III.静かな満月の夜
「うんうん、それでさ……って、んん?」
「どしたの? 凛星」
僕が隠れることなく彼女を遠くの方から眺めていたからかもしれない。彼女は目を細めながら、僕に気付いて声をかけてくる。
「キミ、この間の中学生のコだよね? どうしたの、こんなとこまで来て」
「ぼ、僕は、えと……その」
「凛星、この子ダレ? もしかして会いに来たってやつ? 可愛いじゃん」
「違うでしょ。この子、春からウチラのガッコに通うらしいし、見に来てたんじゃない?」
凛星の言っていることはほとんど合ってた。だけど、僕はキミの声が聞きたくて来ていたんだ。なんてことは間違っても言えない。言ったら困らせてしまう。そんな気がしたから口から言葉を出せなかった。出せずにひたすら頭を上下に動かして「はい」と「いいえ」を繰り返すしかなかった。
「……だって。そっかそっか、中学生ってこんなだったっけ~? 高校に通うのが待ち遠しいだなんて、ホントに可愛いね。あんましそんな記憶無かった気がする」
「凛星って、普段から記憶力ないじゃん。この子の名前聞いた? 記憶力あるなら覚えててもおかしくないし」
記憶力は確かにそうなのかもしれない。でも、僕はそれよりも声で覚えてる。凛星の声が僕にははっきりと届いているんだ。特に寒さで乾いた夜の外は、吐息に混じって普段よりも数倍ハッキリと相手の声が聞こえて来るような気がしてる。これはきっと、僕だけの感覚。
「えー? この子の名前くらい覚えて……んー? えー……」
凛星は僕をじっと見ながら、必死に記憶の中の名前を探していた。単純に考えれば、名前だけを名乗ってその場限りかもしれないのに、会った人の名前を覚えているかなんて自信はないと思う。僕は声で覚えられるから、普通じゃないと言えばそうだけど。
「あの、今夜は満月なんです。だからその、僕、歩道橋のあそこで夜空を眺めてるかもしれないんです。えっと、きっとそこでなら静かに眺められると思うから、だから……えと、それじゃあ――」
駄目だ。どうしてはっきり言えないんだ。自分の名前をここで言うだけなのに。凛星にまた名前を呼んでもらおうなんて、そんなの図々しいにもほどがあるよ。それに満月だからって、わざわざ歩道橋で夜空を眺めようなんて、彼女は思わないかもしれないのに。自分がこんなにも子供なんだって自覚してたら、もういられなくなって慌てて彼女たちの前から走ってしまった。
「あ~あ、逃げられた。凛星、あの子何か言いたげだったけど、名前思い出せないの?」
「満月……静かに眺める、んー? んん? あ、ああー! 記憶にあった。そっか、あの子は私に会いに来たってことか~」
「なになに? 思い出したの? で、どうすんの」
「さぁね」
「え、気になるんだけど?」
「ま、寒いけど行くのもいいかもね」
凛星の声が静かな満月の夜に透って聞けるかもしれない。僕はそんな可能性にかけて夜を待った。