生まれたときから小1くらいまで
この話は20年以上無職をしている、ぼくの自叙伝である。
1983年に大阪市の旭区というところで、ぼくは生まれた。
「寒い日やった」と母は言っていた。「なんとも言えん幸せな気持ち」と言っていたと思う。
ぼくが生まれる何か月か前に父の兄が亡くなっていたので、父は「アニキの生まれ変わりや」と言って喜んだそうだ。
母が44歳のとき、父が36歳のときに生まれた。
ぼくは帝王切開で生まれてきた。
子どものころに傷痕を母に見せてもらったことがあった。
物凄い傷痕だった。
父も母も離婚したどうしで結婚した。
父は前の奥さんとのあいだに子どもが2人いる。
母は前の旦那さんとのあいだに子どもが3人いる。
父が離婚したときは、ぼくの異母きょうだいは5歳くらいと0歳くらいだった。
兄2人は働いている。父が育てていない2人は働いている。
母が離婚したときは、ぼくの異父きょうだいは25歳くらい19歳くらい16歳くらいだった。
上の姉と兄は働いている。下の姉は主婦をしながらパートをしていた。
母が育てた中で、ぼく以外の3人は働いている。
父が育てた、ぼくだけが働いていない。
後に神戸に引っ越したのだが大阪の幼稚園には元気に通ったそうだ。
毎朝むかえに来てくれる友達がいたと母は言っていた。
その友達とよく冒険をしていたそうだ。
冒険と母は言ったけど探検だと思う。
まあ、冒険と言うかもしれないけど。
小さいころは母方のきょうだい(異父きょうだい)たちによく遊んでもらったそうだ。
下の姉の旦那さんと楽しそうにしている写真もあるし、兄の奥さんにもよく遊んでもらったそうだ。
母方のきょうだいなのだが、父のところで兄は働いていた。
父は会社を経営していた。
ぼくが幼稚園の年中のときに大阪から兵庫の神戸に引っ越した。
バブル景気の中頃だと思う。
引っ越した先の幼稚園に行くことを、めちゃめちゃ嫌がったそうだ。
バスがむかえに来てくれるのだが、バスに乗りこむ際に毎回「お母さん行きたくないい!!」と言って泣きわめいていたそうだ。
母にだっこされて母の首にしがみついて泣きわめくので「首がしまるほどやった」と母は言っていた。
なんで幼稚園に行きたがらなかったのか母に聞いたことがあった。
母は首をかしげながら「ゲームがしたかった…」と言っていた。
ぼくの記憶には、幼稚園に行っても友達がいなくてさみしい思いをしている記憶と、おしっこに行きたくても行きたいと先生に言えなくて、よくもらした記憶がある。それで行きたくないと思っていた記憶もうっすらある。
それでも毎回泣きわめきながら、その幼稚園に1年半くらい通ったのだ。
「嫌がらずにスッと行ったこともあった」と母は言っていた。
それと、母は「都会から田舎にうつったから、まわりの子たちとあわんかった」とも言っていた。田舎ということはないと思う。新興住宅街だ。
神戸に引っ越してから2年くらいのあいだ、父方の祖父母と暮らした。
母は大阪の堺がよかったのだが、父方の祖父母が暮らしている宝塚に近いので神戸になったそうだ。
祖父は現役時代は警察官だった。
○○や、◇◇や、沖縄のことを悪く言っていたそうだ。母から聞いた。
母の家系は沖縄の家系なのだ。
祖父母の家の家事手伝いに来てくれていた人に祖父が夜這いをかけたことがあったそうだ。
母が誰かから聞いたのだと思う。それをぼくが母から聞いた。
嵐のときに雷の物凄い音にびっくりして、祖父に飛びついたことがあった。
少し大きくなってから父にからかわれた。
祖父の頭をポカポカたたく幼なじみがいて、怖くて何も言えなかった。
しかし、ぼくも祖父の頭をポカポカたたいて遊んだ。
祖母は裁縫が得意だったそうだ。母が言っていた。
これは父方の祖母の話である。
祖母とトランプの神経衰弱をして遊んだことがあった。
ぼくはずるをして勝った。
ずるをしたことを祖母にばらすと「ずるしたんかぁ」とニコッとしながら言っていた。
祖父母や父母たちと黒部ダムに行った。
雪が積もっていて祖母が転んだことを、後に父がよく話した。
父の運転でどこかへ行った。
そのときに祖母が文句ばっかり言っていて、ぼくは嫌な気分がした。
祖母は後部座席の窓を少し開けていて、雨が降っていたか降ったあとだったかで、対向車のはねた水が車の中に入ってきて祖母にかかった。
それを見て、ぼくは笑った。
神戸の家の台所の作業スペースなどが大理石でできていた。
祖母がまな板を使わずに包丁を使うので、大理石のトンカツ1枚分くらいより少し大きいくらいの範囲が、切り刻まれていた。
祖母は自慢ばかりする人だった。
祖父母が亡くなって、だいぶたってからだが、祖父母や父たちが暮らしていた長屋のみんなで集まりがあった。
母も父といっしょにその集まりへ行った。
父のいとこのいとこも同じ長屋に住んでいたそうで、その人が祖母のことを「自慢ばっかりやったなぁ」と言ったのを母が聞いてきた。
「Yは賢いYは賢い」と自慢ばっかりだったそうだ。Yというのは父のことだ。
祖母はちょっとしたことで「死ぬ~死ぬ~」とよく言う人だったそうだ。
祖母がカゼをひいて寝込んで、いつものように「死ぬ~死ぬ~」と言っていたので熱を測らしてみると、37℃だったそうだ。
父から聞いた。
祖母は祖父のことを嫌っていて、祖父の白いブリーフのパンツを干すときに、祖父の箸を使って干していたそうだ。
これも父から聞いた。
祖母の背中をみたことが、ぼくが情けないのと関係してそうと思うし、祖母の遺伝で情けないのかなとも思う。
遺伝と環境と両方が関係しているのかもしれないと思う。
祖父はふつうの家庭で生まれ育ったのだと思う。あまり知らない。
末っ子で祖父の上に3人いる。
農家だと思う。
祖母は祖母の母が女中にいった先で手籠めにされてできた。
祖母を連れて祖母の母は他の人と結婚した。
祖母には父親違いの妹が2人いて、上の妹と仲が悪かったそうだ。
上の妹に「N(祖母の継父)の財産は、あんたにはやらんからな」と言われたそうだ。この話は父が何回か、ぼくに話した。
祖母が嫌われることをしたのかなと思う。
しかし、祖母が嫌われることをしたとしても、それは生まれや生い立ちのことがあってのことかもしれないと思う。
ぼくの父方の親族には自死者やノイローゼと言われた人がいた。
父の兄は、ぼくが生まれる少し前に自死した。
テレビからテレビの音声とは違う声が聞こえたそうだ。父から聞いた。
誰もいないところに向かって叫んでいたそうだ。この話は母が誰かから聞いて、それがぼくに伝わった。
伯父(父の兄)は当時、病院に入院していた。
自死する前日は父と母のところで泊まったそうだ。
その翌日、父はゴルフに行き、母はキリスト教の教会に行く予定だったので、伯父に「いっしょに行く?」と教会へ誘ったそうだ。
それで、教会へいっしょに行ってから、大阪の梅田の寿司屋で寿司を食べて、そのときにお酒を飲んだそうだ。
伯父は「こんなにおいしい寿司食べたことない」と言っていたと母は言っていた。そう言って笑っていたか、そんな話を母はした。
寿司を食べ終わって、2人は別れた。
その後、伯父は電車に飛びこんだ。
祖父は母を責めたそうだ。
祖母は「T(ぼくの伯父)が生きてても、Y(ぼくの父)やM(ぼくの叔母)に迷惑がかかるから、これでよかったんや」と言ってくれたと母は言っていた。
しかし、それはそれで伯父がかわいそうだと思う。
母は伯父の生前、病院へお見舞いに行っていたそうだ。
「Kちゃん(母)みたいな人がお嫁さんやったらよかったのになぁ」と伯父は言っていたそうだ。
ぼくは1983年に生まれて、その少し前に伯父は亡くなった。
このころの日本はいい雰囲気だったと思うけど、ぼくにとっては精神科病院の閉鎖病棟のイメージがある。
父たちのいとこで精神疾患の人がいる。
その人も働いていないが、その人はひきこもりではなくて精神疾患と父は言っていた。
その人の母はノイローゼだったそうだ。祖母と折り合いの悪かった祖母の上の妹だ。
母方の祖父は英語の教師をしていたそうだ。
見た目が母にそっくりだった。祖父母の写真がプリントされたお皿がリビングか寝室に飾ってあった。
沖縄から南洋のポナペ島というところに、ぼくの祖父母と母の兄たちが移住して、それからポナペ島で母は生まれた。
それから、口減らしのために母だけが日本の母の叔母のところにやってきた。
母は戦後すぐに日本に引き上げてきた。
「叔母さんの家は金持ちって言うたから」と母は言っていた。
口減らしのためとも母は言っていた。母は自分から率先してするタイプだった。
ポナペ島では空襲があったそうで畑にすり鉢状の穴ができていたそうだ。
水がきれいで魚がたくさんいたと言っていた。
母方の祖母は抜けた感じの人なのか、母の戸籍上の兄(母のいとこ)が馬鹿にしていたそうだ。
母は体が小さかったけど、祖母はわりと体が大きい方だったと思う。
祖父よりも大きな体をしていたと思う。
母が日本にやってきてから、祖父母や母のきょうだいたちはブラジルへ行った。
ブラジルでは農業をしたらしい。
沖縄から南洋へ移住して、それからまたブラジルへ移住するのは、思い切りのいい母のようだと思う。
そういう遺伝なのだと思う。
父の行動があやしかったのか、母が父のカバンの中をあさると、財布の中から父のところで働いている女の事務員の裸の写真が出てきたそうだ。
母はその写真のことを裸のブロマイドと言っていた。
「お父さんのカバンを漁ったらな事務員の裸のブロマイドが出てきてん」と言っていた。
母は許せなかったのか、この話をぼくに何回もした。
父によると、この話は母の捏造ということだが、女の人の裸の写真を持っていたのだから、捏造とは言えないと思う。
何で揉めたのか知らないが、母と祖父母たちで揉めたそうだ。
祖母は、大阪から祖母の下の妹夫婦と、東京から祖母の娘夫婦を呼びよせた。
しかし、祖母が呼びよせた祖母の妹の旦那さんが、大勢で一人を責めるのはかわいそうと言ってくれたそうだ。
ぼくは祖母がするけったいな言動を知っているので、祖母みたいな人がいると揉めるわなぁと思う。
父が母の味方をしてくれなかったことも、母はぼくによく話した。
「結婚したら奥さんにつくんやで」と、よく言ってきた。
しかし、ぼくは結婚どころか人とつきあったことすらない。
こういうことがあったからか、祖父母は母に追い出されたのだと思う。
大理石も傷だらけにされていたし、母は悪くないと思う。
2年間くらい祖父母といっしょに暮らした。
父が、ぼくによくした話がある。
「お母さんがきみを連れて家を出ようとしてん。でもきみは『ここはぼくの家や』って言うて出ていかんかった」と、よく話した。
父は、ぼくや母のことを「きみ」と呼ぶ。
この話を母の目の前で、ぼくに何回もした。
そら、こんな家やったら出ていこうとするわなぁと思う。