第十章 風の帰る場所
空港に降り立った瞬間、湿った風が頬を撫でた。
懐かしい空気だった。
日本を出てから、五年。
蓮は深く息を吸い込んだ。
匂い、音、温度――
どれも、あの頃と同じで、どこか違っていた。
大学を辞めた日のことを思い出す。
教授が言ってくれた言葉。
“数学はどこにいてもできる。君の次の活躍を祈っている。”
あのとき流した涙が、まだ胸の奥に残っていた。
けれど、今はもう迷っていない。
俺はもう一度、音を選んだ。
そして今、日本に帰ってきた。
ホテルの部屋で荷解きをしていると、スマホの通知が鳴った。
SNSのタイムラインに、見覚えのある名前が流れてくる。
“#蓮との音”
タグの下には、無数の動画とコメント。
その中に――あった。
ピアノの前に座る遥の姿。
白いシャツの袖をまくり、フードを被り顔は隠して弾いている。
音が流れた瞬間、胸の奥がざわついた。
その旋律は、あの夜の“声のない歌”と同じだった。
コメント欄にはこう書かれていた。
> 「このピアノ、まるで“あの動画の音”みたい。」
> 「二人の音を、また聴きたい。」
蓮は思わずスマホを握りしめた。
「……遥。」
小さく名前を呼んだ。
動画の説明文に、演奏場所が書かれていた。
“東京・下北沢 Bar SOLEIL”
その文字を見た瞬間、身体が勝手に動いた。
*
夜の下北沢は、人と音で溢れていた。
街灯が滲み、路上のライブが響く。
その奥、小さな路地の一角に、Bar SOLEILはあった。
ガラス越しに、灯りが見える。
中では、ピアノの音。
――間違いない。
扉を押すと、柔らかな音が耳に広がった。
遥がピアノを弾いていた。
あの夜と同じ指先で、あの夜よりも少し深い音を奏でている。
観客は静かに聴き入っていた。
曲が終わると、拍手が起きた。
その中で、遥がふと顔を上げた。
視線がぶつかる。
ほんの一瞬、世界が止まったようだった。
「……蓮?」
声にならない声。
遥が立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「なんで……ここに……?」
「帰ってきた。」
「帰ってきた……って……まさか。」
「もう一度、お前と音楽をやりたくて。」
遥は何も言えず、ただ笑った。
その目が、少し潤んでいた。
「君の声、ずっと残ってたんだよ。」
「聴いたよ。お前のピアノ。
……あの夜の音、まだ続いてたんだな。」
二人は視線を交わしたまま、何も言わなかった。
沈黙の中で、ピアノの上に置かれたギターが見えた。
遥が指で示す。
「弾く?」
「当たり前だ。」
蓮はギターを手に取った。
指先が弦に触れる。
遥のピアノが寄り添う。
あの夜と同じ、いや、それ以上に温かな音が広がった。
音が重なる。
風が通り抜ける。
それはまるで、風が帰る場所を見つけたようだった。
演奏が終わると、拍手が鳴り止まなかった。
蓮は笑い、遥も笑った。
そして静かに、二人の口から同じ言葉がこぼれた。
「「――また、一緒にやろう。」」




