【7】
【7】
もうどれくらい叫んだだろうか。どれくらい経ったのだろうか。
しばらくして、ダンテは完全に沈黙した。
いつもは頼りがいのある大きな背中は、今はぐったりと横たわっていた。ダンテは地面に突っ伏している。ダンテに手を下した二人の男たちは、まるでいい仕事をしたとでも言わんばかりに額の汗をぬぐった。
「ダンテ」
死んで小さく丸まってしまった虫のように、ダンテの身体は力なく打ち捨てられている。
「ダンテ」
ルーウィンは呟いた。返事はない。
「ねえ、ダンテ。ダンテってば! 返事してよ!」
ルーウィンのかすれた声が、暗い洞窟に虚しく響き渡る。
どこに隠れていたのか、再び涙がぼろぼろと溢れ出す。
「そんな、ダンテ……」
やはり動かない。
ルーウィンは首を横に振った。涙をこらえもせず、嗚咽を垂れ流して。
「嫌だ。こんな、こんなことって……」
「いちいちうるせえガキだな!」
リーダー格の男が、ルーウィンの首を片手で掴み上げた。
勢いよく喉を絞め、咳き込む暇もない。ルーウィンの身体は再び宙に浮いた。首が絞まる。息苦しさに、顔が赤黒くなっていく。
「ダンテがこうなっちゃあ、お前はもう用済みだ。残念ながらおれたちゃガキを相手にする趣味はないから、可哀相だがお前とはここでサヨナラだ。あと五年先だったら、考えないでもなかったけどなあ」
ルーウィンは喘いだ。男を睨みつける余裕もなかった。
息をしたい、空気が欲しい。足は地面を求めて動かされるが、それも体力の無駄だった。両手で男の手を掴んでなんとかしようと試みたが、だめだった。
男の力は強く、ルーウィンの細い首など今にもへし折られてしまいそうだ。ルーウィンの小さな手は、男の手との間に隙間を作ろうとあがく。しかしそれも、自分の喉に引っかき傷を作るだけに終わる。
苦しさに顔を歪めるルーウィンに、男は顔を近づけた。
「せいぜいあの世で仲良くやりな。おっとお、おれたちを恨むんじゃないぞ。ダンテ=ヘリオに出会った運命を、せいぜい呪うがいいさ!」
男はルーウィンを地面に叩きつけると、ルーウィン目掛けてサーベルを振り下ろした。死を覚悟する暇もなかった。反射的に、ルーウィンは目を瞑った。
洞内に、男の悲鳴が響き渡った。
ルーウィンは目を開けた。男の手にサーベルはなく、少し離れた場所に落ちていた。何かに弾かれたのだ。そして男の右手に深々と矢が刺さっている。ルーウィンは身体に鞭打って身を起こした。
倒れたはずのダンテが、そこには立っていた。二人の男たちは地面に転がっている。
「バカな! どうしてだ!」
リーダー格の男は呻きながら言った。
「あんたがルーウィンから目を離す隙を窺っていたんだが、なかなかしぶとくてな。チャンスを見計らっていたら、こんなになるまでやられちまった」
ルーウィンの表情が緩む。
ああ、この声だ。聞きたかったのは、この声だ。
「おれが倒れて、やっとこさおれからは目を離してくれただろ。お前さんはルーウィンに集中してくれた。そこでお仲間には伸びてもらって、お前さんには矢を射掛けさせてもらった」
「そんなはずがない! あの一瞬で、あの二人を」
「でも、それが事実だ」
二人の男たちは完全に昏倒している。もう使い物にはならないだろう。
ダンテはあれだけいたぶられ、あれだけ傷つきながら、男二人を倒すという荒業を一瞬でやってのけた。ルーウィンは今にも気を失いそうだったが、不思議と口元は弧を描く。
ああ、これでこそだ。
これでこそ、あたしの師匠だ。
男は倒れているルーウィンを乱暴に掴む。
「く、来るな! それ以上近づくと」
「お前さん、わかっちゃいないな。取引をしよう」
男の声は面白いほどに裏返っていたが、対するダンテの声音はひどく静かだった。しかしその奥で、ぐらぐらと怒りが煮えたぎっているのが、ルーウィンにはわかった。
男は盾か何かのように、力ないルーウィンの身体を自分の方に引き寄せた。
しかしダンテはお構いなしにゆっくりと、淡々と歩みを進める。
一つ一つ、その距離を縮めてくる。
「その子を放せば、お前さんは助かるかもしれない。だが、その子になにかすれば、お前さんは死ぬしかない」
ルーウィンは人質だった。男たちはルーウィンさえ捕まえていればダンテは一切手出しできない、そのはずだった。
しかし、形勢は一気に逆転した。いつの間にか、男がルーウィンを捕まえていることは保険ではなく、リスクになっていたのだ。
こんなはずじゃないと、男は焦った。
彼らは最初から選択を間違っていた。少女を傷つけることで自分たちの身を危険にさらし、気がつけば捕らえた少女が自分たちの命運を握っている。
人質を解放することを、逆に強要されている。
男はやっと気がついた。目の前のダンテ=ヘリオという男は、自分たちが人質をとってどうにかできるレベルではなかったのだと。
目の前に立ちふさがる男は、そういう次元を超えた強さの男だった。
「……ち、ちくしょう。こんなはずじゃ」
男はじりじりと後ろに下がった。追い詰められて、徐々に滝のほうへと近づいていく。
今のダンテの目には、なにも写されていない。その顔には怒りすら浮かんでいない。ただ淡々と事務的に、男との距離を詰めているだけだ。
その様子に、ルーウィンは恐ろしさを感じた。ダンテは喜怒哀楽の激しい、わかりやすい人間だ。しかし今目の前にしているダンテは、面を貼り付けたような無表情だった。
氷のような、冷たい眼差し。目を見たら石にされてしまう、そんな化物のようだった。
彼は静かに怒っているのだ。
表に現すことが出来ないほどに。
ダンテは口を開いた。
「確かに、その子はおれのアキレス腱で弱点だ。だが同時に、おれはその子のためなら何だってする。どこまででも強くなる」
ダンテは弓を構えた。
「その子を放せ。そうすれば命は助けてやる」
ダンテは弓を引き絞った。男はもう、ルーウィンを人質として活かしきれずにいた。
完全に、呑まれてしまっている。盾に使うくらいしか、ルーウィンの活用法はなかった。交渉など、今更できるはずもない。
場は完全にダンテに支配され、ダンテの要求を呑むか呑まないか。
男にはその選択しか残されていなかった。男の身体の震えが伝わり、ルーウィンは男が本当に何も出来ずにいることを悟った。
「言っておくが、これはそこいらの弓とは違って特注品のもんだ。重めに出来てるからな、お前さんの頭くらい簡単に吹き飛ぶぞ」
弓を引いたままその姿勢を維持することは、かなりの腕の力を消費する。そしてその弓を引いたときの重さは、打ったときの速さと破壊力に比例する。
ダンテが今引き絞っている弓は、ルーウィンの細腕では満足に引ききることもできない代物だった。それを彼は、今も顔色一つ変えることなく構えている。狙いを定めた左腕も、弦を引いている右腕も、その身体の芯も何一つぶれてはいない。
そしてそんなもので眉間を打ち抜かれれば、男は確実に即死する。
ダンテは、男を強く睨んだ。
「選べ! 生か死か!」
その迫力は、有無を言わせぬものだった。
男の腕の力が、わずかに緩んだ。ルーウィンはそれを見逃さず、男の腕から逃げてダンテのほうに駆け寄った。
男はダンテの気迫に負け、その恐怖からルーウィンを開放したのだった。
男は引きつった笑みを浮かべながら、おずおずと両手を挙げた。
「……へ、へへ。あんたにゃ負けたよ。降参だ、さあその物騒な弓を下ろしておくれよ」
ダンテはルーウィンが男に捕まらない位置まで逃げたのを見届けると、その腕を下ろさず、射た。
同時に、男の悲鳴が響き渡る。滝の裏全体に、その悲鳴は耳障りに反響した。
ルーウィンは息を呑んだ。悲鳴を上げたということは、死んではいない。ダンテは男の眉間ではなく、男の利き腕にその矢を打ち込んでいた。男の腕からはドクドクと血が溢れ出し、止まる様子はない。この苦しみ方だと、おそらく筋を切っただけでなく、骨まで砕けているかもしれない。
「おっ、お前! 助けるって!」
「お前らは、やっちゃならねえことをした」
ダンテはゆっくりと男に近づいた。
男は痛がりながらも、じりじりと追い詰められる。
「おれの一番大切なものに手を出した。殺されても、文句はないだろう」
ルーウィンは驚いた。ダンテはこの男を、殺そうとしている!
ルーウィンはダンテにしがみついた。
「ダンテやめて! もういいよ、もういい!」
ルーウィンは喉から血が出そうな声で叫んだ。
男の命など、どうだってよかった。死んでもらっても一向に構わない。
しかし、目の前でダンテが無抵抗の相手に弓を射掛ける、それだけは見たくなかった。
そんなダンテは、ダンテではない。
ダンテの弓を、こんなくだらない男のために汚すことはない。
「やめて! そんなダンテは嫌なの! いつもみたいに、戻って……」
ルーウィンは微動だにしないダンテにすがりついた。
ダンテは弓を構え続ける。
ルーウィンはダンテにしがみつく。
男は射掛けられるのを怯えながら、ひたすらに待つ。
しかし、ダンテに変化が現れた。
「ルーウィン……」
ダンテはルーウィンを見た。
そして微笑む。
ダンテはゆっくりと弓を下ろした。ルーウィンもほっとした表情を浮かべる。
しかし、追い詰められる恐怖からその動作を勘違いした男は、ダンテから逃れようと滝に向かって飛び出した。耳障りな悲鳴を上げながら、男は滝壷へと落ちていく。
ルーウィンは思わずそちらのほうを見やったが、男の安否を確かめる気にはならなかった。
「……あいつ、死んだかな」
カレンの用意した三兄弟は、夏になるとよく滝壺から飛び込んだ、と言っていた。果たしてこれは、本当にそんなことが出来る高さだろうか。さすがのルーウィンでも、近くまで行けば足がすくんでしまうような高さだった。
「……さあな」
ダンテは呟いた。
なにはともあれ、助かったのだ。ルーウィンは今すぐにでもダンテに抱きつきたかった。力強い首に腕を回して、その無事を確かめたかった。今日ぐらいは素直に、助けてくれてありがとうと言おうと、そう思った。
しかし、ダンテは相変わらず渋い顔をしている。それを見て、ルーウィンは緩んでいた自分の顔がぴしぴしと凍りついていくのを感じた。
もとはといえば、これはいったい、誰のせいだ?
「さてと、ルーウィン。ちとタイミングが良すぎやしないか」
ダンテは止血のために取り出した包帯を持ち、座り込んでいるルーウィンに合わせてしゃがんだ。
ルーウィンの細い肩に、ダンテの大きな手が置かれる。普段は安心できる大きな手が、今は逆に怖かった。
この距離では、糾弾されることは避けられない。
「これはいったい、どういうことだ」
ダンテの大きな黒い瞳が、ルーウィンの目を射た。力強い眉が、睫が、その瞳に力強さと厳しさを与えるのに一役買っている。その視線は痛く、鋭い。言葉に出さなかったところで、このままこころを見透かされてしまいそうだ。
しかし、それではだめだ。
ダンテはルーウィンの口から言葉が出るのを望んでいるのだ。
ルーウィンには言えなかった。こんな下らないことを打ち明ける勇気は、ルーウィンにはなかった。
置いていかれたくない、離れたくない。そんな簡単な言葉も言えず、こんな回りくどい手まで使って、それを悪意のある者に利用されて。
今まででルーウィンは一番酷い思いをした。しかし、それだけではない。ダンテもかなりの痛手を追っている。それもこれも、ルーウィンの愚かさが招いた事態だった。こんなことを洗いざらい口にすれば、今度こそ本当に愛想つかされてしまう。
いらない子になってしまう。
ルーウィンは口を閉ざした。
言えない。言えるはずがなかった。
こんな目にまで遭わせておいて本当のことを言いたくない自分は、いったいどこまで愚かなんだろう。ルーウィンは自分の浅はかさを嗤いながら、それでもどうしたらいいのかわからなかった。
ルーウィンは完全に、口を閉ざした。
「訳はわたしから話すわ、ルーウィン」
聞き慣れた少女の声がして、思わずルーウィンは振り返った。
「カレン! よかった、無事だったのね!」
ルーウィンはダンテの手を振り払い、カレンのもとへと走った。
単純に彼女の無事を喜び、またダンテから逃げ出したいためであった。カレンが現れてくれたことにほっとしつつ、ルーウィンは声を弾ませてカレンへと駆け寄った。
「バカ! そっちへ行くな!」
「え?」
ダンテの声に振り返ると、ルーウィンは息を呑んだ。
カレンは自分より少し小さいルーウィンの首に腕を回すと、その喉元に容赦なくナイフをつきつけた。




