第一話:八章
「社さん」
数歩教室を出るや否、社葵は声に振り向いた。
「……藤咲さん?」
「ちょっと、時間いいかな?」
三階にある音楽室。燈が教室の敷居を跨ぐと、葵が後へとついて来た。放課後、それから部活も休みと、閑静な音楽室である。窓からは校庭が見える他、午後四時半を回った陽射しが、鮮やかな夕刻を演出していた。
藤咲燈と社葵。教室中央で言葉も無く、二人は互いの視線を交えた。
微妙な緊張感の中、口を開いたのは葵であった。
「話、というのは何でしょう? 私、この後習い事がまだあるので、遅れるなら家に連絡を――」
すかさず、結衣が機材の影から飛び出し、葵の背後を瞬時に取った。ブレザーの内へ伸びた手を、掴んで背中へ組み伏せる。右腕を背後で押さえられたまま、葵の顔が苛立ちに歪む。
「痛ッ……ちょっと何するんですか! と言うか、誰なんですか! 藤咲さん!?」
「初めまして社葵さん、私は“髪結い”と申します。詰まる所――貴女の所持するダイスの者と、同じ職業柄の者ですよ」
「髪結い? ……何言ってるのか、意味がわからない。とりあえず、離してもらえます!?」
結衣は葵の腕を離したが、背後は常に抑えた位置で、その眼は鋭く配られている。
「……社さん、これ、貴女には解るよね……?」
燈がブレザーの左ポケット――否、今は胸元の内ポケットから、『ラプンツェル』の形骸を借りた、“髪結い”のダイスを取り出した。
「貴女の持ってるダイスがあれば、御影さんを取り戻せる。だから戦おうとかしないで、こっちに渡してくれればいいから……」
「……諄い様だけど、意味がわからない。そもそも、私が何かしたの?」
「おや、それも認めませんか。では、私が教えましょう。貴女がした事は、殺人。アルター『ガーゴイル』を使い、御影榧を殺害しました。結論までの顛末、気になりますよね?」
煽るかのように結衣が語ると、業腹の意志を瞳に焚べて、それでも葵は口を引き締めた。
「榧さんの安否を確認したのは、仲の良かった四人だけ。桐山千春、宮皐月、藍原菘、そして貴女です。我々は確かな情報筋から、敵は『ガーゴイル』である事を突き止めました。では、誰がダイスを振って尚且、ガーゴイルを差し向けたのか。手掛かりは、水でした」
先刻、燈へ掲示した様に、結衣は葵へ小瓶を見せた。
「これはガーゴイルの遣わせた、小型の彫像から採取したものです。検査の結果、雨水でした。ガーゴイルは大量の雨水を撃って人を殺した。では、それはどこから供給されたのか。一般的には、貯水槽やダムなどを連想しますよねぇ、燈さん」
語り部の言葉を橋の渡しに、葵の視線もまた動く。
「うん。でも、四人の家にはそんなの無いし、近くにダムなんて場所も無い。けど、社さんの家になら、それを補える物がある」
「そう、プールです。貴女のご自宅には、大きなプールが備わっていますねぇ。今は四月、プール開きには些か早い。雨水を貯めて使うには、持って来いの設備です」
「……創作物の発表なら、文芸部の皆さんとやってもらえますか?」
葵の発する言葉には、動揺している様子は無い。
「ええ、ですがもう少しお付き合い下さい。では次に――燈さん」
結衣の掛け声を切っ掛けに、燈は大判の紙面を広げた。
「在校する教職員の一覧名簿です。ご存知ですよね、葵さん? 注目すべきは日本史教員。ほら、あそこをご覧なさい」
日本史担当の“藤崎”へ、事前に赤い丸が付いている。
「日本史を受け持っている、藤崎先生です。その旧姓は、“御影”でした。失礼を承知で伺ったところ、二年前の暮れ、夫が趣味のギャンブルで負け、かなりの負債を抱えたそうです。幸い、二人三脚で工面したものの、未だ厳しい現実だ。というのが、榧さんの消えた世界の話。賭博の負債に養育費用が上乗せされたと想像するなら、離婚も一考に値するかと。実際、藤崎先生も『子供がいたらとてもじゃないけど、旦那と生活していけない』と、仰っていました。要するに、御影榧のいた世界では、藤崎先生は離婚済みであり、二人は旧姓の親子関係だった。妄想にしては、出来過ぎでしょうか? ところで葵さん、貴女は既に気付いていますね、自らの犯した重大な誤ちに」
葵の顔が、スッと青褪めた。それを見て、燈は自らを奮い起こす。
「この名簿で、社さんも気が付いたんだね。藤崎先生が言ってた。ついこの前、社さんから『プリントの苗字が間違ってますよ』って、変な指摘されたって。御影さんの死んじゃった日、社さんは日本史について御影さんと話してたよね? だから、この間違いに気付けた」
燈の真っ直ぐ強い双眸に、葵は思わずたじろいだ。
でもまだだ、もう一押し――!
決死の思いを胸に秘め、燈は最後のカードを切る。
それはあの――クマのキャラクターペンだった。
「社さん、これ知ってるよね? 藤崎先生が持ってたペン、さっき頼んで借りてきたの。でもね、本当はこれ――御影榧さんのだったんだよ」
「え――……」
頬を伝う汗、揺れ動く瞳、葵の動悸が加速する。
「母親からのプレゼントだって、御影さんはそう言ってた! そんな思い出や出来事さえも全部世界から消しちゃうなんて、絶対に許されないよ! だから社さん、お願いだから、ダイスをこっちに渡して……! 今ならまだ、やり直せるよ……!」
荒く口で呼吸をしながら、葵は右手を懐へ。ゆっくり引き抜いたその手には、一つの賽子が鎮座していた。まるで大理石から彫り起こされた、冷たく煌く一振りだ。
そう、その時だった。校庭側とは反対の窓、その枠や硝子を吹き飛ばし、灰色の巨躯が飛び込んで来た。
おおよそ高さは三メートルと、大翼に短い双角を備え、雄々しい人型の体躯に尻尾、しかして猛獣の顔立ち。
「ガーゴイル……」
弱った口調で呟いたのは、その傍らの葵であった。
一方、結衣は燈の元へと跳ねると、黒髪を伸ばして盾に代え、破片や瓦礫を後方へ流した。
「惜しい、もう一歩だったのに……!」
現状の恐怖を滲ませながらも、燈は悔しさを顕露した。すると、不意に結衣は燈の頭を、優しい手付きで撫で下ろす。
「いいえ、指先まで触れていましたよ、燈さん。しかしこの巨体なら、ダイスに格納していると踏んだのですが……」
結衣が敵を見据えると、ガーゴイルもまた、敵を見据えた。
「大凡、状況は理解した。聡明な相手のようですね、葵」
その声は、落ち着き払った大人の男性。燈にとって、意外であった。残虐にして非道の悪魔、根幹的なそのイメージは、燈の中では多少揺らいだ。
しかし、もはや交戦は避けられない。場の雰囲気が、そう告げていた。
「ガーゴイル、貴方勝手に外へ?」
「それは謝罪します。しかし、些か語弊があるかと。前回、葵が私を使用した後に、私は自室へ戻らなかった。そういう事です」
「言い訳はやめて。……藤咲さんとその従者に、こっちの存在を知られたわ。だから、やっぱり消すしかない」
「ちょっと! 結衣は友達なんだけど!」
その一言に、葵は怪訝な顔を見せ、結衣は思わず吹き出した。
「私と燈さんは友達、ですか。なる程、それではますます、負けられないですねぇ」