第一話:二章
四月十二日、木曜日。
落下にも似た感覚を受け、燈の身体はびくりと反応。徐に壁の時計を見ると、授業の四時限目が終わっていた。どうやら、寝過ごしてしまったらしい。
ぼうっと、頭を揺り起こす。
浮遊感。今朝、これに似たような、いやもっと酷い目に遭わされたような、そんな気がしてならないのだけど――。
ふと、手をブレザーの左ポケットへ。中でもぞもぞと指をくねらすが、触覚は何も掴まなかった。
「藤咲さん!」
と、明るく声を掛けてきたのは、同じクラスの女子生徒、桐山千春であった。
「ん、何?」
「あ、えーっと、ちょっと私的な用事というか……」
珍しい。四月の入学式を終え、高校二年生にはなったが、『私的』で話し掛けられるとは。
「その、一緒に写真とかどうかな〜って。藤咲さんとは、初めて同じクラスになったし」
千春は少々戸惑いながら、携帯端末のアプリを開いた。被写体を様々な効果で魅せる、流行りの撮影機能である。
「え……まぁ、いいけど」
「じゃあ」と千春が自撮りを構え、燈も画面を覗き込む。
幾分釣り上がった眼に、昔馴染みの白地目の肌。肩の後ろまで伸ばした髪は、漆黒の内に艶めいている。
そしてそんな顔が今、千春の携帯端末画面で、自然と流した前髪の上に、獣の耳を生やしているのだ。
「はい、っと!藤咲さん、よければこの写真、送りたいからアカウントとか――」
「桐山」
千春の言葉を待つ間も無く、廊下から声が割り込んだ。別のクラスの女子生徒、御影榧である。
教室へ入る榧の後ろには、他に三人の同級生が。
社葵、宮皐月、藍原菘とそれぞれが、此方の様子を窺うべく、距離を保って待っていた。
「桐山、早く購買行かないと、食べる時間とか無くなるよ?」
「うん、でもちょっと待って。藤咲さんのアカウント、教えてもらってからでもいいよね?」
「でもそれ、時間掛かるでしょ?」
「そんな事無いよ、今からすぐに――」
「いや、私は大丈夫」
今度は燈が千春の声を、締め出すように遮った。
燈は持参の弁当を持つと、「ありがと」とだけ言い残し、その場から立ち去った。
燈が屋上の陰へ落ち着くと、心地好い春の便りが吹いた。共学故、様々な人の色彩が、風に運ばれて五感へ届く。それだけで気持ちのいいものだ。
共学、新たな出会いの季節と、下地は既に一級品。しかして藤咲燈には、良縁遠く及ばずであり、青春浪費の一方であった。
孤立気味なだけじゃない、意中の先輩の相手こそ、御影榧という事実。嘆息せずにはいられない。
春風と溜め息をおかずに加え、燈は昼食の箸を進めた。
入学したての当初こそ、上手く立ち振る舞っていた。しかし燈は帰宅部で、委員会にも非参加だった。無所属故にそれ以上、この方面では打ち止めだった。
クラスメイトとも伸び悩み、押し黙る事は日に日に増えた。お陰様で、授業も無欠席だというのに、不良と囁かれる憂き目である。
ただ、一つ歳下の弟が、学校生活を楽しんでいる。
それは燈にとって貴重な、高校における喜びだった。
そんな弟も、校内で近付くと姉を嫌がるが。家では一緒に遊んでいるのに。
ふと、箸捌きを誤った。丸っこくて小さなトマトが、落ちて脚元を転がった。
空になった弁当箱へ、落ちた野菜を拾って入れる。そうしてトマトを落とした自分へ、ちょっぴり腹を立てた時、燈は不意に気が付いた。
この現状だけじゃない。何より打開を拒む自分に、自分は腹が立っているのだ。
さっきだってそうだ。千春の好意に「大丈夫」じゃなく、「また今度」って言えば良かった。
本当に、私は不器用だな。
街が夕刻に気づき始めると、学生達は浮かれ出す。ある者は帰宅の路に着いて、またある生徒は希望の部活へ。燈は万年前者であるので、今日も迷い無く帰路へと着いた。
途中下車から改札を抜け、モニュメントの待つ駅前へ出る。今日は久々にゲームセンターで、発散してから帰るつもりだ。
高校が近い事も手伝って、燈と同じ制服姿を、幾らか散見する事が出来た。
と、タクシー乗り場に差し掛かる前、燈の瞳がピタリと留まる。
それは実に排他的で、しかし無視出来ぬ偶然だった。
目測数十メートル先。明るい茶髪のウルフカット、歩いて来るのは御影榧。
左に並ぶ長髪は、品のある仕草の社葵。右側を歩くミドルヘアは、宮皐月で間違い無い。
咄嗟に燈は気付かれまいと、人陰に紛れて気配を濁した。
「――だからって、次の日本史のテスト範囲が、わかるって訳じゃないからさ」
この声は、御影榧だ。
台詞半ば、榧達が燈の近くを通る。
「まぁ、逆に点数低いと、『何でアンタが』って、軽く笑われるけどね」
「でも榧はスゴいよね、学年トップクラスだもんね〜。あ、あの店のお菓子、葵のウチで食べたやつだ。高級品」
「ふふふ、我が家では食べ飽きていますけど」
「うわ、ブルジョワジョーク」
二メートルの距離まで来たが、三者の会話は愉快に弾む。お陰で、燈は誰にも覚られず、苦手を遣り過ごす事に成功したのであった。
ほっ、と思わず一息を吐く。燈はゲームセンターへ、榧達はこのままどこかへと、遠く離れて行くかに思えた。
ところが、燈の遥か後方へ、榧達の進んだ方角へ、大きな翼を象る影が、中空を裂いて落下した――否、重量を以て降り立ったのだ。
途端、振り向かざるを得ない程、強烈な悲鳴が耳を焼く。人混みがざわめくと同時に、燈も震源地へと見た。
ところが、なんという事だ。燈は自分が狂ったのかと、それを見て瞬時に自問した。
おおよそ高さは三メートルと、大翼に短い双角を備え、雄々しい人型の体躯に尻尾、しかして猛獣の顔立ち。
これは、悪魔の彫像だ――悪魔の巨大な彫像が、畏怖を従えて降り立ったのだ!
呆気と動けぬ燈の眼前、悪魔は不意に動き出す。
大きく身体を伸ばしてみせると、一瞬。牙並ぶ口を虚空と開き、一線の水流を撃ち出した。
その水撃は、人々を呑んだ。葵と皐月は弾かれて、それでもそれは幸運であった。
水進の直線上にいた榧は、無抵抗のまま重圧を受け、面白い程に吹き飛ばされて――舗道で一度跳ねた後、燈の近くへ“べちゃり”と落ちた。
「…………」
周囲は叫んでいるのだろうか。でも燈には聞こえなかった。
悪鬼は所業に何を思うのか。数秒の間を置いた後、悪魔は空目掛け猛々と吼えた。
まさに魔獣の咆哮であるが、何故だかそれが燈には、「見世物じゃないぞ」と受け取れた。
やがて事を成し終えたのか、翼を広げた悪魔の姿は、軽々と宙へ舞い出ると、馬力を利かせてどこかへ消えた。
葬儀の様な虚無感と、凶悪なテロリズムの併合。
その渦中、一人燈は榧の側、無心となって駆け寄っていた。
おかしな話だ。燈は知己を案じるよう、榧が心配で堪らなかった。それに混沌とした現状、捨て身で立ち向かえる程、燈は英雄的では無い。
身体を無理矢理動かしている、燈に滾るこの勇気。
燈は直感的にだが、何か別の要因が、自分を支えていると思った。
「御影さん!」
初めて『御影』の名を呼んだ。燈は医療従事者じゃないが、素早く素人目を配る。
うつ伏せに横臥する五体。その右腕は奇妙に捻れ、全身の形もバランスが悪い。それでも燈は勢いで返し、榧の顔に夕空を見せた。
不幸中の幸いか、顔面に酷い損傷は無い。
しかし榧の双眸は、既にこの世を見てはいなかった。
「救急車、呼ばなきゃ……」
燈は携帯端末を出すが、すぐにズルリと落としてしまった。そうして漸く気が付いたのだが、血でいっぱいの震えた両手じゃ、上手く端末を操れないのだ。
と、全く認知の外部から――燈の後ろに人の気配が。背後から伸びた細身の腕は、血濡れた燈の端末を拾った。
見上げると、そこには一人の少年が。
燈は、少年に縋った。
「は、早く、それで救急車を呼ん――」
カシャリ。シャッターの音がした。
「え……?」
口を半分開けたまま、燈は唖然と目を見張る。
「うん。みんな、こういう写真が好きなんだろ?」
続けて二枚目、三枚目。燈と亡骸の榧を、記念とばかりに撮り卸していく。
「何、撮ってんの……?」
燈の中に、火種が灯った。
「ああ、うん、興味があって」
身体が熱い、頭が熱い。本当に、本当に――。
「きっと『SNS』ってやつで、スゴく『バズる』んじゃないかな。残らないのが残念だけど……動画も撮っとく?」
本当に――どうかしてる!
燈は震えも鮮血も、全てを忘れて激怒した。
少年の腕に掴み掛かって、携帯端末をはたき落として、それでも未だ平然とする、相手の態度がまた許せない。
怒りで文言は覚えていないが、罵倒した事実だけは判る。自分でも、こんなに怒る事が出来ただなんて、俄には信じ難かった。
極度の局面、感情の怒髪。すると燈は唐突に、視界の湾曲にふらついた。
経験の無い強い眩暈に、堪らず膝から頽れる。額を押さえ、目を瞑り、それから――。
街が夕刻に気付き始めると、学生達は浮かれ出す。ある者は帰宅の路に着いて、またある生徒は希望の部活へ。燈は万年前者であるが、その顔色は真っ青だった。
日時、場所、それに血痕も着いていない。ブレザーの右ポケットには、携帯端末も常備されている。
一時間前と変わり無い、藤咲燈がそこにいた。
燈は急いで端末を観たが、やはり写真は残っておらず。更には現場へ駆けつけ待つが、何の騒ぎも起きやしない。
「……よかった」
ぽつり、小さく呟いた。
自分がおかしくなったのなら、それでいい。
何も、無かったのなら。