新約(ニュー・プロミス)
さっそくペテロのおっさんとオレとで、教典の編纂にとりかかった。教典というのはたぶん、聖書のことだろう。
うっかり「聖書」と口に出さないよう、気をつける必要があった。ほかにも「キリスト教」とか言いそうになるので注意が要る。
そういった単語はのちの世でオレたちが使うようになったもので、この時代ではまだ定着していないどころか、生まれていない可能性すらある。
不用意な言葉を口にして歴史に傷をつけたら、それこそドてらいことになる。マリアにも口を酸っぱくして言われていた。
「教典の草案ってことですが、具体的にどんな感じで進めるんですか?」
オレが聞くとおっさんは、わしゃわしゃと顎鬚を撫でた。
「まあ、まったく何もないところからはじめるわけじゃ、ない。お手本はあるんだよ」
そして彼は、古くてボロボロになった紙の束をオレに寄越した。
ここにはまだ本がない。お金持ちのところにはあるのかもしれないが、少なくともオレの周辺では製本されたものを見たことがない。ぜんぶ手書きによる複写だ。それでもたぶん、原典はどこかに存在するのだろう。
「なんですか、これ」
すると、おっさんはかしこまって言った。
「『旧約』と呼ばれるものだ」
あーそういえば、旧約聖書とか新約聖書とか、あったなあ……。当然どちらもオレは読んだことがない。
「ペテロさん、すみません、『旧約』の意味がわかりません」
オレは素直に頭を下げた。知らないことは、どうしようもない。
「ところで、」おっさんが聞いた。「きみは読み書きはどうなんだ。それも忘れてしまったのか?」
「あ、いいえ」オレは一部ぼかして答える。「読み書きは大丈夫です。ただ、肝心の書いてある内容がさっぱりでして……」
おっさんは少し安心したように頷いた。
「そうか、読み書きが問題ないなら、学習の効果も速いだろう。きみも可能なかぎり読書に励むように」
「わかりました」
そして彼は「旧約」について説明した。
「『旧約』とは字のごとく、旧い約束だ。……」
「あっ、さっそく質問です」
「早っ」
あきれるおっさんを無視してオレは聞いた。
「約束の意味が微妙です。たとえば、オレが明日ペテロさんと出かける約束をする、とか、そういう意味ですか」
「あー、そこからかあ……」
やれやれ、といった感じでおっさんは首を振った。
「約束というのは、神が人に交わした約束のことだ」
「神がなにを約束したんです?」
やや間をおいて、おっさんは答えた。
「ユダヤ人の中から、救世主があらわれると」
「……イエス様、ですね」
おっさんは力強く頷いた。
「そう、『旧約』というのは、いわば長すぎた序章のようなものだ。われわれは、何百年も主役が登場するのを待っていたんだよ」
オレはちょっと興奮した。
「それじゃ、やっと本編というか、完結編が描けるんですね!」
「そういうことだ」おっさんも鼻息が荒い。「だからこそ真剣に、慎重に取り組む必要がある」
「じゃあ、まずイエス様の生い立ちから紹介していくってのは、どうです?」
何気なく提案したつもりだったのだが、おっさんのリアクションは尋常じゃなかった。刮目し、小刻みに震えている。
「どうしましたか」
「……きみは、本当に記憶が戻ったんじゃないか? いまの提案、前にも聞いたぞ」
「あー……」
今回はサマリアのときほど驚かなかった。オレの考えはオレの頭で考えたものであり、同時にヨハネの脳から出てきたものでもある。根はおなじだ。




