そういうシナリオで
「ヨハネさん、あなたはいま、病気で臥せっていることになっています。で、快復したはいいのですが、たくさんの記憶を失ってしまうのです。そういうシナリオで行きましょう」
マリアが説明した。
「うわー、ベタですねえ……」
「ベタとか言わないでください。これも主が予言されたことなんですよ?」
「予言……オレがヨハネに転生したことをですか」
「いいえ、そこまでは。ただ、ヨハネに異変が起こるとだけ」
オレは腕を組んだ。たしかに異変は起こったけど、ずいぶんと大雑把な予言だな……。
「わかりました。それじゃこれからオレは、何を聞かれても憶えていません、の一点張りでいいんですね」
「そうなります。さいわいと言うべきか、ヨハネにはヤコブというお兄さんひとりしか身内がいません。その点では気は楽かと」
なるほど。親や妻子がいて、そういった人たちの記憶をことごとく失くしているとなれば、むしろ周りのほうがショックがデカいだろう。
「ちなみに、お兄さんのヤコブも、主のお弟子さんのひとりです」
彼女はそう言った。
†
翌日、マリアの過剰とも思える演技のもと、オレが病の果てに記憶喪失になったというシチュエーションが創り出された。
それにしても若林さん、こっちの世界へ来てからちょっとオーバーになったんじゃ、なかろうか。まあ、郷に入っては郷に従えというし、これがここでは最も効果的な方法なのかもしれない。
オレの知っている彼女は、ふだんは天然だが、ある瞬間にスイッチが入るとものすごい頭の回転と勇気と行動力を示す女性だった。
いま、まさにそのスイッチがオンになったのかもしれない。あ、それと彼女を若林さんと呼んだのは心のなかでだけだ。いまの彼女はマリアで、それ以外の名で呼ぶと怒られる。
「ああ……かわいそうなヨハネ、私が判りますか」
初対面のおばさんに、いきなり泣きつかれた。いや、だから判りませんて……。
オレは首を振った。とにかくあまり喋らず、首を振りまくれというのがマリアの指示だった。
「イエス様のお母上、マリア様です」
マリアが助け舟を出してくれた。そうか、このかたが聖母マリアか……。なんだか近すぎて実感が湧かない。でも本当にオレのことを心配してくれている、その気持ちはひしひしと感じた。
母マリアはマリアに付き添われるかたちで部屋を出て行った。え、ちょっと待って、マリアまで出て行っちゃうの?
部屋にはオレと、若干挙動不審のおっさんひとりが残された。
そもそもこの部屋は誰の部屋で、この洞窟のような石造りの家は誰の所有物なのだろう。オレ(ヨハネ)の家? それとも……。
目の前のおっさんと目が合った。彼はもじもじしたまま、どう切り出そうか迷っている感じだ。
このおっさんが兄のヤコブだろうか。するとこの家は、オレたち兄弟の家なのかもしれない。
「あなたが兄のヤコブですか?」
じれったいのでオレから聞いた。でも考えてみると、これがオレのこの世界での初トークだった。もちろんマリアは別だ。彼女とは前世から喋っている。
「いいや」彼はため息まじりに言った。「きみは本当に記憶を失ってしまったんだな。残念だ」
「あなたは誰ですか」
オレはこの先、いろんな人におなじ質問を幾度もすることになるだろう。これは記念すべき第一発目だった。そして、その質問をした相手はおどおどした様子とは裏腹に、意外な大人物だった。
「ペテロだ」
おっさんはそう答えた。