体が軽い
きっと誰かの陰謀だろう。こんなこと、偶然で起こるわけがない。子供の頃のあこがれの子が偶然転校してきた上に、家も隣になるなんて、ちょっとマンガの読みすぎだ。そうだ、これはきっと全部夢!、きっとそうに違いない。目が覚めたらいつもと変わらぬ日常がきっと私を待――「おーい、ヒカリって子が学校行こうって言っとるぞ、早く起きろー」ああ、夢ははかなく散るものだ。父よ、せめてあと少し、夢を覚まさないでくれ。そんな私の思いは届かず、私の目は冴えてしまった。私自身の目覚めの良さが、今日はちょっと恨めしい。「会いたくないなぁ」なんて言ったところで彼女はもう玄関前、逃げることなどできはしない、この近くに友達なんていたんだなあ、ととぼけた父を尻目に一枚だけパンをかじって玄関へと歩みだす。今日もまた一日が始まる、もう本当どうしよう。
お向かいさんの前原ヒカリ、私は彼女に負い目がある。私が小学生の時、声をかけてきた彼女に、私はいやな態度をとってしまった。次の日彼女は転校し、彼女が私をどう思ったかも分からずじまい、私はひとりで嫌な自分を抱えたまんま、今日まで日々を生きてきた。
そんな私のお向かいさんは、今日も言葉が爆発していた。「この道って朝なのに全然人がいないわよね!、私、朝は会社に行く人であふれるものだと思っていたから、なんだかとっても新鮮で、秘密の抜け道みたいだなって思ったの!そういうのってちょっとワクワクするじゃない?子供みたいだって思われるかもしれないけどね、結局毎日通る道なら楽しんだ方が勝ちだと思うの。あら?これだと何に勝ったかよくわからないわね。とにかく――」
前原ヒカリは今日もニコニコ絶好調だ。そもそも、ただの道のことなんてよくもこんなに話せるものだ、なんだか少し呆れてしまって、今日も絶好調だね、と思ったことをそのまま口に出してしまった。口の前で手を広げお手本のようにハッとして見せた彼女は「ごめんなさい、私ばっかり話しちゃって」とシュンとなって謝ってきた。
彼女は、周りのことをよく見ている。誰に対しても親切で、相手のことを慮って話をするから、すぐに人気者になれたのだ。今だってそう、私の不快感を読み取って、先回りして謝ってきた。彼女には私に見えない細部まで世界が良く見えている。だからこそ、気付かれるのが恐ろしい。今はまだ忘れていても、毎日顔を合わせていたら、いつか思い出すかもしれない。それが怖くてたまらない。
だけど、
今度はあなたのことを教えてちょうだい?と微笑むヒカリちゃんに、今はなんだか甘えたくなる。登下校ぐらいまあいいか、と心の不安を振り切って、少しだけ前に出る。「抜け道、教えるよ」と前を指差し振り返れば、ヒカリちゃんは今日一の笑顔でうん、とうなずいた。煩わしいことはいっぱいあるけど、タイクツだった昨日までの道のりよりは、少しだけ足が軽かった。
学校にたどり着き、下駄箱のあたりでヒカリちゃんは、先生に呼ばれて職員室に行ってしまった。これでもう妙な緊張感と戦わずに済む、軽やかな足どりで教室へ、心が軽い、体が軽い、うん?なんか、ポッケの中も軽いような。
「サイフ忘れた?馬鹿だなあ」そう言って机に手をかけて爆笑しているのは、私の友達、只野友恵(ただの、ともえ)だ。中学の頃から付き合いがあり、気心の知れた間柄だ。私と違ってスポーツマンで、今はテニス部に所属している。なんて回想してる間も友恵は笑い続けていた。さすがに笑いすぎではないか?私が、好きで忘れたわけじゃない、と言い返してみても、必死な私を見てさらなる笑いに誘われるばかりのようだ。
「大体さ、毎日購買でお昼買ってるんだからそうそう忘れないでしょ?」そんな正論を言われたところで私サイフは家の中だ。友恵はひとしきり笑い終えると、「しかしねえ、あんたがもう転校生と仲良くなるとは思わなかったよ」と歓迎しがたい話題を振ってきた。小学校が別だった友恵は、私とヒカリちゃんの関係を知らない。友達とはいえヒカリちゃんを以前から知っていることが分かれば、人づてに本人にも伝わるかもしれない。「別に仲良くなってない」と繋がりを悟られぬようなるべく簡潔に答えてみせる。しかし「いやいや、朝一緒に登校してきたじゃん」と返された。登校中の様子を見られていたようだ、友達はあまり誤魔化せない。
授業前、私がすぐに仲良くなるの、そんなにヘン?、と聞いてみた。友恵曰く「輝世ってそんなに自分から人と関わるタイプじゃないじゃん?いつも頭ん中でぐるぐる考えて、結局何も言わない感じでしょ」とのことだ。私、そんなにしゃべらないかなあ?なんて考えていると案外1時間目はあっさり終わった。授業中はヒカリちゃんもこちらに関わっては来なかった。これなら、お昼もあっさり乗り切れるかもしれない。などと2時間目までは考えていた。3時間目、朝食もそこそこに来た今日に限って、間の悪いことに体育だった。私のお腹の卑しい悲鳴は、準備運動中から体育館に響き渡り、不本意な注目を集めることとなったのだった。
「後生ですから、私にお昼を恵んでください」お昼休み、私は友恵に向かってお地蔵さまにお祈りでもするように、両手を合わせていた。「よく言えました」としたり顔の友恵は、あたしがお弁当持ちでよかったね、と言いつつ弁当箱からおかずを小分けにしてくれる。何だかんだと私は友恵に助けられている。持つべきものは友と言うのは本当だ。しかし、つかの間の平穏は終わりを告げた。「あの、ワタシもご一緒していいですか?」とあろうことかヒカリちゃんがお昼片手に我々のもとにやってきたのだ。事情を知らない友恵は「前原さんだっけ?、いいよ、一緒に食べよう」と快諾してしまう。「ねえ、いいよね輝、」と私の名前が出るすんでのところで友恵の口を手で押さえ、名前を呼ばれるのを阻止した。(今だけ、名前、ひよこってことにしてくれない?) (なんで?、あんたその呼ばれ方そんなに好きじゃないでしょ?) (いいから、今だけひよこ呼び、OK?) (…わかったよ) と言う耳打ちで何とか口裏を合わせてもらう。「ヒカっ…前原さん、お昼なら他の人と食べてもいいんじゃない?ほら、いろんな人と交流を深めてみるとかさ」私はそれとなくここから離れてくれそうな提案をしてみる。しかし、「そうじゃなくてね、ひよこちゃんがお腹空かせてたみたいだったから、お弁当おすそ分けしようと思って」と言ってヒカリちゃんはお弁当箱を取り出した。ふたを開けると半分は、白いご飯が箱に合わせて綺麗に詰められ、仕切りを挟んだ反対側は均等に切られた卵焼きとハンバーグが箱の中にすっぽり納まり、炒めたほうれん草と新鮮なミニトマトがそこに彩を加えていた。食品サンプルのような丁寧な出来に思わず友恵と二人で息をのんでしまう。「すっごい、おいしそうだね」と弁当のある友恵の方が物欲しそうに弁当箱を凝視していた。「朝適当に作ったのだから、あんまり見ないで」とヒカリちゃんはお弁当を引っ込める。「え、自分で作ってるの?」と驚きの声を上げる友恵、「ワタシ、独り暮らしなの」とヒカリちゃん。なんだか、私の時より会話が成立してる気がする。やいやい、仲間外れはさびしいぞ。私は、友恵の腕をつんつんつついて仲間入れろと催促していた。「ああ、お昼ね、輝っいや、ひよこも多く食べられるに越したことないんじゃない?せっかくだし、一緒に食べようよ」との友恵の言葉で私の退路は断たれてしまった。そう、逃げられなくなったのだ、決しておいしそうなおかずに釣られたわけじゃない。