あいさつが人を殺した話。
私は小学校が嫌いだ。
いや、小学校が嫌いなわけではない。
あの場所に朝から飛び交う言葉が嫌いなのだ。
「おはようございます」
この言葉を聞くたび、私の胸は音を立ててすくみ、嫌悪感が口から汚物となってあふれ出る。
これには一つの思い出がかかわっている。
その話を、今からしよう。
とある丁字路で。
「おはようございます!」
そんな言葉が、すぐ隣から響いた。
大声だったので、私は少し肩を震わせた。
知らない中学の男子だった。
答えるのも面倒なので、すっと顔を伏せて通った。
眠たい朝の通学路、そのことが小さな思い出となって心に残った。
名前も知らない中学生からのあいさつは、ほんの少し、私の心を潤した。
なんだかうれしい気持ちになって、ほんの少し上機嫌で、私は通学路を歩いた。
「おはようございます!」
またしても例の中学生だった。
私はひらっと手を振って答えた。
彼は少し顔を伏せて、そのあと笑顔で駆け出して行った。
「おはようございます!」
彼は道行く人全員にあいさつをしているようだった。
よくやるねえ、と思いながら、私は通学路を歩いた。
「おはようございます!」
彼が毎朝こういうのは、もはや日常となっていた。
私はひらっと手を振って返した。
最初に素直にあいさつできなかったから、今になって声に出し言うのも恥ずかしかった。
彼はいつものように笑顔で、通学路をかけていった。
私は彼の少し遠くから聞こえるあいさつを聞きながら、通学路を歩いた。
「おはようございます!」
私は彼の心地いいあいさつを聞いて、こちらもひらっと手を振って返して、通学路を歩いた。
「おはようございます!」
彼は井戸端会議中のおばちゃんたちにあいさつをした。
するとおばちゃんたちは、いや、クソババアどもはこんな事を抜かしたもんだ。
「最近の若いのの朝は、どうしてこんなにうるさいのかしら。頭に響くわ」
「そうね、朝から大声を出されたら、たまらないよ」
「うるさい、うるさい」
私は信じられない思いで振り返った。
そのおばさんどもは、不快そうな目で彼を観た。
彼は目を見開いて口を結んで固まっていた。
手は固く握られ、肩は少し震えている。
「すいませんでした」
彼らしくない小さな硬い声で、彼はつぶやいて、去っていった。
「頭を下げることもできないのかねえ」
「ほんと、なってない人たちが多いわねえ」
「うるさい、うるさい」
なってないののは貴様達だ。
そう心の中で吐き捨て、私は通学路を歩いた。
今日はなんだか、ろくでもないことがありそうだ。
曇天だった。
彼は私のすぐ横を通り、声を出した。
「おはよう」
妙に力のない、なれなれしいその声に、私は何となく力が抜けた。
すると彼はすたすたと道を歩いて、去っていった。
彼にだって調子が出ない時もあるんだろう、うん。
私はそう思って、通学路を歩いた。
晴天だった。
私はいつもの丁字路で、ひらっと手を振った。
誰もいない、誰も声をかけてないのに、手を振った。
おかしい。
私はこの時気付いた。
彼がいない。
いつも大きな声で、少しうるさいくらいのあいさつをしてきた、彼がいない。
どういうことだ。
彼はこれまで、私に毎朝あいさつをしてきた。
毎朝、毎朝、飽きることなく。
そんな彼がいない。
ここから始まる私の一日は、今日は始まらなかった。
始まらないまま、違和感をかみしめながら、通学路を歩いた。
私は家で母親に聞いた。
「〇〇さんの××くん、自殺したんだって」
「何でも、その子あいさつをよくする子だったんだって」
「それで彼、道に座っているヤンキーに、あいさつ、しちゃったそうなの」
「案の定絡まれて、ぼこぼこにされて、そのあと、財布を持って行かれたんだって。
「それが引き金になって、『あいつから金を取れる』って、なっちゃったらしいの」
「それから、毎日毎日、お金を取られ続けて」
「それでも、カラ元気出して、自分は大丈夫だって、周りにあいさつをしたそうなの」
「自分を不幸のどん底に追いやった、あいさつを」
「うっぷん晴らしみたいにその声はだんだん大きくなっていって」
「で、昨日」
「彼は家で首を吊って」
「死んだんだって」
もしあの時、私が彼にあいさつを返していたら。
そもそもあの時、私が彼のあいさつに声を出して答えていたら。
思いかえせば、彼は人にあいさつをするだけだった。
あいさつをしても、みんな頭を下げたり、手を振ったり。
声を上げて挨拶を返した人は、誰もいなかった。
もし私があいさつを返していたら、彼を元気づけられたかもしれない。
もし私があいさつを返して居れば、彼は絶望しなかったかもしれない。
もし彼があと少し元気なら、彼は誰かに相談してたかもしれない。
もし、もし、もし・・・
私はその日以降、誰かに会うごとにあいさつをしている。
狂ったような大きな声で、あいさつをしている。
先生からはいい子ですね、と褒められる。
友達からは、元気いいね、と喜ばれる。
胸の中で荒れ狂う嫌悪感に耐えながら、さながら復讐のように、私はあいさつをする。
そうだ。
これは彼が信じたあいさつに対する復讐だ。
何もできなかった分を取り返すように、『幸せを作る』はずのあいさつを、私は続ける。
私は吐きそうになりながら言う。
「おはようございます!」
この作品はフィクションです。