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多々木さんの受難  作者: 大原英一
第二章 聖書的なものを作りまっしょい
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新約(ニュー・プロミス)

 さっそくペテロのおっさんとオレとで、教典の編纂にとりかかった。教典というのはたぶん、聖書のことだろう。

 うっかり「聖書」と口に出さないよう、気をつける必要があった。ほかにも「キリスト教」とか言いそうになるので注意が要る。

 そういった単語はのちの世でオレたちが使うようになったもので、この時代ではまだ定着していないどころか、生まれていない可能性すらある。

 不用意な言葉を口にして歴史に傷をつけたら、それこそドてらいことになる。マリアにも口を酸っぱくして言われていた。


「教典の草案ってことですが、具体的にどんな感じで進めるんですか?」

 オレが聞くとおっさんは、わしゃわしゃと顎鬚を撫でた。

「まあ、まったく何もないところからはじめるわけじゃ、ない。お手本はあるんだよ」

 そして彼は、古くてボロボロになった紙の束をオレに寄越した。

 ここにはまだ本がない。お金持ちのところにはあるのかもしれないが、少なくともオレの周辺では製本されたものを見たことがない。ぜんぶ手書きによる複写コピーだ。それでもたぶん、原典オリジナルはどこかに存在するのだろう。

「なんですか、これ」

 すると、おっさんはかしこまって言った。

「『旧約』と呼ばれるものだ」


 あーそういえば、旧約聖書とか新約聖書とか、あったなあ……。当然どちらもオレは読んだことがない。

「ペテロさん、すみません、『旧約』の意味がわかりません」

 オレは素直に頭を下げた。知らないことは、どうしようもない。

「ところで、」おっさんが聞いた。「きみは読み書きはどうなんだ。それも忘れてしまったのか?」

「あ、いいえ」オレは一部ぼかして答える。「読み書きは大丈夫です。ただ、肝心の書いてある内容がさっぱりでして……」

 おっさんは少し安心したように頷いた。

「そうか、読み書きが問題ないなら、学習の効果も速いだろう。きみも可能なかぎり読書に励むように」

「わかりました」

 そして彼は「旧約」について説明した。

「『旧約』とは字のごとく、ふるい約束だ。……」

「あっ、さっそく質問です」

「早っ」

 あきれるおっさんを無視してオレは聞いた。

「約束の意味が微妙です。たとえば、オレが明日ペテロさんと出かける約束をする、とか、そういう意味ですか」

「あー、そこからかあ……」

 やれやれ、といった感じでおっさんは首を振った。


「約束というのは、神が人に交わした約束のことだ」

「神がなにを約束したんです?」

 やや間をおいて、おっさんは答えた。

「ユダヤ人の中から、救世主があらわれると」

「……イエス様、ですね」

 おっさんは力強く頷いた。

「そう、『旧約』というのは、いわば長すぎた序章のようなものだ。われわれは、何百年も主役が登場するのを待っていたんだよ」

 オレはちょっと興奮した。

「それじゃ、やっと本編というか、完結編が描けるんですね!」

「そういうことだ」おっさんも鼻息が荒い。「だからこそ真剣に、慎重に取り組む必要がある」

「じゃあ、まずイエス様の生い立ちから紹介していくってのは、どうです?」

 何気なく提案したつもりだったのだが、おっさんのリアクションは尋常じゃなかった。刮目し、小刻みに震えている。

「どうしましたか」

「……きみは、本当に記憶が戻ったんじゃないか? いまの提案、前にも聞いたぞ」

「あー……」

 今回はサマリアのときほど驚かなかった。オレの考えはオレの頭で考えたものであり、同時にヨハネの脳から出てきたものでもある。根はおなじだ。


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