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― 第一章 静寂の方程式 ―

この街では、夜になると風が鳴る。

 窓を閉めていても、アパートの隙間から吹き込むその音は、まるで誰かの囁きのようだった。


 星野蓮ほしのれんは、薄暗い部屋で数式と向き合っていた。

 机の上にはコーヒーの紙コップと、散らかったノート。

 壁際にはギターケースが立てかけられている。ほこりをかぶって、もう何年も開けていない。


 「……また解けた」

 モニターに並ぶのは、美しく収束した曲線。

 数式の世界に“終わり”はない。ひとつの証明を終えても、次の未知が待っている。

 けれど蓮の胸には、いつからか空白が生まれていた。


 アメリカのハーバード大学で教授となった二十五歳。

 飛び級、論文賞、最年少――肩書きはすべて手に入れた。

 なのに、喜びはなかった。


 ふと、ノートの端に鉛筆で小さく書かれた言葉が目に留まる。

 “音楽と数学は似ている。どちらも美しさを証明する手段だ。”

 それは五年前、まだ日本にいた頃、友人が何気なく言った一言だった。


 ――美しさ、か。


 蓮は眼鏡を外し、部屋の奥に置かれたギターケースに目をやった。

 学生時代、唯一数式を忘れられた時間。

 だが大学に入ってからは弾くこともなくなり、音の記憶は遠ざかっていた。


 その夜、彼は久しぶりに外に出た。

 星のない空の下、街の灯がぼんやりと滲んでいる。

 風が吹くたび、心の中の何かがざわめいた。


 ――もう、数字だけの人生は終わりにしよう。


 ふと立ち寄った楽器店のガラス越しに、ひときわ目を引く一本のギターがあった。

 水面のように淡く光る、水色のボディ。

 その瞬間、世界の雑音が消えた。

 まるでギターだけが呼吸しているように見えた。


 「これ……弾かせてもらえますか?」

 店員の許可を得て、蓮は指先で弦に触れた。

 ひとつ音を鳴らす。


 ――澄んだ。


 それは数学のように理屈ではなく、感情でわかる“正解”だった。

 心の奥で、何かが音を立ててほどけた。


 しばらく無言で弾き続けたあと、蓮は静かに顔を上げた。

 「これ、ください。」

 自分でも驚くほど迷いのない声だった。

 価格を見れば、決して安くはない。だが、その瞬間にはもう“値段”という概念は存在しなかった。


 紙袋に包まれたギターを抱え、夜の街へ出る。

 店のドアが閉まる音が、まるで新しい人生の幕開けのように響いた。


 広場の入り口に掲げられた英語の看板が目に入る。


 “Free Performance Zone” ― 演奏自由。


 躊躇いはなかった。

 ギターのケースを開き、弦をチューニングする。

 指が覚えていた。音が、戻ってきた。


 最初の一音が風に溶ける。

 その瞬間、彼の中で何かが始まった。


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