第一話:九章
怒号と轟音が砕けて混ざり、校庭側の窓を突き抜けた。一瞬、奇妙な静寂が訪れ、次に空気が震えた時には、音楽室の吐く残骸が地を出鱈目に掻き鳴らしていた。
不幸中の幸いか、悲鳴や奇声の数に比例せず、校庭を使用していた生徒は、無事に逃げ果せたようだ。
そんな中、忌むべき悪魔の彫像が、翼で大きく風を受け、静かにその場へ着地した。それから瓦礫の中から這い出す、黒い塊を見据える。
「無事ですか、燈さん」
黒髪の繭を解きながら、結衣は燈へと問うた。髪に包まれていたお陰で、外傷の程は無いかに見えるが、当人の顔は泣き出しそうで、それでもどうにか立ち上がる。
「ダ、ダイジョウブ、ヘイキヘイキ……」
「無理せずとも結構ですよ燈さん。三階から飛ばされた訳ですから」
「っ、だ、大丈夫だから! うん、頑張る……!」
「流石、私の友達です。それでは燈さん、手筈通りにお願いします」
燈は軽く頷くと、一目散に校門へ。若干脚は遅かったが、そのまま学校を抜け出した。
「逃した。いや、そうとも限らないか」
「解釈次第はお任せしますが、持ち主の安全は最優先事項です。当然の事ではありませんか? ねぇ、ガーゴイルさん」
「まさしく。……“樋嘴”」
悪魔が厳かに答えた。
「呼び名は“樋嘴”、器は『ガーゴイル』にて。古くから、その時代の屋敷に勤めてきた。貴様を屠り、これからも」
「ほう……“髪結い”、『ラプンツェル』です。ところで、何故このタイミングで自己紹介を?」
「葵の前だと……怒られます故。早く斃せと、恐らくは」
「なる程、それは――同情しますね!」
結衣は黒髪を一気に伸ばすと、左右それぞれ三叉に別けた。更に鋭く研ぎ澄まされると、それは黒曜石から作った、さながらナイフの切れ味である。その大きさも申し分無し、一本で成人を輪切りに出来るだろう。
「次は私から行きますよ――」
黒髪から成る大型ナイフ、その全てをガーゴイルへと差し向けた。樋嘴の悪魔も羽を折り、厳つい両腕でガードする。しかし守りに構い無く、上から刃で刻み込んでいく。
と、ガーゴイルがナイフの一つを掴んだ。ところが刃物はぐにゃりと枝垂れ、今度はその手に絡み付き、封じ込めようと試みる。変幻自在の方策に、思わず悪魔も舌を打つ。
「これは、面倒にして面妖な――!」
右手に髪が絡んだままに、ガーゴイルは力を込めると、髪を思い切り引き寄せた。刹那、結衣は鋏を出すと、その太刀で掴まれた髪を切り離す。
「やはり、力比べは不得手ですねぇ」
結衣は長髪を手元に戻すと、元の距離から更に後方へ、ガーゴイルから距離を取った。
「貴様、逃げるつもりか?」
「仕切り直しも必要です」
「同感だ。だが、逃がすものか!」
髪を宛らターザンロープに、振り子の動線で逃げる結衣。対し数秒と力を溜めると、豪快に空へ踊る悪魔。
黄昏時の校舎から、野次馬が我先にと集う。その携帯端末が鳴らすシャッター音の果てない連鎖が、歓声とアルターを見送っていた。
一時間前、校舎内にて。
「ねぇ燈さん、どうしても交渉はしますか?」
「それは勿論。結衣は交渉の余地が無いって、そう思ってるかもしれないけど、やっぱり相手が人間なら、一度は話し合ってみないと!」
燈の力強い意志に、結衣は肩を竦めて折れた。
「そうですか。そうすると、これは多少琴線に触れるかもしれませんが――交渉が決裂した、別プランとでも思って下さい」
言いながら、燈へ細身の茶封筒を手渡した。
「? これ、何?」
「私の髪の毛が入ってます」
「えっ、キモっ!?」
「…………」
「じゃなくて……ゴメン。えっと、何かのおまじない?」
「おまじない、とは少し違います。先程説明した通り、社邸のプールには、ガーゴイルの仕掛けたトークンが設置してあるでしょう。そこでトークンを発見次第、その近くに封筒の中身を、私の髪を散布して下さい。そうすれば――」
「あ、排水口に髪が詰まって、流れなくなるって事!?」
「ええ、表現はあまり良くないですが、的は得てるかと。それと、此方も渡しておきましょう」
結衣が新たに差し出したのは、“髪結い”のダイスより一回りは小さな、黄緑色の賽子だった。
「『クリーチャーダイス』と呼ばれる物です。我々アルターが使役する、上等な使い魔が封されています。燃費の悪さ故多用は出来ませんが、助っ人の怪物が出ると思っておけば、大体の問題は無いかと」
「へぇー……うん、わかった。こういうの、特撮番組とかで観た事あるし、大丈夫」
「燈さん、私は貴女に見え隠れする、そのジャパニーズ・サブカルチャーから得た数多の叡智が、万能過ぎて怖くなりますよ。あぁ、最後にもう一つ。髪を撒いたら、此方の番号へ連絡を」
茶封筒裏に数字を書くと、結衣は再び封書を燈へ。
「うん、了解――ってこれ、自宅の電話番号じゃん!?」
「ダイスを用いた思念通話は、ダイスの内部と所有者を繋ぐ手段です。つまり携帯通話のような、所謂普通の連絡手立てを、私は保有していません。でも心配は無用ですよ燈さん、私にはこれがあります」
いつの間にやら手にしていたのか。白いコードレスタイプの受話器を、結衣はまざまざと見せ付けた。
「ってそれも自宅のじゃん! 今朝ママが子機無くしたって騒いでたんだけど!?」
「私が見つけておきました」
「絶対ウソでしょ……あぁもう、とにかく、封筒の中身ばら撒いたら、必ず番号に連絡するから」
「ありがとうございます、燈さん。ではその時が来たら、手筈通りに」
校舎を飛び出し早十分。息を切らした燈の前に、豪勢な門が身構えていた。社邸の格子門だ。
景観に合わせた色調の為、金銀砂子の絢爛では無い。しかし燈の感覚的には、ベルサイユ宮殿の立派な門と、然程違うとは思えなかった。
「すごっ……いや、感心してる場合じゃない!」
呼び鈴を鳴らすと、やや嗄れた声が出た。ここは屋敷なのだから、家族か執事か不明だが、今はそれどころじゃない。
無理矢理に息を整えて、インターホンのカメラへと。
「あの、私、葵さんと同じ学校の、藤咲燈という者ですけど……ちょっと、訳あって、お宅のプールを見せて欲しいんですけど……」
『それはそれは。ただ、当人はまだ帰宅しておりませんので、申し訳ありませんが――』
「すみません急いでるんです! 葵さんに関わる重要な事なんです! どうか、お願いします!」
額から汗を何粒も流し、焦燥感と共に叫んだ。
ハッとして我に返る燈だが、誠意は既に伝わっていた。
身成の立派な老夫が来ると、大きな格子の門を開放し、そのまま燈を招き込む。同時に、邸宅右手へ回る様にと、プールの場所まで指示してくれた。
一言礼を述べて走ると、目的のプールが見えて来た。一部を歪めた楕円の形で、直径三十メートルはありそうだ。
そんな水溜めの中央に、不審な異物が鎮座している。灰色の台座にしゃがみ込む、悪魔を模した彫刻だ。
「あった、あれだ! でもなんか、動き出しそうな――」
プールサイドから駆け寄って、目一杯の距離まで近付いた時、燈の予感は射抜かれた。守衛の機構なのだろう、台座の悪魔は燈を見ると、鎌首を擡げ翼を開いた。
思わずたじろぐ燈であったが、ここで逃げ出す訳にはいかない。黄緑色の賽子を握り、彫刻へ向かい投げつけた。
「名前わかんないけど――手伝って!」
閃光弾でも投げたのだろうか。玉響、光が迸り、白い煙が破裂する。そして投擲した付近から、妙な生物の鳴き声がした。
黄緑色の鮮やかな体色、爬虫類の細やかな鱗。特徴的な球状の眼部に、渦と巻かれた奇妙な尻尾。
額に三本の角を立て、現れた奇怪な生物は――そう、正しくカメレオンであった。正し現存の動物とは、梟の翼を備えた点と、体躯が燈を超えるサイズと、決定的に違ってはいるが。
今、突然の闖入者。怯んだ悪魔の彫刻へ、お構い無しと飛び掛かる避役。創作作品宛らの、異種族同士の狩り合いだ。
「が、頑張って、鳥カメレオン君!」
微力なエールを贈りつつ、燈は台座へと向かった。恐らく、あれがトークンだ。
凍える水も何のその、燈は台座へ密着し、素早く封筒を開いた。そして――唐突に動きを止めた。不意に違和感へ気が付いたのだ。
このトークン、動いていない……?
日の傾いた夕焼け空を、水の塊が劈いた。ボーリング玉のような弾丸を、口からガーゴイルが放ったのだ。
当然結衣を狙ってはいるが、しかし寸前で口元が狂い、三発目もまた躱された。結衣が町中に仕掛けた髪が、ブービートラップの如く起動し、ガーゴイルの腕や翼に纏わり付いて邪魔をする。
「……小細工。己の力量を認める事も、優秀な下僕の評価かと」
民家の屋根まで着陸すると、徐にガーゴイルは切り出した。それを受け、結衣も相手との距離は測りつつ、手近な電柱の上部へ止まる。
「髪結い、貴様の髪や鋏では、私の外装は壊せない。思うに、決定打を欠いているのでは?」
「ええ確かに、ご忠告感謝します。ですが相手を見縊ると、脚元を掬われますよ――!」
結衣の号令でガーゴイルへと、無数の黒い直線が伸びた。だが悪魔の方もまた、爪で引き裂き、水圧で潰し、その殆どに対処する。
腕に絡んだ髪を引き千切り、ふとガーゴイルは気が付いた。
見渡す限りの視界から、標的の姿が消えた事に。
「身を隠したか。ならば、炙り出す――!」
物影や人に視線を配る。お世辞にも、髪結いの移動速度は並で、翼も生えている訳じゃない。必ず、近くに潜んでいる。
「……水なのに、炙り出す。新鮮ですねぇ」
水弾が乗用車を吹き飛ばし、まるで玩具と転がる様を、横目に結衣は呟いた。
結衣の隠れ先。それはガーゴイルの脚下、その民家の中に潜伏していたのである。勿論、開いていた窓から、こっそり。
ひっくり返った車の警鐘、人々の声にシャッター音。それを尻目に結衣は今、他人の家の冷蔵庫内を、これ幸いにと物色していた。
「何たる悲劇。発泡酒、発泡酒、発泡酒! どこにも紅茶が見当たりません……」
と、小さな着信音が一つ。結衣は素早く“外線”を押し、燈の吉報を求めた。
『ごめん、今社さん家のプールから掛けてるんだけど、まだ髪の毛は撒いてない……。実はトークンを見つけたんだけど、変なの。プールに沈殿した汚れとか、あんまり動いた様子が無くて、トークンの方も、水を汲み上げた感じしなくて』
「そうでしたか……では燈さん、封筒の髪束を半分だけ、トークンの側に撒いて下さい」
『ちょっと待って……うん、撒いた! 封筒の中身、思ってたよりたっぷりなんだけど、残りは!?』
「残りは別の場所へ撒きます。燈さん、今から学校へ戻って下さい」
『え、学校に?』
「はい。燈さん、貴女はミーティングの際こう言いました、『この学校の土地だって、社さんの親の所有地なんだ』。そして『地理と制約』、あの“肖像”、『ドリアン・グレイ』の言葉です。もしかするとダイスの所有者、或いは肉親の権利内でのみ、水を汲む力があるのかもしれません」
『っ、うん、わかった。また電話する!』
「見付けたぞ――」
それは開いた窓の向こう、結衣を捉えた悪魔の瞳が、その巨躯と共に突撃して来た。
間一髪で身を翻すも、結衣は電話の子機を落として、それをふっ飛ばされてしまう。が、機転を効かせて他人の家だが、子機を拝借する事にした。
部屋をぶち抜いたガーゴイルが、すぐまた戻って来るだろう。急ぎ離脱する結衣であったが、 一つ、疑問が浮かび上がった。
「私、燈さんのケータイ番号……知りませんね」
さて、今度はどうしたものか。