問題のある新入社員15 (SIDE:哲郎)
なんとなくそんな予感はしたが、結局二時間では済まなかった。笑い上戸に加えて絡み酒とか最悪だと思う。いや、どちらも素は白けて冷静であるようにも見えたが。
いずれにせよ高坂がひどく面倒で厄介なやつであるのは、間違いない。なるべく控えていたつもりだが、二日酔いで頭が痛い。
酔った振りをしていたのか、実際に酔っていたのかは知らないが、実にタチの悪いやつだった。もう絶対何があってもあいつの呼び出しには応じない、というか応じたくない。
だが、今回でどう言えば誘き出せるか学習させてしまったから、あいつが俺を呼び出そうと考えたら、その時点で詰んでいる気がする。
最悪だ。
そうして俺は一方的にあいつの愚痴を聞かされたわけだが、正直知ったことかと思う。
確かに入社以来ずっと友人だと思っていた男──富永亮に執拗に絡まれ、音無さんを半年内に落とせ、それができないならお前は腰抜けで口だけの男だと言いふらしてやるなどと言われて、しぶしぶ了承したら、それをおそらくは直属上司に告げ口されて、裏では笑いものにされていたっぽい、などというのは不憫ではあるのだろうが、俺の感想としては『そりゃ面と向かってモテない男の僻みうんたら言われたら誰だってキレるわ』としか思えないので、半分くらいは自業自得じゃないだろうかと思う。
過去に為した所業の結果が現在・未来において表面化する、というのは自明の理だ。だから常々自身の振るまい、言動には気を付けろと言われるのだ。
俺も人のことを言えた義理ではないが、過去と現在と未来はいずれもそれぞれ独立した断片ではなく、互いに互いを見渡せずそれぞれの区別はつかなくとも、同じ河を流れている水のようなものだ。
人の心は目には見えないけれど、確かに存在する。だから、それをないがしろにしたり、おろそかに扱えば、いずれ報いを受けることになるのだ。
順風満帆な時には、そういったことには気付けなかったり気付きにくかったりするが、自身の目には見えなくても、それ以外の誰かには見えているということも往々にしてあることだ。
徒人の目には明日のことどころか一瞬先の未来も見えないのだから、自身の絶対の未来を確信して考えなしに周囲に気を回すことなく大きく足を踏み出せば、そこが底なし沼だったり、足が着く程度の泥濘だったりしても、実際に沈んでみるまでは判断つかないことだってきっと良くあることだ。
だけど、俺はバカだから目の前の池が泳げるかどうかわからなくても、飛び込みたいと思えば迷わず飛び込むし、濡れるのは嫌だと思えば回り道して避ける。
それをしたらどうなるかを考えるのは学者か研究者など専門家に任せるか、どうしても自身に必要になるのであればその時になってから考えれば良い。
たぶん、きっと、それが自分で選んだことであるなら、死にさえしなければ溺れてみるのも良い経験だと思うから。
いや、本音のところは、単に物事を深く考えるのが面倒なだけかもしれないが。
俺は、天が崩れ落ちてくるかを心配して不安になって夜も眠れないような精神状態にはとても耐えられそうにないので。
「ごめんな、白。朝、起きられなかった上に、頭が痛くて死にそうだ。散歩に連れて行ってやれなくて、本当にごめんな。キャッチボールは明日になるけど、許してくれるか?」
ううぅ、と呻きながら白の背や腹を撫で回して、心行くまで癒やされる。
「大変そうだねぇ、哲朗。大丈夫かい?」
祖母にそう声を掛けられて、首を左右に振った。
「……最悪な気分だ。もう二度と、チェイサーもつまみも無しで日本酒は飲まない」
俺がそうぼやくと、祖父が眉を顰めた。
「何だ、哲朗はつまみも無しに日本酒だけを続けざまに三時間半も飲んだのか。それはいかんな、確実に酔う」
父は熱心に新聞を読みふけっている。二日酔いで呻いているだなんて、どうせ軟弱者だとか思われているんだ、きっと。
「哲朗、梅干しの湯漬けできたわよ」
「……うぅ、面目ない」
「あんたいつから武士になったのよ?」
その発想はおかしい。
「白、ごめんな、本当にすまない。この償いは明日以降、必ずするから許してくれ」
そう言って更に一撫でしてから、ダイニングに移動して椅子に腰を下ろす。そして用意されていた木のさじで湯漬けを食べる。
「はい、トマトジュース。気休めかもしれないけど、飲んだ方が良いわよ」
「有り難う」
二日酔いだとちょっとしたことで涙もろくなるような気がする。現在時刻は十一時過ぎ。本当はもう少し早く目覚めたのだが、頭が痛くて起き上がれなかった。
昨夜寝る直前に、枕元に念のためスポーツドリンクとドリンク剤を置いておいたからそれを飲んだが、なかなか起き上がることができなくて、何度も寝返りを打ってウダウダしながら天井や壁を眺めていた。
結局、頭痛はまだ残っているものの空腹を覚えたので、ようやく起き上がって着替えて階下へ降りてきたというわけだ。
本当にどうしたものかな。ただの気休めだとしてもタウリン配合の栄養剤か経口補水液を近くのコンビニに行って買って来るか。それともこのまま頭痛が治まるまで休んでいるか。
憂鬱。
あいつのおかしなペースでこっちの調子までおかしくなったが、高坂のやつ、絶対底なしだ。あれと同じペースで飲んだら死ぬ、確実に死ぬ。
あいつの方が俺の三倍以上は飲んでいたはずだが、そのせいで感覚が麻痺して自分の許容量を超えたっぽい気がする。
ああ、そうだ、コーヒーが飲みたい。ついでに先週買い損ねた雑誌と、その他に何か面白そうな書籍があればそれも買って──うん、そうしよう。
身体はまだ怠いけど、ダラダラウダウダ寝ていても排出し終わるまでは回復しないし、かといって一度に大量の水分を摂取できるかといえば、難しいし。
少し近所を歩いて汗をかいたら、少しはマシにならないだろうか。この体調で白の相手をするのは絶対無理だから、俺一人でゆっくり歩くのはどうだろう。
念のためスポーツドリンク持参で行った方が良いかな。学生時代に使っていたリュックにタオルと一緒に入れて行くか。買った本や雑誌とかも入れられるし。
食事を終えて軽くシャワーを浴びてから、リュックに財布とスマホとタオルとスポドリを放り込んで担ぎ上げた。
「あら、出掛けるの?」
「うん、少しゆっくりめに散歩して汗かいてくる。ついでに書店寄って裏の喫茶店でコーヒー飲んで帰ろうかと思ってる」
「……ふぅん、まぁ、無理はしないのよ」
「したくても出来ないから大丈夫だ」
「その言いようもどうかと思うけど」
笑われたが、甘んじて受けよう。二日酔いというやつは、だいたい己の行いが原因なのだから、人に文句は言えない。高坂に飲め飲め言われて、うっかり許容量超えるとか有り得ない。
別に無理矢理飲まされたわけでもない。拒否しようと思えばいくらでも拒否できたのに、なんだか妙に悔しくてあいつに張り合ってしまった昨日の自分が憎らしい。
あれ、絡み酒の振りして、最初は実は素面だったんじゃないかと今更思う。騙された感が半端ないけど、自業自得である。
もう二度とあいつと酒は飲まない。どうしても無視できなかったとしても、酒は飲まずに誤魔化そう。じゃないと、絶対、俺が死ぬ。
あいつはもう地獄に落ちれば良いと思う。俺がこんなに苦しんでいるのに、あいつは平気な顔していそうだ。あの顔で『これくらいで酔ったの? 嘘でしょ』とか言われたら、誰だって腹立つと思うんだ。
◇◇◇◇◇
自宅から一番近い書店へ行き、雑誌コーナーで目的のものを購入した後、ついでに見て行こうとIT系書籍のコーナーへ向かうと、見知った後ろ姿を見つけた。
「あれ、音無さん」
そう声を掛けると、音無さんが振り向いた。
「こんにちは、鴻先輩」
「ああ、こんにちは。今から行くのか、友達のところ」
「いえ、終わってランチを一緒に食べて来たところです」
金曜日に交わした会話を思い出してそう尋ねると、音無さんは否定した。
「そうか」
私服、可愛いな。憂鬱な心が、すごく癒やされる気がする。
「え?」
あれ、今の、もしかして聞こえた?
「あっ、な、何でもない。いや、俺、この近所に住んでてここ徒歩圏内なんだ」
少々焦りつつそう言うと、音無さんが小さく頷いた。
「へぇ、街中に住んでいるんですね」
「昔から住んでるだけだから、うちの近所は普通に住宅地だ。すぐ裏に居酒屋とかカラオケ店とかあるけど」
そういった店は近所にあるとかえって行くことはない。何故なら確実に近所の知り合いに遭遇するからだ。ああいったところで良く知った顔見知りに会うと挨拶しないわけに行かないから面倒だ。
気にしない人はそれでも行くのだろうが、俺は嫌だ。酒は自分の好きに飲みたいし、カラオケとかもなるべく人目を気にせず楽しみたい。
「それは夜、騒がしそうですね」
「物心ついた時からだから全く気にならないな。ただ、友人や知り合いに家がバレるとビジホ代わりに泊まろうとするのが出て来たりして、そっちの方が困る」
高専時代の友人は弁えてくれるやつが多かったから大丈夫だったが、小中学校時代の同級生なんかは俺の家が何処にあるか熟知しているだけにタチが悪い。
子供の頃はいいやつだったはずなのに、それが大人になってみたらそうでもなかったりすると色々残念な気持ちになるので、それほど親しくないやつからの突然の電話はだいたい鬼門だ。
同期でも何人かいたよな、確か。そういうやつらとは全員距離を置いたから、今は付き合いは全くないが。
「何か買いたい本があるのか。仕事のことなら、良ければ相談に乗ろうか?」
俺がそう言うと、音無さんは首をゆっくり左右に振った。
「いえ、そういうわけではないのですが、あまりにも知らないのでなんとなく。特に買いたい本があるわけでもないです。それに先月も今月も色々使ったので、しばらく必要ではない買い物は控えたいですね」
「あ、じゃあ家に来るか?」
「え?」
あっ、しまった。つい本音が出た。何やってんだ、俺。休みの日だからって油断したか。こういう時こそ大川専務の出番だ。思い出して冷静になれ。
「あっ、いや俺の家、両親祖父母と同居だし変な意味じゃないから! そ、その家にある本なら色々参考になるんじゃないかって。兄貴の置いていったのだけど、初級システムアドミニストレータの参考書とかもあるからもしかしたら参考になるかもしれないって」
「初級システムアドミニストレータ?」
「ああ、十年くらい前になくなった試験で俺は受けてないけど、IT系の試験では難易度がわりと低めだったから高専の先輩とかでも受験していた人がそこそこいたんだ。
といっても結構試験範囲が広くて全く知識のない人が参考書とかなしで受けようとすると合格できないから、当時は参考書とか解説サイトとかが色々あった。
さすがにそっちは情報が古いから一部は使えないけど、今は代わりにITパスポート試験っていうのがあってそっちの参考書も持ってるから、良ければ貸すよ。
基本情報技術者試験の参考書もあるけど音無さんにはまだ難しいから、もうちょっと知識や技術が身について来たら、会社の書庫にある参考書を借りると良い。
うちの課で試験受けたやつもこれから受けるやつもいるし、受験希望者が多い時は勉強会とかもしているから、俺がいない時はその辺にいるやつに聞けばすぐわかるはずだ
俺の兄もIT系であっちはバリバリのSEでその手の本や参考書は山ほどあるから、参考にはなると思う」
「では、ITパスポート試験の参考書をお借りしても良いですか?」
「わかった。ああ、ごめん、音無さん。良く考えたらもう五年前の本だから新しく買った方が良いかもしれない」
返答仕掛けて、ハッと気付く。俺、本当に何浮き足立っているんだ。良く考えたら俺が試験を受けたのは五年前の就職直前だ。そんな古い本を貸すわけにいかない。
「じゃあ、探してみます」
「なら、休み明けにレシートを持ってきてくれるか。もしかしたら経費が出るかもしれないから。あ、この辺にあるよ」
そう言って書籍を指さすと、音無さんは手を伸ばすが届かない。背伸びをしようとするのを見て背が届かないの可愛いなどと思いかけたが、慌てて参考書を取って差し出した。
「はい、音無さん」
「有り難うございます、鴻先輩」
音無さんが受け取って心持ち嬉しげに唇を緩めて礼を言うのを見て、嬉しいやら気恥ずかしいやらで複雑な気分になる。いや、高坂の笑顔と違って断然癒やされることは間違いないが。
「わからないことがあれば、何でも聞いてくれ。いつでも相談に乗るから」
俺がそう言うと、音無さんが微かに笑った気がした。
以下修正
×所業が現在・未来においてその結果が表面化する
○所業の結果が現在・未来において表面化する
×チェイサーもつまみ無しで
○チェイサーもつまみも無しで