御国(キングダム)
「じゃあ父と子と聖霊、このみっつでワン・セットってことで、いいですか」
「そうだ、いいぞ」
ペテロのおっさんは大袈裟な身振りで答えた。
「この三位一体こそがイエスの教えであり、我われがまとめようとしている教義の根幹となることは、たしかだ」
ついでなので、オレはありったけの疑問を投げてみることにした。
「なぜ神はイエス様を救世主として寄越されたのでしょう。神ご自身がこの世界をお救いには、ならないのですか?」
オレの質問におっさんはうほっ、と声をあげた。
「いいねー、その素人目線の疑問。これから布教するうえで、たぶんいろんな人に同じことを聞かれると思うから、ちゃんと理解しておいてくれよ?」
そして彼は続けた。
「神ご自身は、基本的に何もしない。まあ、大昔にはこの世界を創るという大仕事をなされたが、いまは引退されているんだ」
「あー、そうなんですか」
「かわりに現役ばりばりで活躍されているのが、我らが師イエスだな。イエスを介さずに『父』のもとへ行くことは、できないんだよ」
「なるほど……御国へ入るための、受付係みたいなものですね?」
「そうだ、いいぞ!」
おっさんが本日二回目の決め台詞を発した。
……オレはいま御国と言ったよな。御国ってなんだ? 自分でも知らない言葉を、知らずに使っていることに気づいて愕然とした。
オレのなかのヨハネが、かなりの割合で復活しつつあるのかもしれない。そのうちオレは、ヨハネに乗っ取られてしまうのではないか。まあ、ヨハネを乗っ取ったオレが言うのもなんだが。
御国のことは、あとで自分で調べることにした。さいわい読み書きはできるのだし、順調に快復していると思っているおっさんを惑わすのは酷だ。
「どうした? 急に黙って。ほかに質問はないのか」
「……ああ、そうですね。とりあえず大丈夫です」
「本当か。なんだか顔色が悪いぞ」
おっさんはオレの異状を敏感に察知した。
「すみません、なんか、急にクラっときたもので」
「無理はしないほうがいい。今日はもう休みなさい」
「ありがとうございます。そうします」
オレはおっさんに礼を言ってその場を辞した。
本当はもうひとつ聞きたいことがあったのだ。なぜ神はイエスの誕生に聖霊を遣わされたのか。なぜ神ご自身がマリアという人間に手をつけられなかったのか。
ペテロのおっさんに聞かずとも、答えは明白だった。生なましいからだ。
オレは混乱していた。知識が増すごとに、この世界に慣れるごとに、さまざまな思惑がオレの内外を駆け巡る。複雑化していく。
キリスト教のことなど、前世ではまったく興味がなかったし、ろくに知識もなかった。が、ここでこうして教義の立ち上げに参画してみて、おそろしいほどの説得力と洗練さを兼ね備えたものだということに、嫌でも気づかされる。
この時代のこの場所には、便利な科学技術も、簡単に検索できる知識ベースもない。オレらの教義をもってすれば、人びとの心を虜にし、ぺろっと洗脳してしまうのは容易だろう。考えてみると怖いことでもある。またそれ故に、既存の宗教や政権から危険視されるのも、何となくわかる気がする。
ここへきて、オレははじめて疲れを感じていた。
†
「お疲れ様です」
家に帰るとマリアが迎えてくれた。彼女だけが心の癒やしだった。オレの唯一の転生仲間。彼女の前世の名は……。
「うわっ」
「どうしたんです?」
ヤバい、玄関先でうろたえては母マリアにも心配をかけることになる。オレは口元を押さえつつ自室へと急いだ。
「……ご気分が悪いので?」
オレの後を追ったマリアがそう聞いた。
「忘れてしまったんです」
「えっ」
そして、オレは震える声で言った。
「貴女の……前世の名を」




