若林さん≠マリア
「どういうことですか……」
視覚が戻るにつれ、この異様な状況が明らかになった。民族衣装のような若林さんの恰好もそうだし、この部屋も何というか、洞窟?
「ヤマゲンさん、落ちついて、よく聞いてください。これは夢なんかじゃありません。信じられないかもしれませんが、現実なんです」
冷や汗が出てきた。まるで幽霊を紹介されて、これが本物の幽霊ですと言われたような感じだった。
「あれっ」
多々木さんの姿が見えず、オレは部屋中を見回した。
「多々木さんは?」
「……とりあえず、座りましょうか」
オレが聞くと若林さんはそう答えた。
テーブルにつくと、彼女が水を持ってきてくれた。テーブルにも水を入れた器にも、オレは度肝を抜かれた。あきらかにオレが慣れ親しんだものとは、違う。
「どうやって説明すれば、いいのか……」
若林さんは眉根をよせた。彼女がこんな表情をするのを見たのは、はじめてだ。それほど長い付き合いがあったわけではないが。
「ヤマゲンさん……転生って、わかりますか」
「生まれ変わることですよね?」
「ええ。いまのアタシたちの状況が、まさにそれです」
「ちょっと待ってください」オレは額に手をあてた。「オレはまだ、前世を全うしていないですよ?」
「アタシもです。でもこうして、前世の記憶を持ったままべつの時代、べつの人生に送り込まれてしまった」
思わず目まいがした。だがこの状況を説明するには、彼女の言葉を信じるしかなさそうだ。
「べつの人生……」
「そう、アタシはここではマリアと呼ばれています。アタシにマリアとしての記憶は、ありません。だから本当に突然に、若林芽衣子という人間からマリアにすげ代わってしまったんです」
「まるでマンガですね」オレは手で顔を覆った。「……それで、あなたはどうやって、ここで生活しているんです?」
「マリアとして、彼女の人生を引き継いでいます」
「そんなこと、できるんですか。マリアとしての記憶はないんでしょう? それに、言葉だって……」
「言葉は問題ないです。いまアタシとヤマゲンさんが話しているみたいに、ほかの人ともふつうに話せます。ただし、文字はさっぱりです。でもこの時代では、読み書きができる人のほうがレアですので、さほど支障はないかと」
オレはしばらく呆然とした。頭が混乱していた。
「あっ、そうだ。多々木さんは? 彼も一緒なんでしょう?」
「社長は……」彼女は言葉を詰まらせた。社長というのは、若林さんがかつて多々木さんに使っていた呼称だ。
「社長は、ちょっと、ややこしい方に転生されたんです」
「どんな?」
オレは聞いた。さっき見た、多々木さんのぼんやりとしたシルエットが脳裏にうかんだ。そして若林さんはさっき、こう言った。やんごとなきお方、と。
「イエス様です」
イエス? オレはイエスという名前の人をひとりしか知らない。会ったことはないけれど。
「イエスって、あの……。えっ、じゃあマリアって、あの?」
オレはすっかりテンパってしまった。うまく言葉がまとまらない。
「アタシは聖母マリアじゃありません。マグダラのマリアと呼ばれています」
「ごめんなさい、オレは、そのマリアさんは知らないです」
彼女は小さく頷いた。
「べつに知らなくても大丈夫です。でも、イエス様はあのイエスで合っています」
宗教に疎いオレは、イエス・キリストのことをほぼ何も知らない。古今東西で最も有名な人? 神? 人なのか神なのか、その区別さえついていない。
「ごめんなさい、オレは、その有名なイエス様のことも知らないです」
「アタシも、そうでした」
彼女は、しれっと言った。いや、でもこの世界へ来るまでは、そんなものかもしれない。
「アタシに予備知識は要りませんでした。社長がノリノリで、イエスになりきっていましたから……」
「あの人らしいですね」
オレはやっと、ちょっとだけ笑うことができた。
「で、イエスこと多々木さんは、いまどこに?」
すると彼女は寂しそうに微笑んだ。
「十字架の上で……」