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宇宙猫プリンと笑顔のケーキ

作者: 小林ラキ

 みさきがその子猫を家につれて帰ったのは、大きらいな遠山さくらが自分の猫だと言ったからだった。


 それは昨日の夕方のことだった。放課後の校庭に突然、金属の丸い物体があらわれるという事件があった。みさきは校舎の裏でうわばきをひろって校庭に出てきたところだったので、そのようすを少しはなれた所から目撃した。UFOだ!という声で顔を上げると、黒っぽい銀色の鉄でできたような丸い物体が、子どもたちの上の、長い棒を持ってきたら届きそうな高さのところに音もなく浮いていた。みさきには、物体が少しうつむいて子どもたちを見つめているように見えた。真下にいる子どもたちは口をあんぐりあけて見上げていたが、そいつがぱっと消えた瞬間、われに返っていっせいに悲鳴を上げて走り出した。その騒ぎに、職員室から先生たちが飛びだしてくる。

 みさきも急いで近寄ったが、先生を取りかこんで口々にわめきたてる子どもたちの足もとから何か小さいものが走り出て花壇にもぐりこんだのに気がついた。近寄って、咲きほこるマリーゴールドの濃い緑の葉っぱをそっとかきわけてのぞくと、白と黒と茶色の毛皮がぶるぶる震えている。子猫だ、とみさきは思った。つかまえようか、どうしようか。そのときだ。

「みさき!それあたしの猫よ。さわらないで!」

と声がした。ふり向くと、遠藤さくらが仁王立ちで見下ろしていた。こいつだ。こいつが今日もあたしのうわばきを廊下の窓から投げ捨てたのだ。

 みさきと同じ五年二組の遠藤さくらは、透きとおるような白い肌にピンクのほほ。三つ編みにした髪は染めたわけでもないのにつやのある栗色だ。赤ちゃんの頃からモデルをしていて、最近では劇団に入ってお芝居や歌やダンスのレッスンをしているという話が、同じ教室にいると聞きたくもないのに聞こえてきてしまう。

 さくらは先生や男子の前ではかわいらしくふるまっているが、まわりに人がいない時はみさきにひどいことを言ったり、時には乱暴もするので、みさきはさくらのことが大嫌いだった。

「あんたの猫なんか知らない。」

みさきはさくらを無視して花壇に向き直った。嘘じゃない。この子猫がみさきの猫だという証拠なんてない。

「なにその態度。こっち向きなさいよ」

みさきの位置からは、子猫が震えながらさらに奥へあとじさりしているのが見える。怖がっているんだ。みさきはぱっと立ち上がった。並んで立つと、さくらはみさきより十センチは背が高い。立ってもやっぱり見下ろされてしまう。みさきは負けないように大きな声で言い張った。

「知らないってば。あんたの猫なんか見てない」

「うそつき。絶対見たし。この嘘つき。先生に言ってやる。」

言えばいいじゃん、そしたら私だって言ってやる。あんたが見えないところでどんないじめやいやがらせをしているか。私が知ってることを全部、言ってやる。…みさきはそう言い返そうとしたが、うまく言葉が出てこない。とっさに手に持っていたうわばきでみさきの横面をはりたおした。

「きゃぁ!」

さくらはバランスをくずしてひっくり返った。ひらひらしたワンピースのすそがめくれて、下にはいているピンクのハート模様のスパッツが見えた。

「何するの!せ、先生、みさきが暴力ふるいました、せんせい~」

さくらは泣きべそをかきながら、先生たちにかけ寄ったが、先生たちは全員、子どもたちに取り囲まれて近づけない。

「先生!あれ絶対UFOだったよ」

「先生、あたし、写メとった、見て見て」

学校は携帯電話禁止のはずなのに、先生たちは目の前に差し出された携帯の写真をくいいるように見ている。

「うわ、ほんとだ。丸い物体だね」

「砲丸投げの砲丸みたいだ」

「砲丸より大きかったよ」

「それに、あっちのほうから飛んできて、そこで止まったんだよ、空中に!」

「ぜったいUFOだよ」

「宇宙船だよ」

さくらは泣きながら、一番近くにいた教頭先生の上着をひっぱるのだが、教頭先生も写メに夢中だ。

「それで、どうなったの、この物体」

「消えちゃった!」

子どもたち一同が声を揃えて叫んだ。

「ぱっと」

「しゅっと」

「音もなく」

「突然、消えたの」

教頭先生は、他の先生たちと顔を見合わせて、困った表情になった。

「どうします、教頭先生」

「どうするって言ってもね、消えちゃったんじゃあね」

「とりあえず、校内を見回って、危険がないかどうか確認してきます」

「そうだね、そうしましょう」

先生たちは相談して分担を決めると、あちこちに去っていった。

ここでようやく、教頭先生は上着のすそをひっぱって泣いているさくらに気がついた。

「おや、さくらさん、どうしたんだね?」


 それを見て、みさきは急いでその場を離れた。先生はさくらの言い分を信じるに決まってる。先生なんかに私の気持ちが分かるわけがないのだ。しかし向きを変えたその瞬間、マリーゴールドの茂みの下から子猫が顔を出しているのに気がついた。

(さくらの猫だ)

みさきはとっさに、子猫をつかんで手提げカバンに押し込んだ。

 その猫が宇宙猫だから、連れて帰ったわけじゃない。

 子猫をさくらに渡したくなかっただけだ。


 だから、その十数分後、自分の部屋の勉強机の上に両足をそろえて座った子猫が「にゃあ」と鳴くかわりに「やあ」と日本語でしゃべり始めた時は驚いて腰が抜けてしまった。


「やあ、こんにちは。ぼく、宇宙から来た宇宙人の    です」

「えええっ?」

「宇宙人の   です」

「しゃべった?」

「いけませんか?」

子猫は気分を害したようだ。

「だって…」

「もう一度言います。ぼく宇宙人の…あ、もしかして、ぼくの名前が聞こえませんか?」

「…今、名前を言ったの?」

「ああ、そうか」

子猫は天を仰いだ。

「しまった!ぼくの名前の発音は、人間の耳には聞こえない超音波なんだね。」

「…」

みさきは言葉が出なかった。どうしよう、変なものを拾ってしまった。花壇に放っておけばよかった。

「とりあえず」

子猫は立ち上がってのびをした。

「ぼく、お腹がすいた。冷蔵庫に何かない?」

ずうずうしい、とは思ったのだが、冷蔵庫ときいたとたんにみさきもお腹がすいてきた。みさきはおそるおそる子猫をつかんで、猫が身体に触らないように腕をいっぱいに伸ばして階段を下りた。


 猫はキッチンテーブルに降ろされると、ちょこんと座ってあたりを見回した。冷蔵庫を開けると、割引シールのついたプリンやヨーグルトがあったので、自分用にプリンをひとつ取り出した。お母さんはスーパーの食品売り場で働いているので、こういう賞味期限切れがせまったお値打ち商品をいつもたくさん買っておいてくれるのだ。みさきはついでに猫が食べそうなものを探したが、なにしろ猫なんか飼ったことがない。まして宇宙猫なんて、何を食べるか分からない。牛乳なら飲むかと思い、牛乳パックを出したとき、突然電話のベルが鳴り響いた。

 みさきは驚いて飛び上がった。あわてて受話器をとると、電話の向こうからお母さんの叫ぶような声が聞こえてきた。

(もしもし、みさき?急に残業を頼まれちゃったから、今日、ちょっと遅くなるの。お腹が空いたらラーメンでも食べて。それから宿題、早くやっちゃいなさいよ。夜遅くなるとまた寝ちゃうんだから。ゲームなんかやっちゃだめよ!)

スーパーが忙しいときはこうして時々、仕事が長引くことがあるのだ。

「うん、わかった」

と電話を切ったが心臓がまだばくばくしている。

 牛乳パックを持ってテーブルに向き直ると、猫がひとまわり大きくなっていた!

「うわっ、でっかくなってる」

驚いたみさきはあやうく牛乳パックを落としそうになった。

「いやあ、いやあ、おかげさまで。」

猫はさっきより声が低いし、話し方も偉そうだ。

「君の家はとても素敵だね。ぼくは人間たちが作り出すエネルギーを空中から取り出して、その動力で活動するんだよ。今の電話だけで、君のお母さんのイライラしたエネルギーがたっぷり伝わったよ。それにこの家の中によどんでいるなんだか分からないが重い空気のおかげで、エネルギーがチャージできていい気分だ。」

猫は前足を上げて、みさきが持っている小皿をテーブルに置くように指図した。みさきが小皿に牛乳を注いでやると、猫は肉球のついた両手で器用に小皿を持ち上げて、ずずずっと音をたてて、人間みたいに牛乳を飲み干した。みさきは目を丸くしてそのようすに見入った。皿を持ち上げて牛乳を飲む猫なんか見たことがない。

「ああ、うまい。それも食べていいか?」

みさきがプリンのフタをとって差し出すと、これも同じように両手で持ってずずずーっとすすってごっくん、と飲み込んだ。

「うまい、うまい。」

猫は口の周りを長いピンクの舌でなめ回した。

「あんた…何者?」

「宇宙人」

「うそ」

「いやホントだって。さっき宇宙船を見たでしょ?」

「見たけど…ほんとうに宇宙人?」

「そうだよ。ぼくたち、すごく大きな宇宙船に乗ってきたんだけど、地上に降りるときはだいたいさっきの一人用の小型艇を使うんだ。で、ぼくの名前は   。どう?聞こえた?」

みさきは首を振った。

「ダメか。まあいいや、それじゃあ何か呼びやすい名前で呼んでくれればいいから。君が決めてよ」

「あたしが?じゃあ…」みさきはプリンの空容器を見た「プリンでいい?宇宙人プリン。人じゃなくて猫だから、宇宙猫プリン」

「いいね、気に入ったよ。ぼく、今日から宇宙猫プリンだ」

「ところでプリン。あんた、どうして地球に来たの?」

「いい質問だね。教えてあげるよ。でもその前に、もっと何か食べるものない?」


 プリンは結局、賞味期限切れのハムと、箱の中でカリカリになってしまった古いチーズをぺろりと平らげた。

「ぼくのボディは疑似たんぱく質でできていて、防菌措置は完璧。君たちみたいにばいきんで腹痛を起こすことはないのさ」

プリンはそんなことを言いながら、爪を器用に使って食べ物を口に運んだ。

「はあ、おいしかった。ごちそうさん」

食べ終わるとプリンはぴょんとテーブルから飛び降り、しっぽをぴんと立てて居間へ歩いて行った。途中、壁やゴミ箱、テレビなどの匂いをかぎ、身体をこすりつけながら、ソファーを順番に通り過ぎ、最後に、おとうさんが座っていたソファーにぴょんと飛び乗ってぐるぐる回ったあと、

「ここが一番、いい感じ」

と言ってぽりぽり爪をとぎはじめた。みさきはあわてて

「だめだめ、それ、お父さんのソファーなんだから」

「へえ。君のお父さんは何か悩みでもかかえているのかな?ぼくのエネルギーセンサーによると、この椅子のあたりが一番、マイナスエネルギーがよどんでいるよ。」

みさきはお父さんのソファーの隣に立って、背もたれに触れた。

「わかんない。お父さん、最近ずっと帰ってこないんだ。」

「おやおや」

みさきはお父さんが大好きだ。お父さんもみさきのことを大好きって言ってくれた。だけど、お父さんはずっと前からときどき、さびしそうな顔をしていた。お母さんとケンカするようになったのは最近だけど、それより前から、お父さんはあんまりしあわせじゃないんじゃないかと、思うことがあった。

「お父さん、出ていっちゃったのかい?でもこのマイナスエネルギーは新鮮で、最高品質だよ」

「それきっと、お父さんじゃなくてお母さんのエネルギーだと思うよ。毎晩、そのソファーをじいっと見てるもん。怖い顔で。」

「なるほどね。だからマイナスエネルギーがこんなにたまっているんだ。でもマイナスエネルギーは狭いところに充満すると健康に良くないからね。ときどき、ぼくが来て吸い取ってあげたいくらいだ…」

「え、マイナスエネルギーって毒なの?」

みさきは、家に充満したマイナスのエネルギーでお母さんが病気になったら大変だと思って心配になった。

「マイナスエネルギーはそのままでは人間にとって害だけど、正しく使えば役に立つんだ。宇宙から見ればマイナスでもプラスでもエネルギーには変わりないからね。」と言われてもみさきにはよく意味が分からない。プリンは続けて「マイナスをプラスに変えるのにいい方法があるんだ。ぼくを連れて帰ってご飯をくれたお礼に、やりかたを教えてあげるよ。」

宇宙の技術を使うんだろうか。そんな難しいこと、あたしにできっこない。

「でも…」

「だいじょうぶ。簡単だから。じゃあ最初に…」


 その時だ。

 玄関のドアががちゃがちゃっと音を立てた。

「みさきー?ちょっと降りてきて!」

お母さんが帰ってきた。二階に向かって叫ぶ声は相当いらだっている。みさきは居間からキッチンに向かいながら

「お母さん、ここだよ」

と答えた。宇宙猫プリンは素早くソファーの下にもぐり込んだ。みさきはプリンに向かって「しいっ」と指を口の前に立てて静かにしているように合図した。プリンが心得たとばかりに身体を縮めたとき、重そうな買い物袋をもったお母さんがキッチンに入ってきた。

「ああ、ここにいたの…」

「…お母さん、遅くなるんじゃなかった?」

「その予定だったんだけど、急に学校から連絡があったのよ。今日、六時から何かの説明会があるんだって。結局、引き受けた残業は他の人に変わってもらわなくちゃならなくてもう大変。困っちゃうのよね。突然そういうことされると。」

「説明会?」

「学校に何か変なものが飛んできてどうのこうのって。あなた、何か知ってる?」

お母さんはあわただしく部屋から部屋を移動して、服を着替えたりお化粧を直したりしながら、大声で問いかけてくる。

「ああ、さっきのUFOのことかな」

とみさきが答えると、お母さんは戻ってきてみさきの前で立ち止まった。

「なにそれ」

「なんだか分からないんだけど、金属の丸いものがひゅっと校庭に飛んできて、ぱっと消えたの」

「あなた、それを見たの?」

「うん、見たよ」

「みさき」お母さんは、みさきの肩を両手でつかんでみさきの目をじっと見つめた。

「あのね、みさき。そんなもの見たって誰にも言っちゃだめよ。変な人だと思われるだけだから。それでなくても大変なのに、あなたまで余計な心配を持ち込まないでよね」

お母さんは大きなため息をついて、

「ああもう、おかげで仕事も途中だし、晩ご飯を作ってる時間もないわ。スーパーのお総菜を買ってきたから、お腹がすいたら先に食べてね。それから、宿題ちゃんとやりなさいよ、わかった?」

「うん。」

「じゃ、お母さんが出たらドアの鍵、かっておいて」

そう言うと、玄関の鏡でちょっと口紅をたしかめてから、みさきの顔も見ずに出て行った。変な人って…私、ほんとにあれを見たのに。それに、誰にも言っちゃだめっていうけど、みんなだって見たのに。何がいけないんだろう。みさきはため息をついて閉まったドアを内側から「かちっ」とロックした。


 ふり向くと、ソファーから出てきたプリンが金色に光っていた。

「うわ!」

まるでそこだけ、スポットライトが当たったみたいでまぶしくて、みさきは眼を細めた。

「お母さんの声を聞くだけで、こんなにエネルギーがチャージできちゃった。ぼくずっとこの家にいれば、どんどん大きくなれるんだけど…」

プリンはちょっと寂しそうな顔をして

「実は、ぼくたち地球の調査に来てるんで、他にもいろいろ調べないといけないことがあるんだよ。君のお母さんのおかげでエネルギーはじゅうぶんたまったから、ぼくちょっと出かけてくるね。君には宿題を用意しておいたから、まず自分で工夫してやってみて。うまくいったらまた会えるよ。じゃあね!」

プリンはふわっと浮き上がると、金色に光る丸い玉に変身した。そして部屋の壁をすっと抜けてどこかへ消えてしまった。

「ち、ちょっと待って、プリン!」

みさきが立ち上がったその時だ。

「ピンポーン」

玄関のチャイムが鳴った。

「すみませーん、お届け物です。」

ドアの外で声がする。

「猫印食品のアンケートにご回答ありがとうございます。参加賞お届けします。こちらにサインをお願いします」

みさきは玄関のドアを開けた。運送会社の制服のおにいさんが視界をふさいで外が見えない。おにいさんはにっこり笑って小さな箱を差し出した。猫印食品?アンケート?なんのこと?その時、車のライトが当たったのだろうか、一瞬だけ、おにいさんの身体のまわりに金色の光が広がった。みさきは伝票にサインをして小さな発泡スチロールの箱を受け取った。

 部屋に戻って開けてみると、中には大きなバターの箱が入っていた。同封されている紙には


このたびは、猫印食品の『にこにこバター』発売記念アンケートにご回答ありがとうございます。参加賞として新製品にこにこバターをプレゼントします。さらに今だけ、特別のうれしいお知らせです!このバターを使って、三日以内に三名の方を笑顔にしてください。みごと成功した方には豪華プレゼントをご用意しております。


手紙の最後に、にこっと笑った猫のマークが印刷されている。

「猫印食品だって?聞いたことないわ」

これがプリンが言った「宿題」かも。みさきはバターを取り出した。


 バターを使って人を笑顔にさせるには?もちろんケーキを焼くに決まってる。小さい頃は、お母さんがいつも、いろんなお菓子を焼いてくれたっけ。さくっとしたクッキーや、いい匂いのするアップルパイ。それに甘くておいしいバターケーキ。

 みさきは、キッチンのテーブルに打ち粉をまいて、長い棒を転がしてクッキーの生地を伸ばしているお母さんの姿を思い出した。ハートや星の抜き型を使って、みさきもたくさんクッキーの型を抜いたものだ。りんごのパイもすてきに美味しかった。パイ生地を作るのはたいへんそうで、お母さんは何度も生地を冷蔵庫で冷やしては伸ばしてたたんでをくりかえしていた。みさきは、パイの中身のりんごを煮るときの甘酸っぱい匂いを思い出した。あの頃のお母さんは、今みたいに怒りっぽくなくて幸せそうににこにこしていたっけ。

 アップルパイは無理だけど、もし私がひとりで上手にケーキを焼いたらお母さんはよろこぶかしら。甘いケーキを食べたら、また、にっこり笑ってくれるかもしれない。みさきはお母さんにケーキを焼いてあげることにした。


 みさきは、お母さんが使っていたお菓子作りの道具を探し始めた。食器棚の中や、流し台の上の棚を開けてみた。最後に、食器棚の上の一番奥の箱の中に、いろんな形のケーキの型やクッキーの抜き型を見つけた。

「あった。あった」  


 みさきは、お母さんがいつもレシピを見ているタブレットを取り出して、「バター ケーキ かんたん」と入力して、出てきたレシピの中で、一番かんたんに作れるバターケーキを探し始めた。


【簡単につくれるバターケーキ】

用意するもの

小麦粉・ベーキングパウダー・砂糖・卵・バター・長方形のケーキ型


これならだいじょうぶ。材料はそろってる。

みさきは、箱からはかりを取り出した。まずはかるのは小麦粉百グラム。

ベーキングパウダーは小さじに一杯。それを合わせて粉ふるいに入れる。しゃかしゃかふるうと、ボールに粉雪のような白い山ができた。

つぎにバターと砂糖を混ぜようとしたが、バターはかたくて混ざらない。

思いついて、お鍋にお湯を入れて、バターがはいったボールを上にのせて、温めた。するとバターがじわっと溶けて黄色くなった。

(わあ、おもしろい)

みさきはやわらかくなったバターとお砂糖を一生懸命まぜ合わせた。

作り方に書いてあるとおりに材料を混ぜて、クッキングペーパーをしいた長方形の型に流し込んで、オーブンに入れて二十分。

キッチンに甘い匂いがただよってきた。

みさきは型をオーブンから出し、クッキングペーパーをそっとひっぱって、おいしそうな匂いのするケーキを取り出した。


「ただいま」

お母さんが帰ってきた!みさきは玄関に飛び出した

「お母さん、お帰り!ねえ、あたしケーキを焼いたんだよ」

「え?」

お母さんはテーブルの上のこんがり焼けたケーキを見た。ぷっくりふくらんだ山の真ん中が割れて、黄色い生地が見えている。甘くて香ばしい幸せの香りが家中に広がっている。

「これ…みさきが作ったの」

お母さんはびっくりした顔だ。

「うん。あたしがひとりで作ったんだよ。」

お母さんの頬がぴくりと動いた。

「でもみさき。材料はどうしたの。」

「あのね、懸賞に当たったの。「にこにこバター」が届いたんだよ。卵や小麦粉は家にあったのを使った」

「懸賞?」

お母さんはみさきを見た。

「あなた、そんな懸賞に応募したって言ってなかったわよね」

「…え?」

確かに応募はしてないので、そう聞かれるととっさにうそが言えなかった。

「ほんとはどうしたの、そのバター」

「宅配便で届いたの。ほんとだよ。ほら、箱だってある」

みさきは発泡スチロールの箱と手紙を見せた。

「ねえ、お母さん、食べてみて。ねえ、おいしくできたんだよ」

お母さんは、箱と手紙をしばらく見ていたが

「ご飯は。食べたの?」

と言った。みさきは

「ううん、まだ。ケーキを作ってたから」

「じゃあ、まだ宿題もしていないのね。」

「…うん、まだ」

「ねえ、お母さん、出かけるときに言ったよね。ご飯を先に食べて、ちゃんと宿題をやっときなさいって。どうして言われたことをやらずに、こんな関係ないことをやってるの。」

「…だって」

「もういいわ。すぐにご飯を食べて、先にお風呂にはいっちゃいなさい。お母さんは疲れてるんだから、余計なことをしないでちょうだい。」

みさきはどうして怒られているのか分からない。

「…だけど、お母さん、ケーキ食べてよ、ねえ」

「いらないわよ!ケーキなんか!」

お母さんはどなった。

「学校で先生に言われたわ。あなた、宿題は出さないし、授業中はぼうっとしてるし、お友だちにはいじわるをして迷惑をかけてるんですって?いったいどういうことよ。お母さん、忙しいから宿題を見てあげれないけど、ちゃんと毎日、宿題をやりなさいって、言ってるよね?それにお友だちにいじわるするって何なの?他の人がいやがることをしちゃダメって、あれほど言ってるのに。」

「あ、あたし、いじわるなんか、してない…」

いじわるをされている側だ、と言いたかったが、のどのところに何かが詰まったみたいになって、言葉が出なかった。

「そうやって、学校で悪いことをして、お母さんを困らせたいんだよね。あなたも結局、お父さんと同じで、私の気持ちなんか全然分かってないんだわ!」

「そんなことない!お母さんのき、き、きもち、わかるもん…」

みさきは泣きながら、ようやく言い返した。

「私の気持ちがわかるなら、どうして言われた通りにしないのよ!ご飯は食べてない、宿題はしてない、台所はこんなに汚して、いったい私の何が気に入らなくてこんなことするわけ!ねえ、どうしてなの!」

今や、お母さんもすすり泣いていた。おいしいケーキを作ったらきっとお母さんは喜んでくれると思っていたみさきは、どうしてお母さんが怒り始めたのか、ぜんぜんわからなかった。せっかくお母さんのために焼いたのに、と思うと怒りがむくむくとわいてきた。

「ひどい!みさきがせっかく作ったのに!初めてひとりで作ったのに!もうお母さんなんか嫌い、大嫌い!」

みさきは、テーブルの上のケーキをつかんでゴミ箱にたたきこむと、わーわー泣きながら二階の自分の部屋にかけこんだ。

ベッドにつっぷして、泣いた。

涙がどんどんわいてきて、泣けば泣くほど悲しくなった。

小さい頃は、こんなふうに泣いていると、お父さんがおんぶしてくれたっけ。

お父さんの背中で泣いていると温かくなって、知らないうちに眠ってしまったものだった。

「お父さん、どうして出ていっちゃったの。どうしてみさきを置いてっちゃったの。お父さん、お父さん…」

お父さんのことを思うと、新しい涙があふれて止まらないのだった。


 泣きながら眠ってしまったらしい。

 廊下から光がもれていた。

 みさきは起き上がった。涙でぬれた顔をこすって、廊下に出た。階段の上からのぞくと、居間に光が見えた。

 お母さんが起きているとイヤだな、とそっと階段を下りると、光っているのはゴミ箱だ。

 さっきみさきが放り込んだケーキが、紙にくるまれたままぼぉっと光を放っている。

 みさきは音をさせないように、紙包みごとケーキを取り出した。ケーキは、天井からスポットライトを浴びたように、暗闇に浮かんで見えた。

 みさきは指先で少しだけケーキをつまんで、口に入れた。

 舌の上で甘いケーキから香ばしい香りが広がって、みさきの胸にたまっていた何かが溶けて消えていった。


 次の日は土曜日で学校はお休みだ。

「午前中に運動場の放射線検査をするから学校には来ないように、だって」

お母さんは昨日のことなど忘れたように、大急ぎでしたくをしている。みさきの学校は休みだが、お母さんは仕事なのだ。みさきも昨日のことなど気にしていないそぶりで、お母さんが出かけるのを待ちかねていた。

(今日こそ、あのバターを使ったケーキで誰かを笑顔にするんだ)

みさきは心を決めていた。普通のバターで作ったケーキでもおいしいのに、宇宙猫から贈られたバターなのだから、何かが起きるに違いないのだ。お母さんよりもっと幸せな人をみつけてケーキをあげよう。そしたら「ありがとう」ってにっこり笑ってくれるはず。


 二度目なので作り方は分かっている。昨日と同じように材料を整えて、順番に混ぜてオーブンに入れた。焼き上がるのを待つ間に使ったボールや泡立器を洗う。今度はお母さんに怒られないように、証拠は隠すんだ。

 焼けたケーキを少し冷まして、包丁で、ひとくちで食べられるような小さなサイズに切り分けた。そして完全に冷えたところで、一個ずつビニールの袋に入れてリボンを巻いた。袋やリボンは今年のバレンタインデーでお父さんに渡すチョコレートを作ったときに買ってきた残りだ。

 そして、たくさんできたケーキをリュックに入れると、自転車に飛び乗って町へ走り出した。


 良いお天気だった。

 秋の空は高くすきとおって、顔にあたる風が冷たくて気持いい。

 家からすこし線路のほうに下り、商店街の手前を左に曲がってまっすぐに走る。ここは車が少なくて走りやすい道だ。南に向かってなだらかに下る道をスピードをあげて走り抜ける。太陽がハンドルに反射してキラキラまぶしい。

 みさきはふたつ向こうの桜木駅まで走り続けた。

 今日は土曜日だから、お父さんの仕事は休みかもしれない。

 桜木駅の向こう側のマンションに、お父さんはいる。

 その場所をみさきは知っていた。

 でも、みさきがそれを知っているということを、お父さんは多分知らない。お父さんに電話したら「来るな」と言われる気がして、マンションの下でしばらく待っていると、あの女の人ができてた。お父さんはいっしょじゃない。みさきは女の人に走り寄った。

「あの…すみません…お父さんいますか?私、みさきと言います。お父さんの子どもです。お父さんに、あの…」

女の人がみさきを見た。両方の目を大きく見開いて、表情がそのまま凍り付いた。

「あなた…祐介さんの娘さん?」

女の人は驚いた顔から心配そうな顔になり、次に悲しそうな顔になって、そのあとみさきにはよく分からない、いろんな表情を浮かべた。

「そうです。みさきって言います。あの、これ、お父さんにあげようと思って。」

みさきはリュックから、ケーキの袋をつかみだした。

「あたしが作ったんです。それで、あの、特別なバターを使っていて、とてもおいしいんです。だからぜひ食べてもらいたくて」

驚いている女の人の手に、ケーキの袋を押しつけた。

「お父さんに渡してください。お願いします。それから、お父さんに、このケーキを食べて笑顔になってって、伝えてください」

女の人は今にも泣き出しそうな顔になった。みさきはあわてた。

「さよなら!」

と自転車に飛び乗った。


 つい弱気になってお父さんに会いたいと言い出せなかった自分が腹立たしくて、力一杯自転車をこいだので、帰り道は早かった。気がつくと朝日野駅まで来ていた。

 このまま家に帰ってもしかたがない。友だちの家に行こうかとも思ったが、その前に、学校を見に行くことにした。放射能の検査って、どんなふうにやるんだろう。


 先生に見つかると怒られそうだから、校庭からのぞこうと、学校の南側の道路に自転車を止めて、植木の下にもぐり込んだ。

 すると、そこには先客がいた。

 同じクラスのさとるだ。

「さとる!」

「…おう、みさきか」

「中、見える?」

「うん。だけど先生がいるだけだよ」

フェンスに近づいて校庭を見ると、教務主任の高橋先生と、名前を知らない男の先生がふたりで、校庭をゆっくり歩いていた。

「何やってるんだろう」

「さあ。放射能のカウンターを見てるみたい」

「な~んだ」

みさきはがっかりした。もっと何か、消防とか警察とか、いっぱい人が来ていると思ったのだ。

「きっと何も異常がないんだよ。ほら先生たち、笑いながらしゃべってるもん」

さとるが言った。みさきはふと思いついた。

「さとる、ケーキ食べる?」

「ケーキ?食べる食べる」

背負ったリュックからケーキをひとつ取り出してさとるに渡す。さとるはケーキをぽんと口に放り込んた。

「うめえ!」

さとるは笑顔になった。やった!笑顔の第一号!


 最初の成功に気をよくしたみさきは自転車に乗って小学校の玄関に向かった。先生たちにケーキを渡そうと思いついたのだ。学校に来るなと言われているけど危険なことはなさそうだし、校庭に入らなければ大丈夫だろう。

 校舎の北側にまわると、玄関の脇の来客用の駐車場に、大きな白い車が止まっていた。横を通り過ぎるとき、助手席に遠藤さくらが座っているのに気がついた。みさきが近づくとさくらは顔を上げた。みさきはコツコツと窓をたたいて窓を下げるように合図した。

「何よ、こんなとこで何してるのよ」

さくらはなんだか目が赤い。まるで今まで泣いていたかのようだ。

「別に。ケーキ作ったからあげる。」

「ケーキ?」

さくらは押しつけられたケーキをじっと見た。

「おいしいんだから、食べて」

さくらは窓越しに渡されたケーキを地面にたたきつけた。

「いらないわよ、あんたが作ったものなんか、あたしが食べると思う?」

さくらはウィンドウを上げて横を向いてしまった。

ひどい!みさきはさくらの横顔と地面に落ちて潰れたケーキを見比べた。どうしてこの子はあたしのことがそんなに嫌いなんだろう。

「まあ、いいや。」

普段だったら腹が立つところだが、今日はあまり気にならない。みさきは自転車をとめて校舎に入った。


 職員室のドアをそっと開けたが、誰もいない。今日来ているのは校庭にいる二人だけなのだろうか、と、そのとき廊下で話し声が聞こえた。廊下に戻ると、校長室から誰かが出てきた。薄いピンクのスーツを着た女の人。きっと誰かのお母さんだ。PTAの役員の人かも。それから教頭先生と、そのうしろからみさきたちの担任の宮崎先生も出てきて女の人を玄関まで見送った。話は聞こえないけど、先生たちがしきりと頭を下げている様子をみると、何か文句を言われたにちがいない。重い足どりで職員室に戻ってきた宮崎先生に、みさきはケーキを差し出した。

「宮崎先生!これ、あたしが作ったの。食べて」

「あら、みさきさん。ありがとう。」

宮崎先生はケーキを受け取ってちいさく笑顔を作った。その寂しい笑顔を見たとき、みさきはピンときた。さっき帰って行った女の人は、遠藤さくらのお母さんにちがいない。きっと昨日のことで学校に何か文句を言いに来たんだ。みさきは宮崎先生の顔を見た。宮崎先生は、学校の先生の中でただひとり、みさきに優しくしてくれる大好きな先生だ。だけど今年はクラスに遠藤さくらがいるせいでいろいろ文句を言われて大変そうだと、お母さんが噂をしていた。

 (あの遠藤さくらって子のお母さん、すぐに学校にクレームの電話をするんですって。この間は、うちの子に廊下のぞうきんがけをさせるのはやめてくださいって。将来女優になるのに手が荒れたら大変だから、って文句を言ったらしいわよ。今度の先生は気が弱そうだから、言いたい放題、言われちゃうのよ)

お母さんの話を聞きながら、みさきは宮崎先生の困った顔を思い浮かべて、悲しい気持になったものだ。

「先生、そのケーキ、食べてみて」

みさきは言った。先生がちょっとでも元気になってくれたらと思ったのだ。

先生は「ありがとう」と言ってみさきのカップケーキを二つに割って口に入れた。すると急に、先生の目から大粒の涙がぽろぽろっとこぼれ落ちた。

「先生…」

「あ、ごめんなさいね、みさきちゃんのせいじゃないのよ」

「…うん」

分かってる、とみさきは思った。悪いのはあの女、遠藤さくらのお母さんだ。あたしが大好きな先生を泣かせるなんて、許せない。

みさきはリュックからケーキをひとつかみ取り出して、宮崎先生に押しつけた。「これ、教頭先生やほかの先生たちにあげてください」と言って、急いで外に出た。

 案の定、さっきの女の人がさくらの乗った車の運転席にいた。しかし出発する様子がない。近づくと、さくらが叱られている様子だ。

「… … …」

さくらが何か言い返して、女の人がさらに強い調子で叱りつけているようだ。

みさきは、さっきさくらが捨てたケーキを地面から拾うと車に近づいて、運転席の窓をこつこつノックした。

「おばさん、これ差し上げます。元気になるケーキです。さくらさんもいっしょにどうぞ」

女の人が窓を下げると、そう言って、拾ったケーキと新しいケーキのふたつを手渡した。

「えっ?」

さくらのお母さんは突然差し出されたケーキに戸惑い、押し返そうとした。

「い、いりませんよ、ケーキなんて」

眉間にしわを寄せて迷惑そうな顔をするさくらのお母さんに、みさきは

「いいんです、食べてください。さくらさんにはいつもお世話になっているので」と言いながらケーキを押しつけて立ち去ろうとしたが、もう一度戻ってこうつけ加えた。

「それからおばさん。人にもらった食べ物を地面に投げ捨てるなんて失礼だって、さくらさんにちゃんと教えておいたほうがいいですよ!」

そして自転車に乗ってその場をあとにした。

 ああ、すっきりした。

 生まれて初めて思いっきり人に言い返した。しかもさくらのお母さんに!

 笑いがこみあげてきた。

 あの人たち、あのケーキを食べるかしら。

 捨てたいなら捨てればいい。宇宙人のバターを使ったケーキだもん。あの人たちが食べたらきっと腹痛を起こすわ。

 みさきは風をきって自転車をこいだ。


 甘くておいしいバターケーキ。ひとくち食べたら誰だってにっこりするはずの甘いケーキ。それなのに、いきなり怒る人、泣く人、迷惑そうな顔をする人ばかりで、おいしいねって笑ったのはさとるだけ。これっておかしくない?大人になると、普通のことに普通に反応できなくなるのかな。


 途中で自転車を止めて、数えてみると残ったケーキは五個。

 これ、どうしようかな。

 と思いながら、お母さんが働いているスーパーの裏を通りかかったとき、荷物の搬入口から顔見知りのおばさんが空箱を整理しているのが見えた。

「柴田さん!」

みさきは搬入口からのぞきこんで柴田さんを呼んだ。

「あらみさきちゃん。お母さんに用事?呼んでこようか?」

「いいえ、いいんです。これ…」

とケーキの袋を差し出した。

「あたしが焼いたんです。五個しかないけど、みなさんで食べてください」

「みさきちゃんがケーキを?そりゃあすごいわね。ありがとう。休憩のときにいただくわね」

にこにこやさしい柴田さんに手をふって、みさきは家へ帰った。


 家に帰ると、玄関の外にお父さんがいた。

「お父さん!」

みさきは急いで自転車を飛び降りた。

「あたしのケーキ、食べてくれた?」

「ケーキ?」お父さんはふきげんそうだ。「そんなことより、みさき、どうして香織の家に来たんだ」

「香織?…ああ」

あの女の人の名前、香織さんて言うんだ。あたしは山本という名字しか知らなかった。お父さんがまだ家にいたころ、お父さんの携帯の履歴で知ったあの人の名前だ。

「…ケーキを焼いたから、お父さんに食べてもらいたくて」

「そうじゃなくて、どうしてあの家を知ってたんだって聞いてるんだ」

「だって…お父さんが入って行くのを見たんだもん」

「えっ…」

お父さんは言葉につまった。黒い革のジャケットに、濃いねずみ色のシャツ。黒い髪はすこしカールしている。おしゃれでかっこよくて、自慢のお父さんなんだけど…。

「去年、私、桜木駅でお父さんを見かけたの。どこへ行くのかなと思ってあとをついていったら、あのマンションに入っていったから…」

「あとをつけたのか!お前っていうやつは…」

「だって、知らない女の人といっしょだったから、声をかけにくかったんだもん!」

「香織はお前を見てショックを受けて、出ていってしまったんだぞ」

「ショック?」

「…彼女は何も知らないんだ。」

「知らないって…あたしのことを、知らなかったの?」

「…」

「お父さん、子どもがいないふりしてたの?…もしかして、結婚してることも秘密…」

「そんなことはない。由佳子のことは彼女も知ってる。ただ、子どものことまでは…」

「…そんな…」

「お母さんはどうなんだ」

「どうって」

「香織のマンションのこと、お母さんも知ってるのか」

みさきは首を横にふった。もちろん、すぐに言おうとしたけど、言ったらお母さんがどんなに傷つくかと思って言えなかったのだ。そして日がたつにつれてますます言い出せなくなった。言えば、なぜ今まで隠していたんだと責められるに決まっているから。

「そうか…」

お父さんはホッとしたようだ。別の女の人の家にいるってことは私もお母さんも知ってるのに、家の場所をお母さんに知られるのがいやなんだな。お父さんは、お母さんに怒られるのが怖いのかな。それとも、お母さんがその女の人のところに乗り込んでいくと思って、心配しているのかも。だけどそんなの変だ。そんなふうにこそこそするなんて。悪いことだと思うならやめたらいいのに。

「…とにかく、あのマンションのことはお母さんには言うなよ、いいな」

「うん」

じゃあ、と帰ろうとするお父さんに、みさきは言った。

「お父さん、あたしのケーキ食べてね。ねえ、お父さん!」

お父さんはわかった、というふうに右手をあげて、振り返りもせずにバイクにまたがって行ってしまった。


 みさきは玄関の鍵を開けて家に入った。

 しーんと静まりかえった家の中で、居間の掛け時計がこち、こち、と音をたてていた。

 みさきは窓に近づき、カーテンごしに外の道路を見た。

 行ってしまった。

 お父さんは、あたしのことに、興味がない。

 お父さんはあの香織とかいう人のことが心配であたしに会いに来ただけだ。きっとあたしのケーキなんかそのへんに放り出して、気がついてもいないのだろう。あたしが学校でUFOを見ても、宇宙猫を家に連れて来てしゃべっても、そんなこともどうだっていいに違いない。

 みさきはカーテンを握りしめた。泣きそうになったけどぐっとがまんした。泣いたら、自分がかわいそうな子になってしまう気がした。


 そのとき、外の道路でかしゃんと音がした。自転車を止める音だ。

 玄関の階段の下でさとるが家を見上げている。

 みさきはカーテンをはねのけて、窓を開けた。

「さとる!」

さとるは階段を上ってみさきが顔を出している窓の下に来た。

「よお、みさき」

「なに」

「さっきもらったケーキさ、まだある?」

「あ…全部配っちゃった」

「そっか」

さとるは肩を落とした。いつも元気で悩み事なんかひとつもないさとるにしてはちょっとようすが変だ。

「まだ材料あるから、作れるよ」

と言ってみた。

「ほんと!」さとるの顔がぱっと明るくなった。

「かあさんに…一個でいいんだ、かあさんに持って行ってやりたいんだ。今ちょっと入院してて…」

「お母さん、病気なの?」

「うん…。…」

さとるは何かを言おうとするのだが言葉が出てこない。さとるの顔がゆがんだ。まさか!泣かないでよ、さとるまで!みさきはあわてて言った。

「わ、わかった。作る。えっと…夕方でもいいかな」

「いいよ。何時くらい?また来るよ」


 みさきは台所に入って冷蔵庫を開けた。猫印乳業のにこにこバターはあと百グラムほど残っている。卵も小麦粉も大丈夫。

 みさきはエプロンを頭からかぶってひもをぐるりと腰に巻きつけ、しゅっと音を立ててしばった。ついでに頭にもバンダナを巻きつける。

 キッチンテーブルからじゃまなものをどけてスペースを作る。

 食器棚からはかりを出す。

 最初に小麦粉を百グラム。

 次にお砂糖を百グラム。

 ベーキングパウダーを小さじ一杯。

 小麦粉とベーキングパウダーはいっしょに粉ふるいにいれて、大きめのボールの上でふるっておく。

 新しいボールにバターを入れて、しゃもじで練る。冷蔵庫から出したばかりのバターは硬くて混ぜにくい。別のボールにポットのお湯を入れて、バターのボールの底を温める。そうして柔らかくなったバターに、砂糖を混ぜていく。じゃりじゃりする砂糖とバターに、溶いた卵を少しずつ足していく。水分が増えるとしゃもじでは混ぜにくいので、泡立て器に持ちかえて、ぐるぐる混ぜていく。バターは泡立て器に入り込んで塊になってしまうが、しゃもじでかき出して、また混ぜる。

 だいたい混ざったらしゃもじに持ちかえて、ふるっておいた粉を入れて、さっと混ぜあわせ、すぐに型に流し込こむ。

 オーブンに入れて、タイマーをセット!あとは待つだけだ。


 使った道具を洗っているとき、携帯に着信があった。お父さんからだったが、そのまま切れるにまかせておいた。

 洗い物を終えて、キッチンを片付ける。

 それから自分の部屋に戻り、かわいい袋とリボンを探す。今年のバレンタインで買った分はさっき使ってしまったから。


 夕方、さとるがむかえに来た。みさきは切り分けて包んだケーキをリュックにつめて自転車で出発した。ふたりは朝日野駅の駐輪場に自転車をとめて、朝日野総合病院行きのバスに乗った。


 病院は朝日野駅の東南の小高い山の上にあった。

 バスは市街地を抜けると、山道をゆっくりと登っていく。

 初めて来る病院は大きなお城のように山の上にそびえたっていた。

 受付のあるロビーは広くて人がいっぱいだ。みさきは人混みでめまいがした。さとるについてエレベーターに乗って入院病棟に入ると、今度は低い天井の迷路のような廊下が続いていた。右へ曲がって左へ曲がって、看護婦さんや入院患者の人たちとすれ違いながら、最後にひとつの病室に入った。

 さとるはまっすぐ、四人部屋の奥のベッドに歩み寄った。

 窓から青い空と紅葉した山が見渡せる。

 さとるのお母さんはベッドに起き上がって、さとるとみさきに優しくほほえんだ。みさきは思い出した。そういえばさとるとは同じ幼稚園に通っていたのだ。みさきは毎日、このお母さんが今と同じ笑顔でさとるを迎えに来ていたのを見ていた。だけどさとるのお母さんはその頃よりずいぶんやせて、紙のような顔色だ。

「おばさん、こんにちは」

「みさきちゃん。ひさしぶり。大きくなったわね」

さとるのお母さんはみさきを見て、まぶしいものを見るときのように眼を細めた。みさきはリュックからケーキを出して、さとるのお母さんに渡した。

「あら、みさきちゃんが作ったの?」

「はい。自分で作ったんです、食べてみてください」

「じゃあ、いただくわね」

お母さんは細い指でリボンをほどいて、小さなバターケーキを口に入れた。

ゆっくり噛みしめて、それから輝くような笑顔をみさきに向けて

「ああ、おいしい。このケーキ、幸せな気持になるわね。」

と言ってくれた。


 帰りは病院前のバス停までさとるがいっしょに来てくれた。日がかたむいて建物のかげになったバス停で朝日野行きのバスを待ちながら、みさきはきいた。

「ねえ、さとる。昨日、校庭でUFO見たよね?」

「うん。」

「あれ何だったと思う」

「分かんないけど、宇宙人だったらいいなって思った」さとるは目の前に広がる色のあせた空を見つめた。「だって、宇宙人なら人間よりもっと文明が進んでるから、お母さんの病気を治せるかもしれないだろ」

みさきは言葉につまった。ああ、あの宇宙猫、私が持って帰らずにさとるにあげたらよかった。そしたら宇宙猫は、バターじゃなくて宇宙のお薬をさとるにくれたかもしれない。みさきは何か、大きな間違いをしたような気持ちになった。

「ごめんね、さとる」

「なんでだよ」

と、さとるが笑った。


 帰りのバスは人がまばらだった。バスが大きなカーブを曲がると眼下に朝日野の町が広がる。建ちならぶ家は小さなおもちゃのようだ。西に傾いた太陽で金色に染まる雲を見ていたら、なぜか分からないけど涙がこぼれた。涙はほほを流れ、ひざに抱えたリュックを静かにぬらした。


 朝日野の手前の桜木駅でバスを降りるとお父さんが待っていた。

「みさき」

とお父さんが言った。

「お父さん、お母さんと離婚しても、いいか?」

かさかさっと音を立てて枯葉が足もとを転がっていく。みさきはお父さんを見た。なんだか、お父さんが小さくしぼんでふしあわせそうに見える。今ならきっと私のほうが大きい。私もお父さんの不幸のエネルギーを吸って、宇宙猫プリンみたいに身体が大きくなったのかしら。

みさきは聞いた。

「お母さんのことが嫌いになったの?」

お父さんは遠くを見つめて、そういうわけじゃない。嫌いになったわけじゃないと、つぶやいた。

 分からない、とみさきは思った。嫌いじゃないのになぜ離婚するんだろう。でも、苦しそうなお父さんの顔を見ていると、お父さんの中にもマイナスのエネルギーがたまっているように思えた。このままだとお父さんも病気になっちゃうかもしれない。それに、もしかしたらお父さんがいないほうがお母さんは笑顔になれるんじゃないかという気もした。お父さんがいないなら、もうあのソファーを一番いい場所に置いておかなくてもいい。みさきはぷるぷるっと二三度頭をふって、にこっと笑った。

「いいよ。私はだいじょうぶ」

みさきは背負ったリュックをおろして、ケーキをふたつ取り出した。これは宇宙猫にもらった特別なバターが入ったケーキなんだ。誰でもいい。さとるのお母さんの分まで、誰かが絶対に幸せにならないといけないんだ。

「そのかわり、絶対食べてね、このケーキ。約束だよ!」

お父さんはケーキを受け取ってほほえんだ。と思ったら顔がくしゃくしゃっとなって、お父さんは声を出さずに泣いているのだった。


 泣きながら笑う。笑いながら泣く。やっぱり大人ってわかんない。


 お父さんが帰ったあと、みさきはベンチに座って朝日野行きのバスを待った。町に夕暮れが迫っていた。結局、ケーキを食べて笑顔になったのは、さとるとさとるのお母さんのふたりだけか。ま、いいや。じゃあ最後のひとりはあたしだ。

 みさきは残ったケーキを袋から出すと、ぽんと口に放り込んだ。甘いバターの香りが口中に広がって、幸せな気持ちで胸がぽかぽか温かくなる。みさきは、思いきりにっこり、夕焼けの空にむかってほほえんで見せた。気がつくと、隣に三毛猫が座って顔を洗っていた。

「プリン」

と呼ぶと、猫はこちらを向いてにいっと笑った。

「みさき、がんばったね」

「うん。だけどお母さんを笑顔にはできなかったよ。」

「そうかい。」

「おいしいものを食べて笑顔になれるのは、笑顔の気持ちでいる人だけなんだね。」でもさとるのお母さんは病気なのに、どうしてあんなに幸せそうな笑顔になれたのだろう。

「ねえプリン。もし私じゃなくて別の人に拾われたら、その人の願いを叶えてくれた?」

「どうだろうね。それはその時でないと分からないよ。ぼくが毎回、同じことをするとは決まっていないからね。でもね、この世界で起きてくることは必要なことだけなんだよ。イヤなことやつらいことでも、宇宙から見れば正しくて必要だっていうこともあるんだよ」

宇宙猫プリンの目がきらりと光った。

「大事なのは笑顔。または、みさきが言ったみたいに笑顔の気持ちでいることさ」

「あたしのお母さんも笑顔になれるかな」

「もちろんなれるさ」

プリンは立ち上がると伸びをして、ベンチからぴょんと飛び降りた。

「じゃあ、またどこかで」

みさきの視線の先、空高く、地平線に消えた夕陽を受けて金色の光が飛び去った。さよならUFO。ありがとう、プリン。


 朝日野駅でバスを降りると、みさきの目の前を遠藤さくらが影のように横切っていった。

 さくらは駅の改札に向かってぼんやり歩いて、みさきの目の前を通ったのに全然気がつきもしない。相変わらず可愛い服を着ているが、うつむいた横顔にはさっきのお父さんと同じ表情が浮かんでいる。苦しそうな、重そうな、ゆううつな気持。みさきはさっき学校の駐車場で見た光景を思い出した。さくらはイヤなやつだけど、他の子よりたいへんな生活を送っているのも確かなことだ。

 そういえばプリンのことを、さくらは(私の猫)と言っていたっけ。もしさくらが猫をつかまえて連れ帰ったとしたら、どんなお願いをしただろうか。あの強烈なお母さんをどうにかしてほしいと願うだろうか、それとも将来有名な女優になれるように願うだろうか。だけどさくらのことだから、猫をいじめて、お願いをきいてもらうどころか反対にやっつけられるのがオチかもしれない。それに結局、何をどうするのが一番いいかなんて誰にも分からない。でも、とみさきは思った。それでも、さくらもさくらのお母さんも「笑顔の気持ち」になれるといいな。

 それからみさきは、学校で会った宮崎先生のことを思った。先生はあれから、笑顔の気持ちになれたかな。月曜日、学校に行ったら、先生におはようって言おう。


 家に帰りつく頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。また怒られるかなと、そおっと家に入ると、お母さんがエプロンをしてキッチンに立っている。

「ただいま…」

「ああ、おかえり、みさき」

テーブルに新品の猫印乳業のにこにこバターが置いてある。宇宙猫のバターだ!お母さんもプリンに会ったのかしら!

「お母さん、どうしたのこのバター」

「これ、あなたがケーキを作ってたバターでしょ?今度お店で売ることになって従業員みんなに試供品が配られたのよ。今日、みさきがお店に持ってきてくれたケーキがすごくおいしかったから、お母さんも、このバターでクッキーでも作ってみようかなと思って」

とお母さんはにっこりして、楽しそうに小麦粉をはかっている。みさきの顔に、ゆっくりと笑顔が広がった。

「おかあさん、あたしも手伝う!何をしたらいい?」


                           おわり


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