第一話:十二章
漫画喫茶に泊まる事にした。一泊程度の予算なら、女子高生でも賄える。
手近な駅から電車を乗り継ぎ、燈は決戦現場を離れた。距離感覚ではイマイチだったが、定期券から千円は消えた。つまり、それなりな距離だろう。
午後九時。喫茶の個室を消灯し、激動の今日を振り返る。
多目的室ミーティング、職員室前での策謀、音楽室では同学年の娘を、白旗寸前まで追い詰めた。それからガーゴイルと交戦し、初めて社邸に入った。空から学校まで戻り、まさかの大怪獣登場。甲冑塔で戦った事は、生涯忘れないに違い無い。そうして、それから――。
強烈な睡魔に襲われて、燈の意識が朦朧とする。
家族へ安否は通達済みだ。だからもう、後はこのまま寝るだけなのだ。
この記憶、体験が、まだ温かい内に――。
グレイの案内を先頭に、燈はマンションの屋上へ向かった。そこには座り込み手を振る結衣と、周囲は瓦礫が散乱している。
「結衣!」
「おや燈さん、早かったですねぇ」
穏やかな結衣の笑顔には、仄暗く濃い血痕が。
燈は結衣に駆け寄るや否、その顔に着いていた血の痕を、出来るだけハンカチで拭った。
「大丈夫ですよ、燈さん」
「でも、やっぱり心配だから……」
「お取り込み中、悪いんだけど」
グレイの声で、前方を見やる。衝撃による破壊の痕跡、その中心で、何かが動いた。それは横臥した身体を起こし、初めて立ち上がったかの如く、よろめきながら直立を果たす。
百八十センチ以上の長身、纏った良質な燕尾服。それだけ言えば忠実に、執事と締め括る事も出来るのだろうが、左腕は彫像と備え、頭部も悪魔のまんまであった。
そして汚れた燕尾服には、腹部に大きな風穴が。
「驚異のタフネスですね、樋嘴さん。比喩表現でも何でも無く、傷口から向こうが見えていますよ」
「フッ、お気になさらずに。五分かそこらで、朽ち果てます故」
左腕を杖に代え、悪魔は三人へ続けた。
「申し訳ありませんが……最期まで、この悪魔で逝かせてもらいます。悪役の、矜持です」
「ほう、自ら悪役を買って出ますか。さて、如何しますか、燈さん」
「……何か、話したい事があるんじゃないの……? もしあるなら、私は聴きたい」
凛然とした燈の瞳に、ガーゴイルは語り出す。
「……葵を、責めないで下さい。彼女は元々内気な性格、人殺しなんて出来ません」
「え――どういう、事?」
「ダイスの力に感化され、自分を見失ってしまいましたか」
結衣の補足した情報に、ガーゴイルは頷いた。
「全ては、私の招いた惨劇。忸怩たる、思いです」
「樋嘴さん、貴方は社葵さんと、良好な関係を築けなかったんですね。更には、アルターダイスに呑まれる彼女を、危惧して情報を秘匿しました。葵さんはダイスの事を、『ガーゴイルを呼ぶぐらいしか、使い道なんて無い』と仰っていましたよ。もし、貴人方が十全な状態でしたら、勝負はわからなかったでしょう」
「……敗因も明白、ですね。葵には、私が始末した人間は、歴史からも、抹消される。そうとだけ、伝えてあります」
途端に、彫像の左腕が朽ちた。支えを失い、頽れる。思わず駆け寄ろうとした燈を、結衣は右手で静止した。
「樋嘴さん、最後に私から質問があります。実は釈然としない点が一つだけあるんですよ。それは、動機です。何故、社葵は御影榧を、始末するに至ったのか」
「……動機、か。貴様の事だ、既に、知っているので、は?」
「……確証はありませんが、職員室前で捜査した時、こんなささやかな張り紙を見つけました」
戦闘でくしゃくしゃになった一枚を、結衣は伸ばして提示した。
「前回開催された、学年別テストの上位入賞者です。毎回、上位十名が掲載される決まりとなっているそうですね。そしてここ、第十位は葵さん。しかし榧さんも成績優秀、もしかしたら葵さんより、何枚か上手だったのではありませんか? 家柄的に、葵さんには親の期待や、それを補強する学習環境と、当人へ伸し掛かる数々の負担に、彼女は疲弊し切っていた。一方、榧さんは親が離婚し、お世辞にも裕福とは言えません。その代わり、大きな期待や重圧も無かった。そんな彼女が、自分よりも成績優秀。身近な分、苛立ちを余計に焚き付けた。私はそう勘繰ってしまいました」
「……フッ、フフッ! 鮮やかな、対比です、ね」
「ええ、憎らしい程、鮮やかです」
「では、私からも、冥土の土産、に……藤咲燈、貴女と、髪結いの関係は、いつから、ですか……?」
「え、私達の関係? えっと多分、諸々込みで……一週間ぐらい、かな?」
その回答に、朽ち掛けの悪役だけじゃなく、グレイも一緒に驚いていた。
「……フッ、クッ、ククッハハハ! とんだ、当たり籤、でしたね、髪結い」
「当たり籤とは違いますよ、出鱈目に選んでいませんから。貴方も、次は外した他人のゴミを、拾ってゴミ箱へ入れられる、そんな良い人を探して下さい」
燈は結衣のウインクを受け、何故だか急に火照り出した。
その様子に、悪魔は仮面の下で笑った。
「検討だけ、しておきます」
不意にガーゴイルの指先が、それから爪先、頭髪を含め、末端部分の汎ゆる箇所が、粒子となって綻び出した。
いよいよ、消滅の時だ。
グレイが数歩、前へ出た。
「……この現代で、こうしてまた出会えるとはな。正直、ボクは嬉しかったぞ」
「……あぁ、そうです、ね。感謝します、我が友、よ」
「いいって……じゃあな、バトラー」
灰色の、しかし輝く粒子となって、悪魔の彫像、“樋嘴”『ガーゴイル』は消え果てた。
「後には、夜の帳を待つ町が、宵闇の中へ佇んでいた。と、こんな具合で如何でしょう」
結衣は本へと書き留めながら、語り部を終えた燈に問うた。
「うん、良いと思う」
「では、これは塔へと所蔵しますね」
空招くラプンツェルの塔、日射しの差し込む上層階。ラウンドテーブルを挟んで座る、櫛髪結衣と藤咲燈。結衣の綴った本の表題は、【樋嘴/ガーゴイル】。
この物語が温かい内に、本へ書き留め所蔵する。燈の拙く小さな願いを、結衣は快く聴き受けた。
尤も、これはあくまで“樋嘴”の物語。結衣の言動や燈の気持ちは、それぞれの心に記された。
「終わった? それじゃ解散しよう」
別のテーブルセットへと、収まっていたのはドリアン・グレイだ。少々疲れた様相で、顔に退屈を出している。
「うん、グレイ君もありがとね」
「いいよ別に。燈に貸しを作ったところで、大した利益にならないからな」
「うっ、言い返せない……」
「お待たせしました。それでは解散――と、その前に。如何でしょうか、肖像さん。全てが終わった、今の感想は」
所蔵を終え、燈とグレイに合流するや、結衣は美少年の顔を覗いた。
「じろじろ見るなよ、うっとおしい。感想なんて特に無い、ハッピーエンドで良かったじゃないか」
「ええ、ハッピーエンドです。ただ、私にはまだ、確かめたい事があるんですよ」
「へぇ、それってどんな事?」
「ええ、それは――この一連の出来事は、貴方の筋書き通りだったのではないかと、私はそう考えているんですよ、肖像さん」
途端に、空気が張り詰めた。
「ボクが? だとしたら、どうしてだ?」
「貴方は樋嘴さんとは旧知、それも執事と愛称で呼ぶ、それぐらいには親密です。貴方は、社葵とアルター“樋嘴”、両者の微妙な関係を知り、それを絶とうと思い立ったのではありませんか? 此処からは、私の想像も入りますが――」
と、結衣は滑らかに語り出す。
「貴方は例え破滅であれ、主従を貫く樋嘴さんを、その性格をよく知っていた。さりとて貴方は友人です、旧友を直接叩くのは、この上も無い裏切り行為。そこで、燈さんに目をつけました。榧さんを撮り、燈さんから掴み掛かられた時だったのでしょう。あの時、まだダイスを振る前でしたが、私はアルターダイスを通し、燈さんへ少しだけ、力を分け与えました。それを肌で知ったんですね?」
まるでこの世の終わりのような、悪魔の彫像との邂逅。
あの時に沸き立った勇気を、燈は必然と思い出した。
「燈さんと葵さんは、同じ高校の制服です。容易く見つけ出した貴方は、社葵と“樋嘴”、藤咲燈と“髪結い”の、二組の動向を探った。そして貴方は我々に、友人を斃させる事にした。燈さんの意欲は申し分無し。後は我々の優位になるよう、協定を持ち掛け妨害工作、興味を装い接近し助言、果ては燈さんの窮地を救う、陰のハットトリックです。こう考えると、樋嘴さんの最期の言葉、『感謝します』という意味が、とても味わい深くなるんですがねぇ」
「……へぇ、なる程ね。ボクは友人を手に掛ける事無く、社葵の暴走を止め、バトラーの自尊心を救い、御影榧も助かって、君達二人も大満足。つまり、この筋書きを用意した奴は――控え目に言って、優秀だな」
「ストップ、ストップ二人共! ちょっと落ち着いて、もうやめてよ!」
燈が二人の間に入ると、張り詰めた糸がプツンと切れた。
「グレイ君は友達をなんとかしたかった、私は御影さんを助けたい。それはどっちも叶ったんだよね? だったら、それでお終いにしようよ。……えーっと、それじゃあさ、お互い健闘を讃えて、アルター同士二人で握手――」
「…………」「…………」
「――は、しないよね、うん」
どこと無く、『これ以上余計な詮索をするなら、お前も塗り潰してやるぞ』というグレイの背中は塔の下階へ。対して、『白日の下に曝された肖像画が、罅割れていくのが楽しみだ』という陰険な態度は燈の側に。
とりあえず、解散しました。
「最後の最後に、すっごい疲れた……」
「ふふっ、ですが本当に、一件落着ですよ燈さん。後は回収した“樋嘴”のダイスで、その凄惨な所業をリセットします。予想通りなら四日前、四月十二日の放課後へ、我々の意識はジャンプします。記憶はこのまま続くので、翌日にでも学校で、皆さんの安否を確認しましょう。本当に、お疲れ様でした」
「……うん」
今度は藤咲燈の方から、櫛髪結衣へ、右手を出した。すると相手は当然と、笑って右手を差し出し握った。
「それでは燈さん、次会う時には正しい世界で。あぁ、そう言えば、お帰りの際ですが――」
「――あ」
と、今回の燈は俊敏だった。咄嗟と気が付き機転を利かせ、不意討ちと結衣に抱き着いたのだ。
「……燈さん?」
「また私を、ここからふっ飛ばすつもりでしょ。悪いけど、そうはいかないから!」
「燈さん、そう仰ると思いまして、一つ下階の扉から、歩いて帰れる様にしました。今日はそちらから、お帰り下さい」
「え、そ、そうなの?」
燈は結衣に抱き着いたまま、両目を何度か瞬いた。
「……それじゃ、行こう、結衣」
「え」
すると抱き着きっぱなしという、何とも奇天烈な姿勢で、燈は階段を降り始めると、堪らず結衣は声音を濁した。
「燈さん、この姿勢は何なのでしょうか」
「床が抜けるパターンもあったから、その予防策。こうやって密着していれば、私をどうこう出来ないでしょ!」
「ええ、それは、まぁ。でも燈さん……歩き辛くはありませんか? すごく」
「……うん」
「……ねぇ燈さん」
「……何?」
「いいから早く、帰って下さい」
斯くして、蛍の発案は燈により、不評の内に幕を閉じた。
アルターだって、休みたい。