三位一体(トリニティ)
「ペテロさん、超絶基本的なことを聞いても、いいですか」
「んーっ?」
おっさんは目もくれずに返事する。彼はいま、書き物で忙しい。議論ばかりしていても仕方ないので、とりあえず章立てみたいなものを書き出す作業をしていた。
「主は人ですか、それとも神ですか?」
「神だよー」
この人、ちゃんと考えて答えているのかな……。
「でもさっきの説明では、神が救世主の出現を約束したんですよね。救世主はイエス様で、だから、神とは別個の存在ですよね?」
「あー、はいはい……とてもいい質問だ」
そう言っておっさんは、いましがた書いた紙の一枚をオレに寄越した。そこには「三位一体」という文字と、簡単な図形が描かれていた。三角形の、それぞれの頂点に丸が付け足されたものだった。
「なんですか、これ」
「ひとつの頂点に『父』、もうひとつに『子』、残りに『聖霊』と書くんだ」
「どういう順番で?」
「順番はどうでもいい」
そう無茶ぶりされて、オレは震える手でペンを持った。一度だけ砂の上で練習したことはあったが、紙にペンで書くのは、この世界へ来てはじめてだった。
「どうした、読み書きは大丈夫なんだろ?」
緊張するオレにおっさんがプレッシャーをかけてくる。この人、ほんとヤコブ兄さんがいないと絶好調だな。
ええい、と覚悟を決めてペンを走らせた。父、子、聖霊と三角形の各頂点に書いていく。
自分のなかでは漢字を書いているつもりなのだ。ところが出来あがったものを見てみると、まったく知らない異国の文字……。この現象ばかりは、慣れるのに時間がかかりそうだ。
「うむ、よろしい。以前と変わらないヨハネの字だ」
及第点をもらって安心した……いやいやいや、いまは書き取りの時間じゃない。オレは自前の図表を眺めつつ質問した。
「『父』って、なんです?」
「神のことだ」
「『子』は?」
「我らが師イエスだな」
オレは、はーんと言って、
「イエス様は神の子なんですね?」と確認した。
カエルの子はカエル、神の子もまたおなじ理屈だろう。おっさんが頷くと同時に、オレはさらに聞いた。
「じゃあ主は、イエス様は、人間ではない?」
「人間さ。人間でなくて、どうやって人類の罪を贖えるというんだ」
おっさんの言っていることが、だんだん難しくなってきた。
「とりあえず、主は神であり人であるってことで、いいですか」
「そうだね」
おっさんは、にっと笑った。
「じゃあ残りの『聖霊』ってのは?」
「よくわからん」
ペテロのおっさんはバッサリ言った。
「えっ、よくわからないものを教義の柱にして、いいんですか?」
オレはぶ然として聞いた。
「よくわからないほうが神秘的じゃないか」おっさんは悪びれもせずに言う。「とにかく、聖霊がマリアという女性の胎内に舞い降りて生命を宿した。そうして生まれたのが、我らが師イエスだ」
「そんなバ……」
バカなと言いそうになって、慌てて口をつぐんだ。あっぶね、もう少しで教義を全否定するところだった。
「そんな話は、はじめて聞きました」
信じられません、というニュアンスを匂わせてオレは言った。
「ヨハネ」おっさんが諭すような目でオレを見る。「主は特別なお方だ。そういう方には特別な出自が必要なんだよ」
「つまり……ウソ?」
「あははっ、言っちゃったよ」
彼は笑いながら咳込んだ。それから背筋を伸ばしてオレに聞いた。
「きみは、あのご婦人に『それは本当ですか』と尋ねることができるかい?」
「……できません」
イエスの母マリアの、わが子に対する慈愛とそれを失った哀しみは、果てしないものがある。他人のオレらがどうこう言えるものではない。
いや彼女は、イエスの弟子であるオレらのことも、わが子同然に扱ってくれている。理屈じゃないのだ。




