鐘の音サーカディアンリズム
祖父が遺した柱時計は、彼の生活に寄り添って作られた一点モノだ。彼が起きる時に一度鳴り、彼が朝昼晩の三食を食べる時に一度ずつ鳴り、そして最後に彼が眠る二十一時半にオヤスミを告げて、また翌朝まで振り子の音だけを紡ぐ。私がこの家に初めて訪れたときにはすでにそういう風なものであったし、彼が亡くなった後も、そういうモノで在り続けた。
この家に移り住んでから、私の生活リズムは、その鐘に従うようになった。もう十数年になるだろうか。脳裏に浮かべてみれば、朧月のように曖昧な記憶だ。
私が未だ中学生だった頃、父が他界し、母は私を実家に連れて行った。祖父は人好きのする笑顔で私たちを迎えてくれたし、父を失った私と旦那を喪った母のことを十分に慰めてくれた。私たちが哀しみから少しずつ立ち直っていけたのは、ただ時の流れのみだけによるものでは断じてなかったろう。私は祖父に深く感謝したし、心から尊敬するようにもなっていった。
だから、割り当てられた自室がこの柱時計がある隣の部屋で、毎朝異常に大きな鐘が鳴り響くのに文句も言ったことはない。単に恩人に対してそんな文句など言えるはずもなかっただけのことだが、一週間もすればその音にも慣れてしまったことが一番の理由だった。気がつけば時計の鐘は私の生活の一部になっており、私たち三人は毎朝同じ時間に一斉に起き、同じ時間に夕食の席に集まっていた。それは別に、祖父に強いられたわけでも、母に諭されたわけでもない。私たちは風に泳ぐ魚のように、違和感もなくそのリズムに服従していた。
祖父が亡くなった後も、そのリズムが崩れることはなかった。かれこれ五年と少しになるが、毎朝六時に目覚めるのも、夕方六時半に夕飯を食べるのも、ずっと変わらない習慣だ。
就職してもその習慣を変えずにいられたのは、ほとんど偏に母が家事を執り行ってくれていたからに他ならない。そしてまた、今の妻と結婚してからは、妻もその生活を支えてくれた。
妻とは祖父が亡くなった翌々年に結婚した。妻は私の高校時代の部活の同輩であった。朗らかな笑顔を浮かべる痩せぎすの小柄な人で、日本人にしては異常な程にホリが深い目許は、祖父に似た人好きのする色をいつも浮かべていた。
私たちは音楽部に所属し、私はバイオリン、彼女はピアノを弾いていた。自慢するわけではないが、私は部活の中ではいくらか上手にバイオリンを弾ける方で、彼女は部活で一番ピアノが上手かった。そういう理由から私たちは時折ピアノとバイオリンのデュオでコンサートなどを行い、音楽活動に勤しんでいた。
こういうことを言うと不真面目に思われるかもしれないが、ピアノを弾く彼女は実に美しくて、私はずっと彼女に見蕩れていた。サンタマリアのような指が鍵盤を撫ぜる姿を見つめているとき、私の得物は最も良い音を奏でてくれた。彼女に寄せる想いが、私の音楽に美しさを与えてくれていた。
一曲演り終えると、私たちは決まって見つめ合って微笑んだ。そのほんの瞬間のどれだけ幸福であったことか。彼女が満足そうに拍手喝采を浴びている姿が、私にとってかけがえのないものであった。
奥手な私が彼女と交際し、結婚にまで至ったのは、実のところ彼女自身の主導によるところがほとんどだった。情けないことに、プロポーズさえ彼女の方からだった。これは今でも鮮明に覚えていることであるが、大学を卒業した翌日から二人で行った旅行先のある観光名所の橋の上で、彼女は私の右手を両手で握り締めて「私と結婚なさい、ね」と微笑んだ。私はといえば、丁度祭りの提灯が橋を照らしており、その逆光に暗くされた美しい顔に、惚けて何と答えたか定かでない。ただ、こうして実際に私の妻となっているのだから、「はい」だか何だか、肯定の返事をしたのだと思う。
その月のうちに彼女は母に挨拶をして、その日のうちにこの家で暮らすことを決めた。私が出かけている間のことで、帰ってきて「明日からここに住むわ」と言われたときは卒倒しそうになった。ブルドーザーで外堀を埋められたような気分だった。それでも、文句の一つも言えなかったのは、彼女がいつものように微笑んでいたからだろうか。丁度そのとき、柱時計が夕食の時を告げたのをよく覚えている。母はそれを聞いて、ご飯にしましょうと妻に言ったのだった。
それから数年が経った今、私たちの間には一人の娘がいる。今年で二歳になる。彼女にはあまり似ていない。彼女は自分の顔があまり好きではないらしいから、似なくて良かったとしきりに言うのだが、私はもちろん面白くない。私のような醤油顔に似られる方が宜しくないのに決まっている。しかし、そんなことを言うと彼女は決まって不機嫌になるので言葉にはしない。「私の旦那の顔が悪いっていうの?」などと睨めつけられては居た堪れないのだから。
こうして考えてみれば幸せになったものだと思う。ややクセのある人生と、人々に恵まれてはいるものの、世間一般的に見れば平々凡々と言って差し支えないほどに充分な幸福を、知らぬ間に一つずつ獲得してきた。冴えない私に誇れるものがあるとすれば、その幸福を形作る大切な人達をおいて他にない。
そんな身の上の自慢話を、会社の友人との飲みの席で照れながら話した。彼らは私の背中を力強く(赤くなるほどに)叩いたり、しきりに頷いたりしながら聞いてくれた。
言い訳をすると、その飲み会は転勤になる大学以来の友人の送別会であって、私は名残惜しさからつい長居をしてしまった。妻に遅くなる旨や先に寝るようにと伝えることも忘れて、別れの酒をたくさん飲んでしまった。
そんなだから、結局私は終電すら逃してしまって、タクシーで家にたどり着いたのは夜も一時を回った頃だった。翌日が土曜日で本当によかったなどと考えながら、私はドアを開けた。玄関はもちろん真っ暗で、おそらく妻も娘も母も、みんな寝てしまっていることだろう。飲み会があるということは朝のうちに妻には伝えてあったから、遅くなると向こうで勝手に見切りをつけてくれたのかもしれない。さすがによく解っている。こういうとき、待たれると申し訳なくなってしまう私のことを。
灯りを点けながら足を振って靴を脱ぎ、リビングに向かう。リビングはいつもどおり清潔にされ、紙くずの一つもない。母が綺麗好きな人だから、今日もマツイ棒だかを片手に趣味に励んでくれた証だろう。妻は掃除をしないわけではないが、母ほど神経質でもないから。
適当に水を汲んで椅子に腰掛けると、丁度テーブルのそばにある壁に飾られた絵が目に飛び込んできた。娘が母の日に描いた絵だ。そこにはやたら顔の大きな妻らしき人物と、黒鍵のないピアノ、それから、あの古い柱時計が描かれている。これは、あの部屋の絵だ。妻の趣味の部屋。もとは祖母の趣味の部屋でもあった。妻は結婚してからもよくあの部屋で私の祖母の遺品であるアップライト・ピアノを弾いてくれた。昨日も夕食後に娘と「大きな古時計」などの童謡を弾き語っていたし、その姿は学生の頃と何ら変わらず、見蕩れるほどに美しく、私は時計の隣で棒立ちにそれを鑑賞していたものだ。
この絵から見るに、やはり娘にとってもあの時計はそこにあって当然で、なくてはならないものなのだろう。それはきっと無意識なのだろうが、ピアノと母と同じくらい、彼女にとって重要なものには違いないだろう。何度か娘に祖父のことを話したことがあったから、なんとなく大事なものだというのは解っていたのかもしれない。
水を飲み干して、また立ち上がる。シャワーを浴びる気力もなく、私の体は今すぐにでも横になりたがっていた。ただ――不思議とあまり眠くはなかった。ずっと規則正しい生活をしてきたものだから、たまにこうやってそれから外れるとどうも調子が狂う。しかし、横になってしまえばそんなことも忘れてぐっすり眠れるだろう。そう思って、私は寝室に向かった。
寝室に入れば、妻と娘の安らかな寝顔が迎えてくれるだろう。一度寝たら時計が鳴るまで絶対に起きない二人だから、私がドアを開けたところで厭がられることはないだろう。そう解っていても、性分から静かに扉を開かずにはおれなかった。
ドアを開けて、そこで立ち止まった。
空っぽだった。誰もいない。そこには畳まれた布団がもの寂しそうに座しているのみで、人影の破片どころか温もりの一つもない。窓から差す月明かりにうすら青白く染められた空虚な暗闇だけが全てだった。
言いようもない不安に駆られた。異常事態だった。とうに時計の鐘は鳴っている。今までの生活で、家族がこの時間にこの部屋に居なかったことなど一度たりともなかった。
よもや、帰らぬ私を探しに出たのではあるまいな――。
そんな不安に駆られた私は、家中の部屋を確認して回った。まず母の部屋に行った。母は普段から一人違う部屋で眠っている。それは長年の習慣からということもあったが、たぶん私たち夫婦への遠慮もあったのだと思う。
そんな優しい母の姿も、結局その部屋の中には見つからなかった。
いよいよ私は正常でなくなって、近所迷惑も厭わず彼女らの名を怒鳴り散らして家中を走り回った。通り過ぎる間に見つけたドアは全部開けて回った。そのどれもに人の姿はなく、ただ虚しい夜の空間が私を冷えた目で見るばかりだった。
気がおかしくなりそうになりながら、とうとう最後の部屋にたどり着いた。
そこは奇しくも寝室から最も遠く、最も彼女らにとって重要な、あの時計とピアノのある部屋だった。
一瞬――ドアノブに手をかけることをためらった。何の根拠もないが、妻たちはきっとこの部屋にいるだろうという曖昧な確信が、そのとき私の中に生まれていた。それだのにドアノブをしばらく回せずにいたのは、何故だったろうか。いつの間にか右手はじっとりと汗に滲んでいた。アルコールもいつの間にやら霧消してしまって、今の私を支えてくれるものは何もない。ただ、扉を開けねばならぬという義務感だけが、私の右手を緩慢に動かした。
果たして、彼女らはそこに居た。
ピアノに突っ伏して眠る妻の背中を見つけたとき、情けないことに私はうっかりその場にへたりこんでしまいそうになった。痩せすぎの背中は隆椎のみならず胸椎の七番目くらいまで浮き出ており、ついなぞってみたくなるほどに愛らしい。眠るときはほとんど布団で寝ている彼女だから、珍しい姿に私はやや興奮を覚えただろう。――平素ならば。
実際には、彼女のすぐ右隣、ピアノの傍の床に、母と娘が横になって倒れていたために、そんな考えは一厘たりとも起こすことができなかった。
私はすぐさま彼女らに駆け寄って、二人の名を呼び肩を揺すった。しかし、反応はなかった。震えがまたぶり返してきて、冷や汗が背中に噴き出た。私は徐に娘の呼吸を確かめた。
――安らかな寝息を立てていた。
そのときの、あまりの虚脱感をどのように言い表せば良いだろうか。今度こそ私はへたりこみ、力の入らない体を引きずって、ようやく母も眠っているだけであることを確認できたほどだった。
四つん這いになって私は嘔吐するように深いため息を吐いた。安堵のあまり涙を幾筋か零してしまった。彼女らが眠っていて良かった。揃って寝ている人間を見つけて死んだかと思って発狂しかけたなどとバレては何と笑われても言い返せない。安心するとともに、穴があったら入りたい気持ちに襲われていた。
それから私はとりあえず娘を、次に妻を、最後に母をそれぞれの布団へと運んだ。幸い皆、私の細腕でも容易に持ち上げられる程度の重量しかなく、それは大した労力ではなかった。ただ、抱き上げても身動ぎ一つしない家族の寝姿に、私は若干の不安を覚えた。地震が起こっても目覚めそうにないかもしれない。――時計が鳴るまでは。
一仕事終えた私は、最初布団にもぐって眠ろうとした。しかし、一時間ばかり目を閉じてみても一向に眠気がこないので、若干苛立って布団を抜け出した。それから、気分を落ち着けようと台所で水を一杯飲んだ。冷たい夜に冷たい水が体を芯から冷やしていって、今すぐにも温い布団に戻りたいような気持ちに駆られたが、それでも眠気はなく、リビングのソファに座って天井を見つめた。
天井の白色を見つめるうち、こんなことを考えた。
何故、彼女らはあの部屋で寝ていたのだろうか、と。
妻は、ピアノに突っ伏して眠っていた。あのときは気が動転していて気にしなかったが、思い起こしてみれば彼女は手を枕にするでもなく、顔を鍵盤に直接押し付けて眠っていた。体を無理やり起こしたとき彼女の頬にはしっかり鍵盤の跡がついていたし、相当長い時間寝返りのひとつも打たずに、とても安眠などできなさそうな格好で眠っていたことになる。いくら彼女がピアノが好きだといって、こんなことは出会ってから今まで一度だってあるはずがなかった。
母と娘も、おかしな寝方をしていた。まず地べたで布団も被らずに眠っていたのだ。それだけでも、孫に対して過保護な母にあるまじきことであるし、加えて言うなら、母が娘を抱きかかえて横倒しになっていたのも気になる。また、母は正座をそのまま横に倒したような格好をしていて、娘はその膝に乗るような形だった。もしかすると、寝る直前まで娘を膝の上に乗せていたのかもしれない。
こんな光景が浮かんだ。
妻がピアノを弾いている。曲目は何かしらの童謡だろうか。娘の好きな「大きな古時計」などだったかもしれない。その娘は、大好きな「おばあちゃん」に抱きかかえられて、母親のピアノに合わせて歌を歌っている。母はその娘に微笑みを向けながら一緒に歌う。そんな家族団らんの光景だ。
それが突然、全員眠ってしまったような。
そんな姿を、彼女たちはしていた。
馬鹿馬鹿しい妄想を振り切るように。
その妄想が呪いと変わる前に。
体は、あの部屋へと向かっていた。
使い古されたアップライト・ピアノは変わらずそこにあった。ドアを開けて真向かいの、西側の壁に寄り添うようにしていて、北側の壁にもたれかかる柱時計に曲を聴かせるように、じっとしている。その弾き手はすでに眠ってしまっているが、明日の昼前にもなればまたマフラー・ペダルに丸くされた音を聴かせてくれることだろう。そのときを待つかのように、蓋は開きっぱなしになっていた。流石にそのままでは行儀が悪いと思い、蓋を閉めた。その際、手を滑らせて、思いのほか大きな音を立ててしまった。自分で一番驚いて、自分に一番呆れられてしまった。情けない私の女のような悲鳴とピアノの蓋の硬質な音は、夜のしじまに無粋に響き、やや長いリリースの後、絵の具が水に混ざっていくように溶け消えて行き、部屋にはただ、規則的な柱時計の針の音ばかりが――
――残らなかった。
鈍臭い動きで、体を右に向けると、古い時計が立ち尽くしている。祖父に愛された柱時計。私たち家族の生活リズムを支配してきた古時計。
それが、止まっていた。盤面は九時半過ぎを指していた。おそらくは、私が友人たちと飲んだくれているときに止まったのだろう。
私はため息を一つついて時計に近付き、それをやや前傾させて裏側を覗き込んだ。この時計は乾電池駆動なので、たまにこうして動きを止めることがあった。そうしたとき、すぐにまた稼働できるように祖父がいた頃から時計の傍には常に予備の電池が置かれていた。今回も私は半ば習慣のように単三電池を取り替えて、携帯を見て正しい時刻に針を合わせた上で、振り子を指で弾いた。それで、動き出すはずだった。
しかし、時計がまたリズムを刻むことはなかった。
やや慌てて、もう一度時計の裏を覗き込んだ。電池はしっかりはまっているし、外見には電池の接置部分などは何ら問題ない。試しに電池をはめ直してみても、やはり動かない。叩いても揺すっても、針は一向に動かない微動だにしない秒針に、私はまるで時が止まってしまったような錯覚を覚えた。
その後、二度と時計が動くことはなかった。
また、その日から以降、私の家族は眠ったまま目を覚まさないし、私も一睡もできず、朝食も摂れずにいる。
読みにくい点や気になった点などございましたらご指摘頂けましたら幸いです。