ヤコブ兄さん
ヤコブ兄さんと会ったのは、オレがこの世界に転生してきて、しばらく経ってからのことだった。
彼はオレの兄で、この世界で唯一の肉親ということらしかったが、ぜんぜん親近感が湧かなかった。むしろ、オレはちょっと苦手だった。
「記憶はまだ戻らないのか」
はじめて会ったときも、こんな感じだった。この大事なときに記憶喪失なんかに、なりやがって……と、そんな目で彼はオレを見た。
ヤコブ兄さんを苦手としていたのは、どうもオレだけではなかったらしい。ペテロのおっさんもまた然りのようだ。彼はヤコブ兄さんの前では、たじたじだった。
おいおい、あんたナンバーワンの兄弟子だろう、しっかりしてくれよ……。
「主の復活という奇跡は、急速に人びとの心をとらえている。教典の編纂、教会の設立はわれわれにとって急務だ」
ヤコブ兄さんが言った。ペテロは、そのとおりだ、と返した。目が泳いでいる。
「私はこれからエルサレムへ行き、教会を作るための準備にかかる。教典の草案は、あなたに任せたぞ」
そう言い放ち、ヤコブ兄さんは勇んでドアへと向かった。
「……あ、ちょっとヤコブ」
「なんです」
呼び止められてヤコブ兄さんは不快感をあらわにした。ペテロが聞く。
「その、教典にこれだけは載せておきたいっていう……リクエストみたいなものは、あるかな?」
冷たい目でペテロを見るヤコブ兄さんだったが、突然なにかを思い出したように口元を緩めた。
「主の予言は必須だろうな。とくにペテロ、あなたが三度、主を知らぬと言った事件は目玉にしてもいい」
「ああっ、それを言われると私は、どうしていいか……」
ペテロのおっさんがその場にくずおれた。涙を流しながら、がたがたと震えている。
ヤコブ兄さんはなんのケアもせずに出て行った。さすがにヒドくね?
「大丈夫ですか、ペテロさん」
オレはおっさんの肩に手を遣った。
「……ありがとう」
少し落ち着きを取り戻すと、彼は自ら身体を起こして椅子に座りなおした。オレにも椅子をすすめる。
「きみにはまだ話していなかったが、私は……」
「主を三度知らぬと言ったんですね。よほどの事情があったのでしょう?」
オレは気をつかって先回りした。うんうん、とペテロが頷く。
やがて彼はそのときの状況を話してくれた。
イエスがユダヤ人たちに捕まったとき、ひどい暴力を受けたらしい。その様子をペテロは、ただ静観するしかなかった。周りには野次馬がごまんといた。そのうちの誰かがペテロを指して言ったのだ。「こいつは、イエスの仲間だ」、と。
「それは、でも仕方ないですよ。下手したらペテロさんまでが捕まって、ボコボコにされるかもしれない状況でしょう」
「私は、弱い人間だ」
おっさんは俯いてそう言った。オレはなんだか、妙に納得したのだった。
「ペテロさん、あなたを弟子たちのリーダーに据えられた主は、やはり偉大だったと思います。いちばん弱くて人間らしいあなただからこそ、だとオレは思いますよ?」
「そうかな、ふふっ」おっさんは照れ笑いした。ちょっとキモかわいい。「でも、三回は言い過ぎじゃない?」
オレも笑ってしまった。
「そうですね、一回だけならまだしも……あ、でもそうすると主の予言と違ってしまう。やはりあなたは、律儀な方だ」
「コイツう」
おっさんは、すっかり気持ちよくなってしまったようだ。でも安心した。