ペンギンズ・ハッピートーク~空想科学省心霊課創設の経緯~
桜の花びらが、はらりはらりと舞い落ちる。柔らかな陽光が街路樹に降り注ぎ、歩道には木漏れ日が揺れている。新しいランドセルを背負った小学生たちが、笑いさざめきながら駆けていく。私はそうした暖かい空気を窓ガラス越しに感じながら、何をするでもなくぼんやりと、外を眺めていた。
ここは古ぼけたビルの四階に当たる。外に張り出している看板に書いてあるとおり、自称・名探偵、覆水再起の事務所である。私が彼の下で助手として働くようになってから、既に一年近くが経とうとしている。その間には色色と面白いこともあったが、ここ数ヶ月はそれほど大きな事件もなく、それこそ現在の陽気のような、のんびりとした状態が続いていた。そもそも私は助手として雇われた身だが、実質的に「助手」の役割を果たしているのは私ではなく、元から覆水に付き従っている彼女――きりりとした顔立ちの、少女のように髪の毛を二つに結んだ助手の女性――なので、本格的な依頼や調査というものに関わらせてもらえた試しがない。初め覆水は、私を危ない目にあわせたくないからという理由で、本格的な依頼がきていること自体を私に隠していたくらいだ。まあ、それに関しては、時が経つにつれて隠し切れなくなり、とりあえずその依頼内容くらいまでは、私にも公開するようになったのだが。
それで今回も、私は事務所のお留守番というわけだ。
窓際に頬杖を突いて、あくびをする。助手の女性が真面目に雑用をこなしていったおかげで、留守番の私がすることは何もない。こうしてぼーっとしていると、近ごろ遇っていない友人のことなどを思い出す。……そう、彼女とももう暫く遇っていないのだ。
あれは、今日のように暖かい、初夏のことだった。
その頃私はまだ大学生で、適当に入学した学費の安い学校へ碌に通うこともせず、毎日街中をぶらぶらしていた。やる気がなかったのではない。ただ、大学の講義が面白くなかっただけだ。学費が勿体無いと嘆く人もいようが、そこは親類の大富豪の口座から勝手に引き落とさせていただいていたので、気にする必要はない。一年の春はそれでも真面目に通っていたのだが、夏ごろになると既に、構内ですれ違う教員の全てが催眠術師に見えてくる始末だった。そういうわけで私は、何か面白いことは無いかと、街中をうろつき回っていたのである。
彼女に出会ったのはそんな月日を四年間過ごした頃だ。街を用もなく歩き回っていた私は、偶然同じ電車に乗り合わせた彼女、エンデと意気投合したのだ。エンデ――というのは、彼女の本名ではない。彼女は生粋の日本人であるから、そのような外国人染みた名前を持ち合わせているわけはないのである。初対面で、彼女はまず本名を名乗った。それから、「これはあたしのペンネームなんだけど……」と断ってから、一枚の名刺を渡してくれた。
『塩出快<エンデ・カイ>』
とだけ、不思議に凝った文体で書かれていた。
「あたし、ミヒャエル・エンデが大好きなんだよね。だからペンネームも、それにあやかってつけたわけ。本名よりもそっちのがしっくりくるから、エンデって呼んでよ」
初対面の彼女は、がたごとと揺れる電車の手すりに掴まりながら、そう笑った。
というわけで、私は彼女のことをエンデと呼ぶことにした。エンデは私の名前を聞いてすぐに、「それじゃああたしは、あんたのことをスズっちって呼ぶことにするわ」と言い、それからずっと、その呼び名で通した。彼女の口から、「先永さん」だとか「美寿寿ちゃん」だとか、そういう言葉を聞いたためしがない。
エンデはとある大学の院生で、二度三回生を経験した四回生である私とは同い年だった。それでなくとも私たちの間に敬語などが入る余地はなかったのであるが、同い年だと知った途端、二人とも妙に気安い親近感を、お互いに覚えた事は間違い無い。エンデは私と同じくらいの背丈で(つまり小柄ということである)、肩くらいまである髪の毛を、分かるか分からないかという程度に茶色に染めていた。赤縁のメガネを掛けていて、その奥から、何事にも興味津々、といった眼差しを覗かせていた。出会った時の服装が、かっちりしたオフィスカジュアルとでもいうようなものだったため、とても真面目そうだ、という印象を受けたことを覚えている。
エンデとの最初の会話は五分もなかっただろう。だが、当てもなくふらふらしていた私と、院の研究のためのフィールドワークをこなしていた彼女とは、街でばったり遇うことが多かった。そのたびに私たちは近くの喫茶店へ入り込み、時には数分だけ、時には数時間も、話し込んだり黙ったり、などして過ごしたのである。
あれは、私とエンデが知り合ってから三ヶ月ほど経った初夏の頃、六月の中旬だった。その日も、いつものように街中をふらついていた私は、一軒の古い屋敷から大股で出てきたエンデと出会い、いつものように、喫茶店へ入った。喫茶ロイヤルカナンは、平日の午後二時という時間帯のせいか、ガラガラに空いていた。私とエンデは迷わず店の奥の窓際に陣取り、向かい合わせに座る。「暑くなってきたな」「そうだねえ」程度の世間話を始めたあたりで、店員がお冷を持ってきた。トレーの上に載せられていたコップは三つ。私たちの間に置かれたコップも、三つ。
無言で(こういう場合は普通「ご注文が決まりましたらお呼びください」とか何とか愛想を言うものだろうが、ここの店員は無愛想で有名だった)下がった店員に、私は声を掛けようとした。しかし、エンデはそれを止め、二つのコップを自分の手許へ引き寄せた。
「いやあ、ごめんスズっち。あたし、またナニカ連れてきちゃってるみたいなんだ」
「ああ、……なるほどね」
またか、と私は苦笑いを漏らした。彼女がナニカを連れてきてしまうことが多いという事は、それまでの付き合いで既に判明していたからだ。
「それで、今回は何処へ行ってきたんだ?」
既に頭に入っているメニューを一応チェックしながら、私はエンデに尋ねた。
「ウラミトンネル」
「恨みトンネル?」
聞き返してから、私は再度、頭の中で文字の変換を試みた。そういえば最近、図書館で読んだ新聞に、似たような名前のトンネルが出てきていたような……そう、あれは、『浦見トンネル』だ。
「そ。浦見トンネルはスズっちも知ってるでしょ。こないだ、強盗殺人事件が起きたとこ」
「そういえば、そんなこともあったな」
エンデは私の言葉に満足げに肯いて、ついっと左手を挙げた。音も無く近付いてきた店員に、「オレンジジュース二杯」とだけ口早に告げ、それからすぐに、話を続けた。
「それまでも、街で有数の心霊スポットってことで、何度か足を伸ばしたりはしてたんだけどねえ。ほらあたしって、ミステリとか好きじゃん。心霊スポットで更に殺人事件なんて起きちゃったんだから、そりゃあ気になるでしょ」
そう語るエンデの瞳は輝いていた。彼女は心霊スポット巡りが趣味で、ミステリ研究サークルのメンバーなのだ。塩出快というペンネームも、そのサークルの冊子製作のために作ったと聞いている。
「それで今は、そのトンネルを調査してるのさ」
「調査とはまた、大仰な言い方だな。趣味の一環なんだろう?」
私が聞くと、エンデはふふんと笑った。
「あたしのは趣味だけど、本格的なのだ」
「ふうん」
エンデの話によれば浦見トンネルは、街と、隣接するK市との境にある山を貫いているトンネルで、全長はおよそ二キロメートルほどの小さなトンネルである。見通しが良いし、K市に行くには最短のルートであるため、開通当時は利用者も多かったらしい。しかし開通してまもなく、トンネル内で事故が頻発し、それから毎年多くの死傷者を出すようになった。そのお陰で今やすっかり人通りも絶え、時おり近所の小中学生が肝試しに出向いたり、暴走族がたまり場にしているくらいにしか、使われていないらしい。
「しかも名前が名前だからさ、“恨みトンネル“なんてあだ名までつけられちゃってるみたいだよ」
「ほう」
実は私も先ほどそう聞き間違えたわけだが、それについては言わずにおいた。
「しかし強盗殺人とはまた、物騒な話だよな」
「スズっちだって十分、物騒な目つきしてるじゃん」
「…………」
「冗談冗談。そんな殺人鬼みたいな目で睨むなよう」
「……まあ、良いがな」
私は肩をすくめて、エンデに先を促した。
「ああ、そう……それでさ。その調査で、まあ色々と収穫があったわけなんだけど。そういう証拠品と一緒に、コレもついてきちゃったみたいなんだよね」
コレ、と言いながら、エンデは自分の背後の空間を親指でくいっと指し示した。私は肯いて、それで……、と口を開こうとした。
その時。
『ちゃららーっちゃらららららーどどんっ』というような電子音が、人けの無い店内に鳴り響いた。確かこれは、日曜の朝八時台に放送している戦隊ヒーローものの、オープニング曲だ。従姉とのカラオケでよく聴くため、覚えてしまった。
「あ、ごめん。あたしだ」
エンデが言いながら、蛍光黄色のウエストポーチからスマートフォンを取り出し、素早く耳に当てた。
「もしもし……ああ、そうですか。はい、分かりました。有難う御座います。すぐそちらに向かいますので……、はい、それでは」
「何か用事でもできたのか」
急いでスマートフォンをしまっているエンデに聞くと、彼女は満面の笑みで肯いた。
「うん。警察からだったんだけどさ。被害者の家族・恋人と、事件発生時に現場付近にいたと思われる暴走族のメンバーを、警察署内に集合させたから、来いって」
「…………あ?」
「そういうことだから、あたしはこれで失礼するよ」
「あ、おいちょっと待て」
私は慌ててエンデを引き留めた。不思議そうに振り返った彼女に、私は一言、尋ねた。
「それは面白くなりそうか?」
オレンジジュースの影を見ることもなく店を出た私たちは、本通に出てタクシーを捕まえた。警察署まで、というエンデの声に、運転手は一瞬興味を惹かれたような顔つきをした。
「今更かもしれないが……、私も一緒に行って良いのか?」
車が走り出してから、私は隣に座るエンデに尋ねた。エンデは余裕のある態度で肯く。
「支障はないよ。そもそもあたしだって、完璧な部外者なんだからさ」
「しかし、それなのになぜ……」
「なぜって、警察があたしを頼りにしてるからに決まってるじゃん」
「そうなのか?」
「オウよ」
エンデは腕を組んで胸を張った。
「スズっちには言ってなかったっけ。あたし、これまでに二件の事件を解決に導いてるんだぜ」
「本当か。それは知らなかった」
私が感心しているのを見て、エンデは照れたように頭をかいた。
「いや、そんなたいしたことじゃないんだ。ただ、たまたま事件現場に居合わせて、たまたま警察が見落としたものを『見落としてますよー?』って教えたってだけなんだから」
一瞬、脳裏に、メガネと蝶ネクタイを身に付けた小学生の姿が浮かんだが、すぐにかき消した。
「で、今回も、あたしが調査してる時に、前の二件の時と同じ刑事さんと偶然出くわしちゃってね。あたしの考えを聞いたら、ぜひ協力してくれって言うからさ」
「なるほどね。……それで、今回その関係者を集めたと言うことは、もう犯人の目星はついているのか」
「ご明察。ただね、暴走族のメンバーなんてのは、ハナから眼中にないわけよ」
「と、言うと……?」
身を乗り出した私の目の前に、不意に突きつけられたのは、ペンギンのぬいぐるみだった。パペットというのだったか、ぬいぐるみの下部は縫い付けられておらず、そこから腕を通して、ペンギンの口を開け閉めすることができるようになっているようだ。エンデはそのパペットをはめて、黄色いくちばしをパクパクと開閉させた。
「…………?」
呆気に取られてぽかんとしてしまった私とは対照的に、エンデは心底から楽しそうに微笑んだ。
「このペンギン君が、事件を解決してくれちゃうのだよ」
そうして、むっふふふ、と、怪しい含み笑いを漏らしたのだった。
警察署内。捜査会議か何かに使うのだろうか、一枚のホワイトボードが置かれているその方向に向けて、多くの机と椅子が配置された一室に、私たちは立っていた。この場所には私たちの他に、警察の制服を着た警官が一人と、私服の刑事が一人、スーツ姿の刑事が一人おり、その他に、悲しみに沈んだ様子の若い男が一人と、同じく悲痛な面持ちで立ち尽くす初老の夫婦が一組、それから部屋の後ろの方に、まだ十代であろう暴走族のメンバーたちが数人、肩を寄せ合って立っていた。
「どうも、皆さんを集めてくださってありがとうございます、刑事さん」
エンデが、私服姿の刑事に向かって頭を下げる。どうやら彼が、数度エンデと顔を合わせたという刑事のようである。刑事は厳つい顔を少しだけほぐして、笑みのようなものを浮かべた。
「いえいえ、塩出さんにはいつも協力していただいて……、私たちも感謝しております」
おや。エンデのやつ、刑事にはペンネームを名乗っているのだろうか。
エンデはにこやかに、隣に立っていた私を指し示した。
「こちらは友達のスズっちです。今日は見学に」
「はあ……」
刑事は曖昧にお辞儀をして、私をちらりと見ただけだった。そりゃあそうだ、呼んでもいない人間をこのような局面につれてこられても、迷惑なだけだろう。しかもエンデは例の呼び方を徹底しており、私の本名も、彼には不明のままなのだ。
「それでは、私たちはここに控えていますから、あとは塩出さんのご自由に……」
「ありがとうございます」
エンデは礼をして、室内にいる人間全員に聞こえるような大声を張り上げた。
「皆さん、今日はお集まりいただき、ありがとうございます」
全員の耳目はとうに私とエンデに向けられていたが、これで、この場の進行役がエンデであるということが了解されたわけだ。
「おうおう姉ちゃんよ。急に呼び出されて俺達困ってんのよ……、早く済ませてくんねえかなあ」
早速野次を飛ばしたのは、もちろん暴走族メンバーの一人である。一昔前のヤンキーのように、汚い金色に染め上げた髪の毛を、リーゼントに固めている。黒Tシャツとジーパンを着ており、Tシャツの上から、ぼろぼろになった革のジャケットを羽織っている。彼の言葉に群がるようにして、他のメンバー達もやいやい騒ぎ始めた。着ているジャケットが全員お揃いなのが、妙に可愛らしい。
一方のエンデは、彼らに向かってにっこり笑った。そして、その体のどこからそんな声を、と思うような声量で言った。
「今から私が事件を解決します。だから黙って聞け、さもなきゃ公務執行妨害で逮捕する」
暴走族メンバーは、気圧されたようにしんと静まった。……可哀相に、公務執行妨害を口にするそのエンデが、実は公務員などではないということを、知らないのだろう。
ともかく場は静まり、エンデはようやく本題に入る――かと思いきや、例のウエストポーチに手を突っ込んで、取り出したのはペンギンのパペットだった。
「さて、皆さん。今回の事件の被害者の女性は、ご存知ですね?」
「知らねーよ、んな奴」
先ほども茶々を入れたリーゼントが言ったが、エンデは無視して先を続けた。
「そう、白藤夢姫さん。二十五歳のオーエル、身長一六二センチメートル、体重五〇キログラム、スリーサイズは上から」
「知らねーよ!」
リーゼントが怒鳴り気味に突っ込み、エンデは詰まらなさそうに口を尖らせた。
「分かりました分かりました、さっさと先に進めば良いんでしょー」
「分かったならさっさとやってくれよ……」
リーゼントは疲れたように肩を落とす。エンデは相変わらず不満げな顔をしていたが、気を取り直したように、パペットを腕に嵌めた。……気を取り直すのは良いが、なぜそうなるのだ?
私を含めた一同は、わけも分からないまま、固唾を呑んでそれを見守る。わけは分からなかったが、これで何かが進展する、という確信は感じられたのだ。
「えー、皆さん」
コホン、と咳払いをして、エンデは言った。
「これからこのペンギン君に、白藤夢姫さんが乗り移って、喋ってくださいます」
一瞬、言われた意味が分からなかった私たちは、ポカンと口を開けてエンデを見つめていた。そして、その後に数々の質問・疑問が口をついて飛び出してくる……予定だったのだが、エンデはそれよりも早く、パペットを嵌めた腕を聴衆の前に突き出して見せた。パペットの口が開く。
「私は白藤夢姫です」
ペンギンの口から飛び出したのは、そんな言葉だった。
「なっ……は?」
リーゼントはしきりに首をひねり、エンデの口元を凝視していた。エンデが喋ったと思ったのだろう。もちろん、私や他の人間も、そう思った。しかし、「ペンギンが喋った」時、エンデの口は、確かに閉じられていた。彼女が腹話術の達人でもない限り、マイクも無しに、あんなはっきりと大きな声を、パペットから発しているように見せる事はできないはずだ。……あいつ、腹話術の達人だったのだろうか?
「冗談はよしてください!」
私たちが呆気に取られている中、そう叫んだのは、それまで悲痛な面持ちで俯いていた男性だった。恐らく、被害者・白藤夢姫の恋人であろう。
「夢姫は死んだんです! 殺されたんです! そんな、そんな子供だましで僕たちの悲しみを、夢姫の死を、愚弄しないでくださいっ……」
言葉通りに憤った、それでいて力の無い表情の彼は、震える指でペンギンを指した。それに同調したかのように、それまで黙りこくっていた初老の夫婦も、声を上げた。
「新堂さんの言うとおりです……!」
「あの子はもう死んで、いないんだ……。そんな人形を持ち出して、今更何をしようと言うんです」
彼らは、被害者の両親だろうか。新堂とかいう恋人と揃って、エンデを睨み付けた。が、対するエンデは何処吹く風といった様子だ。むしろ、そんな彼らを憐れむように、目を細めている。そして、再び、ペンギンの口が開いた。
「新堂さん。私は、白藤夢姫です。こんな形で、また貴方に会えるなんて思ってもいなかったけれど……、どうかそんなに怒らないで。あの指輪、……とても嬉しかった」
ペンギンから発された声は、どう聞いてもエンデのものではなかった。エンデの声よりもか細く、涙に震えているような女性の声だった。『あの指輪』、という言葉が出た瞬間、新堂は嗚咽を漏らし、机に泣き伏してしまった。それは、彼が、ペンギンの言葉を白藤夢姫のものだと認めたことを意味していた。
「ううっ……うう、夢姫……」
「私のために泣いてくれて、ありがとう。新堂さん」
ペンギンは慈しみに溢れた声を、彼の背中にかけた。新堂は机に突っ伏したまま何度も肯いている。しかし、それで納得しなかったのが、初老の夫婦だった。彼らは新堂の隣に立ったまま、ペンギンとエンデを指差して罵倒した。
「まだ若い新堂さんはだませても、私たちはだまされませんよ……! この嘘つき女!」
「そうとも。悲しみに暮れる人間をだまして、どうしようと言うのだ!」
激昂する二人だったが、次の瞬間のペンギンの言葉に、色を失ってしまった。
「おばさん。私を殺したのは、あなたです」
潮が引くように、初老の夫婦の顔が青ざめていくのが分かった。泣き伏していた新堂もそこで顔を上げ、不信と疑惑の目で、彼らを見上げた。
「な、何を言うの……言うに事欠いて、……私が……」
反論しようとするおばの唇は、わなわなと震えている。おじの方は、最早言葉も出せないほどに憔悴している様子だ。ペンギンはしかし冷静に、言葉を続けた。
「新堂さんはよくあのトンネルを使っていたから、私たちはいつも、あの近くで別れることにしていました。あの日、あの晩も、私はK市へ車で帰る新堂さんを見送るために、あのトンネルの近くまで行っていたんです。新堂さんがあのトンネルへ入ってしまって、私も、近くの駅へ向かおうとした矢先……。おばさん。あなたが現れて、私の首を絞めていったんです」
「なっ……なっ……何を言って」
「私を殺したのは、おばさんです」
ペンギンはそう、しっかりと言い、それから口を閉じた。
「わっ……わっ、私は、あの子の死亡推定時刻には、家にいました! 証人だっています!」
「タクシーの運転手さん、ですね?」
今まで黙っていたエンデが、ようやく口を開いた。
「そ、そうです! 夫を家まで届けてくれたタクシーの運転手が、私がその時家にいたことを証言して……」
「『声』だけです」
「え?」
「その時、タクシーの運転手さんは、確かにあなたの『声』は聞きました。でも、姿は見ていない」
「…………!」
おばおじ夫婦は傍目にも分かるほどうろたえて、後ろの机に腰を打った。
「ここからは、あたしの推理になりますが。おばさん、あなたは夢姫さんを殺し、その死体をトンネルの中に運び入れて、近くの公衆電話へ向かった。そこで、ご自宅の電話に繋げた。その頃おじさんは会社からタクシーで帰宅し、その料金を取ってくるからと言って、タクシー運転手を家の前に待たせ、わざと玄関のドアを半分ほど開いておいた。携帯電話で連絡してタイミングを測ってから、コール音をミュートにしてあった家の電話の受話器を取り、ハンズフリー状態にして、おばさんと会話をした……。タクシー運転手さんにも聞こえるような、大声でね。大方、料金が何円足りないだとか、あなたはしっかりしていないからだとか、今その場におばさんがいるかのような会話をしたんでしょう。家の前、それもタクシー車内にいる運転手さんには、それが電話から聞こえてくる声だとは分からなかった……こうして、そこにおばさんがいたというアリバイができた」
エンデはすらすらと推理を披露し、おばおじ夫婦の反応を窺った。彼らはエンデの言葉の最中もずっとぶるぶると震えていたが、その言葉が切れると同時に、唾を飛ばした。
「そんなのは全て、あなたの憶測でしょう!」
しかしエンデは相変わらず堂々とした態度を崩さず、余裕の笑みまで浮かべていた。
「おじさん、あたしの顔を覚えていませんか?」
「…………?」
突然そう問われたおじは、困惑した表情でエンデを見つめた。
「どこかでお会いしましたっけ? …………あっ」
おじは驚愕し、目を見開いた。エンデは面白そうに笑い、メガネを外してウインクして見せた。
「どうもお久しぶりでーす。スナックカリメロのユリコです」
語尾にハートでもついていそうな語調だ。……何となく、話が飲み込めたような気がする。おじは膝をがくがくと震わせた。
「あああ」
「ちょっとあなたどうしたのよ。スナックって何の話?」
「ああ、いやそれはその」
おばに睨まれ、周囲の人間から微妙な目つきで見られ、おじはあたふたと額の汗を拭く。エンデは再びメガネをかけた。
「どんなやり取りをしたかは些事なので置いておきますけれど、あたし、おじさんの携帯の着信履歴・メールの送受信履歴を見させていただきました。そしたらなーぜーか、その時刻家にいたはずのおばさんの携帯電話と、メールを交わした記録があったんですよ。これっておかしなことだと思いません?」
「そ、それは……そうよ、夫が携帯電話を家の中で失くしたって言うから、私の携帯電話からメールして着信音を……」
「それはおかしいですね?」
エンデは首をかしげた。
「おじさんを家まで送り届けた運転手さんは、おじさんが家に入る直前に、スーツのポケットから携帯電話を取り出したところを見ているんですよ」
「っ……」
おばは息を呑んだ。おじはと言うと、既に肩を落とし、じっと机の上を見つめている。形勢で言うと既に決着は着いているようなものだが、それでもまだ、実質的には着いていないのだ。エンデとおばの攻防は続く。
「で、でもそれだけでっ」
「まだあります」
エンデは腰に両手を当てて、続ける。
「実はあたし、一度お宅に伺ってるんですよね。覚えてません? 夢姫さんの後輩だって言って、あがらせてもらったんですよ。それで、おばさんが席を外した時に、家の電話の着信履歴も確認させてもらいました。……やっぱり、あの晩、公衆電話からの着信があったことが分かりました。おかしいでしょう? あの時刻あなた方は、家の電話にかかってきた公衆電話からの着信を受けながら、一方ではそれぞれの携帯電話でやり取りをしていた……ああ、今ごろ記録を削除しようとしたって無駄ですよ。警察はそんなことくらい簡単に調べられます。ただ今回は、タクシー運転手の証言があったため、そこまでしようとしなかっただけなんですから」
おじは既に観念した様子で頭を下げているが、それでも尚、おばは食い下がった。
「そんなのは決定的な証拠ではないんでしょうっ? 全部ただの空想じゃない!」
「おや、心外ですね。決定的な証拠ならありますよ」
「なっ」
絶句したおばと、その隣で途方に暮れた様子のおじのすぐ傍へ、エンデは近づいて行った。そして、二人の耳元へパペットを寄せて、その口を動かした――
「ぎゃああああああああっ」
ペンギンが囁いた何事かを聞いて、夫婦は叫んだ。今まで青ざめていた顔が、今度はどんどん白くなっていく。血の気が失せていく……。
「ごめんなさい……ごめんなさい、夢姫ちゃん……」
おばが、色を失った唇で、呆けたように呟いた。
「でも、でも……仕方なかったの……お父様が……あなたのおじいさんが、自分が死んだら遺産を全てあなたに譲るだなんて言うから……私たちは、両親を失ったあなたを大切に育ててきたじゃない……なのに、そんなのってひどい……あなたは知らなかったでしょうけれど、おじいさまの遺産は、私たちが死んだ後にあなたに譲られるっていうのよ……そんなのって不公平じゃない……だから、あなたさえ先に死んでしまえばって……思って、う、ううっ……」
「悪かった……すまなかった……本当に……許してくれ……」
夫婦はぶつぶつと口の中で呟きながら、口の端に泡を浮かべながら、焦点の定まらない目を中空に向けた。エンデはそんな彼らを見て呆れたように肩をすくめ、それからパペットをしまった。
「刑事さん?」
「ああ、は、はい」
私服姿の刑事が、慌ててエンデの元へ駆け寄る。
「これで二人の自供を取れますよ。あたしの役目はこれにて終了というわけです」
「…………! そうですか、それは……ご協力ありがとうございます」
今までの展開に息を呑んでいたらしい刑事は、ようやく自分の役目を思い出したように動き出した。彼は制服姿の警官に、展開から取り残されてぼーっと突っ立っていた新堂と、暴走族のメンバーを連れ出させた。それから、スーツ姿の刑事と共に、夫婦を部屋から連れ出した。そうしてあっという間に誰もいなくなってしまった会議室を、私とエンデは後にしたのだった。
数日後。喫茶ロイヤルカナンにて、私とエンデは向かい合って座っていた。今日もこの間と同じ様に空いていたため、奥の窓際の席を確保することができた。この席からは、街を歩く人、店内の客、カウンターの奥で作業している店員、といった人間の行動を、相手に覚られることなく、逐一観察することができるのだ。私たちがこの席を気に入っているのは、そんな理由からだった。
「しかしエンデ。この間はお手柄だったな」
汗をかいたコップを透かして私が言うと、エンデはストローを咥えたまま、上目遣いでこちらを見て、照れたように笑った。
「いやあ、それほどでも」
「しかし、あの時、幽霊は何を言ったんだ? ほら、あの夫婦の耳元にペンギンを近づけただろう」
私は、ここ数日ずっと気になっていたことをぶつけてみた。エンデがペンギンを夫婦の耳元に近づけた……、あの直後、夫婦は何かをひどく恐れるように、恐怖するように叫んだのだ。あの、全てを決したペンギン、もとい白藤夢姫の言葉とは、一体……。
「ああ、あれね。あれは、あたしが腹話術でちょいと演技をね」
私は一気に脱力した。
「なんだ……、あれは幽霊が何か言ったのではなかったのか」
「あっはっは! あったりまえじゃーん」
ひらひらと両手を振って、エンデは大きく笑った。
「人は後ろ暗いことがあると、簡単な演技でも騙されちゃうんだよねえ。決定的な証拠なんて見つからなかったからとにかく自供に持っていきたかったし、あの時はもう、夢姫さんは成仏しちゃってたから、乗り移ってもらう事はできなかったし」
「と、いうことは……じゃあ、あれはやっぱり、途中までは夢姫さんが乗り移っていたのか」
「うん」
軽く肯いて見せたエンデに、私はまたも感心して、ため息までついてしまった。
「あのペンギン君にはね、一体の霊を一度しか乗り移らせることができないのさ。だから、ああやって、実際に現場にいた可能性のある人間をひとつの所に集めることができないと、意味が無い。一度に全員の前で憑依させて見せることによってしか、人の信用を得る事はできないからねえ」
「ふーむ」
「まっ、事件も解決したし、あたしの体も軽くなったし、万々歳ってとこだね」
「そうだな」
私たちは、テーブルに並べられたお冷のコップがきちんと二人分であることを祝して、僅かなオレンジジュースが入ったコップをカチンと合わせた。
その時、丁度店内に、男性の二人連れが入ってきた。一人はぴしっとした高級そうなスーツに身を包んでおり、もう一人はどことなくいやらしい薄ら笑いを顔に浮かべた、普通のスーツの男である。私とエンデがそれとなく彼らを観察していると、彼らはまっすぐ、こちらへ向かってきた。
「塩出さん、ですね?」
高級そうなスーツの男が、エンデに声をかけた。
「そうですけど」
「私たちはこういう者です」
彼らは懐から警察手帳を取り出して、きちんと文字を読めるように、私たちに提示した。
「はあ……。それで、何の用です?」
「今日はひとつ、貴女の能力を見込んで、考えていただきたいお話が御座いまして。率直に申し上げましょう。このところ増えている心霊現象、超常現象、その他様々な超科学的事件の解決のため、国は新たに空想科学省を設け、警察に並ぶ捜査権限を、そこに与えようと考えております。……貴女には、その空想科学省内の一部署・心霊課の、主任になっていただきたい」
「はあ……」
エンデは気乗りしない様子で相槌を打った。すると、今話をしていた高級スーツの男の後ろから、にやけ顔の男が声を上げた。
「実は私も、心霊課に配属される予定となってましてね。どんな力があるのかなんて、漏らせませんけれども。うっふっふ、塩出さんみたいな可愛いお嬢さんと仕事ができれば幸せですよ」
「はあ、そうですか」
にやけ顔の男は、にやけ顔のまま、また後ろに引っ込んでしまった。見たところまだ若そうなのに、随分おやじくさい奴である。
「それでは、今日のところはこれで失礼します。塩出さん、無理にとは言いませんが、これは国民の安全を守る、一大事業となるでしょう。どうか、前向きなご検討をお願いいたします」
「いたします」
二人の男は揃って礼をして、さっさと店を出て行ってしまった。店のドアに取り付けられたベルがからんと音を立てたのと同時に、私はエンデに尋ねた。
「おい、エンデ。今の話、もちろん受けるんだろう?」
私が身を乗り出すのとは反対に、エンデは興味なさそうに椅子の背に寄りかかった。
「うーん、面倒そうな話だなあ……。どうしよっかなあ」
「なっ……何を言う、あんな面白そうな話はないだろう! 空想科学省だぞ? 心霊課だぞ? きっとお札を使って悪霊退治とか、人を呪わば穴二つとか、そんなおどろおどろしいイベントが満載だぞ? 物凄く楽しそうではないか!」
「はいはい」
エンデはテーブルに肘を突いて、熱く語る私をうっとうしそうに眺めた。
「まったく……スズっちって変なところでスイッチ入るよね。いつもは冷静なのに」
「私はただ、面白そうなことが転がっているのに放っておくことができないだけだ」
「分かってるさ。……でもね、スズっち。あたしはまだ院生、つまり学生なんだよ。研究したいコトだってまだまだたくさんあるし、せっかく入った院を中途退学なんてしたくない」
「ふむ……」
「それに、なんかさっきのたぬき親父が気に食わない」
恐らくそれが一番の理由だな。確かに、その印象には同感だ。
「ふん。まあ、エンデが気乗りしないのなら、それはそれで仕方ないな」
「でしょ。……ま、院を卒業した頃にもまだ、あたしを受け入れてくれる、っていうんなら、別だけどさ」
そう言って、エンデはオレンジジュースを飲み干した。溶け残った氷が、音を立てた。
あれから何年経っただろう。結局あの日以来、私とエンデは街で遭うことがなくなったのだ。恐らく、エンデのフィールドワークの範囲が、別の街に移ったのだろう。私も彼女も、あれからそれぞれ、別の道を歩んできたのである。
きぃっとドアの開く音が聞こえ、私は回想を終えた。振り向くと、そこにはいつも通り真面目な表情をした助手の女性と、いつもよりもくたびれた風の覆水再起が立っていた。
「お帰り。早かったんだな」
私が声をかけると、再起はくたくたと、ソファに寝そべってしまった。
「もう、疲れましたよ……。まさか、警察の人間と鉢合わせになるとは……」
「警察と鉢合わせ?」
「先生は、警察が苦手でらっしゃいますから」
助手の女性は困ったように微笑む。再起は最早喋る気力すらないらしく、ひたすら目を閉じて、自分の視界から現実を閉め出そうとしている。
「なんだ、警察にお株を奪われたのか?」
私が呆れて聞くと、助手の女性が律儀に答えてくれた。
「正確に言えば、あれは警察ではありませんね。空想科学省、とか言いましたっけ」
「何、空想科学省」
「ええ。とは言え、国に捜査権限を与えられて捜査していますから、警察と似たようなものですね。ただ、扱う事件の種類が、違うようです。去年の夏辺り、ひっそりと開設された部署だったはずです」
「そうか……。もう、できていたのか……」
空想科学省。超常現象や心霊現象を扱うという、警察に並ぶ捜査機関。もしかしたらあいつも……。
などと考えていた矢先、ソファの上から聞こえた再起の泣き言に、私は思わず、笑みを漏らした。
「もう、ペンギンのぬいぐるみは見たくありません……」