サマリアの女
町の中央に井戸があった。勝手に水を汲むわけにいかないので、現地の人を呼ぶ必要があった。こういうところが面倒だ。
かつてアウェーだったこのサマリアの地で、ユダヤ人やガリラヤ人が水を所望するなど考えられなかったという。
その心理的な距離を取っ払ったのがイエスだ。イエス最高。オレの喉の渇きは限界だった。
さいわい井戸には先客がいた。瓶を持った女性と、もうひとりは男性だった。男性は向こうをむいていたので顔が見えなかった。
これがあとで重要になると、このときは思わなかった。
ふたりの会話を邪魔しちゃ悪いと思ったが、ちょうど話が終わったところみたいだ。男性はこちらをふり返ることもなく去って行った。オレの存在に気づかなかったらしい。
女性は瓶を持ったまま、井戸の傍に佇んでいる。なんだか、ぼうっとしている。
「水を飲ませてもらっても、いいですか」
オレが声をかけると彼女は、
「え……ああ、」
と何か考え込んだ表情で水を汲んでくれた。
「ありがとう、いただきます」
オレは背負い袋から器を取り出し、桶から水をすくってガブ飲みした。はあ、助かった……。
「……あの、ちょっとお聞きしても?」
彼女が話しかけてきたので、オレは頷いた。
「ええ、どうぞ」
「私のしたこと、すべてを、私に言った人がいるのです。あのかたがイエス様でしょうか?」
意味がわからなかった。脈絡もなかったし、そもそもイエスは死んでいる……いや復活している。彼女は復活したイエスに会ったのだろうか。それとも昔の話か。
「えっと、それはいつの話です?」
「たったいま」
「えっ」
オレは心臓がとび出しそうになった。じゃあ、さっきの男性が……復活したイエス? イエス・キリストってことはつまり、多々木さんだ。
いや待て、冷静になれ。彼女の勘違いだってことも考えられる。あるいはイエスを騙る偽者の可能性も。
「いまさっき貴女と話されていた男性が、貴女に関することをいろいろと言い当てたと、そういうことですか?」
「……はい」
彼女は暗い表情で頷いた。なんか、ワケありっぽいぞ。オレはさらに聞いた。
「いままで、そういう話を耳にされたことがありますか? 相手の内情を見抜いてしまうような人の話を」
「いいえ」と彼女は答えた。
オレは顔が引き攣らないように注意しながら、
「主はいつも、貴女とともに、おられます」と彼女に伝えた。
それは偽者かもしれませんよ? などとは間違っても言わない。オレには判断がつかないからだ。本物の、復活した多々木さんである可能性も、もちろんある。
意外と彼はオレの周りをニヤニヤしながら、ウロウロしているのかもしれない。
オレは先に立ち去った男性を探そうとはしなかった。顔を見たわけじゃないし、もしあれが多々木さんなら、意味もなく姿をあらわすことはしないだろう。
再度彼女に水のお礼を言って、オレはその場を辞した。彼女はそれ以上オレになにも聞かなかった。
ペテロのところに戻って一部始終を報告した。すると彼は驚愕の表情を浮かべた。
「マ、マジか……」
「マジです」とオレ。
彼はため息をひとつ吐くとオレを見て言った。
「話がカブっている」
「何とです?」
「きみ自身の話とだ。私がその話をきみから聞いたのは、これで二度目だ」
「……マジですか」
冷や汗が出てきた。たぶん彼が言っているのは、オレが転生する以前のヨハネの話だろう。つまり、転生する前と後で二度、おなじ現象に遭っているということだ。
「一度目は、いつですか」
「主がまだ十字架にかけられる前だ。ヨハネ、きみは主とともにこのサマリアを訪ねていたんだ……」
ペテロは語り出した。