第一話:一章
「藤咲燈、四月二十九日生まれの十七歳。身長一五八センチ、体重五十二キロ。両親の他に弟が一人、現行四人で暮らしていますね。高校も立場はやや微妙ですが、サボる事なく通学中。それと――」
「わかったから、もういいって」
空招くラプンツェルの塔、夢枕に建つ秘密の象徴。それを統べる少女“髪結い”。
身体はベッドの上なのだから、これらは夢の類いなのだろう。明晰夢とでも言えるのだろうか。
燈の心は昨日と繋がり、記憶を呼び起こしていた。
ここは塔の上層階で、大きな窓の開け放たれた、優美な主のお気に入り。
防壁は無いが入り口も無い、開けた木立に突如と聳える、圧倒的な存在感。
呆然と塔を見上げる燈、それを昨日招き入れたのは、まさしく彼女が対峙する、可憐な少女の黒髪であった。その雄大な長髪が、燈をここまで引き上げたのだ。
グリム童話、『ラプンツェル』。仔細はともかく燈でも、そういう場面は知っている。
塔に幽閉された少女が、長い金髪を梯子代わりに、王子を塔へと招き込む。差し詰め、燈の役所は王子だ。相手の髪は黒色だったが。
「思い出して頂けたようで」
ラウンドテーブルに落ち着いたまま、黒髪のラプンツェルは書物を閉じた。
本の標題は【藤咲燈】。最早隙見も甚だしいとは、説明を受けて身震いをした、昨日の燈の所感である。
「それ、絶対他の人に見せないでね。あと話すのもダメだから」
「ええ、勿論。他に相手もいませんし」
テーブルの前に空席一つ。髪結いの声に促され、燈は席へと腰を下ろした。
自称、ラプンツェルの少女。燈はその容貌を、改めて記憶の中へと映した。
嫋やかな顔立ち、白地目の肌、それは瑕疵の無い珠の如し。寓話に紐付く長髪は、礼節を以て柳髪である。それが純白のワンピースを着て、陽光の中で微笑んでいる。
しかして些末な違和感は、日本に近しい相貌と、漆黒の髪色にあるのだろう。
それも彼女を世界に名高い、『ラプンツェル』とするならば。
それから燈は瞑想し、この少女の存在を振り返る。
“髪結い”は、人間ではない。『ラプンツェル』は、外套だ。
かつて“髪結い”と呼ばれた彼女は、この現代で目を覚ました。そして自身の顕現に見合う、人間産のガワとして、『ラプンツェル』という題材と、引き合い結び付いたと言う。
曰く、「ここまで理解していれば、後は自然と着いて来きますよ」との巻末締めだが、絶対嘘だ。
幸い燈は漫画やゲーム、所謂サブカルチャーには精通している女子高生なので、「まぁ、あるかも」で呑み込めた。無論、ここは夢なのだからと、達観しているからである。また、持ってたゲームの設定に似てる、など温い脳味噌も手伝った。
「ところで、これを憶えていますか?」
ラプンツェルは表情を緩め、声を玲瓏と響かせた。
そして差し出したガラクタに、燈は思わず眉根を寄せる。
「……ジュースの空き缶?」
「そう、泡がしゅわしゅわの」
「え、だったら私は飲んでないけど。私、炭酸無理だから」
「いえ、そうではなく。ヒント、公園」
「何でクイズ形式……あ、一週間ぐらい前、これと同じの、拾ってゴミ箱に捨てたかも」
「あぁ、燈さん――正解です。貴女は通り掛けの公園で、見知らぬ男性の投げ損じ、所謂ポイ捨てを目撃しました。そして、外れた缶をゴミ箱へ」
「そうそう、そうだった! ところで、正解すると何かあるの?」
「では次に、」
「えぇ……」
「この硬貨は、如何でしょう?」
正解は、二日前のコンビニでの事。
レジで支払い金額が足りず、焦る知らない男の子。偶然後ろに並んだ燈は、それを察して少しだけ、その子に支援したのであった。
そうだ、そんな事もあった。
そうして、病欠した生徒の代役や、妊婦に席を譲った事など、燈は記憶を擽るクイズを、八つは答えていっただろうか。
と、
「では」
短く手を打ち一言。ラプンツェルは頷くと、燈の双眸を確かに見据えた。
「あの、ところでこの質問って、何か意味とかあるの?」
「ええ、当然。燈さん、貴女はとても――良い人ですねぇ。そう、善良的で献身的、そして健康的でもあります。詰まるところ、燈さん、貴女は私の見込み通りでした」
すると「どうぞ」と一言添えて、ラプンツェルはその手から、小さな何かをテーブル上へ。
見るとそこには一寸四方の、目を引く賽子が一つ。
滑らかな白亜の六面に、穿つ二十の黒点と、たった一つだけ真紅の紋章。そして平面の余白には、金色で流線形の意匠が。
玩具に在らぬ工芸品を、燈は手に取り目を丸くした。
「すごい、綺麗……」
「差し上げますよ」
「え、ホントに? ありがとう! ……ところでこれ、振ると何かあるの?」
「はい、いつでも私に会えます」
「え」
燈の声が、微妙に濁った。
「……なんですか燈さん、そのそこはかとなく嫌そうな顔は。それは『アルターダイス』と呼んでいる物で――」
「ゴメン、謹んで遠慮しておきます……」
手離された六面体は、燈から元の持ち主へ。
その申し出に、ラプンツェルは目を瞬いた。
「そうですか、それではこれは――制服のブレザーの左ポケットに入れておきますね」
「いや何で!?」
「右側にはいつも、携帯端末が入っているので」
「いやそうじゃなくって!」
やっぱりだ。燈はこの面妖な道具から、既に面倒事の臭いを嗅ぎ取っていた。
「っと、とにかく、これは返すから」
返却の意思を明確に、燈は出口を探し見渡した。
「そうですか、残念ですねぇ燈さん。しかし、もしも必要な時は一ー」
ラプンツェルは微笑みを浮かべ、燈は顔を引き攣らせる。
「あの、帰りってどっち……?」
「おや、まだ記憶が完璧じゃないご様子で。それでは、昨晩と同じ方法でお別れしましょう」
昨晩と、同じ方法――。
何故だろうか、燈はその帰路に記憶を寄せる度、同時に脳の拒絶反応を受け取っていた。
何か、思い出したくもない、何かショックな出来事が――。
しゅるり、と気配で気付いたが、それは既に手遅れだった。
燈の身体と椅子の二つを、黒い髪の毛が素早く巻いて、一個体にしてしまったのだ。
腰の辺りに巻かれた髪は、横幅二十センチ程。漆器の如く艶めいて、しかして無類の強靭さ。
全てを悟り、藻掻く燈の様子を他所に、ラプンツェルは入念に、手製の胴締めをチェックする。
「セーフティベルト、確認しました。いつでもいけます」
「いやあ――――――!」
「それでは、またお会いしましょう、燈さん」
瞬間、心の準備が整う手前、座席は燈を乗せたまま、大きく跳ぜて飛び出した。開け放たれた窓の向こう、ぶっ飛んだ椅子が小さく見える。
どこか間の抜けた絶叫と、手を振るラプンツェルにて終幕。
現実へ射出された燈は、心の内に強く誓った。
もう二度と、来るもんか!