第一話 「私は誰?」
2016年、日本。
この世界で人間に成り替わり暮らしている怪物がいる。
人はそれをーーーーーーーー。
『影鬼』と呼んだ。
「では、授業はここまで。
皆さんは次の授業までに『天守物語』を読んでいくように」
尾崎教授が挨拶をして授業が終わった。
私は教材をリュックの中にしまって、講義室を出ようとした。
「ちょっと、環君」
出ようとしたところで、尾崎教授に声をかけられた。
心なしか、真剣な顔をしている。
私、何か駄目なことしたのかな。
「この前、貸した谷崎潤一郎の『痴女の愛』はどうだった?」
なんだ、その話か。
私と尾崎教授は本の趣味が合う。
だから、よくお互いに本の貸し借りをしている。
「その……なんていうか、結構性的な話でした。
甘美な中に性に溺れる描写など、文章が秀逸だと思います」
「私もあれを初めて読んだ時はびっくりしたよ。
あのナオミの恐ろしさは読んだものにしか分からない」
「谷崎潤一郎の小説って、ちょっと作風が変わってますよね」
「女性に対する考え方が文章によく表れてる。
同じ女性として、いたたまれなくなるよ」
尾崎教授はわかりやすく肩をしぼめた。
尾崎教授は美人だと思う。
白髪のセミロングに整った顔立ち。
身長は私と同じくらいだけど、なぜか私より高く見えてしまう。
「貸してくださって、ありがとうございました。
お陰で世界観が広がった気がします」
「そうか、それならよかった。
貸した甲斐があるもんだ」
お礼をして、帰ろうとすると肩を掴まれた。
まだ、何か用があるのかな。
「影鬼には気をつけてな。
この前も警察になりすましてる奴がいたらしい」
「最近、そういったニュースしか聞きませんね。
わかりました、最新の注意を払います」
尾崎教授は優しく笑うと、肩から手を離した。
「じゃあ、また明日」
「えぇ、また明日」
別れの挨拶をして、私は講義室を出た。
大学構内をしばらく歩いて、目的地へ辿り着いた。
その目的地の名前は『いちごいちえ』
私が愛用してる大学構内にある喫茶店。
「いらっしゃい」
店長のおばちゃんが挨拶をしてくれた。
私は会釈で返した。
カウンター席に座ってリュックサックの中から文庫本を取り出す。
「鏡花ちゃん、いつものやつでいい?」
「はい、いつものでお願いします」
はいよーとおばちゃんが返事をして、奥へと姿を消した。
「どこまで読んだっけ?」
私はパラパラめくって、しおりが挟んでいるページを見つける。
(そうだ。白雪姫の生贄に百合が選ばれた場面だ)
今、読んでいる本は泉鏡花の『夜叉ヶ池』。
私は泉鏡花の小説が好きで、よく読んでいる。
きっかけは、単純に名前が鏡花だから。
私はこの名前を結構気に入ってる。
静かに読み進めていく。
人間の傲慢で理不尽な欲望が巧みに文字に綴られている。
「鏡花ちゃん、いつもの抹茶ラテ」
「ありがとうございます」
私は本を閉じて、抹茶ラテを一口飲んだ。
抹茶のコクの深みと絶妙な甘さが舌を喜ばせる。
「いつも通り、とても美味しいです」
「う〜ん、こっちはいつもを超えるように作ってるんだけどねぇ」
「すみません!
絶賛したつもりが、失礼なことを言ってしまいました」
勢いよく頭を下げる。
今のは全然配慮が足りてなかった。
「別に謝ることはないのよ。
お互いそんなつもりで言ったわけじゃないでしょ」
「だとしても、次から言葉は慎重に選びます」
「はぁ。全く鏡花ちゃんは根っからの文系ね」
今のは絶対に嫌味だ。
鈍感な私でも今のは分かった。
「『夜叉ヶ池』?
また難しそうなの読んでるわね」
「難しくはないですよ。
店長さんも読んでみますか?」
「私はいいわよ。
なんか昔の小説って読む気にならないのよねぇ」
そうなのかな。
どちらかというと、今の小説の方が似たジャンルばっかで、読みたいのが少ない気がするけど。
「好き嫌いは個人の自由ですからね。
私は強要しませんよ」
「そうよね!?
やっぱり私は間違ってなかったんだわ」
おばちゃんが憤慨している。
また旦那さんと喧嘩したんだ。
私は苦笑いをした。
「ニュースです。
昨夜十一時頃、不忍池で血まみれの死体が見つかりました。
警察は『影鬼』の犯行と見て調査に当たってます」
テレビに目を向けると『影鬼』のニュースを報道していた。
件の『影鬼』はまだ討伐されてないらしい。
「不忍池って近いじゃない。
鏡花ちゃんも襲われて、喰べられてしまうかもよ」
「縁起でもないことを言わないで下さいよ」
世の中にはフラグというものがあります、店長さん。
『影鬼』。
日本にのみ生息する極めて人間に近い生物。
低い確率で人間の影から生まれる。
生まれたら、生んだ“本人”を本能的に喰い、吸収したくなる。要は殺人衝動に駆られる。
そして、たいていの場合そのまま成りすまして生活する。
「もう一人の自分と会ったら確実に死ぬってところが、ドッペルゲンガーと似ていることから、そう名前がついたらしいです」
「ほんと、物騒な世の中になったわね。
本当に気をつけなきゃダメよ、鏡花ちゃん。
あなたみたいな子が狙われるのよ」
「これで本日2回目ですよ……」
私は店長さんとの話に区切りをつけて、小説の世界に戻ることにした。
そのまま、無言で読み進める。
時間が流れて、最後の文章を読み切り、私は体をほぐした。
「う〜ん、面白かったな」
私は背伸びして抹茶ラテを飲み干した。
腕時計で時刻を確認する。
午後五時半。
二時間ぐらい喫茶店で本を読んでいたんだ。
「鏡花ちゃん、もう読み終わったの?」
「ほとんど短編みたいな話ですからね。
店長さん、毎日長居させてもらってありがとございます」
「気にしなくていいのよ。
ほら、うちは客が少ないから」
店内を見渡した。
少ないというか私以外誰もいない。
こういう状況を閑古鳥が鳴くっていうのかな。
「はぁ、大学内にスターバックスとかいう店ができたせいだわ。
海外店舗に負けるなんて恥だわ」
「一体何と戦ってるんですか。
私は何があってもこの喫茶店を利用し続けますよ」
私がそう言うと、鏡花ちゃーんと涙を浮かべて抱きついてきた。
痛い!痛い!
まるでアナコンダに巻き付かれてるような感じだ!
「店長さん、離れて、ください。
呼吸が、全然できま、せん」
「あら、ごめんなさい」
店長さんはすっと離れて、意味ありげに微笑んできた。
これはもし嘘だったら絞め殺すって顔してるな……。
「ごちそうさまでした。
また、来ます」
待ってるわ〜と半ば脅迫の意味も込められてそうな返事を聞いて、店を出た。
「今日も一日疲れたな……」
本郷三丁目駅に向かってトボトボと歩いていた。
国文学科は課題があんまりないのだが、家へ帰って『天守物語』を読まなくてはならない。
そして、『天守物語』は前に読んだことがある。
「同じ作品を二度読むのは別にいいんだけど、『天守物語』は七回ぐらい読んだからなぁ。
でも、最後に読んだのは一年前だから、理解深めるために読んでおかないと」
初めて読んだとき、なんて美しい恋愛だって感極まった覚えがある。
間違いなく、泉鏡花の個人的最高傑作だと思う。
そんなことを考えながら、駅に着きSuicaで電車に乗った。
この時間帯の東京の電車は確実に満員電車でぎゅうぎゅうと押し詰められていた。
人混みが嫌いな私にとって拷問に近い。
本を読むこともままならないし。
我慢し続けて、十数分。
ようやく降車駅の新御徒町駅に到着した。
私はため息をついて、人混みの中改札口を抜けた。
その時だった。
私は人混みの中である人物を見つけた。
自分と同じ黒髪のセミロングで自分と同じくらいの身長の女性だ。
でも、まだそれだけなら断定はできない。
決定的だったのは、その人物の顔が私と同じ顔をしていたことだった。
その人物は私と目が合うと気味の悪い笑みを向けてきた。
「あ……あぁ……あぁあ!」
私は全力で逃げ出した。
あれが何のかすぐに分かった。
同時に捕まったら自分が死ぬということを感じた。
嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!
清洲橋通りを死にものぐるいで駆け抜け、松が谷にある自宅を目指した。
後ろからどっどっどという足音が聞こえてくる。
「はぁはぁはぁはぁ」
尾行を撒こうなどと浅い考えで、くねくね曲がりながらひたすら走る。
だが、一向に足音が消えない。
むしろ、だんだんと近づいてきてる気がする。
「っつつ!」
足元がふらついてしまい、路地裏で転んでしまった。
その隙にそれが距離を詰めてきた。
「嫌だ……!来ないで!」
リュックサックを思いっきり投げるが、それを難なく交わされた。
恐ろしいスピードで相手は距離を詰めてきた。
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁ」
緊張と恐怖で動悸が速くなる。
月明かりがそいつの顔を照らし出した。
私と同じ顔の化け物。
『影鬼』だ。
「来ないでって言われても、お前を殺したいからここにいるんだ!」
右手に銀色に光るナイフを持っている。
私を殺す気だ!
早く!早く逃げなきゃ!
なのに、何で足が震えて動けないの!
「どうだった?
今までの人生楽しかった?
私は最悪の日々だったよ」
そのまま『影鬼』はナイフを振り下ろしてくる。
「やめてぇえ!」
大声で叫びながら、とっさに手を振りかざした。
私はそのまま『影鬼』に殺されるはずだった。
手を振りかざした直後、何かが掌に吸い込まれてくような感じがした。
途端にものすごく気持ち悪くなる。
「おぇっ!ゴホッゴホッ!」
あまりの気持ち悪さに私は吐いてしまった。
「『影鬼』……は?」
目の前を見ると、誰もいない。
帰ったなんてことはないはずだ。
「どこに……消えた?」
今の状況に私は頭がこんがらがっていた。
とにかく私が生きていてすごく気分が悪いことは確か。
「きゃあああああ!」
突如、後ろから悲鳴が上がった。
後ろを振り向くと高校生ぐらいのカップルが怖がっていた。
「どうしたんですか?」
立ち上がって声をかけると、カップルたちは一歩後ずさった。
「来るな!この化け物め!
ここはお前たちが生きていい場所じゃないんだ!」
「化け物って言われても、私はあなたたちと同じ人間だけど」
「嘘をつかないで!
あなたは今、もう一人のあなたを喰って吸収した!
そんなこと人間はしないし、できない!」
嘘だ……と言おうとして、私は再び吐いた。
さっきからこの気持ち悪いのは何なの?
この割れるような頭痛もいい加減やめてほしい。
「そんな……私は人間ーー」
「違うって言ってんだろ!
言われないとわかんないのか、お前はーーー」
「『影鬼』だ!」
私が『影鬼』?
嘘だ。
私は人間だよ。
そう生きてきたんだから。
「違う!本当に人間なの!」
「もしもし、警察ですか。
今、目の前に人間と騙る影鬼がいます……」
男子の方が電話をかけていた。
それに大声で叫んだせいか、人がだんだん集まり始めてきた。
逃げなきゃ。
本能的に直感で分かった。
今の状況が良くないことに。
私は誰にも気づかれないように逃げて、その場をすぐに離れた。
アパートの自宅に帰って、私は瞬時に鍵を二重に閉めた。
私は力が抜けて玄関にうなだれた。
「違う、違う、違う、違う!
私は『影鬼』じゃない!
私は人間だ!」
恐る恐る自分の掌を見る。
自分の掌は血で赤く染まっていた。
「あぁあっ!」
私は洗面台で手を洗った。
しかし、洗えど洗えども血は全然落ちてくれない。
私は諦めて膝から崩れ落ちた。
「違う、違う、違うのこれは!
私は、喰い殺してなんかない!」
泣き咽びながら否定する。
掌の血はそれを全力で嗤っていた。
「違くない。
逃げてるもう一人の『私』にはっきり言ってあげるよ」
頭の中で声が響く。
頭を殴っても話し声は止まらない。
「あなたは『影鬼』だ」
頭が更に痛くなって、私は近くの壁に頭をぶつけた。
人生で初めて、私は自分に問う。
「私は誰?」




