第二部・第八章 秘密の打ち合わせ
SOLEILの閉店後、店内は静かに沈んでいた。最後の客が帰ったあと、蛍光灯の半分が落とされ、テーブルに残った水滴だけがかすかに光を反射している。外の喧騒は地下までは届かず、この空間は夜にだけ許された静寂に包まれていた。
瑠美が帰ったあと、俺と遥だけが店に残った。店長が鍵を預けてくれたので、ステージ横の小さなテーブルで向かい合って座る。ギターケースを開けたままの俺を、遥はじっと見つめていた。
「……で、どうする?」
静まり返った空気を破るように、遥が言った。
「どうするって?」
俺が問い返すと、遥は少し身を乗り出した。
「蓮の歌、瑠美ちゃんに“いつ”聴かせるかだよ。」
その一言が、薄暗い空気にゆっくりと落ちた。
遥の指先がペットボトルを軽く叩く音が、やけに大きく響いた。
「選択肢は二つ。」
遥は指を一本立てる。
「一つはライブ前にこっそり聴かせる。」
もう一本、指が上がる。
「もう一つは……本番でいきなり歌う。完全サプライズ。」
遥の声音は静かだが、その奥に期待の熱が隠れていた。
「僕はね、サプライズがいいと思ってる。」
遥はテーブルに視線を落としながら言った。
「あの声、初めて聴いた瞬間の衝撃……誰かと共有したかったんだ。」
その言葉に、胸が軽く鳴った気がした。
あの夜、遥は泣いた。俺の歌を聴いて。
「瑠美ちゃんも観客も、世界も驚くよ。
蓮が歌い出したら、空気が変わる。
あれは……そういう声だ。」
少し照れながらも、俺は息を吐いた。
「でもさ……瑠美、驚くだろうな。
いきなりだし、準備もしてないし。」
遥はすぐに首を振る。
「怒るとかじゃなくて、たぶん涙が出る。瑠美ちゃんはそういう子だよ。」
しばらく沈黙が落ちた。
俺はギターのネックに触れ、ゆっくりと口を開く。
「……本番で歌う。」
遥が目を見開き、それから笑った。
「理由、聞いてもいい?」
俺は少しだけ視線を落とし、確かめるように言った。
「不安はある。でも……
音って、準備より“瞬間”だと思うんだ。
その場で生まれるものに賭けたい。」
遥の表情がゆっくりほどけていく。
「……蓮らしいね。そう来なくちゃ。」
静かに笑い合ったあと、二人で店を出た。
夜風がひんやりと肌を撫でる。
街灯が濡れたアスファルトにぼんやりと滲んでいた。
「蓮。」
遥が歩きながら言った。
「僕、本気で楽しみにしてる。
あの“世界が止まる瞬間”を。」
俺は頷いた。
胸の奥で、まだ誰にも聴かれていない声がゆっくりと温度を持ちはじめていた。
その夜、俺と遥だけが知る“秘密”がひとつ生まれた。
次のライブで、その秘密は形になる。




