奏でる過去と未来から 01
窓ガラスに映る、朝から一気に老け込んだ自分の顔に驚かなくなったのはいつからだったっけ。
通勤時とまったく変わらない車内混雑の隙間を見つけ、仁王立ちで左右に揺られながら、留衣は夕飯の献立を考えていた。
肉じゃがを作った残りの豚バラがあるから、焼き肉のタレでもかけて焼くか。いや、それだと野菜が取れないからあれだ。白菜と重ねて鍋にぶっこんで、コンソメ入れて煮よう。重ね蒸しにしよう。帰ってもちゃんと作ろうと考えてる私えらい。自分えらい。
ヒールを履いているため、前に立つスポーツ紙を豪快に広げた白髪の後頭部がよく見える。無意識に見つめつつ帰宅してから食事するまでの流れを思い描くと、鏡のように反射する窓に映る自分と目が合い、そっと瞼を下ろした。
有名でも無名でもない、つまりそこそこな大学をそこそこな成績で卒業後、新卒での就職がかなわずどうにか派遣で勤め始めて数年。
特別優秀でもなければ愛想が良い訳でもないため、日々淡々と仕事をこなす毎日だったが、元々夢や目標というものを持たずに働き始めた留衣にとってはとくに何の感情も湧かなかった。自分にとっては、家賃を払う事、毎日食べるお金を稼ぐ事、映画やCDを借りる楽しみを満喫する今しか考えていない。考えないようにしているのかもしれないが。
くせのあるアナウンスに目を開くと、熱気で曇りだした窓ガラスには誰も映っていなかった。急行から呼吸のしやすい各駅停車に乗り換え、二駅目で降りる。
定時少し過ぎたあたりで会社を後にし、寄り道もせず今日も真っ直ぐに帰る。一年目にコツコツと貯めた資金を元に、今のワンルームへ引っ越してきた。決して広くはないが、駅近かつ絶対条件であったバストイレ別。会社に近くなったわけでもなく、築年数が新しい洒落た家でもないが、自分だけの城という気分の良さがある。
一人っ子だったので、実家で暮らす同年代に降りかかる「自立しろ」の親プレッシャーはなかったが、なんとなく社会的世間的風潮に乗り家を出た。初めは緊張もあったものの慣れてしまえば楽しいもので、何事にも冷めている自分には今のような生活が丁度いいのかもしれないと考えていた。
豚バラ、白菜、コンソメ。豚バラ、白菜、コンソメ。
心でつぶやきながら階段を上がる。他の住人の姿をあまり見ないのもこのアパートのいいところだ。仕事外の交流にまで力を使いたくない。
家に入ると、着替えよりもくつろぎよりもまず料理に取り掛かる。煮ている間に着替え、風呂を入れる。これも一人暮らしを始めて覚えた効率というものだ。
頭の中の筋書き通りに整え鍋を火にかけると、テレビの電源を入れ番組表を眺める。確か今日は公開時見に行けなかったアクション映画がテレビ初放送のはず。
食後お風呂に入ってからでも十分余裕を持って見られそうなのを確認していると、近くでコトリ、と何かが当たるような音がした。何の気なしに周りに目をやるが、そこには変わらず鍋が煮込まれる音とクイズの制限時間が迫るテレビの音しかしなかったため、気にすることはないかと視線を画面に戻す。
ドドドドッ
唯一の収納スペースである押し入れから、無視できない音がした。
何かが落ちたような激しい音。
驚きと恐怖で震えた体は硬直し、リモコンを握りしめたまま頭だけなんとかその方向へ向ける。見た目には何も変わりはないが、確かに何かがあった。大きなものが落ちたような、ぶつかるような何か。その何かを確かめるには、ぴっちりと閉められた襖を開けるしかない。
コトコトと煮える鍋より、珍解答で笑いにぎわうテレビよりうるさい音があったので、なんだと思うと自分の心臓だった。衝撃映像やホラー映画にも大して驚きはしないのに珍しい、冷静な頭で思う自分がおかしかったが、反対に激しく打つ心臓はただただ味わったことのない恐怖を示していた。
「えー………っと」
口元をひきつらせながら何も意図していない声が出る。「一人暮らしを始めると独り言が増えるのってやっぱほんとだったわ」と言った学生時代の友人の言葉に共感する。何か言葉を発しなければ耐えられない。
留衣はコートのポケットに入れたままだった携帯を取り出すと、きつく握りしめいつでも番号を押せる準備をする。そしてコンロの火を止め、あたりを見まわしてしばらく。まな板を脇に挟む。一人暮らしの女の家にバットや竹刀はそうそうない。自分の部屋に他に身を守る頑丈な武器兼防具がないことに後悔しながらも、意を決して押し入れの前に立った。
「………!」
近くで見ると年代を感じる襖に、わずかだが今までになかったふくらみが出来ているのを確認し、更に心臓が早まった。これは決定的に"何かがいる"のだ。
普段から物をあまり持たない留衣は、女性には欠かせない収納というものもあまり活用していなかった。とはいえ季節ごとの服やスクラップ用に待機している雑誌が勝手に動くわけはない。
腕にも腹にも足の甲にも心臓があるんじゃないかと思うくらい全身がどくどくと波打つのを感じながら、息をつめる。行動だけはあくまで冷静に、携帯電話を耳に当て、取っ手に手をかける。
あー、そうだ先にお母さんとか友達に連絡しときゃよかったじゃん。馬鹿か。
と考えが頭をよぎると同時に、勢いよく戸を引いた。
ゴドドッ、ドン
と、激しい音を立てて、
人が落ちてきた。
「………………!!!!」
人間心の底から驚愕した時は声も出ないというのは本当だった。留衣は激しい音を立てて転がり落ちてきた"その人"から、自分の持つ最大限の瞬発力を使って後退し離れると、カーペットの折り目に足を引っかけ、こけた。
「っ……!、や、やば…、やばい……わ…ど、ちょ、」
かすれ声で慌てふためくその言葉は、今まで自分でも聞いたことのないものだった。
まさかね、と思っていた事態が圧倒的な驚きと恐怖を持って襲ってくる。尻もちをついた痛みや転んだ拍子に落としたまな板が床をへこました事など目に入らず、ケースが壊れそうなほど握りしめた携帯を利き手に持ち直し、画面に向かう。
「………う」
がたがたと震える指が簡単なはずの三桁の番号を押せないでいると、突然うつぶせになった状態のその人が呻いた。自分が転んだ音に反応したのか、留衣は体を震わせるとそのまま固まった。
ああ終わった。襲われる。死ぬのか、私死ぬんだ。しかもこんな死に方、最悪だ。どうしよう。だめだ、もうだめだ。死ぬ。
動かない体のまま、数秒のうちにこれから自分に訪れる悲劇を思い描く。走馬灯ってこんな感じかと目だけその対象に向けると、うめき声をあげたその人はそれ以降ぴくりとも動かない。
すぐに向ってくる気配もない様子を見て、口の中いっぱいにたまっていた唾をごくりと飲み込むと、静かに息を吐く。
近くにいるからより恐怖を感じるんだ、ベランダか、それか部屋の外に出て警察に電話しよう。
必死に頭を回転させそれだけ考えると、細かく震えながらも足は力を入れると動いてくれた。何があっても逃げられるように視線だけは外さずに。外さずに、いると、留衣はそこでわずかな違和感に気づいた。
「…………ん?」
それはその人が転がり落ちてきた時にも感じたもので、その時は恐怖が勝り冷静に考える事などできなかったが、いざ立ち上がり見下ろしてみるとやはり何かおかしい。
「え………え、子供?」
先ほどより温度を取り戻した声で発すると、確かなものとして認識できる。
子供。
落ちてきたそれは、犯罪目的で侵入してきた不審者というには小さく、成人女性の平均身長である自分よりも小柄な体型だった。
外的様子が段々見えてきて少し落ち着いてきたものの、留衣は再び考えをめぐらせた。
子供が不法侵入。何か余程の理由があって忍び込んだのか。強盗、泥棒目的だったのか。もしかしてこの子に指示して親か誰かが後ろで糸を引いている?という事は周りに親玉がいる、もしくはまだ誰かこの家に隠れて…
思考と共に表情を変化させながら、やはり油断はできない。誰かに助けを求めようと玄関に向かい忍び足で一歩を踏み出すが、ここでまたしても目に留まるものがあった。
服装だ。
初めは黒っぽい色味しか目に入ってこなかったが、よく見ると珍しく和服を着ている。
自分がそういったものに馴染みがないため正式名称は分からないが、剣道部員が着ているような道着に見える。それに下は袴のようだ。ご丁寧に足元は足袋に草履まで揃っている。
泥棒に入るにしてもなんでこんな恰好で、と不思議に思っていると、その全身は所々土で汚れ、袖からのぞく腕には擦ったような細かい傷がある。乱れた髪の毛には土に加え何かの葉が混じっているように見えた。
ますます違和感しかない状況にすでに恐怖心は薄れかかっていたが、この子供が泥棒にしてもいじめを受けているコスプレ好きの剣道部員にしても、警察に任せるしかない。僅かながら落ち着きを取り戻すと、横たわる子供の横を通り抜ける。
ピーンポーン
緊迫感あふれる部屋に、似つかわしくない気の抜けた音が響いた。後半だけやたら間延びしているのが何とも腹立たしい。
自分は特に後ろめたいことをしていないのに、なぜか動けない。今このタイミングで来るとは何て空気の読めない奴だ。新聞か、宗教か、誰も読みもしない回覧板か。
壁を背に、がに股で固まる留衣が余計なものは早く過ぎ去れと念を送っているのも、通じることはなく。
ピーンポーンピーンポーンピンポンピンポンピーンポーーーーン
嫌がらせかのごとくベルは鳴り響く。
もはや怒りしか感じないその音に冷や汗をかきながら、玄関と子供を交互に見やる。このうるささで目覚めてしまわないかという心配を全く汲めない来訪者をドア越しに睨むが、当の子供らしき人は微動だにしない。
今度は大きく息を吐くと、近所迷惑になりそうな回数を鳴らし続ける張本人に、適当に帰ってもらおうとインターホンへ手を伸ばす。
「すんませーーん、黒川運輸でーす」
受話器を手にする前に、よく通る声で名乗られた。空気の読めない来客は宅配便だったようで、早く済みそうな要件にほっとする。きっとまた母親が急に荷物でも送ってきたのだろう。仕事をしている自分の事情などお構いなしに日時指定をせず送ってくるのはいつもの事だった。長く待たせていることに申し訳ないと受話器は取らず、そのままドアを開く。
宅配便の配達員と言えば大抵ガタイのいいお兄さんだし、簡単に話して警察に連絡したい事を伝えたら一緒に動いてくれるかもしれない。
という心強い期待は、あっという間に崩された。
「よお。俺は未来から来た。おいお前、ギターを弾け」
「は………」