第二部・第七章 沈黙の中の約束
翌日の東京は、昨夜よりも少しだけ暖かかった。春にはまだ遠いが、空気の端に柔らかい匂いが混じっている。午後のSOLEILは開店前で、照明が落ちたステージにかすかな埃が漂い、コーヒーの香りだけが店内に残っていた。
遥は一番に来ていて、ピアノの前で指をほぐしていた。鍵盤に触れてもいないのに、音がそこにあるかのように集中している。瑠美はベースを抱え、ストラップを肩にかけながら周囲を見渡していた。昨日のライブの余韻がまだ残っているのか、どこか落ち着きなく、それでいて嬉しそうだった。
俺はギターケースを開けたまま、三人の音が重なったあの“夜明け”を思い返していた。あの瞬間に感じた“何か”が、まだ胸の奥で燻っている。
「よし、始めよっか。」
遥の明るい声が店内に響いた。
「今日は、三人でひとつ曲を作ってみない?」
遥の提案に、瑠美が驚いたように目を丸くした。
「作曲……私たちで?」
「うん。昨日の音を、そのまま形にしてみようよ。」
遥の声には不思議と人を安心させる響きがあった。それは瑠美の緊張を一瞬でほぐし、彼女は小さく息を吸ってベースを構えた。
最初に動いたのは瑠美だった。深く息を吸い、指を軽く弦に落とす。低音がSOLEILの床を震わせ、空気の層をひとつ押し上げる。それに反応するように、遥が滑らかに鍵盤を押した。ピアノが寄り添い、音が混ざり合う。俺は二人の音の隙間にコードを差し込んだ。
しばらくして、瑠美がぽつりと言った。
「ねぇ……蓮くんって、歌わないの?」
俺は手を止めた。
遥が、小さく息を呑んだ気配がした。瑠美には気づけないほどの微かな音だったが、俺にははっきりと伝わった。
「ん? まぁ、まだ……」
俺は曖昧に返した。
遥は鍵盤に視線を落としながら言った。
「蓮は今はギターに集中してるんだよ。歌は……そのうちね。」
その声には、何かを大切に包むような響きがあった。
瑠美は素直に頷く。
「そっか。なんか……歌いそうな雰囲気あるから。」
遥は小さく笑った。
「それ、僕も思うけどね。」
その笑顔の裏で、遥だけが抱えている“秘密”が静かに揺れていた。
瑠美はまだ知らない。
遥は知っている。
そして俺はその均衡が少しずつ変わり始めているのを感じていた。
練習が進むにつれて、喉の奥がうずくような瞬間が何度も訪れた。瑠美の低音に引き寄せられ、遥のピアノに背中を押されるような感覚。声を出したら、空気が変わる。音が変わる。三人の関係さえ変わってしまうかもしれない。そう思うと、喉に触れそうになる“衝動”を何度も噛み殺した。
やがて、ひとつの曲が形になった。
「……できたね。」瑠美が言った。
「うん。すごくいい。」遥が鍵盤の上で手を止めた。
俺はギターを抱えたまま言った。
「まだ始まったばかりだけど……ここからだな。ユメトセツナは。」
瑠美は顔を上げ、真っ直ぐな目で言った。
「私、もっと頑張りたい。三人で、もっと音を重ねたい。」
「うん。でもね、瑠美ちゃん。」
遥の声が少しだけ深くなる。
「まだ“足りないもの”があるんだ。」
瑠美が首をかしげる。
遥はちらりと俺を見て――意味深に微笑んだ。
「そのうち、必ずわかるよ。」
瑠美はまだ知らない。
“ユメトセツナの核”が何なのか。
外に出ると、東京の空は夕方の灰色に沈みかけていた。ビルの狭間に吹き込む風が頬を撫でる。
瑠美が言う。
「次のライブ……もっといい音にしたいね。」
遥が微笑んだまま頷く。
「うん。そして――そろそろ“本当の始まり”が来る。」
その言葉の意味を知るのは、この時点ではまだ俺と遥だけだった。
俺はギターケースを握り直しながら歩き出す。
胸の奥にある、まだ誰にも聴かれていない“声”を静かに抱えたまま。




