奏でる過去と未来から 03
人間の体とはよくできているもので、明るい日差しが体に当たるだけで目が覚めるようになっているらしい。
細い筋となった光を全身に浴び、瞼を開くとすぐに朝を感じさせてくれる。
「いっ…」
遮光カーテンをしないで眠ってしまったのかとぼんやり思いながら、ベッドから半身を起すと頭頂部が痛い。
そっと手を当てると何十年ぶりかのたんこぶができているようだった。
それと同時に、昨日の出来事を断片的に思い出す。
"タイムスリップしてきた男の子と変態強盗男に出会う"というなんとも強烈な夢を見たわけだが、今自分はしっかりベッドで寝ていたし、静かなキッチンはお世辞にも整っているとは言えないいつもの状態のままだ。
「………やばっ」
流れで目に入った時計が留衣を現実に引き戻す。優雅な朝のひと時を過ごすには到底不可能な時間だった。
ベッドから飛び降りシャワー、食事、着替え、化粧の時間を逆算する中では、床にできたへこみも、なぜか空になっている鍋の中身にも気づくことはなかった。
始業時間に滑り込むように会社へ到着したころには、意識はすっかり仕事モードに切り替わり、夢(と納得させた)の事はすっかり片隅に追いやられていた。
運ばれる書類をぱちぱちと打ち込み時間を過ごすうちには、昨日の映画を見られなかったことへの悔しさの方が勝り、帰りにレンタルショップに寄る事を決めた。
「珍しいねー川崎さん」
背後から明るい声がかけられ、勢いよくパソコンの画面から頭を離す。
「お、疲れ様です小野さん」
座っていることでその高い身長をより見上げる事になる。留衣は椅子を回すと、女性ながら係長という役職に就いている小野に向き合う。
役職関係なく名前で呼び合う事を信条としているこの会社だが、だからといってそう簡単に上司である人間と気安くはなれない。しかも相手が社員となっては更に。
「すんごい慌てた顔して入ってきたもんねー今日。いっつも15分前には来てるのに」
「す、すみません」
「いやいや怒ってるわけじゃなくてね」
そういうと小野は両手をぶんぶんと振って否定を示す。もちろん留衣はその意味が分かっていた。配属されてから毎日決まった時間に現れる自分の姿がない事を不思議がり、気遣ってくれてきたことを。
多くの部下を抱える彼女は、幅広い視野を持ち判断も素早く、相談にも親身になって答えてくれるという申し分ない上司だった。もちろん他の派遣や役員からの信頼も厚く、留衣自身も頼りになる小野の存在が本当に心強い。
「真面目な人の姿が急にないと焦っちゃったよ。何かありそうだったら言ってね?」
「まじめ…ですかね私」
自分で思ってなかった評価に思わず聞き返す。
「えー真面目だよ素晴らしく真面目!気づいてないの?」
「はい、うーん…初めて言われたかもしれません」
「うそー」
本心から驚く姿に、やっぱり人と接するのが上手いなあと思う感情と同時に、心のどこかがちりっとざらつく。
「あーそうだ。でさー、うーんと」
声の大きさを少し落とし、珍しく言いよどむ小野の姿に留衣は首をかしげる。常に人の目を見て話す彼女の目線が合わず、なにやら足元を見ているようだった。
「えーっと、その、川崎さん、の鞄にさあ…」
「鞄?」
自分の鞄に何か問題があっただろうか、とかがんで取り出そうとする。風紀に厳しい職場ではないから私物については完全自由だが、何か違反しているものがあるのなら改めなければならない。
他の人に気づかれないよう、こっそり教えてくれているのかもしれないと取っ手を掴むが、
「小野さーん!日向建設様からお電話でーす!」
離れた席から取引先の電話を知らせる声が響く。
「はーい行きまーす!」
間を開けず答えた小野は自席に戻るべく、踵を返した。
「あーごめんね川崎さん、続きよろしくね。じゃあね!」
「あ、はい」
先ほどまでの逡巡などなかったように、6cmはあるだろうヒールで軽やかに戻っていった。
その後姿を眺めながら、またしても心の嫌な部分がちりちりっと動き出す。
今日もパンツスタイルが格好良く決まっている。控えめだが整えられたネイルを含めた外見的要素に加え、営業スマイルなんてものはないくらいの自然な素顔。誰もが好印象を持たずにはいられない小野の事が、心強い。はずなのに。留衣は時折接することで感じる自分の醜い部分に嫌気が差していた。
年齢は一つしか違わないのに。苦手なものとかコンプレックスとかないんだろうな。学生時代もサークルとか充実してたんだろうな。人付き合い上手い人はいいよなあ。
そんなはずはない。そんな事ばかりな訳がない。
頭の中では当然人それぞれの事情や背景がある事は分かっているのに、誰からも笑顔を向けられる彼女の姿を見るたびに、醜い考えしかできない自分が露わになり気持ち悪くなる。うらやましいといった言葉だけでは片づけられない、勝手な妬みを感じている自分の頭の中が本当に嫌になる。
「…お昼買ってこよ」
口の中だけでつぶやくと、気持ちを切り替える為周りに告げ席を立つ。
何やら言いにくそうにしていた小野の言葉の続きが気にならないわけではなかったけど、それを確かめに行くほどの気持ちはなかった。
今日は映画だけじゃなくCDも借りて帰ろうと、一日の終わりのことばかりを考えながら、地下のコンビニに向かった。