問題のある新入社員11 (SIDE:哲郎)
入社式が終わった後で書店へ寄り、パソコンやタブレット、OSや○fficeソフト3種、社内ネットワークやITインフラに関する比較的簡単で易しい内容の図解付き書籍を購入した。
その際初心者向けであることを重視すると同時に、一冊全てに目を通しても一時間から二時間程度で済むようなものであることを重視して選んだ。
また、巻末などに索引・用語集などがあるかどうかもチェックした。
そして会社に行って開発課室で一通りさっくり購入した書籍に目を通して、マニュアルを作成する際の参考とすることにした。
その前に以前大川専務用に作った資料を印刷して、石田に声を掛けた。
「悪い、石田。頼みたいことがあるんだが、今、良いか?」
「え、良いけど、何なの鴻、急に改まって」
不思議そうに尋ねる石田に、返答する。
「明日からうちに新入社員が来るんだけど、PC関連やIT系の知識がほぼ皆無の子らしいんだ。
だから業務説明マニュアルを作り直したいんだけど、図や表とか図解説明を加えたいんだが、俺って絵とか図を書くセンスや才能が皆無でさ。
だから、できたら石田に頼みたいんだよ。お願いできるか?」
「ふぅん? 簡単なもので良いならやるよ。どんなのが欲しいの?」
「以前に会議資料用に作ったものなんだが、これを元に新しい簡易マニュアルを作ろうと思っているんだ。だから、ここに書かれた図とか表を書いてくれると有り難い。
大きさはだいたいここに書かれたものと同じくらいで良いから。頼めるか?」
「良いよ。これくらいなら全部作っても三十分ちょいくらいでやれるから。でもこれだけで良いの? これ、ちょっと簡易過ぎる内容だと思うけど」
「ハードウェア類に関してはスマホで実物撮影したり、実際の手順に関しては、スクリーンキャプチャ撮って縮小して使おうと思ってるから、そういうもので補えない分だけ書いて貰おうと思ってな」
「へぇ。って鴻、この図、何で描いたの?」
「○xcelだ。最初はペイントで描こうとしたけど上手く描けなかったから」
「ああ、図形機能とか曲線機能とかを使ったのか」
「一部はVBAも使用している」
「えっ、これのどこにVBAを使う必要性があるんだよ? どの図も普通に手描きで描けそうなものばっかりだろう。なのにわざわざプログラミングとか面倒なことする必要性が?」
「……聞くな、頼むから」
「ふーん。そう言えば前にもオレにUIとかのデザイン頼んできたよね。その時は頑張って色々考えて複数案作ったけど、鴻の反応が妙に薄い気がしたけどそういうことか。
鴻ってデザインとかファッションとか作図とか、そういうセンスがあまりないんだな?」
「わかっているなら、わざわざ指摘するなよ。俺だってそれについては本気でマズイという自覚はあるんだから。こういうのは後天的な努力とかそういうので一朝一夕にどうにかなるもんじゃねぇんだよ」
「自覚があるならまぁ良いや。じゃあ、ちゃっちゃと作るからちょっと待ってて」
そう言って石田はそれまで立ち上げていたブラウザを終了させて、改めてグラフィックソフトを起動させる。
「自分が頼んでおいて何だが、そっちは大丈夫なのか?」
「ああ、これ? そんなに急ぎでもないから平気だよ。なんか課長がプロジェクトマネージャー、浦谷先輩がプロジェクトリーダーでマーケティング部との共同で、ゴールデンウィークに取引先でキャンペーンやるんだって。で、その間だけ設置する特設サイトのデザイン案を考えておいてくれって、浦谷先輩に頼まれたんだ。
簡単なプロジェクトの概略とか目的とかの初期の打ち合わせのための資料的なものはできているけど、細かいところはこれから詰めるらしいから、今すぐ考えても変更入る可能性が高いから、参考になりそうなサイトを探して見ていただけで、実際の作業はまだ手を付けてないから問題ないよ」
なるほど。あれがそうなったのか。ってそれって今から始めて間に合うんだろうか。
「具体的な話って聞いてるのか?」
「うーん? なんかアンケート取って、抽選で商品とか取引先で使える割引券とかを景品にするらしいよ。どんなアンケート内容にするかはこれから決めるって言ってた。
そのアンケート内容についてマーケティング部が係わるっぽいよ。あとそれを取引先と話し合うのに営業部に仲介して貰うとかで、浦谷先輩は課長と一緒にさっき営業部へ行ったよ。
浦谷先輩は死にそうな顔になってたけど、課長がすっごいイイ笑顔だった」
ごめん、浦谷先輩。本当にごめんなさい。
「ってことはアンケートはハガキとWebか」
「そうだね。前にも似たようなことは何度かやってるから、それほど面倒な仕事でもないと思うけど、さすがにデザインは流用できないから面倒だよね。
流行り廃りもあるだろうからどうしようかなとも思うけど、どういうイメージにするかも決まってない段階じゃオレにできることはまだないし」
「俺は暫く新入社員教育を優先するよう言われているからそっちは手伝えないけど、十九時以降でこっちに余裕があって手伝えることがあれば手伝う」
「そう? じゃ、当てにしておこっかな。それ、浦谷先輩に言ってあげれば喜ぶと思うよ。先輩、本当は今週末に友達と合コンする予定だったのに、行けるかどうかわからないって落ち込んでたから」
……うわぁ。恨まれてないかな、俺。後でフォローしておこう、忘れずに。
◇◇◇◇◇
翌朝、いつもより早めに家を出た。会社に七時半に着いたので、音無さんがまだ来ていないか確認してから歩道と会社の敷地との境にある伸縮ゲート付近で彼女を待つことにした。
今日の服装は土曜日に郊外のファストファッション店で購入した紺のノーカラージャケットと白のポロシャツに、手持ちの就活用に購入した紺のスラックスである。
靴下も土曜に購入した新品で、靴は手持ちのスニーカーで比較的きれいめのものを選んだ。古いものと汚れが落ちないものは処分するよう言われた。
あと髪は上で束ねてヘアゴムで留めるだけなのにヘアスプレーかムースできちんと整えろとか。
田上の診断基準は少々キビし過ぎると思うが、これくらいは当然らしい。これからは衣料品費や日用品および雑費が色々と掛かりそうでちょっぴり憂鬱だ。
八時過ぎくらいに音無さんが出勤してきた。歩いて来た方角からすると、彼女はバス通勤らしい。
「おはよう、音無さん」
俺がそう声を掛けると気付いていなかったのか、音無さんは一瞬びっくりして立ち止まってしまった。
しかしすぐに気を取り戻したらしく、頭を下げて挨拶を返してくれる。
「おはようございます、鴻先輩」
そう言いながら左腕に着けている腕時計をチラリと確認した。
「驚かせてごめん。昨日の冊子に一応施設案内の地図があったとは思うけど、念のため案内しようかと思って待ってたんだ」
俺がそう言うと納得してくれたようである。
「そうだったんですね、わざわざ有り難うございます。では、ここで立ち話は通行の邪魔になりそうですから、移動しましょう」
「わかった。正面玄関はすぐそこにある建物だからすぐわかると思うけど、あちらの方向だ」
「はい、わかりました」
そう返すと、音無さんは頷いた。途中、彼女は警備員さんにも会釈と挨拶をして、玄関へと向かって歩き出す。
うん、やっぱりおとなしくて口数がとても少ないけど、良い子だな。親御さんの躾けや教育も良かったんだろうな。
歩く姿勢も立ち姿もきれいで絵になるし、表情はとぼしく変化は少々わかりにくいものの、初めて会う人とも目が合うと会釈や挨拶をしている。
正面玄関入ってすぐのエントランスで一度立ち止まって、身振り手振りを付けつつ簡単に施設説明を行う。
「ここがエントランス。奥にエレベーターが見えるけど、この時間はまだエレベーターは動いていない。右手の通路へ行くと男性用ロッカー、左手の通路へ行くと女性用ロッカーがあって、それぞれすぐ脇にトイレと階段がある。
右奥の階段が東階段、左奥の階段が西階段と呼ばれていて、一階のドリンクコーナーは右側でその隣に喫煙所が配置されていて、左側は代わりといってはなんだが化粧室が別途ある」
俺がそう説明すると、音無さんは了解したとばかりに頷いた。
「ロッカールームがあるのにすぐそばに化粧室もあるんですか?」
その質問に俺は肩をすくめた。
「何故そうなっているかは知らないが、大きな鏡の前で座って化粧ができるようになっているらしいぞ。俺は入ったことはないが、同僚からそう聞いたことがある。
角度の付いた鏡があるから、覗く位置によっては側面や背面も確認できるらしい」
情報源は田上なのだが、田上はそれを総務部の歓迎会で女装をした際に知ったらしい。
何故そんな気色悪いことをやる方もやらせる方も嬉々として実行できるのか、俺には信じられないのだが、『林さん達に案内されて化粧してもらってウィッグ被ったけど、すっごく楽しかったよ~』ということらしい。
機会があったらまたやりたいとも言っていたが、あいつの思考回路は本当に謎だ。たぶん一生理解できそうにない。
「……それはすごく便利ですね」
そうだな。おそらくはそう考える人がいたから、そうなっているんだろうし。
「では、ロッカーへ行ってきます」
「おう、ロッカーには名前がフルネームで表記されているはずだ。鍵を掛けるのと、無くしたら困るものは入れない方が良いぞ。以前、鍵が壊されて盗まれた事があったらしいから」
「え、そうなんですか? じゃあ、財布やスマホは置かない方が良いんですか?」
「財布は手元に持っておくやつが多いな。俺は私物のスマホは電源落としてロッカーに置いているけど、部屋に持ち込んでいるやつもいるから、使用はともかく持ち込みくらいなら良いのかもな」
「わかりました。では、そうします」
「ああ。ドリンクコーナーにいるから、終わったら声を掛けてくれ」
そう言って背を向けて俺は右側の通路へ向かった。見ればわかるしここから部屋の表示も見えるから、さすがにこんなところで迷うことはないよな。
ドリンクコーナーに設置された自販機で紙コップのレギュラーコーヒーを購入して、通路に一番近い適当な椅子に座った。
簡易マニュアルはちょっと雑だけど、なんとか今日に間に合わせた。他に教えなきゃいけないことが多いだろうと業務内容は極力絞ったので、とても薄くなったそれを圧着タイプの針なしステープラーで留めた。
表紙は付けなかった。付けても使うのはたぶん一時的だし、必要ないだろう。最終的には最初に作ったマニュアルを残して他は処分することになるだろうし。
今日のところはどういう流れで指導や説明をするか考えていたら、早足で歩いて来る女性の足音とその後からもう一つ男のものだと思われる足音が聞こえてきて、何事かと顔を上げてそちらを向いた。
音無さんだ。慌ててベンチから立ち上がり、紙カップをぐしゃりと握りつぶしながら駆け寄った。
「大丈夫か、音無さん」
「鴻先輩」
視線はその後ろにいる高坂へ向けたまま、音無さんに声を掛けた。彼女が傍らに駆け寄って来るのと入れ替わるように、前に出た。
「高坂先輩、またですか。いい加減しつこいですよ」
「……またお前か。今回は業務時間中じゃないぞ」
「そういう問題じゃないってわかって言ってますよね。それくらいにしないと、セクハラ案件として総務に相談することになりますよ」
俺がそう言うと、高坂は眉間に皺を寄せた。
「脅しか?」
脅しとかそういう問題じゃないんだが、それがわからないなら本当に脅しておいた方が良いのだろうか。そう考えて、思わず眉間に皺が寄る。
「ああ、そうだ、先輩。小遣いに困っているなら、無利子無担保無期限で一万円貸しましょうか? 俺はそれほど稼いでるわけでもないですが、使うこともないので金には困ってないんです。
三ヶ月で一万円でしたっけ。人に付ける値段にしては随分と安いもんですよね」
冷ややかな声になった。俺がそう言うと高坂の顔が青ざめ、引きつった。
「おまっ、なんで……っ!」
「さぁ、何ででしょうね? まぁ、障子に目あり、壁に耳ありと言いますし、防音設備のしっかりした個室以外でする話は、多少の差はあれ、漏れる可能性がありますよね」
ゆっくりと畳み掛けるようにそう告げると、高坂は何か抗弁したげに口を開くが、結局は何も言わないまま口を閉ざした。
やっぱりただのナンパじゃないのかな。だけどこの反応からして、あれかな。前に話していた富永とやらと何かあるのか。
例えばどこかからこちらの様子を覗いているとか。だけど、こいつ、人に脅されて何かするようなタイプかな?
無駄にプライド高そうな男だし、自覚なく嫌われそうなことやってそうだし、全く有り得ないわけではないだろうけど、そういうわけじゃなくて他に何か理由でもあるんだろうか。
俺がこれまで知った情報だけじゃどうも判断つかないな。
「どういうつもりかは知りませんが、冗談や悪ふざけで済ませる内に引いた方が良いと思いますよ」
そう言って最後の駄目押しとばかりに言うと、高坂は何かを飲み込むような顔をして、唇を噛みしめ、俯いた。
「……鴻、お前、小清水課長や中岡課長に何か言ったか?」
ポツリと呟くように言った高坂に、俺は少し疑問を覚えつつも真顔で答える。
「課長には、俺が実際に見た事実しか話してませんよ。憶測や確証のない事は口にしない主義なので。あと第二営業課に直接の伝手はないので、俺からは何も。
小清水課長は音無さんが『被害者』だと聞いて抗議しに行ったみたいですが」
俺がそう言うと、高坂がカッとしたように反応した。
「……『被害者』? その言いようはひどくないか。あまりにも一方的だろ」
「そうですかね。何の罪も因果も関係も無いのに、入社式で見ず知らずの先輩につきまとわれる新入社員は気の毒じゃないですか?
高坂先輩がちゃんと規律を守って、常識の範囲内で人としてわきまえ、周囲に配慮した言動を心掛けていれば良かった話でしょう。
俺は倫理にもとる行いと、人の心をないがしろにする言動が一番嫌いなので。注意・忠告してそれを正せないなら、そいつは地獄に落ちるべきだと思います」
「それは、彼女が嫌がっているかどうかって話だろう?」
ほう、そう来たか。あまり音無さんを表に出したくないけど、俺がこれ以上何か言っても納得しそうにないな。仕方ない、いざという時は俺がフォローに回ろう。
「だとよ、音無さん。自分で言えるか?」
俺が振り返り、距離はそのままを保ったまま彼女と目を合わせて慎重に尋ねてみると、音無さんはこくりと頷き、俺の背後から出て高坂に正面から向き直った。
「迷惑なので、今後二度と話し掛けないで下さい。お願いします」
そう言って深々と頭を下げた。その様子に高坂が驚いたように息を呑む。
「えっ、ちょっ、待って。俺、そんな嫌がられるような事したか!?」
有り得ないとでも言いたげな口調と声音だ。どれだけ傲慢なんだ、この男。自分のようなイケメンが女に邪険にされるはずがないとでも考えていたのだろうか。
もしそうだとすると、実におめでたいやつだ。
「……申し訳ありませんが、成人男性全般苦手で、できうる事なら会話や接触はもちろん声を聞くのも控えたいと思っているので」
音無さんがきっぱり言い切った。
えっ、それってどういう……あれ、成人男性全般が苦手ってことは、俺もその範疇に入る? ってことは俺に対しても実は会話・接触はもちろん声を聞くのも控えたいっていうこと?
周囲がしんと静まり返った。
マジか。でも、俺が教育係なのに、彼女に話し掛けず近付かずに指導するとか色々無理がないか? ああ、でも俺じゃなくてもそれは変わりないのか。
だったら、システム開発課全員全滅じゃないか。物の見事に男しかいないし。女の子一人もいないし!
っていうか、それって大丈夫なのか!? そういうことなら、それって最初の面接とかで言っておいた方が……ああ、いや、そんなこと言えるはずがないか。
あれ、でも、ここまで音無さん、俺と普通に会話してくれていたような……あれ? ああ、いや、そうか。もしかして、そういうことか。
一瞬、何かトラウマとかPTSDとかあって男性不信だったり恐怖症だったりするのかと思ったけど、そういうことじゃないのか。
もしかして、これってちょっと強めの断り文句ではあるけど、強引で傲慢で自信過剰な高坂を撃退するため?
なんだ、そういうことか。ちょっぴり安堵した。
「うっわぁ、すっげーキッツイな、音無さん。確かに自重しないしつこい手合いには、はっきりキッパリ言った方が良いけど、あまりやり過ぎるとかえって逆上させたりするから、気を付けた方が良いかもな。
ほら、わかっただろう、高坂先輩。これほど迷惑がられてるんだから、もうかまわないでやってくれ。あんたもそうそう人前で恥を掻きたくはないだろう?」
俺がそう言うと、音無さんが慌てて俯き掛かっていた顔を上げた。少し顔が青ざめているように見える。眉がちょっと下がって不安げな表情で、呼吸も少し乱れているようだ。
俺はそんな彼女に安心して欲しくて笑みを向けた。高坂も困ったような苦笑になった。
「……悪かった。迷惑掛けて、気分悪くさせてすまなかった。この通り、謝る」
そう言って、高坂が深々と頭を下げた。それを見て俺は安心した。そうだよな、さすがにここまで言われたら、悔い改めるよな。これで駄目ならどうしようかと思ったけど。
音無さんはそんな高坂に頭を深々と下げ返した。
「あ、いえ、こちらこそすみませんでした」
そんなやり取りをしていると、近くにいた野次馬のおっさんが声を掛けて来る。
「お~い、若造。何やらかしたかは知らねーけど、あんまり無茶はすんなよ~」
それと共に周囲が少し前までのざわめきと雑音を取り戻す。
「じゃ、この件はこれでいいよな。……じゃ、行こうか、音無さん」
「あ、はい」
そして周囲の人に会釈してから、一緒に『システム開発課』へと向かった。
「この部屋までは土足で入れるけど、靴が汚れている場合はここで拭ってから入室してくれ。たまに通路や階段で水か何かをこぼすやつがいるから」
「わかりました」
素早く暗証番号を入力しながら言うと、音無さんが頷いた。
「あ、入室する際に入力する番号は個人によって異なるから。今日はまだ音無さんの分はまだ設定されてないから、出入りの際は言ってくれ。午前中の内に設定するから昼からは使えるようになるけど。
あと、電子錠は解錠後に扉を閉めると自動でロックが掛かるから気を付けて。それと慣れないとちょっと重く感じるかもしれない」
「はい、わかりました」
これだけは忘れずにきちんと説明しておかないと、トイレ休憩に行って締め出し食らうとかいうことになってしまう。
なるべく早急に設定するつもりではあるけど。ついでだから作業も見せて説明しておくか。彼女が実際にその作業をするのはずっと先になるだろうが、実際に見て経験した方が勉強になるだろう。
彼女と一緒に入室すると、中にいた石田が素っ頓狂で甲高い悲鳴のような声を上げた。
「おっ、おおおお女の子っ!? えっえっ、なっ、なんで!? おおお鴻ぃっ!!」
ワタワタと慌てふためき、やたらキョロキョロし動揺して顔を真っ赤にして震えている。こいつはなんでこんなに感情表現が豊かなんだろうな。
人見知りなのは知っているし、本当は自分より大柄な男を恐がっていることも知っているが、音無さんは明らかに石田より小さくて華奢なのに、何故焦っているんだろうか。
「おはよう、石田。昨日話した新入社員だ」
俺の言葉を受け、音無さんが一歩前に出て頭を下げる。
「今日からお世話になる音無澪です。初めまして、よろしくお願いします」
「おおお女の子が来るとか聞いてねーよ鴻ぃぃっ!」
しかし石田はそんなことなど知ったことかと言わんばかりに、裏返った声で叫びながら俺に飛び掛かった。
「あれ、そうだったか? そんなことより挨拶と自己紹介しろよ、石田」
「無理っ! こっ、心の準備がっ……心の準備が必要だから、今は絶対無理ぃいぃいいっ!!」
そう泣き叫ぶような声を上げつつ小動物のような素早い動きで室外へと飛び出して行った。
うわぁ、マジか。もしかしてあいつ、男だけでなく女の子も駄目だったのか。知らなかったとは言え、悪いことしただろうか。
いや、そんなことより音無さんにフォローしないと。
そう考えて、音無さんに頭を下げた。
「ごめん、あいつ、悪気はないんだ。ただちょっと臆病で人見知り激しくて小心者なだけで。その、戻って来たら挨拶させるから」
「いえ、気にしていません。大丈夫です。それより、彼は大丈夫なのでしょうか」
「あー、うん、それはたぶん問題ない。どうせそこのトイレに逃げ込んでいるから、しばらくしたら戻って来るはずだ。すぐに戻って来ないようなら、きっとドリンクコーナーに行ってるんだろう」
良くあることだからな。あいつがこういう時に何処へ行くかは、考えるまでもなくわかっている。始業時間までに戻って来ないようなら捜しに行かなきゃならないかな。
どうせそれほど遠くへは行かないだろう。なにせ小心者だから、テリトリーから大きく離れた場所に行くことはまずない。
「先程の方の名は、石田さんとおっしゃるんですか?」
音無さんの質問に、頷いて肯定した。
「その通りだ。石田裕紀、俺と同期だが、俺は高専卒であいつは四大卒で二歳上だ。
工業デザインを専門に学んだらしいが、手先が器用で発想が柔軟で何でもできるオールマイティなんだがあの性格と落ち着きのなさが欠点で、責任のある仕事やまとめ役みたいなものはやりたがらない」
音無さんにそういったことを説明した。そこへガチャリと音がして、浦谷先輩が現れた。
「ふわぁああぁ、うっかり昨夜は帰り損ねて机の上で寝ちまったわ。洗顔も髭剃りも着替えも持ってない時に泊まり込みやらかすとか、ついてねぇや。あっ、鴻、お前髭剃り持ってねぇ……か」
寝癖のついた短髪と無精髭に昨日着ていたのと同じ上下ジャージ姿だ。
「……あ、れ?」
浦谷先輩はまだ寝ぼけているのかぼんやりしている。
「浦谷先輩、おはようございます。こちら、今日からうちで働く音無澪さん。あとジャージからTシャツか何かはみ出してますよ」
「おっ……えっ、あぁっ……!」
そう叫ぶ浦谷先輩はクルリと身を翻し、駆け出すように退室してしまった。しばし、室内が静まり返った。
マジか。石田に続いて浦谷先輩もか。勘弁してくれ。思わずガシガシと頭を掻いた。
「あー……その、今のが浦谷久志先輩、うちの主任。仕事はできる人だが、ちょっとズボラでおっちょこちょいなのが玉に瑕で。悪い人ではないんだけどな」
困ったな。これで音無さんがうちの課に悪印象を抱いたり、変人しかいないのかと思ってしまったりしたらどうしよう。
そう考えていたら、下村が現れた。助かった! 沈黙が痛かったから本当に助かった。
「ちぃっすー! なんか浦谷主任がダッシュでトイレに駆け込むの見かけたんっすけど、何かあったんっすか?」
「おはよう、下村。ああ、新入社員の音無さんを見てちょっとな」
「おはようございます、初めまして、音無澪です」
そう言って音無さんが頭を下げた。
「こんちはっす、下村大輔二十四歳、ただいま彼女募集中っす!」
おい、こら、どさくさに紛れて何をしている。っていうか、たぶんさっきの断り文句は全く全てが嘘というわけでもないのだろう。
急にズカズカ近寄ってきた下村の距離に、音無さんが脅えて俺の背後に隠れるように後退っている。
「おい下村、初対面の女の子にあまり近寄るな。パーソナリティスペースって言葉を知らないのか? それほど親しくない間柄の人と会話する時は、適切な距離を取れ。でないと嫌われるぞ」
俺がそう叱ると、下村は慌てて頭を下げて、目算一mほどの距離まで距離を取った。
「申し訳ないっす、悪気はなかったっす! 今後は気を付けるっす」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません」
そう言って音無さんも頭を下げた。
「おはよーございまーす」
そこへ崎村が出勤してきた。
「おはようございます」
「おはよう、崎村」
「ちっすー」
それぞれ挨拶を交わす。それから音無さんが、頭を下げた。
「新入社員の音無澪です。システム開発課に配属されました、よろしくお願いします」
「あ、はい、ぼくは崎村亮太です。こちらこそよろしく」
その後、先程逃げた浦谷先輩が戻ってきたので挨拶を交わした後、席を案内して共に席に着いた。
まだ出勤していない社員について簡単に説明する。
「他に加野上一琉、太田翔平、小田直樹という社員がいるが、彼らは十時半から十一時前後に出勤してくる予定だ。
遅くとも前日までには、翌日の出勤予定時刻をパソコンなどで事前に申請しておくんだ。実際は、遅番・早番あるいは代休として交代で出勤している。
ちなみに代休は、日曜・祝日など本来会社が休みの日に出勤した場合、代わりに休む日を申請して休みを取る。これは有給扱いにならないから、たまに有給を代休の前後に取って平日に連休を取るやつもいる。
新入社員は入社後半年経たないと取れないが、取りたい時は事前に俺か課長に相談してくれ。その時の状況によって業務上支障をきたす場合は、許可が取れないこともある。
会社の通常の営業日と休業日については、こちらに卓上カレンダーを用意しておいた。赤丸が休みだ。新入社員の研修期間は三ヶ月だが、半年まではカレンダー通りの休暇を取ってくれ。
それ以降の勤務については、近くなったら相談して決めよう。慣れてきたら自分の判断で決めても良いが、少なくとも半年以上経つまでは休日と遅番の出勤はさせないから。
それとこれが君がこれから実際に行うことになる業務マニュアルと必要になりそうな資料と、気の付いたことなどをメモするためのノートだ。わからないことがあれば聞いてくれ。
九時になるまでは好きにしていて良い。必要ならこの階にある飲料コーナーに案内しようか? コーヒーや冷水やホットのお茶などが飲めるサーバーと紙コップもある」
「ぜひお願いします」
そう言われたので、エレベーターホール手前にあるドリンクコーナーに案内する。ここには自販機の他、サーバーが三つ設置されている。
それぞれホットコーヒー、冷水、ホットの緑茶である。夏場は緑茶が冷たい麦茶になる。
「サーバーにある飲料は無料だからなくなるまでは自由に飲んで良い。いつもコーヒーの減り方が一番早くて十時以降は大抵空になっているから、その際は冷水かお茶で我慢して。
他の飲料が良ければ有料になるけど、自販機で好きな物を購入して飲んでくれ。
毎朝、総務部の子が当番で八時過ぎから八時半くらいに中身を補充しているけど、夕方には空にして洗浄して帰るから、悪いけどそれ以降は自販機で購入してくれ。
ドリンクはここで飲んで帰っても良いし、部屋に持ち帰って飲んでも良い。ただ、紙コップはリサイクルしているから他で捨てずに、この『紙コップはここに』と書かれた場所に捨てて欲しい」
「わかりました」
「音無さん、早速何か飲んでみる?」
「はい、それではお茶をいただきます」
そう言って音無さんがお茶を紙コップに入れるのを見守る。同様に俺は冷水を選ぶ。コーヒーはさっき飲んだし、どうせいつものコーヒーメーカーで淹れたやつだろうしな。
自販機のコーヒーよりはうまいけど、俺の行きつけの喫茶店に比べたら雲泥だ。家から麦茶も持参してきているけど、今は冷たい水が飲みたい気分だし。
一緒に部屋に戻ると入れ替わりに石田が戻ってきており、音無さんと簡単に挨拶を交わした。課長も来ていたので音無さんは朝礼を始める前に、全員の前で改めて挨拶と自己紹介を行った。
「音無澪です。大学では生物学を学び、その関係でパソコンの扱いを覚えました。わからないことばかりで、皆様にはご迷惑をお掛けすることもあるかと思いますが、なにとぞよろしくお願いいたします」
そう言って深々と頭を下げる。その様子を見て、少し安心する。どうやらリラックスしていて変な力が入ったりもしてないように見えるし、特に不安もなさそうだ。
これなら今のところ特に問題は起こらないかな。どのくらいの距離で、どういう風にこれから指導していくかは、彼女の様子を見ながら少しずつ進めて行く事にしよう。
ブログの用語一覧にUIやVBAなどを追加しました。
以下修正。
×UI(※わかりやすいようルビを振りました)
○UI
×プロマネージャー
○プロジェクトマネージャー
×駆け寄って来るのとる
○駆け寄って来るのと
×暗証番号らしきものを
○暗証番号を