ペテロのおっさん
それからのオレは、ペテロのおっさんに連れまわされる日々だった。
彼はどうもイエスの弟子たちのナンバーワンであるようだ。そして驚くべきことに、彼が言うには、ナンバーツーはヨハネだというのだ。ヨハネとはオレのことだ。
「記憶を失ったのは仕方ない。だが、それできみの使命が終わったわけではない」
そうペテロは言った。ようするに、白紙の状態からやり直せということだ。
わからないことは彼に聞いた。わからないことだらけだった。だが人間というのは、おそろしいスピードで環境に適応していくものだ。オレはハンパじゃなく吸収した。
マリアが事前にアナウンスしてくれた情報のなかに、間違ったものがひとつ含まれていた。文字の読み書きに関することだった。
彼女の説明では、転生後のオレらのステータスとして、この世界で会話は問題なくできるが文字についてはさっぱりだ、ということらしかった。
だからオレは端から読み書きはあきらめていた。ところがだ。
ペテロと同行しているとき、彼が書いた文書をチラ見する機会があった。オレは目を疑った。読めるぞ!
見たこともない異国の文字のはず、なのに意味がダイレクトに脳に伝わってくる。
ふと思いついて、オレは砂の上に文字を描いてみた。文章はそうだな……「わたしはヨハネです」。
やはり、そうだった。オレの指はまるで知らない文字列を描いていた。それはつまり、オレが前世で慣れ親しんだ日本語が書けなくなったということだ。
そもそも、オレの思考回路が日本語で成り立っていると、どうやって証明する? オレが勝手に日本語だと思い込んでいるだけじゃないのか。
……いやいや、オレは前世ではたしかに日本人だったのだ。それが無理くり異世界へ転生させられて、言語機能とかがおかしくなってしまったのだ、たぶん。
ともかく、いまは前を向くしかない。読み書きができるというのは、オレが転生したヨハネという人物からの恩恵だろう。マリアにはそれがないと言っていた。活用しない手はない。
†
いろんなことが少しずつ、あきらかになっていった。
まず、ここがいつの時代でどの国にあたるか。マリアには前世の価値観を引きずるなと怒られたが、オレは知らずにはいられなかった。
ペテロに聞いてみたが、ストレートな答えは得られなかった。非常にデリケートな問題であるらしい。
それでもなんとか聞き出した情報によれば、ここはかつてユダヤと呼ばれた王国であったらしい。その王国はすでに滅んでしまったそうだ。
いまこの地方はローマ皇帝の統治下にあるという。皇帝の名は? とオレが聞くと、
「シーザー」
ペテロはぶっきらぼうに答えた。なんか恨みがこもっている感じだ……。
でもこれで、はっきりした。
世界史に疎いオレでもさすがにシーザーくらいは知っている。具体的にいつごろの人物かと言われたら即答できないが、少なくとも(現代日本から見て)相当古い時代であることは、たしかだ。
まあ、イエス・キリストが登場することや、この近辺の暮らしぶりからして大昔だろうとは思ったけど、キリストのことをよく知らないオレにはどうも現実味がない。なんか神話っぽいイメージなのだ。
ところがシーザーの名を聞いて、ぐっと親近感が湧いた。あとはユダヤという国について、オレが知っていればよかったのだが……。
残念ながら、オレにその知識はなかった。PCやスマホですぐ調べられないのがもどかしい。
ふと気がついて、反省した。マリアがやめろと言ったのは、まさにこの考え方だろう。オレに余計な知識がなくて逆によかったのかもしれない。