問題のある新入社員16話 (SIDE:哲郎)
音無さんに渡したのはITパスポート試験対策の解説本である。だけど後々彼女が試験を受けることを考慮したら、書き込みドリルや過去問集もあった方が良いだろう。
そう思ってそれらを手に取った。同じ職務に携わる同僚としても指導役としても、後輩が必要な知識を学び得ることに意欲を見せるのはとても嬉しいことだし、好ましい。
やる気、意欲というものを持たない人間に、それらをどうやって持たせるかについては、いつもとても苦心しているので、こうやって自分から進んで勉強しようという姿を見ると、IT従事者としても教育係としても安堵する。
やる気のない、あるいは自主的に動こうとしない人間には何をどう教えても無駄だ。彼らにどのように興味を持たせ、やりたがるようにさせるかはたぶんきっと、永遠の課題である。
レジに並ぼうとする音無さんの後ろに俺もついた。
「鴻先輩も何か買うんですか?」
そう問われて笑みを返した。
音無さんの順番が来たので、台の上に音無さんが置いた本の上に更にもう二冊乗せ、六千円をトレイに置いた。
「会計一緒にお願いします」
「えっ!」
音無さんが驚いて振り返るのに、笑って答えた。
「いや、どうせだからこっちのドリルも買っておいた方が良いと思ってね。大丈夫、気にしなくて良いよ」
「いえ、気にします」
「音無さん、あまりお金使いたくないって言ってただろう。俺はこういうの買って読むの好きだし、読み終わったら大抵はそのまま捨ててるから、ついでに音無さんの勉強になるなら一石二鳥だ。
過去問や参考書はうちの資料に回せるし、俺も読みたいから終わったらいつでも良いからちょっと貸して読ませてくれる? それでチャラだ」
「そんなのでチャラにはならないと思います」
「あ、店員さん、問題ないので気にせず会計しちゃって下さい。お騒がせしてすみません」
そう言ってレジに通して貰う。どうもテンパっている様子の音無さんに、普段甥姪や白相手にそうするように、優しくポンと頭の上に手を置き、ゆっくりと宥めるように撫でた。
「ごめん、音無さん。先に言っておいた方が良かったな、すまない」
良かれと思ってかえって悪い事をしたと反省した。彼女の意欲が嬉しくて全額奢ろうと思ったけど、それが精神的な負担になるなら、全額経費ということにした方が良い。
金銭的な負担よりも、精神的な負担の方が重いだろうから。
「音無さん、もしかしてテンパってる?」
ひどく焦っているようで返事がないまま、彼女は固まっている。購入した書籍も受け取ったことだし、移動した方が良いかな。
「あー、うん、ちょっと移動しようか。近くに良く行く喫茶店があるから、そこへ行こう」
そう促して彼女の手を取り、二、三歩進んだところで、ハッと気付いて慌てて手を放した。
「ごっ、ごめん、ついうっかり甥姪にやるのと同じ感覚で触ってた! 本当ごめん! いや、びっくりするよな、こんなゴツい男にいきなり触られたら。なんかもう、ああ……やらかした」
慌てて弁明し、ガックリと項垂れた。
「いえ、こちらこそすみません。あの、でも、参考書のお金は自分で出します。参考書が会社の資料として経費で落ちるのなら、せめてドリルだけでも。
だって書き込みドリルってコピーして使うとかしないと、他の人が使えないですし」
「いや、大丈夫だから気にしないで。そんなに高いものじゃないし、でもどうしても気になるって言うなら、課長には音無さんが勉強するのに必要だったって言えばそっちも経費にして貰えるから」
「そうなんですか?」
「そうだよ。会社は新しく入ってきた社員を教育してそのために必要な経費を負担する義務があるんだから、これくらいは当然なんだ。
だいたい会社で仕事をするための勉強に必要な経費を企業側が負担しなかったら、新入社員は勿論、途中入社の社員だって困るだろう?
だって勤め始めたばかりで企業からまだ報酬を支払われていなかったり、あるいは支払われてはいても最初はそれほど高い金額は貰えていないのに、自己負担で勉強していたら後が続かなくなってしまう。
どうせ皆入ってきた時は同じように苦労するんだから、それに必要になるものは共有できるものは皆で共有して、勉強するための知識・経験談ややり方なんかも共有した方が合理的だし手っ取り早い。
だから別に俺は奢りとかで金を出したわけじゃない。これは会社で負担する費用を立て替えただけ。後から加えた本も必要だと思ったからだし、そういうのを説明しないで驚かせたのは本当に悪かったと思う。
ちょっと驚かせようかなという気持ちがあったのは確かだから、その点は謝る。申し訳なかった」
そう言って、深々と頭を下げた。
あああ、俺のバカ! なんか色々ボロが出ている。やっぱり今日は家に引きこもっているべきだったか。おのれ、高坂め。
八つ当たりなのはわかっているが、あいつがいなければ、こうまで理性の箍が緩むようなことにはならなかったはずだ。
二日酔いで頭が回らないのは、自分自身の所業の結果であることはわかっているが、そもそもあいつがあんな風に急に俺を呼び出すような真似をしなければ、などと考えてしまう。
責任転嫁である。……ああ、みっともない。わかってはいるのだ。この際、高坂は関係ない。やらかしたのは俺であって他の誰にも責任はない、と。
「先輩の行きつけの喫茶店って何処にあるんですか?」
「え、あ、うん。ここから五分も歩かずに行けるな。表通りじゃないから客がそれほど来なくて、いつ行っても好きな席に座れて静かだから、読書するにも勉強するにも良い環境だ」
「それは良いですね。案内お願いします」
そう言って音無さんが会釈する。なんだろう、これ。都合の良い夢を見ているみたいだ。
「じゃあ、案内するよ。この書店の裏口から出た方が近いからそっちへ行こう」
そう言って裏口へと歩き出す。小走りに駆け寄るような足音に、ふと気付いた。しまった、歩く速度が違うのか。慌てて速度を落とした。
「ごめん、少し速かったよな」
「いえ、足の長さが違うので仕方ないと思います」
音無さんの返事に思わず苦笑した。
「いや、そういう問題じゃないと思うけど。音無さん、こういう時は文句言った方が良いぞ。
今の今までちっとも気付かなかったから、こういうバカでニブイやつにはハッキリ正面切って言わないと、いつまで経っても気付かないからな」
「……自分で自分のこと、バカでニブイとか言うんですか?」
「だって本当のことじゃないか。俺、そういうの全然自分で気付けないから、何かあったらすぐ言ってくれ。ほら、犬や猫の躾けだって悪いことしたらすぐ叱らないと駄目だろう?
時間が経つと余計にされる側は負担になるし、した側は気付かないままどんどん忘れてしまうから、遠慮なんてしないでガンガン言ってくれ。その方がこっちも有り難い」
俺がそう言うと、何故か音無さんは考え込んでしまった。裏口の扉を手で押さえたり、彼女が裏通りとの段差を降りる様子を見守ったり、人や物にぶつからないよう盾になったり誘導したりしながら、店の前まで案内した。
「音無さん、この店だけど……大丈夫?」
振り返って尋ねると、音無さんは頷いた。
「はい、大丈夫です」
微笑む音無さんに、頷き手招いた。
「じゃあ、行こうか。うっかり言い忘れたけど、この店スイーツとか置いてないんだ。あっても冷凍のホットケーキくらいのつまんない店だけど、大丈夫?」
「別に嫌いではありませんが、特に甘い物が好きだというわけでもないので問題ありません」
「良かった。オッサンと近所の年寄りしかいないけど、その分静かさと客の少なさだけは保証できるから」
俺がそう言うと、音無さんは微笑んだ。可愛い。女の子の笑顔はすごく華があるし、見ているだけで癒やされる。
店の木製ドアを開くと、銅製ベルがガランガランと鳴り響く。木目の見える濃い飴色のカウンター奥にマスターが立っている。
真っ直ぐカウンターへと向かい、一番奥の席に腰を下ろした。音無さんは一つ空けた隣に座った。
「そこ、荷物置いて良いから。この店、荷物置き場とかクロークとかいうしゃれたものはないから」
俺がそう言うと、マスターがギロリと睨み付けた。
「悪かったな、しゃれた店でなくて」
「本当のこと言われて怒るなよ、爺さん。あっ、音無さん、この爺さんがこの店のマスターで柴村……何だっけ?」
「呼び名なんてものはどうでも良い。連れがいるとは珍しいな、坊主。しかも若くて可愛い女の子だ。どこぞでさらってきたわけではあるまいな?」
「なんでだよ! どこでさらって来られるんだっての、真顔で笑えない冗談言うのはやめてくれ」
「うるさい、わしの店で大声で叫ぶな。騒ぐなら追い出すぞ」
「爺さんが大声出したくなるようなこと言ってきたくせに、良く言うよ。そう思うなら、何かレコードでも掛けたらどうだ。どうせ爺さんはCDコンポも、SDメモリーカードやUSBメモリーに対応したコンポも持っていないんだろう?」
「お前はわしをなんだと思っとるんだ。それくらい持っとる、しかもハイレゾ対応とかいうやつを。バカ高いスピーカーも買わされた。孫が欲しがったからな」
「じゃあなんで店には置かないんだ」
「この狭い店にそんなものを置いたら余計に狭くなる。それに客の誰も必要としとらんから、置いても邪魔になるだけだ」
「まぁ、必要ないって言われりゃそうだな。でも、本音は爺さんが面倒臭いだけなんじゃないのか?」
「それもある。余分な金も取られるしな」
そんなやり取りをしていると、それを黙って見ていた音無さんがマスターに向けて会釈した。マスターも同じように会釈を返した。
「で、注文は何だ」
「そいつは最初に聞いてくるもんだろう、爺さん。俺はコーヒー、旨いのを頼む」
「不味い物なんぞ出しておらん。ブレンドで良いか?」
「任せる。音無さんはどうする?」
「……じゃあ、お薦めのコーヒーをお願いします。ミルクと砂糖は不要です」
「どれも旨くてお薦めだから、一番安いのでかまわんな、お嬢さんも」
「はい」
そう答えて頷くと、主人はコーヒーを淹れる準備を始める。口の細い金属製のポットで水を沸かし、その間に布製のフィルターとサーバーと二人分のカップを用意する。
コーヒーを抽出する様子を音無さんがじっと見入っている。初めて見ると確かに面白い光景だと思う。俺も子供の頃はこうやって飽きもせず眺めていたよなぁ。
コーヒーの抽出時に聞こえる、細かい泡が弾ける音や水滴の落ちる音も心地良い。
マスターがコーヒーを二人分のカップに注ぎ、それをソーサーに乗せてそれぞれの前に置く。
音無さんがそれを飲み、小さく微笑む様子を見守った。
「うまいだろ、ここのコーヒー」
俺がそう言うと、音無さんがこちらを見た。
「爺さんがうるさいのだけが難点だけど、それ以外は文句なしだ」
「坊主、さっき店に入って来てぼやいたやつは、文句じゃなかったのか」
「あんなもの挨拶みたいなもんだろう。細かいことを気にするなよ、爺さん。禿げるぞ」
「わしは禿げん。見ろ、このふさふさの髪を」
「あー、はいはい、良かったな、爺さん。それが地毛ならかつらは不要だな」
「だから地毛だと言っておろうが」
「最近のかつらは素人には区別がつかないからなぁ」
「だから地毛だと言っておろうに。年寄りをからかうのはやめんか」
そんなやり取りをしていたら、音無さんが小さく吹き出した。
「ほら、坊主がバカなことを言っておるから笑われてしまったではないか」
「いや、俺のせいにすんなよ、自分の言動を振り返れって」
そう言って、俺も笑う。
「ふん、わしはおかしなことなど言っておらん。おかしいのは坊主の方だ」
「いい加減、坊主って呼ぶのやめてくれよ、爺さん。俺はもう今年二十五歳になるんだぞ。いつまで坊主と呼び続けるつもりだ」
「坊主が目上の人間に対する礼儀を覚えたら、好きな呼称で呼んでやっても良いぞ」
「何を言ってるんだ、この上なく礼儀正しいだろう。節穴なんじゃないのか? そろそろ無理しないで老眼鏡買えよ」
「バカなこと言うな。老眼鏡ならとっくの昔に買ってあるに決まっておろう」
「じゃあ、どうして店では掛けてないんだよ」
「眼鏡なんぞ掛けるのは、字を読む時と書く時くらいだ。それ以外には必要ない」
「年寄りなんだから無理するなって、爺さん。あと老眼はどんどん進むんだから、時々眼科か眼鏡屋に行くのを忘れるなよ」
「お前はわしを何だと思っておるんだ」
「まぁ、怪我と病気には気を付けろよ、爺さん。まだ若いと思っていると痛い目を見るぞ」
「ふん、坊主こそ気を付けるんだな。それこそ自分はまだ若いから大丈夫だと思って油断しておると、酷い目に遭うからな。
先は長いんだ、そうなったら地獄を見るぞ」
「おいおい、脅しかよ? まぁ、俺は気を付けるし大丈夫だよ、爺さん。そっちこそ気を付けなよ、もう若くないんだから」
「ふん、余計なお世話だ」
「じゃあ、爺さん。そろそろお暇するよ。支払いはここへ置いておくから」
カウンターテーブルの上に五百円を一枚、百円を三枚置いた。
「じゃ、そろそろ出ようか。悪いね、付き合わせて」
「あの、支払いは……っ」
「ああ、良いよ、気にしないで。俺が誘ったしこっちが迷惑掛けたんだし、どうせそんなたいした金額でもないから。奢りって胸張って言えるほどでもないけど、俺の気持ちだと思って受け取っておいて」
「迷惑なんて掛けられた覚えはありません」
「そうだっけ? まぁ、気にしないでくれ。それより、気分転換はできた?」
「え?」
「もう、大丈夫そうだな。帰りはどうする? バスで帰るのなら近くのバス停まで送るし、もし音無さんが良ければ家が近くだから車を取ってきて家まで送っても良いし」
「あ、その、ではバス停まで」
「だよな、男に自宅まで送るとか言われたら恐いよな。悪かった、他意はなかったけどついうっかり」
一緒に店を出て、表通りへと向かう。時折様子をちらりと確認しつつ歩幅を合わせる。
「……好き」
音無さんのそんな囁き声が聞こえた。
「え?」
びっくりして慌てて彼女を振り返った。
「えっ、ちょっ、音無さん、今……っ」
音無さんが素早く首を左右に振った。
「いえ、気にしないで下さい。何でもありません」
「え、いや、でも……」
「本当に何でもないので。大丈夫です、問題ありませんから」
そうキッパリ言い切られたけど、動けない。顔に血の気が上る。
「鴻先輩?」
「あの、あの……さ、俺」
しどろもどろな口調になってしまう。
「俺、音無さんのこと、好きだ」
音無さんがポカンとした顔になった。しまった!
「あっ、その、ご、ごめん! 迷惑だったら忘れてくれ。あぁ、くそっ、こんなところでこんなこと言うつもりじゃなかったのに、俺ってやつは……」
そうぼやいて、両手で頭を抱えてうずくまってしまった。
ああ、何をやっているんだ。これで嫌われたらどうしよう。来週から顔も合わせてくれなくなったら、どうすれば良いんだろうか。
大川専務の怒り顔と、小清水課長の笑顔が脳裏に浮かぶ。……ぶっちゃけ小清水課長の笑顔の方が恐ろしい。
さっきから何をやっているんだという自責の念に襲われる。
「本当にごめん! あの、俺もう帰るから、だからその、悪かった!」
そう言って逃げ出そうとすると、音無さんが飛びつくように両手で抱きついてきた。
「……え?」
ポカンとした。
「その、やっぱり家まで送って下さい」
何故そうなったのか、わからない。
「お願いします」
音無さんがそう言って頭を下げる。俺は混乱しながらも頷いた。
「じゃあ、俺の家、こっちだから」
黙って差し出した俺の手を、彼女がそっと握りしめた。