カミング・バック
ペテロの話によれば、オレらガリラヤ人がこのアウェーの地サマリアで水を頼めるようになったのも、瓶を持った女性とイエスの会話がきっかけだったという。
そして、その会話の一部始終を聞き後日ペテロに話して聞かせたのは、誰あろうヨハネだった。オレが転生する前のヨハネ。だからオレは憶えていない。
まあ、ここまでは別にいい。問題は今日のことだ。オレがさっき出会った瓶を持った女性。彼女はかつてイエスと話した女性と同一人物だろうか?
可能性その一、同一人物である。
すると、かなりおかしなことになる。彼女は相手がイエスであれその偽者であれ、同じ話を二度していることになる。だからこそ彼女は腑に落ちず、首を傾げていたのかもしれない。彼女のぼんやりは、そういう意味だったとも考えられる。
可能性その二、同一人物ではない。
これは、まあまあ、ありそうだ。復活したイエスが姿をあらわし、ランダムに人びとを教え導いている。そしてその奇跡のしるしを、弟子のオレらに見せようとしているのだ。
可能性その三、単なるオレの幻覚。
悲しいことだが、その可能性は否定できない。オレはふつうの人間ではない。前世の記憶を持ったまま他人に転生してしまったという、特殊な状況なのだ。
なんらかの要因で(たとえば喉がめっちゃ乾いていたとか)、転生以前のヨハネの記憶がフラッシュバックしたのかもしれない。
「きみの記憶が、一時的に戻ったんじゃないのか?」
ペテロも可能性その三に近いことを考えたようだ。もちろん彼は転生のことなど知らず、オレを単なる記憶喪失だと思っている。
「そう……ですね。そう言われると、自信がなくなってきました」
弱気なオレにペテロのおっさんが笑いかける。
「はっは、まあいいじゃないか。少しでも記憶が戻ったのなら」
「……ええ、まあ」
オレは苦笑した。このおっさんは、へんなところでポジティヴだ。
「ところで、私に水は?」
「あっ」
†
一週間ぶりにナザレに帰ってきた。ナザレとエルサレムを往復するだけで、大体それくらいかかる。このパターンにも慣れてきたが、さすがに疲れた。
「お疲れさまです」
マリアがオレの部屋に来てそう言った。
「学ぶことが多すぎて、疲れます」
オレは笑いながら答えた。
このナザレで、オレはいまマリアと母マリアの三人で暮らしている。この奇妙な同居には、もちろん理由がある。
ここはかつてイエスとその母マリアの家だった。そこにサポート・メンバー的なかたちで、マリアが同居していたらしい。ふつうはお嫁さんのポジションだと思うのだが、くわしい事情はよくわからない。マリアも教えてくれようとしない。
イエスは、自分が天に召されたあと、愛弟子ヨハネをこの家に迎え入れなさいと言い遺したそうだ。ヨハネの変調も主は予見していたという。
そしてその通りになった。ヨハネは記憶を失った、と表向きはそうなっている。実際はオレがヨハネに転生したのだ。
この事実を知るのは目の前にいるマリアしかいない。彼女はオレの数少ない「仲間」だった。
「サマリアで、主を見たかもしれません」
オレがそう言うと彼女は目を輝かせた。
「えっ、本当ですか」
多々木さんを見たかも……と、オレがどれだけ言いたかったか。その気持ちをマリアも察してくれたらしい。
前世に関する会話は、オレらのあいだで禁止事項になっている。そのほうが、お互いにとっていいのだ。オレらは着実に、この世界に染まりつつあった。