瑠美の三人は並んで座っていた。
「……今日、人、多くない?」
瑠美は落ち着かず、ベースのネックを握りしめていた。
「階段の外まで並んでたよ。」
遥は穏やかな声で言ったが、机を叩く指がわずかに早い。
遥自身も緊張しているのが分かる。
「蓮くんは?」
瑠美が心配そうにこちらを見る。
「大丈夫。……ちょっと、緊張してるけど。」
俺はそう答えた。
そのとき、隣の遥と目が合う。
遥は、小さく、本当に小さく頷いた。
その瞬間、胸の奥で熱がふっと立ち上がる。
今日、俺は歌を歌う。
曲名は『息吹』──俺が最近作った新曲だ。
メロディは瑠美も知っている。
でも、“歌詞がある”ことはまだ誰も知らない。
この世界で知っているのは、遥だけだ。
喉の奥が、まだ熱を持っていた。
開演時間になると、ステージの灯りがゆっくり落ちた。
顔は影に溶け、ギターとピアノとベースだけが光に浮かぶ。
遥が鍵盤に指を置く。
静かで透明な前奏が、空気をすっと震わせる。
瑠美の低音が寄り添い、
俺はギターでやわらかく重ね、この曲の“入り口”を形づくった。
客席のざわめきがぴたりと止まる。
音が空間を支配し始めた。
曲の中盤、
伴奏がふっと薄くなっていく。
遥がこちらをちらりと見る。
言葉はないのに、はっきりと分かった。
――ここからだよ。
喉が熱を帯びる。
呼吸がひとつ深くなる。
そして俺は、初めてマイクに声を落とした。
声が生まれた瞬間、SOLEILの空気が変わった。
歌詞は優しく、まっすぐで、
迷いも弱さも抱きしめながら、それでも前へ進もうとする曲。
自分自身に向けた言葉でもあった。
アメリカで一人だった夜、
何度も言い聞かせた思いを、旋律に埋め込んだ新曲だった。
瑠美が驚いたように俺を見た。
でも、震える指でベースを弾き続ける。
遥は微笑みを浮かべ、
俺の声を包み込むように鍵盤を揺らす。
三つの音が、初めて“歌”を中心にひとつになった。
客席は誰も動かない。
誰も息を乱さない。
ただ、音だけがそこにあった。
最後のフレーズを歌い終えた瞬間、
店内には深い沈黙が訪れた。
泣き声でもなく、歓声でもなく、拍手でもない。
ただ、その余韻が体温のように空気の中に残り続けていた。
そして、やっとひとつの拍手が鳴る。
ぽつ、ぽつ、と増え、やがて大きな波になっていく。
叫びではなく、
胸を震わせた誰かの手の音だった。
ステージ裏に戻ると、瑠美が涙を浮かべて駆け寄ってきた。
「……蓮くん……いまの……」
震える声。涙を落とす音が聞こえそうだった。
「なんで……言ってくれなかったの……
こんな……歌詞があるなんて……
そんな声……反則……ずるいよ……」
遥がそっと肩に手を置き、微笑んだ。
「ね、泣くって言ったでしょ。」
「うるさい……」
瑠美は目元を乱暴に拭う。
けれど、またすぐに涙が溢れてきた。
「蓮くん……歌ってくれて……ありがとう……!」
俺は少し照れながらも、しっかりとその気持ちを受け止めて言った。
「……こっちこそありがとう。
この曲、一緒に鳴らしてくれて。」
そして最後に、自然と言葉が落ちた。
「今日から、本当のユメトセツナだ。」
瑠美は涙を浮かべながら、何度も頷いた。
遥も静かに笑う。
「うん。やっと三人になった。」
その瞬間、
ユメトセツナという名前に、ようやく“息”が宿った気がした。
今夜の音は、確かに始まりの音だった。




