第二部・第四章 風の中の出会い
ライブバー「SOLEIL」は、いつもより穏やかな夜だった。
俺と遥はステージには上がらず、客席の隅でグラスを傾けていた。
最近はどこへ行っても“ユメトセツナ”の名前が知られるようになった。
だから、こうして“誰でもない時間”を過ごすことが貴重だった。
「たまには演奏しない夜も良いね。」
遥が笑う。
「だな。」
俺はグラスを揺らしながら答えた。
店内には小さな笑い声と、氷の音だけが響いていた。
そのとき、扉が開いた。
冷たい夜風と一緒に、ひとりの女の子が入ってきた。
肩からベースを下げ、少し緊張したように店内を見回す。
「ここ初めてなんですけど、演奏しても良いでしょうか?」
その声は小さいのに、不思議とよく通った。
店長がカウンター越しに頷く。
「どうぞ。今日はステージ空いてるよ。」
女の子は深く頭を下げ、ベースケースを開いた。
弦を確かめる仕草に、迷いがなかった。
「……ねぇ蓮。」
隣の遥が囁いた。
「ん?」
「もしかして、あの子……瑠美ちゃんじゃない?」
名前を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
確かにそうだった。
中学のとき、同じクラスだった子。
物静かで、でも音楽の授業ではいつもリズムを取っていた。
「誘おうよ。」
「まだ演奏も聴いてないだろ。」
俺が笑うと、遥は目を細めた。
「ここ、初めてなんでしょ?
それなのにあんな堂々とステージに立てるなんて、
よっぽど自信がないと無理だよ。
絶対にうまいと思う。」
その真剣な顔に、俺は思わず笑って頷いた。
「じゃあ、聴いてみよう。」
照明が落ち、店内が静まる。
瑠美が指を弦に置いた瞬間、空気が変わった。
最初の一音が鳴っただけで、
心臓を直接掴まれるような感覚に襲われた。
低音が空気を震わせ、リズムが波のように押し寄せる。
音が走る。
それはベースというより、ひとつの生き物のようだった。
「……すげぇ。」
気づけば、口から声が漏れていた。
横を見ると、遥がニヤリと笑う。
(ね? 言ったでしょ)――そんな目だった。
曲が終わると、店の客たちは一瞬息を飲み、
次の瞬間、割れんばかりの拍手が起こった。
瑠美は少し照れたように会釈をして、ステージを降りてきた。
そのとき、俺と目が合った。
彼女の瞳が、わずかに驚いたように揺れる。
「……蓮くん?」
「やっぱり、覚えてたか。」
遥が立ち上がり、笑顔を見せた。
「久しぶり、瑠美ちゃん。」
「え、二人とも……? どうしてここに?」
「飲みに来ただけ。――でも、聴いてたよ。」
「うん、最高だった。」俺も続けた。
瑠美は頬を赤らめ、少し照れくさそうに笑った。
「ありがとう。
でも、まだまだだよ。
私、誰かと一緒に音を作ってみたくて……
こういうバーなら、そういう出会いがあるかなって思って来たの。」
その言葉に、遥と俺は同時に顔を見合わせた。
「なぁ蓮。」
「……ああ。」
まるで、あの広場で出会った夜の再現のようだった。
風の中で、新しい音がまた始まろうとしていた。




