ひまわり畑
一
「つい最近、それもこの辺りの出来事です」
近谷早苗ちゃんはそこで一旦やめて、言い直した。最近コンタクトにしたようで、右手が眼鏡を押し上げるように動く。
いとこである早苗ちゃんが今年の春、一年生として入ってきたのを見て僕びっくりしたし、彼女はもっとびっくりした顔をして「藤野、真広くん?」と聞いてきた。彼女の驚く顔はとてもよくできていて、少し驚いただけでものすごく驚いているように見えるから、実際は僕の方が驚いていたのかもしれない。
「ある日――」
彼女が怖い話にぴったりな顔で切り出したので、僕と僕の友人、横山海斗はおもわず頷いた。
海斗は、高校生になってからの友人だ。こんな元気な奴と友達になったのは初めてなので、どうして仲良くなったのかさっぱり覚えていない。僕と同じ文化部仲間の癖に、体育祭でリレー選手に選ばれるくらい足が速い。うらやましい限りだ。
今、僕らがいる図書室は涼しいけど、窓の向こうからはセミと、吹奏楽部の楽器の音と、どこかの部活の掛け声で賑やかだ。
先週の金曜日に終業式があって、今日は水曜日。夏休みが始まった実感がないまま、あと一ヶ月は空白。最高だ。
僕ら三人は、それぞれの用事で図書室に来ていた。園芸部の僕は水やりの後に本を借りようとして、海斗は宿題を片付けに、早苗ちゃんは図書委員の仕事があるからここにいる。
毎週水曜日は図書室の開館日。とはいえ、午前中から好んで学校に来る人も少なく、僕ら三人と司書の松井先生以外、ここには誰もいない。だから、早苗ちゃんがカウンターを抜けようが、三人で順番に怖い話を話そうが、松井先生が許す限り大丈夫。
早苗ちゃんは早速いつもの顔に戻って聞いた。
「学校の近くに小さい美術館があるの、知ってます?」
彼女の丁寧語は違和感があって、初めはどう反応して良いかわからなかった。僕だけなら普段通りなんだけど、海斗がいるから仕方ない。
美術館を、僕は頷けるほど知らない。存在は知ってる程度。だから、答えたのは海斗だった。
「美術館って、高校出て左っ側にあるやつだよな? 名前は知らないけど、隣に温室あったよな」
高校と、美術館は、中州と呼ばれる土地に建っている。中州と言っても小学校区が二つ入るくらいには大きい。目の前の二人はその中に住んでいる。僕も、小学校三年生まではここに住んでいたけど引越してしまった。
引越した場所と中州は、高校が通えるくらいに近かった。けれど、中州に関する僕の知識、特に地理に関してはちょうどその時までで終わっている。歳が二桁になったばかりの少年の土地勘なんて頼りない。
美術館みたいに存在だけ知っているとこや、行った記憶はあるのに場所を忘れてしまったところに出くわすと、なんだか懐かしい。
「そうです。隣にあるのはお庭ですけど」
なんとなく美術館について知った気になったから、僕は適当にふんふんと頷いておく。
楽器の音が止まって、また始まった。早苗ちゃんに聞くと、マーチングの練習をしているらしい。吹奏楽部である彼女が積極的に夏休みも図書委員の仕事をしているのは、部活をサボる口実だという。委員会活動は部活よりも優先されるから、ちょうどいいらしい。松井先生もこのことを知っていて、委員会活動中なのにこうも自由にさせてくれているのだ。多分。
「夏休みが始まる直前、部活が遅くなった日がありました。日が暮れて真っ暗です」
その話しぶりから、彼女自身のことを語っている気がした。
「さっきの美術館、そこは彼女の通学路でした。辺りは住宅街。街灯は最低限の、昼間はそう感じませんが、日が暮れると急に暗く感じます。カーテンから漏れる明かりもありますが、道を照らすほどではありません」
そして息をつく。こういった時、彼女は何かを読んでいるように話す。
「美術館のお庭の前を通っている時です。ええと、進行方向左に美術館とお庭があって」手を動かして、それぞれの位置を説明していく。「前にお庭。その後ろ、すぐ隣に美術館です。彼女は住宅側の歩道を歩いていました。右側ってことです。美術館はとっくに閉まっていましたが、電灯がその壁をぼんやり照らしていて、蛾が飛んでいました」
説明に使っていた両手をパタンと下げた。
「突然、左側が眩しくなったんです。車やバイクの音が聞こえなかったから、なんだろうって彼女は光のほうを向きました。彼女の耳は正しく、振り返っても何もありません。遠くのほうで車が横切ったくらいです。光っていたのは庭を囲むガラスです。中に植えられてある植物が陰になって、下の方は見えませんでしたが、真ん丸く光っていました。トンネルみたいに半円に、ぼんやり光ってたんです。どこか別の、例えばあの世と繋がる光じゃないかと、思わず立ち止まっていました。止まってすぐ、植物ではない別の影が光から出て、すぐに去っていきました。あの世とのトンネルじゃないか、と考えていた彼女は怖くなって、その日は走って帰りました。それ以来彼女は怖くなって、別の道を通ってるみたいです」
早苗ちゃんの話しかと思ったけど、違うような気がして、「君の話?」と聞いた。言ってから、聞いてよかったのかどうかと考えた。
「え、違うよ。違いますよ」
そういう彼女の顔を見てハッキリした。早苗ちゃんの話だ。
でも、僕の表情から別の何かを感じ取ったようだ。何か言う前に早苗ちゃんは口元に手を当てる。
「真広先輩信じない人だからわからないでしょうけど、ほんとの話なんですよ」
確かに、彼女の言うとおり僕は幽霊とかそういうものは信じない。でも、話を聞くのは面白いから好きだ。怖いと言うよりは、なぜそれが起こったのに興味がある。だから、いつか幽霊とか不思議な現象の正体を突き止めたいと、ちょっとだけ思っている。
「影かあ」
海斗が腕を組みながら言う。
「はい、そうです」
「光は庭の中? 向こう?」
そして首を傾げる。
「うーん、植物の向こうなのは確かですけど、どうなんでしょう。あそこ、すりガラスとガラスでデザインされているから、どっちでもおかしくないんですよね」
「なるほどな」
まだ質問したいことがあるようだ。
さっき僕が話したときもそうだったけど、怖い話に質問されても困るよ海斗。
ニ
「あの話、どう思う」
早苗ちゃんがカウンターに戻って早速、海斗は隣に置きっぱなしだった漫画を手に取ってぱらぱらめくる。
「なにかの勘違いじゃないかな。少なくともあの世と繋がるトンネルじゃないはず。警備員さんじゃない?」
「夢がないなあ」
「実はなんとかでした、みたいに自分で心霊現象の謎が解けたら面白いだろうとは思うけど」
そういった瞬間、海斗の目が輝いた。開いたばかりの漫画も閉じる。
「いいじゃん!」
その笑顔にちょっと嫌な予感がする。
「何が」
「解明しようぜ!」
僕は心底嫌そうな声が出るよう意識する。
「えーそういうなの首突っ込むと碌なことないって言うよ?」
「じゃあさっきの台詞はなんだったんだよ」
「さっきのは、面白そうだなってだけで本当にやろうとは」
海斗は僕の言い分を遮る。
「いいじゃんか。俺もやってみたかったんだよ。お前らの反応見る限り、早苗さん本人の話なんだろ? ほら、謎解きよりずっと別の道から学校通ってるほうが大変だろ? 夏休みだから一ヶ月学校来ませんなら怖いのも忘れるだろうけど、吹部は毎日だし、別の道ってことは遠回りってことだし」
「まあ、確かに」
謎解きの方が楽かはともかく、返事をしなければ彼の言い分は止まりそうにない。
「よし! 行くか」
海斗は本棚に漫画を戻した。
うきうきしている海斗に僕は言う。
「宿題はいいのか?」
宿題をやりに来たと言ってたが、漫画を読んでいるか怖い話をしているところしか見ていない。一応、机には数学のプリントが一問だけ埋められた状態で放置されている。僕もやらないと。
「開始十分でやる気なくしたから大丈夫」
「あーだから」
僕が来たときにはすでに漫画コーナーにいたのはそういうことだったのか。そして、暇を持て余しているのだろう。たった十分で帰るのが嫌な気分はわかる。
「いいんだよ。休みまだ一ヶ月はあるし。お前こそいいのか? 何しに来たのか知らないけど」
「いい。読書感想文で指定されてた本借りるつもりだったけど、みんななかった」
早苗ちゃんが入ってきた僕を見た途端そう教えてくれた。こんな時にしか図書室に来ないのがばれている。
「それは遅かったな」
これなら去年みたいに夏休み前に借りて置けばよかった。今年は忘れていたのだ。
「そうだね。これで借りられたら宿題の計画、順調に進むつもりだったのに」
とはいえ八月に入った頃にその計画はいつも無茶苦茶になる。それがちょっと早まっただけだ。
「本は何とかなるって。それより、善は急げだから行くか」
「善……になればいいけど」
「なにかがわかったら言えばいいじゃん。何もなかったら何もしなかったことにしよう」
「おっけー」
プリントを片付けるために立ち上がった海斗の後姿に返事をした。
三
「お前は美術館、行ったことあるか?」
徒歩の僕に合わせるために、海斗は自転車を押しながら進む。
「いや。小さい頃はこの中に住んでたんだけど多分ない。ぼんやり知ってるってぐらい」
「あ、住んでたんだ。じゃあレモン島ってわかるか?」
先ほどの通り、ここは中州である。地図で中州を見るとレモンのように見えるから通称レモン島。単に島と呼んだりもする。横向きに転がったレモンではなく立てたレモンの形をしている。つまり、南北に長い。この島の小学校に通う児童は、その頃に島という呼び名を知る。
「知ってるよ」
海斗は楽しそうに笑った。
「そうか! 通じると面白いよなこういうの。一緒の小学校だったりして」
「同級生に横山海斗って奴いなかったから、違うな」
僕は首を振る。島に小学校は二つ。だから隣の小学校。
「よく覚えてるなー」
「一応ね」
昔から、人の名前はよく覚える方だ。
「隣の小学校でもレモン島か」
島には二つの小学校しかないから海斗の言う通り隣だったんだろう。もし引越さなければ、一緒の中学だったわけだ。
「あれ、誰が言い出したんだろうね」
「結構昔っからあるっぽいよな」
「あ、それで僕、美術館が駅とは逆なのはなんとなく知ってるけど、それ以上のことは知らないからよろしく」
「おうおう任せとけ。チャリですぐだから、歩いたら十分くらい?」
四
海斗はそういったが、十分もかからず着いた。
「なんか、見覚えあるな。でも、こんな庭だっけ」
美術館は一辺が二十歩くらいの立方体で、壁は薄い桃色だった。ところどころに小さな窓があるが、そこから中は見えない。その隣にすりガラスとガラスを、僕の知らない規則正しさで組み合わせてデザインされた壁がある。下の方で使われているガラスは小さく入り組んでいて、目線ほどの高さになると、身長より大きなガラスが使われている。高さは三メートルくらいありそうだ。ちょっと怖い。
そして、その中が庭だろう。中に向日葵が咲いているのがガラス越しに見えたり見えなかったり。住宅街の真ん中のこの壁はよく目立つ。
「いつだったけ中学の時? その時にこうなった気がする」
それなら知らなくてもおかしくはないな。
僕が壁の法則性を見つけようとガラスとにらめっこをしていると、海斗が美術館とは反対方向をじっと見ていた。
「どうした?」
なんか顔をしかめている。
「んーいや。あそこにカーブミラーあるじゃん?」
庭と正反対の家ではなく美術館の方向にある家を海斗が指す。出会いがしらの用途を避けるためか、家の人がでてくるのをわかりやすくするためか、目線の高さの位置にカーブミラーが取り付けられていた。
「それが、どうかした?」
カーブミラーとして使うためにはちょっと内側を向きすぎているような気がするが、いたって普通だ。ちょうど僕の姿が見える。
「あー真広のとこは大丈夫なのか。いや、美術館以外に何かないかなって思って違うところ見てたらさ、太陽光もろに食らった。ばあちゃんも同じことしてるなって思ってちょっと近付いたらこれだ。眩しい」
僕は笑って言う。
「何か、おかしいところは?」
海斗は目を押さえる。
「目閉じてても光が見える……それくらいだな」
手を外して瞬きをする。
「復活した」
「よし、で、どうする?」
海斗は首を傾げた。僕も傾げる。
「さあ散策?」
そして美術館の周りを歩くも、いたって普通の美術館だ。何もない。一周したところで僕は思う。
「こういうのって、夜にやるんじゃないの?」
海斗は納得いったようで、手を叩いた。セミの声に負けないくらい住宅地に響く。それに対抗してか、セミの声がもっとうるさくなった気がする。
「やべっ……と、まあそうだよな」
「そうだよ。真昼からトンネルみたいに光られてもわからないし」
「そうだよな……てことは、俺らはただ単に美術館に来たことになるのか」
「なんでだよ」塀の上をよたよたと歩く猫を、視界が捕らえる。「あ、ピアノ」
僕とまったく違う方向を見ていた海斗がこちらを向く。
「ピアノ?」
海斗はピアノを弾くまねをする。
「違う違う。あそこにいる猫」
「あれか。そういう名前なんだ」
ピアノについている首輪を見つけたのだろう。海斗はそういった。
「本名は知らないよ。でも、引越す前からずっといるんだ。昔は模様がピアノっぽかったからかってにピアノって呼んでる」
「ピアノにか。言われてみたら、なんと……なく」
苦しい同意だ。
「昔はもっとピアノに見えたんだよ」
今はちょっと白の面積が増えたけど、模様はあまり変わっていない。だから、高校生になって始めてピアノを見たとき、見たことがある首輪をしているネコがピアノであるとすぐにわかった。
僕は海斗に言う。
「ともかく、どうする?」
彼は不思議そうな顔をした。
「? 何言ってんだ。美術館だろ?」
「ああ、寄るのね」
「ここで帰ったって意味ないしな。中に光る何かがあるかもしれない。庭に入れるのは昼間だけ。ここ、庭だけならお金はいらないし。たまにはいいじゃん」
「なるほど、寄ろう。花は好きだしね」
詳しくはないが好きだ。だから園芸委員になった。
五
美術館に入る扉を開けると涼しい風が吹いた。ずっと暑い中にいたから嬉しい。一階にある受付で庭だけ見ると告げる。平日だからか、中はがらんとしていた。始めてきた建物にきょろきょろしながら奥の扉から庭に出た。また太陽に照らされる。圧倒的な夏の気配。
「ちょっと早かったかな。だけどきれいだ」僕は言った。
面積は、美術館と同じくらいだと思う。向日葵畑はところどころに小道が作ってあって、歩き回れるようになっている。開ききっている花もあるが、まだ半分しか開いていないものもある。庭には僕らの他に数人いて、ガラスのすぐ向こうに家が見えるのはなんとも不思議な気持ちだ。
「なんか夏って感じだよな」
海斗は腕を組みながら、小道に向かって歩きはじめる。
鉄で作られた看板が目に付いて、僕はそれを読む。太陽光で暖められて、火傷してしまいそうな熱気が伝わってくる。
どうやらこの壁も作品の一種らしく、読めない難しい漢字で名付けられていた。創立者が愛した向日葵畑の印象を再現するとともに、ここの向日葵との調和を目指して作られたらしい。
読みきって、とりあえずなるほどと頷いておく。かわりに向日葵畑に関する記憶が芋づる式に出てきた。小さい頃、早苗ちゃんと向日葵畑で遊んでいた記憶がある。その頃、向日葵は頭の上で咲いていた。今、向日葵は肩くらいで咲いている。あれはどこだっけ。レモンを横に切った下半分の地区に小学校はあった。そこから北に走ったらあった。隣の校区で、ちょっとした冒険気分だった。
「あ、違った」
「は?」
返事が帰ってきたことで、海斗が近くまで来ていたことに気付く。
「小学生の時、来たことある。不法侵入だ」
鮮明に覚えているのは見上げたところにある空と花と、それから……。とにかくあの時見た空は青一色で、花びらは絵の具箱に入っていたレモンイエローと同じ色をしていた。
「なにそれいいね。詳しく」
僕はどこまで話そうか、考えつつ話す。
「早苗ちゃんに秘密の道を教えてもらったんだ。あの人抜け道とか見つけるのが得意で。今は知らないけどね。で、彼女に着いて行ったら植木とその奥に柵があった。それだけなら、他に教えてもらったのと、あまり変わらなかったな」
他にもあったんだ、と海斗が相槌を打つ。
「植木って、下の方が潜れるようになってたりすることがあってさ。その植木も潜れそうだったから、背中に枝を引っ掛けながら通ったよ。柵は大きくて、実質飾りだったんだろうね。余裕で抜けれたよ。それで、抜けた先に、向日葵畑があった」
「それがここか」
「あの時は、天国にでも飛んだんじゃないかって二人で話した。急に世界が変わったからね。空を向日葵が覆っていて、凄かった。ほら、向日葵より背が低いから」
「いいな。夢がある」
「美術館に行ったことなんてないし、今と違って植木で庭の中も見えなかった。まさか、向日葵畑が島の中に二つもないだろ?」
「そうだな。それは俺が保障する」
「数回行ったけど、夏の間だけ。すぐに行かなくなったね」
「へえ、どうして」
僕はちょっと考える。あの時、なにがあったっけ。しゃがんだ早苗ちゃんの後姿が浮かぶ。これは海斗に言ってもうまく話せる気がしない。なので、別の理由を思い出す。最後ここに遊びに来たときは、いろいろと散々だった。天国なんかではなかった。
「えっと、最後に行った日、耳元で羽音がしてね。それを虫が耳に止まったと勘違いして思いっきり耳を叩いちゃったんだよ。しばらく左耳おかしいし嫌になってね。その後すぐに引越したのもある」
これは嘘ではない。何の虫だが知らないが、大変怖かった。そんなこんなが積み重なって、動物も植物も好きだった僕が生き物を避けるようになるのだ。
向日葵の葉を突いて海斗が言う。
「もしかして、早苗さんがあの世のトンネルって言ってたのって、これじゃね? 天国に吹っ飛んだってやつ。お前みたいに向日葵畑が美術館の庭だったっての、気付いてるか知らないけど、小さい頃のだとしたら、よけいに心霊現象じゃなって証明できるんじゃないか?」
「ああ、そうかも。それなら、少なくともあの世のトンネルだと思ったことについては説明できる」
向日葵畑を天国だという認識は僕と同じように彼女にもあるはずだから、無意識にそう思ってしまってもおかしくない。
「よし! そうするとただ光っただけになる! あと、お前が横切った影らしいものを思い出してくれれば完璧だ」
僕は噴出しそうになりながら言う。
「いや、さすがに無理だよ」
「だろうな。まあ、普通に考えたら見回りの人とかなんだろうけど。でも、だとしたらずっと光ってたろうし」
「巡回の時間なんて、聞いても教えてくれないだろうしね」
「なんで?」
「だって、ほら、怪しいじゃん」
海斗は数秒黙る。大方時間を聞かれた側の人の気持ちにでもなっているのだろう。
「やばいな」
「だろ?」
「夜外に張り付くのも、怪しいよなあ」
「蚊に刺されるの、嫌だよ。手遅れだけど」
どうも僕は蚊に刺されやすい人らしい。庭に入ってから今までで、すでに何箇所か咬まれている気がする。
「じゃあ、とりあえずは後回しか。他に何か思いつく?」
「そうだな」僕は考える。「少なくとも今日は解散かな。帰ったら早苗ちゃんに連絡とって見るよ」
「ネタバレしない程度によろしくな。じゃ、また来週」
「来週?」
来週、何かあったっけ。
「あれ、お前高校来ねえの?」
水やりのことを言っているんだって、すぐにわかった。
「ああ、わかった。図書室に寄ればいいんだね。海斗は来るんだ。意外」
「ほら、宿題やりにさ。今年は死にたくない」
確か彼、去年いくつか出してないんじゃないかな。いや、何とか出したんだったっけ?
「もうちょっと別の方法考えたほうがいいんじゃないかな、それ」
十分で飽きたって言ってたじゃないか。
「なんだよー。真広はどうなんだよ」
「僕は、最初はやる気ある人だから。七月だからまだ大丈夫。本も借りようとしたし。偉い」
海斗は鼻で笑う。
「八月に入ったら、何かやり方考えた方がいいんじゃないか?」
「やばくなったら考えるよ」
「あーこれじゃあ二人ともおしまいだ」
海斗は伸びをして、腕時計を確認した。
「もうこんな時間じゃん。俺、帰るな」
海斗が手を上げたので、僕も上げ返す。
「うん。僕はもう少しここにいるよ」
六
僕が向日葵畑に来なくなった理由を話そう。
さっき、海斗に言ったことの続きだ。早苗ちゃんに連れてこられた後も、何度か二人でここに来た。わざわざ何かするわけでもなく、抜け道を出てすぐのところで座り、すごいとかきれいとか、毎回同じような感想を言い合ってすぐに帰っていた。目の前が向日葵だらけで道がなく、うまく歩けそうになかったからだと思う。
夏休みのとある月曜日。両親に連れられて水族館に行った、次の日だ。その日会う約束をしていた友達から風邪を引いたと電話が来て、僕は一人、外に出ていった。
子犬を探していたからだ。
子犬については、もう少し前から話した方がわかりやすい。
僕の家族は引越しが決まっていたのに子犬を引き取った。新しい家が、動物を飼ってもよかったからだろう。
動物を飼ってみたかった僕はとても喜んだのを覚えている。でも、その子犬は数日でどこかに行ってしまった。探したけれど見つからず、落ち込む僕を両親は水族館へ連れて行った。多分、僕の気を紛らわすためと、罪悪感からだろう。もちろん、それですべてを忘れたなんてことはない。会う約束をしていた友達とは一緒に子犬を探すことにしていた。それがなくなったから、僕は一人で探しに出かけた。じっとしていられなかった。
強い風が吹く中、どれくらい歩き回っただろうか。僕は遠くの方で、走る早苗ちゃんを見つけた。手を胸の前で汲むようにして走るのが彼女の癖で、後姿でもあれが早苗ちゃんだとよくわかった。
子犬がいなくなったことは彼女も知っていたから、彼女も子犬を探してんだると思って追いかけた。追いかけていくうちに、早苗ちゃんが何かから追われているように走っていることに気付く。ただの勘違いかもしれないけど、余所見をせずまっすぐ道を走る早苗ちゃんは、少なくとも何かを探している風には見えなかった。
僕は、声をかけても届かない距離から詰めることができず彼女を見失う。あの走り方の癖で彼女は足が遅いのだが、同様に僕も遅かった。見失った場所は、向日葵畑へ行ける抜け道の近くだった。ここで僕は思う。何かから追われていたとすると、隠れられる場所は向日葵畑だ。一度入ってしまえば外からは見えない。暑さでくらくらする頭と弾んだ息を落ち着けるため、僕は斜めにかけていた水筒でお茶を飲む。
生垣の前まで来た時、心がざわざわした。不安に思っていると、耳元で大きな羽音がした。勢いよく叩いてしまった僕の耳はキーンとした後ぼおっとなって、自分の出す音は大きく聞こえるのに外の音が遠く聞こえるような、変な風になってしまった。それが気持ち悪くて拭い去ろうと抜け道を潜る僕は、彼女がいつもの場所にいないのを知ると、向日葵をかき分け奥へ進んだ。まだ体が小さかったから、何とか花を押し倒さずに進めた。彼女の着ていた服と同じ薄いオレンジ色の布が見えて、そっちに近付く。
向日葵の壁がだんだん薄くなり、彼女がしゃがみこんで何かをしているのが判別できるようになったとき、僕は足を止め、見つからないように口元に手を当てた。
なんというか、彼女は異様だった。僕らが普段使っている抜け道があるところとは別の生垣の近くで、彼女は地面に向かって何かしていた。それ以上は彼女自身で隠れてしまっていて見えなかった。見える角度まで移動しよう、なんてことは考えられなかった。とにかく彼女は一心不乱に何かをしていて、それがとても不気味だった。
少なくともこんな早苗ちゃんは見たことがない。
僕は子犬のことも忘れてしばらく立ちすくんでいた。見つからなかったのは強い風と、強い集中力のおかげだろう。僕は彼女を置いたまま家に帰った。二度とここにも近付かなかった。
引越した僕は、序々に子犬のことを諦め、忘れていった。
今ではあの子の名前も思い出せない。
七
夕食も終わり、自室に戻って携帯を見ると、先に彼女からメールが来ていた。普段ほとんど連絡を取り合わないので珍しい。メールを開いてみる。
『面倒なことさせちゃったね。ごめん』
思い当たるのは怖い話くらい。でも、その件で謝られるようなことは彼女、やっていないはずだ。少なくとも僕は思いつかない。
『何かあったっけ?』
『横山先輩と美術館行ってくれたでしょ?』
『何で知ってるの?』
送ってから、聞こえてたか、と気付く。
『聞こえたの』
ほら。
よく考えなくても当たり前だ。僕らがいたところとカウンターの間に本棚があるとはいえ、そんなに離れてはない。いつもの調子で話していたら聞こえていて当たり前だ。図書室中に響いていた気がしてくる。
『二人とも暇だったから、気にしないで』
そう送ってしばらく後、携帯が震える。早苗ちゃんだ。
『もしもし。今、大丈夫?』
思いのほか声が明るくて、ちょっと以外だった。さっきまでのメールの内容とはちょっと不釣合いだったから、僕は彼女のテンションに合わせることにした。
「大丈夫。どうしたの?」
『打つより話すほうが早いなって。先輩いたらうまく話せないでしょ?』
「あはは」
『待って言わないでよ。先輩ってそれだけでなんか……あるじゃない。丁寧語使わなきゃだし、気が張るっていうか』
僕は笑う。
「わかる、わかるよ。僕としては、早苗ちゃんの丁寧語が面白くて大変なんだけど」
『だって仕方ないじゃん。何で私真広くんと同じとこ来たんだろ』
「びっくりだったね。全然話さないからね、普段」
僕が引越してから、早苗ちゃんたちの家族と会う機会はめっきり減った。長期休み中に会うくらい。同じ高校に通えるくらいにしか遠くに引越さなかったのに、不思議なものだ。
『お母さんは知ってたみたいよ。何で言わなかったんだろ』
「またお母さん同士しか知らなかったってやつだよ。叔母さん、元気してる?」
『元気元気。あ、でもちょっと夏バテ気味だって言ってた』
少しの間があった。
『美術館、何かあった?』
彼女の声はどこか不安そうだった。
「何もなかったよ」
安堵したような息づかいが聞こえる。
『よかったあ。昼間だったし、同じことがまたあるわけないしって思ってたけど、やっぱり不安で……』
「もう大丈夫そう?」
これで大丈夫なら、目的を半分達成したようなものだ。残りの半分は謎の解明。
何秒かの沈黙があった。
『んー。昼間、通ってみようかな。夜はまだちょっと心構えが』
どうやら、半分達成というにはちょっと早すぎるみたいだ。
「そうか。昼間通って大丈夫になるといいけど」
『うん。――もしかしたら、なんだけど、あの影、子犬なんじゃないかと思うの。光のトンネルの、向日葵の陰の奥にいた』
「子犬?」
彼女の口からその単語が出たことに驚いて、喉でつっかえたようなおかしな声になってしまった。
『大丈夫?』
「大丈夫」
『昔、いたでしょシロちゃん』
「シロ?」
『何言ってるの。飼ってたじゃん……すぐいなくなっちゃったけど』
シロ、シロ。まったく口馴染みのない名前。なんというか、想像以上に長い時間が流れていたようだ。同級生の名前は全員言えるのに。
「覚えてるけど、名前、忘れてて」
『うそ。うーん、そうか。そうか』
開けた窓から生ぬるい風が入り込む。
『私ね、あの影を見たときに、シロちゃんじゃないかなって思ったの』
「美術館、元の家とはちょっと離れてるけど……」
『うん、そうなんだけどね、ちょっと……』僕が小さく相槌を打って、続きを待った。『うん、それだけ。ありがとう』
八
宿題の進みは相変わらずのまま、また水曜日がやってきた。八月の一週目だ。
気温はますます暑く、確認するのも嫌になるから天気予報は見ていない。少なくとも僕が見える範囲は晴天。
電車で座れた僕は、いつもより少しだけ機嫌よく鞄を背負いなおした。先週よりもいくらか遅い電車だから、空いていたのだ。駅を降りてすぐの踏切で止まる。ここで止まらず通れたことは何回くらいだろうか。いつも邪魔してくるのは自分が降りた電車だ。
電車を追いかけるように強い風が吹いて、体が左に押される。電車が通り過ぎて、でもまだ風が吹いているタイミングで遮断機が上がる。押された勢いそのままで足を踏み出し歩き始める。
後ろから来た小学生が、パタパタ走りながら僕を追い抜かしていく。機嫌のいい僕よりずっと元気だ。
「あ、猫いた!」
「なんて名前だろ」
「ねこ、どこ?」
「もう通り過ぎたよ」
「タマ」
「ポチ」
「ポチは犬でしょ」
「ねこでもいいじゃん」
「背中にミって書いてあった!」
「ミミ!」
「ねこ見たかった。ミーちゃん?」
「ミーコ」
僕はあたりを見渡す。どこにもいないけど、ピアノがいる気がした。今のピアノはピアノというよりカタカナのミの方が近い模様をしているから。彼か彼女か知らないが、元気そうで何よりだ。
「おお、完璧」
図書室で本を読んでいる海斗を見て、僕は呟く。何の本かわからないけど、ちゃんと図書室って感じがして良い。なのに、海斗は眉をひそめる。
「は? とうとう暑さでおかしくなったか」
「ひどいな。すべてが順調だったんだ」
「ふーん?」
「電車で座れたし、水やりも、皆なんだかんだ真面目にやってるし」
そう言いながら気付いたけど、僕が順調である理由に特に興味もなさそうだ。
「数年前、枯らしたんだっけ」
「みたいだね。入学前だし、顧問の先生も違うときの話だけど」
よっぽど酷かったのか、先生が変わってからも毎回長期休みの時はこの話を聞く。
「早苗さんの件はどうなった?」
僕は、メールと電話で話した内容を伝える。こっちでいろいろ動いていることを早苗ちゃんが知っていると知って、海斗は悔しがるが、もう遅い。知られていても、いなくても、結果はあまり変わらなかったんじゃないかと思う。
「とりあえず昼間は通れるようになったんじゃないかな。電話ではそう言ってた」
「おお、順調じゃないか」
「問題は日が暮れてからだね。そこがまだだ」
昼間、大丈夫になったのなら、もう一息な気がするのだが、恐怖心を相手にするのはなかなか手強い。
「吹部がいつまでやってるのかわからないけど、冬になったら終わりだな」
海斗が閉じた本をくるくる回す。
「そうだね」
「でも、他に何ができる?」
「ちょっと考えてみたんだ。何がトンネルになったんだろうって」
海斗が、ほう、と相槌を打ってそのまま続ける。
「光って、影が映ったんだっけ。早苗さん的にはトンネルから出てきた何かの影が見えた、と」
「そう。別に、摩訶不思議なトンネルにしなくても、光るものなんてたくさんある。早苗ちゃんも車とかのライトかと思ったっていってたし、街灯、携帯何でも光る。だから、誰かが向日葵に身を隠して懐中電灯でも付けたんじゃないかなっ思ったんだけど、意味わからないし」
「人はいなかったんだろ?」
僕は、ついこの間見た向日葵畑を思い出す。限界ぎりぎりの密度で植えられていた。
「夜だったらしいし、庭の端から照らしたんだとしたら、早苗ちゃんからは完全に隠れててもおかしくないよ」
「何の目的で?」
僕は首を振る。さっきも言ったけど、さっぱりだ。だって僕が通りすがりの人を照らしても、何も面白くない。それに、僕らが見に行ったとき、向日葵の一部が倒れてもいなかった。体の小さい子どもならともかく、あの向日葵を踏まないように、折らないように進むのは難しいだろう。
海斗が手を打つ。
「何かが反射した!」
「何が?」
「何かが」
「それじゃあ僕のと大差ないよ」
僕はため息を付く。
「いいや違うね。お前のは早苗さんを認識しているけど、俺のは早苗さんがいようといまいと関係ない」海斗が本の、どこかのページを探し始めた。「俺は俺で謎を解決したんだ」
「謎? そんなものあったんだ」
初耳だ。
「そーこの前美術館言っただろ。そしたら虫がまっすぐに飛んでいたんだ。なんというか、変な感じに。一直線って言えばいいのかな」
「え、なにそれ」
虫の飛び方に、法則性があるようには思えない。僕の知っている範囲内のことでしかないけれど。でも、「変な感じに」という勘は、馬鹿にできない気がした。
「一周ぐるりと回ったときだな。覚えてるか? 猫がいてさ」
まだページ探しは終わらない。本を閉じたのが失敗だった。
「言ってくれればよかったのに……」
「変な飛び方の虫より道端に突然現れたピアノの方が驚くじゃんか。猫だったけど」
「それは確かに名前が悪かったな……。それで、それの何を解決?」
「ああ、虫がまっすぐ飛ぶ理由をどこかで読んだことがある気がしたんだ。家にある本探してみたけど見つからなくてさ――あったあった」
そして開いたページを僕に見せてくれる。小説の一場面だ。僕はざっと読む。
どうやら虫は赤外線に向かって飛ぶ習性があるらしい。虫には見えても人間には赤外線は見えないから、虫が何もないところを一直線に飛んでいるように見えるのだとか。
僕が読みきったタイミングを見て海斗がまた話し出す。
「きっとあの虫も、本と同じでセンサーライトか何かの赤外線に反応したんだ。あー見つかってよかった。ずっともやもやしてたんだ」
話を続けようとして口を開いた瞬間、僕はピンと閃いた。
「海斗! 今度こそ、全てが順調だ。謎が解けた」
「本当か!」
「本当だよ」
カウンターから咳払いが聞こえる。見ると、松井さんが声を下げるようジェスチャー。これじゃあ先週と一緒かそれより酷い。僕らはなぜか身も潜めながら話す。
「で、何を」
「決まってるだろ。怪奇現象だよ」
「……まじか」
「……多分」
確認されると自信をなくす。
「おまえが弱気になってどうすんだよ。とにかく行こうぜ。忘れないうちに」
早速立ち上がった海斗をとめる。
「夜にならないと、意味ない気がするんだけど」
「じゃあ、時間つぶしに……っても、ここら何もないな」
「一旦帰る? 早苗ちゃんもいないし。あ、いや、先に一度試したい」
もっと言うと、もう一回来るのもめんどくさい。
「わがままだなー盛大にミスるのは嫌だけどさ。どうしようか。早苗さん来週もカウンターらしいけど、早く解決してしまったほうがいいような気もする」
「詳しいな」
ちなみに、彼女は今日図書館にいない。楽器の音がするから、学校にはいるはず。
「カウンターに当番表がぶらさげてあっただろ?」
「知らなかった」
結局、僕の記憶を信用して金曜日の夜に一度集まることにした。その日はレモン島の中で一番大きい神社の夏祭りがあって、元から遊びに行くつもりだったからちょうど良かった。そこで、僕の思い付きが正しければ、水曜日に早苗ちゃんを連れて行く。
九
夏祭りの帰り、早くも夏の終わりを感じた僕は早苗ちゃんにメールする。
『トンネルの話だけど、ちょっとわかったことがあるんだ』
『ほんと!? どんなこと?』
どう返そうか、ちょっと考える。
『できれば日が暮れてから、美術館まで行って話したいこと。水曜日はどうだろうって考えてるんだけど』
『じゃあ、図書委員終わったくらいがいい感じかも』
嫌がるかなって思ってたから拍子抜けした。その間にもう一つメールが。
『やっぱりそれじゃ早すぎるから、駅で待ち合わせにしない? 駅前で時間潰してるから』
『わかった。六時に改札でいい?』
水曜日が来た。降りそうで降らなかった雨雲は、お昼頃には消えていった。
海斗だけが現地集合で、僕ら三人は集まった。
「よお。で、大丈夫か」
開口一番、海斗は早苗ちゃんに声をかける。
「人がいるので、まあ。完全に真っ暗でもありませんし」
それでもあたりが気になるようで、完全に大丈夫とは言いがたい。顔も、緊張しているのが丸わかりだ。
「何かあったら海斗が何とかしてくれるよ」
「俺!?」
早苗ちゃんの表情にようやく笑顔が戻った。
「でも、どうしてここに?」
いつ切り出そうかと思っていたら、彼女が言い出してくれた。
「ちょっと試したらね、出来たんだ」
海斗が庭の向こう側を指差す。
「トンネルが出てきたのってこっちの方だよな?」
唐突な彼の言葉に戸惑いながらも彼女は頷く。第一、早苗ちゃんに説明しきる前だ。どうやらこいつも緊張しているらしい。
「よかった。じゃあ、ちょっと行ってくっから後よろしく」
止める間もなく行ってしまった。
「先輩はどこに?」
「庭の向こう側」海斗に遮られてしまった続きを話す。「あの光、再現できたから、もう大丈夫」
ああ、とも、うん、とも付かない返事が帰ってくる。
もうすぐだ、と思った。向こう側まで何十秒もかからない。
そう思っているうちに、早苗ちゃんの言ったとおり、すりガラスがぼんやり光って、彼女は息を呑んだ。僕にとっては水曜日に見た光景と何も変わらない。
「あの世のトンネルでも、シロでもなかったんだよ」
子犬の影の変わりに海斗の手が大きく影となりひらひら動く。
早苗ちゃんは安心したのかまだ不安なのか、少しがっかりしたようも見えて、どう判断していいのかわからなかった。だから僕はとりあえず続ける。
「……光るものなら結構あるんだ。僕らが始めに来たときは昼間で気付かなかったんだけど、海斗が何もないところをまっすぐ飛ぶ虫を見つけた」
ライトが消えた。行こう、と言って、僕らも海斗のいる方へ進む。
「まっすぐ」
「そう。赤外線を目指して飛ぶんだって。赤外線は、センサーとかに使われている。住宅地でそれが使われているとなると、」
曲がり角を曲がると、海斗がこちらを向いて待っていた。
「センサーライト。人が通ったら、勝手に電気が付くやつね」
海斗がカーブミラーを触って示そうとして、やめて指を指す。消えていた電気がまた付いた。
「それが鏡に反射して、丸く光ったんだ。で、鏡の前に手をかざすと俺の手が映るってわけ」
早苗ちゃんが、納得できないといった表情で僕に聞く。
「じゃあ、何があの影だったの? 誰が電気を付けたの? 人は多分、いなかった」
「僕はその場所にいなかったからわからないけどね、本当に人がいなかったなら、影と、ライトを付けたのは一緒じゃないかと思うんだ。でさ、このあたり、猫がうろついてたりしない?」
「うん。白黒のとか、茶色いのとか、毎日じゃないけどよく見るよ」
「犯人はさ、早苗ちゃんがよく見る猫のうちの一匹だと思うんだ。センサーって、動くものに反応するから、虫が通っただけで光ったりもするみたいでね。地面か、どっちかを歩いていた猫に反応してライトが光る。次に、鏡の前を通るから、影ができる」
「そう。センサーは俺が発見した」
自慢げに答える海斗に早苗ちゃんは表情を崩す。
「なあんだ」
そして、鏡と美術館を見る。
「こんなことに怖がってて恥ずかしい……。先輩も、ありがとうございます。こんなことに付き合ってもらって」
「楽しかったからいいってことよ。いや、楽しいは悪いか。なんていうか、夏!って感じがしたね、俺は」
「気楽だなあ。相変わらず」
「まだ夏は半分以上もあるんだぜ? 気楽にもなるよ」
バイクが一台凄いスピードで通り過ぎていって、それが合図になった。
「僕はそろそろ帰るけど、二人は?」
「俺? 俺も帰るよ」
「早苗ちゃんは?」
「どうしようかな。私はもう一回見たいお店があるから、駅まで付いていく」
「あ、わかった」
二人とも帰るだろうと思っていたから、想定外だ。
十
「たったこれだけに時間取らせちゃってごめん」
十分もかからないことだった。説得力に欠けるとは言えメールとか、図書室で話してもよかったようなものだ。
「それは私が言わないと。でも、よかった。これでまた普通に帰れる」
一つ謎を解決すると、別の事がずっと気になって仕方なかった。
「一つ聞いていい?」
「ん? いいけど、何を?」
「何で子犬だって思ったの? それがなかったら僕も猫だとわからなかったわけだけど」これは本当に僕が聞きたいことではない。返事される前に言い換える。
「昔のことで、それこそ覚えていないかも知れないけど、シロ探してた時、走る早苗ちゃん見かけたんだ。あの時何をしてたのか、謎解決したあたりから気になってて。美術館目指して走ってたから、連想ゲームみたいに今回の影を子犬だって思ったのかなって」
言いながら、説明下手だなと思う。
けれど、彼女は驚いた顔をした。それはもう見事に。こんな説明でもピンと来るくらい、彼女には印象的な出来事だったのだろうか。
「見てたの」
僕は頷いた。
「離れてたけど、追いかけた。何かに追われてたみたいだったし」
彼女はちょっと意地悪そうな顔をして、
「真広君から逃げてたの」
と言った。
「嘘だ。僕が追いかける前から逃げてたよ」
早苗ちゃんは表情を変えない。
「え、本当に?」
僕がそういうと、吹きだした。
「そんなわけないでしょ。だって、追われてなんかなかったもん」
「なんだ」
「知りたい?」
さっきより勢いよく頷く。
「結構気になってる」
「どこまで追ってたの」
「どういえばいいのかな。途中で見失ったんだけど、向日葵畑が近くにあるからって行ったら君はしゃがんでた。全部後姿だったから、何してたかはさっぱり」
「結構知ってるね」
そして、目を伏せてから話し始める。
「君のお母さんは、危ないから無理に探しに行かなくていいって言ってくれたんだけどね、どうしても探したかったの。シロちゃんのことね」
「うん」
「私ね、多分、真広君が私を見つける前。シロちゃんを見つけたの」
僕は驚いた。彼女には到底及ばないが、とても驚いている人の顔になった。
「でもね、駄目だった。車か何かに跳ねられた後だったのね。倒れたまま冷たくなってた。シロちゃんに会ったことは一度だけだけど、首輪が一緒だったからすぐ、似た子でも何でもなくシロちゃんだってわかった」
「それは……」
「もうね、どうしていいかわからなかったわ」
声がワントーン跳ね上がった。意識的なものだろう。
「だって、今でもわからない。皆が悲しむのだけはわかったからとりあえず抱き上げて、走ったの。追いかけられているって言ったの、合ってるるかもしれない。恐怖心とか、焦りとか、とにかく何とかしなきゃって。皆に言いに行こうとは考えもしなかった。絶対生きてるって信じてたから。馬鹿ね」
「……」
なんと返していいのかわからない。
「思いついたのは向日葵畑。ねえ、覚えてる?」
うっすらと、想像がついた。だって、当時の僕ならきっとそうしてる。
「……天国みたいだって言ってたね」
「うん。一人で何とかしてしまおうって思った私が思いついたのは一つ。死んだら、お墓に埋められるでしょう? でも、この子はどこに埋めたらいいんだろう。一番ぴったり来たのは向日葵畑。私はあのお庭の端っこに、シロちゃんを埋めたの。見つかったらどうしよう、とか、いろいろ考えながら必死で埋めたわ。後でわかったけど、月曜日は休みで誰もいないんだから、そんな心配いらなかったね」
彼女はまっすぐ前を向く。
「だから、あの影が、シロちゃんじゃないかと思ったの。私を恨んでいるのか家に帰りたいのかわからないけど、戻ってきたならそれでよかった」
僕は考える。恨まれるなら僕の方だ、とか、いろんな文章が思い浮かぶけど。
「……道、遠回りのままがよかった?」
彼女はしばらく首を振ってから、答えた。
「ううん。あれが、あの時の私に出来た一番良い行いだから。ずっと不安に思うのは、当時の私に悪い気がする」早苗ちゃんは息をつく。「あれ以上は無理だったよ」
僕もそうだろうか。
「名前、忘れないようにできたはずだ」
早苗ちゃんはなぜか首を振る。
「忘れないと、しんどいよ。それも、当時の真広君にとって一番の行動だったんだよ」
「でも……」
「きっと、もう忘れないでしょ? それに、今日のは、一番よかったかも。だから、大丈夫」
そうか。僕は名前を再び知ることができた。
「大人になったら、もっと良い一番が見つかりそうだな……」
「でも、私は安心したよ? 今できる一番だったなら、いいじゃない」
「そうか……そうだといいな」
あっという間に改札に着いた。景色を見ていなくても、勝手に足は動くものだ。
「じゃあ、またね」
「うん」
僕は定期を取り出す。