石を喰む人魚の歌
ツイッターで行われた『2022GW覆面企画』参加作品です。企画の思い出に、残します。
私の妹は少し思慮の浅いところがある、夢見がちな人魚だった。
海の底に眠る廃墟に腰を掛け、髪の毛をゆらゆらと揺らしながら水面を見上げている。その口からは小さな泡が吐き出され、コポコポと軽快なリズムを取っていた。あどけないその表情。それでも彼女は今日十五の誕生日を迎え、人魚にとっては大人とされる歳となった。
「六の姫、なにを見ているの?」
訊ねるとふんわりとした口調で答えが返った。
「空よ」
そうして手に持っている石に目線を落とし、一口齧る。ゆっくり咀嚼し石が飲み込まれると、妹のくちびるから気泡が漏れた。
コポポ。コポコポ。
泡が吐き出され、上へと向かう。それを目で追いながらまた水面を眺める。また一口。繰り返す妹を見て、私は眉を寄せた。
「その石、バルコニーの手すりの部分ね」
海の中で朽ち果ててゆく石の建造物。私達は好んでそれを喰んでいる。腰掛けているここはお屋敷の跡で、バルコニーには人目を避けて忍んで逢瀬を続けた恋人たちの思念が染み込んでいた。
「また甘ったるいのを選んで」
「そうよ。だって好きなんだもの」
姉からのお小言など気にもかけずにふふふと笑う。そしてもう一口齧ると小首を傾げ、私にその石を差し出した。
「もういらないから、あげる」
「甘いところがなくなったからでしょう?」
問いに答える代わりに、妹は肩をすくめてみせた。
「甘いところなんてあっという間に終わってしまうのに。六の姫、食べ散らかすのは止めてちょうだい。いつも私に残り物を渡すのも、止めて」
「でも五の姫は甘いのは嫌いなんでしょう? 丁度いいじゃない」
「そういう問題じゃないわ」
きっぱりと言ってから、それでも結局押し付けられた石を齧る。甘ったるい部分は妹がたべたので、ある意味安心して味わうことが出来た。
バルコニーの石材に染み込んだ、年代を積み重ねた人々の思念。苦い思いも辛い思いも入り混じっているけれど、それが味に深みを与えている。咀嚼した石は私の体に取り込まれると消化され、シュワシュワと気泡になって口から溢れる。内から沸き起こる衝動のまま、私は尾びれでリズムを取り、のどを震わせ抑揚をつけ、泡を少しずつ吐き出した。
これは人魚の歌。人の想いの染み込んだ石を消化して、歌に昇華し地上へ還す。
「五の姫の歌、好き」
「それならこの石をたべればいいじゃない」
「でも私は甘いのがいいの。甘い、甘い恋の歌をうたいたい」
妹はそう言うと尾びれを動かし泳ぎだした。気が付くと他の姉たちも廃墟を泳ぎ回り、遊んでいる。私も仕方ないと妹への説教を止めて、その遊びの輪に加わった。
「ねえ、向こうに立派な船が航海してるって」
「行ってみましょうよ」
「ちょっと危険だわ」
「六の姫は待っていた方が良いかしら。五の姫も一緒に居てあげてちょうだい」
偵察に行った姉たちの帰りを、妹と二人で待つ。程なくして戻ってきた彼女たちの表情は、興奮して輝いていた。
「船首に人が立っていたわ」
「立派な着物。王子様みたい」
「もうちょっと近寄ってみる?」
「それじゃあ、みんなで行きましょう」
姉たちの提案に、私は慌てて首を振る。
「六の姫がいるから駄目よ。まだ海上に出てはいけないのだもの」
「あら、今日はこの子の十五歳の誕生日よ。今日から海上に出られるじゃない」
「それは今夜からだわ。今は昼よ」
「みんながいるから、今こっそり行っても大丈夫じゃない?」
なんてことのないように姉たちがそそのかす。
「でも……」
「五の姫、私も姉さまたちと行ってみたい。夜に一人で行く前に、みんなと海上へ出る練習してみたいの」
私の手を握り、妹がそう懇願する。結局私も好奇心を抑えきれず、姉妹揃って岩場へと向かった。
岩陰に身を隠し、船の様子をうかがう。ぎりぎり通れるだけの水深があるところを縫うように進んでいく船。そしてその船首に立ち、陸地を見つめる男の人。まだ若い彼はその姿勢や所作の美しさ、着ている服の華美なことから高貴な身分であることが見て取れる。
「素敵な人」
思わずといった様子でつぶやいた声が、すぐ横から聞こえた。
「六の姫……?」
その瞬間から六の姫の目には彼しか見えず、誰の忠告も耳には入らず、心は彼に占領されたようだった。空はそんな彼女の運命を暗示するように厚い雲に覆われてゆき、次第に風が強くなっていく。
夜になり、嵐がやってきた。それにも関わらず妹は十五歳の誕生日の夜だからと主張して、海上へと向かって行った――。
「あの人のそばにいたいの」
嵐の夜を越えた朝。妹は父王に懇願した。もちろんそれは即座に却下され、私たちも涙を流して彼女を止めた。
「それでも。それでも私は、あの人のそばにいたいの」
馬鹿な妹。人間の男となんて、結ばれるはずは無いのに。
止められれば止められるほど彼女は頑なになり、そして魔女の力を借りて人の姿になった。あれほど綺麗な声と軽やかで心地よかった歌を奪われ、代償として得たのは、歩くたびに苦痛を生じる二本の足。
馬鹿な妹が愛したのは、愚かな男だった。
誰に助けられたのかも理解をせず、別の女を思い込みから愛した、愚かな男。
もどかしい思いを抱えたまま、私たちは見守るだけ。誤解と規制で歪んだ関係は破綻をきたし、結果、妹は泡となって弾けて消えた。
「六の姫……!」
悔しくて、余りにも愚かしくて怒りがわいた。男にも、妹にも。
父王はそんな私を見て、この海を去って別の場所に行くことに決めた。海に眠る遺跡はいくらでもある。海の世界を統べる父がこの海域にこだわる理由も無い。いや、こだわらないようにするために、この場所から離れることを決めた。
私たちが去ったあと、海の住民に見捨てられた海は荒れ果てた。一方、妹ではない人間の女を選んだ愚かな男は、彼の地を統べる王となった。だが荒れた海を御する力は無く、やがて彼の地は捨てられて海に飲み込まれていった。
そしてそれから時が経って……。
私は久し振りにこの場所に戻ってきた。長く続いた父王の代は終わりを告げ、今は一の姫が女王となって海の住民をまとめている。伴侶を得て、それぞれの家庭を築いている姉さまたちと違い、私はひとり気ままに様々な世界の海を渡り泳いでいる。ここに来たのはあの時以来だ。
当時喰んでいた遺跡は崩れてもっと深い海の底に沈み、あのとき地上だった場所が入り江となって、新たな遺跡が眠っている。そう。当時お城だったものが。
どんなに歯がゆい思いをしても、決して海の住民が立ち入ることの出来なかった城の中を今、私は泳いで巡っている。気紛れに石を引っ掻き口の中に放り込む。そこに染み込んだ人々の思いが一瞬だけ揺らいで立ち上り、私の中で消化され、最後は気泡となって口から吐き出される。
荒れた海への畏怖。どうしようもできないことへの絶望。人同士の疑心暗鬼。統治者に対する不信感。
打ち捨てられた城には、様々な負の感情がこびりついていた。それらの気持ちを取り込んで、鎮め、昇華し、水面へと浮かび上がらせる。そんな作業を繰り返し、とある部屋の石壁の欠片を齧ったら、懐かしい声が聴こえた。
『あの人のそばに、いたかったの』
「六の姫……」
石壁を引っ掻いて、欠片をまた口に入れる。喰む。
『なにを犠牲にしても惜しくない。そのくらい、あの人のことが好きだったの』
人の形となった時に声は奪われたけれど、石に染み込んだ思念は同じ人魚同士、そして姉妹だからか、音として再生される。懐かしい彼女の声。その声が、愚かな男への愛を紡いでゆく。
『報われなくても、別にいい』
『愛していた。心の底から愛していた』
『後悔はしていない。だから、』
声だけでなく、妹の姿が脳裏にはっきりと浮かぶ。
『私は幸せだったって、姉さまたちに伝えたい。この城がいつか朽ちたとき、誰かが私の想いに気付いて、私の石をたべてくれるのを願っているの』
「……馬鹿な子」
彼女の笑顔が一杯に広がって、私の胸を押しつぶす。それが苦しくて涙がポロリとこぼれた。
『姉さま、愛しているわ』
「うん」
『私を愛してくれて、ありがとう』
「うん」
妹を亡くした直後は怒ることで抑えていた涙が、今は素直にぽろぽろとあふれてゆく。
泣きながら石を喰み、自分の中に溜め込んでゆく。そして広間の真ん中にたどり着くと、崩れた天井から水面を見上げた。
暗い海の中、空から幾筋もの光が広間に届いている。その光を浴びながら、尾びれでリズムを取り、腹に力を入れ、胸を開き、のどを震わせ、私は泡を吐き出した。
コポ。コポポ。コポポポポ。
沢山の人の想いを、歌に乗せて開放する。海上へ、空へと届きますように。六の姫の、人々の昇華された心が大気に、世界に溶け込んでいきますように。
六の姫。これが私の、あなたに贈る愛のうた。