オレ≠ヨハネ
オレは自分の無知を呪った。キリストといえば十字架である。だが、あれがどういう意味なのか、いまのいままで知らなかった。象徴的な何かだと思っていた。
「亡くなった……多々木さんが?」
待て待て待て、いろんな意味でおかしいぞ。オレはさっき、彼の声を聞いた。ぼんやりとだが姿も見た。若林さんだって、さっき、やんごとなきお方と言ったじゃないか。
多々木さんが死んでいるのなら、さっきのあれは何だ。幽霊? それとも……。
「イエス様は十字架の上で亡くなり、三日後に復活されたのです」
「そんなバカなー」
オレは茶化して笑ってみせた。……うっわ、若林さんが全然笑ってない。
「本当のことです。ヤマゲンさんもさっき、社長の声を聞いたでしょう」
「……マジっすか」
オレは困ってしまった。いきなり転生したのもそうだが、そのほかにも厄介なことが多そうだこの世界は。
「で、復活した多々木さんは、いまどこに?」
「たぶん、もうお会いすることはできないでしょう」彼女は静かに言った。「ヤマゲンさんが彼のお言葉を聞けたのは、あなたが特別な方だからです」
「オレが?」
「と言いますか、ヨハネが」
若林さんが複雑な表情でオレを見る。ヨハネとはたぶん、オレのことだ。
「ヨハネって誰です?」
「アタシもくわしいことは知りませんが、イエス様のお弟子さんのようです」
「若林さん……っていうかマリアも、彼のお弟子さんなんですか」
「よくわかりません」彼女は首を振った。「でも、ずっとイエス様のお傍にいたらしいです」
「うーん」
オレは唸った。どうすれば、いい。
「とりあえず、オレはヨハネとして、この世界で生きていかなくてはダメなんですね?」
「それしかないと思います。アタシもそうでしたし、社長も」
少し間をおいてオレは聞いた。
「いまは、どんな状況なんです?」
「イエス様が復活されたことで、弟子の方がたは息巻いておいでです。救世主伝説の幕開けと言いますか……たぶん、これがキリスト教のはじまりじゃないでしょうか」
「なんだか、すごい現場に立ち会っちゃいましたねオレら」
オレは気が抜けたように笑った。彼女も少しだけ微笑んでくれたのが、まだ救いだった。
†
ここから作戦会議に入った。オレがこの世界でヨハネとしてやっていくための作戦だ。協力者はひとりしかいない。若林さんことマリアだ。
はじめに、若林さんという呼称は二度と使わないでと彼女に言われた。彼女もオレを山元ではなくヨハネと呼ぶことに徹底すると誓った。社長、多々木さんの呼称も厳禁で、イエス様あるいは主と呼ぶことに決めた。
まず言葉から気をつける必要があった。
「さっきの話では、言葉はふつうに通じるということでしたね?」
「ええ」彼女は頷いた。「ただし、ワカバヤシとかヤマゲンとかシャチョウという単語は、ほかの人にはまったく異国の言葉に聞えます。だから今後はけっして使わないでください。それと、」
マリアはつけ足した。
「当然ですけど、アタシたちが前世の記憶をもっていることは絶対内緒にしてください。日本という国のことや、アタシたちが慣れ親しんだ文化や科学技術のことも。混乱を招くだけですから」
「そうですね……」
オレは超基本的なことを彼女に聞いてみた。
「ここはどの時代の、どの国にあたるんですか」
「あっ、だから、そういう考え方はダメなんです」
マリアが思わぬ厳しい表情をした。
「アタシたちが暮らしていた現代の日本から遡って、ここは何世紀だとか、どこの国だとか、そういう考え自体を捨ててください。きびしいことを言うようですが、普段から徹底しておかないと、ふとした拍子に表に出ますよ?」
「……すみません」
怒られてオレはヘコんだ。