第六話 しあい
僕は城内をメリケフ財務官の部屋まで早足で、力強く歩いていた。
この国は、いや、西陸国家は心が無いのか。
我が国は奴隷を用いた産業で成り立っている。
それは低賃金で働かせても文句一つ言わず、それでいて高品質の商品を生産する、ある意味最高の生産者達。
しかしそれは貴族達がそう考えているだけで、その奴隷達はどのような心持でいるのか。
ここの奴隷達は、貴族が労働力として奴隷を購入し、奴隷区に放り込んでおくと、勝手に自分たちで役割を決め、こちらが望んだとおりの物を望んだ量を生産する。
しかし、彼らの労働の対価は何か。それはわずかなオウラのみ。
この機構はいずれ破綻するであろう。
何度か反乱はあった。しかし我々はその度に力を持って制してきた。
しかしいつまで持つのか。
この街の奴隷七万人に対して、我々は1000人にも満たない。魔法剣士隊を入れても4000人いるかどうか。
そんな少数が多数をいつまで束縛できるのか。
僕は現状をなんとかしたい。
貴族と奴隷などと言う壁を取り払い、何時の日か共に助け合って生きていける日が来るはずだ。
しかし僕には力が無い。まだまだ若い僕は、時期皇帝の為の実績づくりとしてこの街の領主を封ぜられた。
しかし業務は、お付の財務官や軍務官などかやっている。僕には口を出す権利は無い。
いや、正確には出せる。しかしそれが通ることは無い。
ある日僕はアンジュルペナさんと出会った。
初めてこの街の領主となった日。奴隷区を見て回っていたときに「奴隷の花」の花畑の中で彼女と出会った。
それからだろうか。
僕は以前は他の者とかわらない思想だった。
しかし彼女を見てから変わった。
僕は彼女が好きだ。
だからこの生活から抜け出させてやろうと、専属の給士として雇おうと言った。
しかし問題はそこでは無いと跳ね除けられた。
それから僕は変わった。
彼女の為にも、この制度を変えなくてはならない。
今はい小さき事すらできないが、皇帝となったら凡てを変えてやる。
そして彼女に認められたい。
他の者は反対するだろう。
しかし僕は其れを許さない。
そのときには皇帝なのだから。
今は財務官に、奴隷達の給金を上げてはどうかと言うことしかできない。
しかし何時の日か、彼らを解放してやる。
月は東に傾いている。
石材と木材とで作られた建物の一室は明るかった。
その一室には若き同志が二人いた。
机に向かって赤髪少女がしきりに肯いて羊皮紙に書き込んでいる。
黒髪の彼は身振り手振りで家庭教師よろしく教授ををしていた。
「金貨が何故、パンと交換できるのか。それは先に述べたやうに、
A商品X量=B商品Y量=C商品Z量=……
と連なつてくると、どこかで「金」何ポンドかと言ふのもイコールの關係になるだらう?
金を採掘し、金貨とするには當然ながら莫大な勞働時間が掛かる。
これは銀にも當てはまる。
であるので、金貨は僅かな量でも他の商品とイコールになるわけだ。
例へば、肉は腐る。といふことは一定の時間がたつと使用價値、交換價値を失ふわけだ。
そもそも肉何百ポンドを交換して囘らうと思つたら、交換する前に腐つてしまふ。他には布なども持ち歩いてゐては汚れてしまふ。
なので代はりのものが必要だ。そこで皆が信頼した物が金や銀だつたはけだ。
金、銀と交換しておけば、他の人も使つてゐるので、都合がよかつたのだらう。
それで今日まで金、銀が使はれてゐる。」
夜明けである。
アンの目にはクマが出来ていた。
「今日はこゝらで止めとこう」背伸びをしつゝ黒髪少女は赤髪少女へ云った。
アンはメモを取っていた羊皮紙とペンとを机に放り、青いインクの付いた手をそのままにベットに倒れるように入り込んで、有難う御座いましたと云って寝てしまう。
さてこの資本論、中間搾取をどう説明したらよいかと黒髪の少女は思案する。
だが睡魔が黒髪少女を襲う。
この黒髪は不老である。
故に睡眠は必要ないのではないかと思うだろうが、精神が睡眠を求めるのである。
矢玉尽き果てども刀を振るう事はできても睡眠には勝てぬとアンの布団に一寸顔を埋めたが最後に彼は眠ってしまった。
数刻の後アルと云う赤髪の男が『彼女』らを起こしにやってきたが、どうやら夜明けまで話をしていたと見た彼は黒髪少女を問い詰めた。
黒髪少女は「さうだ」と何が悪いかという風に云ったが彼はひどく叱責した。
アンの体も考えろと黒髪に云ったら腕立て伏せをしたのを見て彼は許した。
その時アンがごぼごぼと咳をした。
黒髪の彼とアルが胸を張らせると幾分か楽になったようだが、ひゅうひゅうと音を立てゝ大きく息を吸っている。
もしやアンは喘息なのかと思った黒髪の彼はひとつ明治期辺りの吸入器でも作ってやろうと思い、その旨をアルに告げ、ローブを羽織って軍刀を帝國陸軍式に帯刀し南部を懐に入れて鍛冶区へ向かった。
黒髪の彼は道に迷ったが無事に辿り着いた。
その場所は地面は乾燥した砂利であり、辺りを見渡すと扇状に赤肌を晒す山でその山の所々には坑道が掘られ、トロッコによって石が運ばれている。
彼が右側を望むと熱風が吹いてくる。思わず彼は目を細めた。
彼の立つ右手には熔鉱炉のある施設がある。
熱気を放つその施設は、火傷の跡の残る上半身を裸にした屈強な男達が石を炉に投げ込み、ドロドロに溶けた溶岩のような液体を器の中に入れている。
彼が左を望めば鉄を打っている者達が目に入る。
黒髪の彼は樽の山積みにされている所まで行くと何やら樽を運んでいる集団に出くわした。
その中の一人が彼の方をちらと見て話しかけてきた。
中々に良い体つきをした白髪の男である。頭に赤い鉢巻をしている。
黒髪の彼は、彼が赤い鉢巻をしているので「赤鉢巻」と呼ぶことにした。
赤鉢巻が「あなたがヒットレルさんか!妹の治療をしてくれるそうだな!」
云ったとたんに、周りのものまでもが、あなたがヒットレルさんか等といっていた。
黒髪の彼、もといヒットレルは奴隷区ではちょっと有名になっていた。
黒髪の女の子が医者に担ぎこまれてその医者と一緒に暮らしているそうだおのれアルヘルワめ真面目な学者ぶっていたら云々と云う具合である。
彼がなんだなんだ徒党を組んでと思っていたら男共に囲まれてしまった。
ヒットレルはローブを羽織っているが、フードはもはやいらぬと思ったのか被っていない。
その所為で彼のみどりの黒髪は大衆の目に晒されている。
黒髪の彼は四尺八寸の少女である。
だが、心は男であり、それは前世が男であったからである。
イザ何某がヒルコをどうとかして欲しいと云って彼を此処につれてきたのである。
さて黒髪が赤鉢巻と渾名をつけている間に人だかりが出来ている。
その間、労働者の責務は忘れ去られている。
この事に対して、怒って怒鳴りつけるのは誰か。
資本家だろうか。
いや、もちろんそうだろうが、資本家が現場に出張って怒鳴り散らすのは少ない。
大抵は労働者の監督をする者を雇って、彼がムチを与え、資本家がアメを与えるのである。
だがこの世界では資本家がアメやチョコレートやガムを配ることなどせず、資本家は雑草をよこすのである。
この場合は資本家が雇った魔術師が監督であった。
労働者の責務の放棄に気づいたのか、巡回をしていた魔術師に一同怒鳴られ、一人が何処からともなく現れた火の玉で焼かれた。
男達は火を消そうと着ていた服を脱ぎ、火達磨の男を服で叩いていて消化を試みたが間に合わず、死んでしまったようだ。
魔術師はお喋りさせるために金はやっていないと怒鳴った。
一同は魔術師を睨んだ。
黒髪の彼は労働現場の実態を見た。
彼に一番見せてはいけない物を魔術師は見せてしまった。
彼は寛容で川の流れの如き人柄だと自負している。
しかし、その川の水が沸騰することもあるのである。
事に彼の
信義と義理と仁義とに反する行為と
愛国心のかけらも無い売国奴と
邪悪なる資本主義者のブルジョアの退廃的な非道行為を見てしまったときである。
資本家が労働者を殺しても良い道理があるものか!
労働者は資本家に労働力を売っているのであって、命を売っているのではない。
命は軽いものではない。
命は重いものである。
故に彼は己の命と引き換えに前世において売国奴の首相を斬ったのだ。
――仁義や大義の為でも無く人間一箇手に掛けたるならば責任も負はず生を貪る事は赦さぬ。然るべき成敗を受けるべきである。特に貴族主義者の豚野郎ならば尚更である 。
だが、直ぐに抑制不能な怒りに身を任すほど愚か者では無かったのは彼にとって幸運であり魔術師にとって不幸の始まりであろう。
彼が云うならば労働対価を払はせるまでだということであろうが。
これを好機と見るべきであると彼は思った。
魔法が使えるからと云って労働者を搾取する道理は通らぬと啓蒙してやろうと思ったのである。
プロレタリアートによる勝利への第一歩であると見せつけ、労働者を扇動するのだと。
だがもちろん道理の通らぬ悪に天誅下してやらんと云う思いもあった。
黒髪の彼はがまんの出来ぬ男である。
己の信義に反していたり、不人情な者を見かけるとついつい口を出してしまう。
それでややこしい事件を起すことが多い。
後の自体の収集など気に掛けていない。
なぜなら彼は正しい事をしたと思い込んでいるからである。
黒髪の彼は云う。
「其の偉さうな態度は氣に入らんな」
一同驚嘆の表情を浮かべる。
「誰に対してのその物言いか!」
魔術師はまたもや怒鳴った。
だが、直ぐに魔術師は口を吊り上げて笑みをこぼす。
群集の中から前へ出てきた小さな少女が声の主だったからだ。
黒髪のヒットレルは手を大きく上げて云う。
しかし其の声は落ち着き払って。
「君は何だ」
何という口の利き方だろう。
魔術師の胸辺りがその黒髪少女の背丈である。
そんな少女が汚いものを見るような目で見てきたのだ。
彼は怒った。
「魔術師であり、ここの監視を勤めるものだ!」
ヒットレルは彼と魔術師を囲む民衆を見渡して云う。
「魔術師はなぜ彼らのやうに汗を流して働かないのか」
「我々は魔法が使えるからだ。そして魔法の使えない哀れな彼らを雇ってやっている側であり、彼らに金を払っているのだ!その金の分は働いてもらわなくてはならない!よって手を休めることそれすなわち我々の金、皇帝の金を盗んでいることなのだ!」
首をかしげて問う。
「魔法が使える者は魔法を使えない者を殺しても良いのか」
「そのとおりだ。我々の力は偉大であり、尊いものだ!だからこそこの世界は魔術師によって統治されているのだ!」
アクセントを付けて、手は腰の横のままであるが、体を少し前のめりにして不思議そうな顔をして問うた。
「君らは統治者か」
「そうだ」
右手を魔術師の方へ向け、手を広げ、手の甲を大地へ向ける。其の声は小莫迦にしたように、笑みを浮かべつつ、
「どうやつてなつた?勞働者を搾取したのか。時代遲れの帝國主義にしがみついてゐるのだらう 」
「黙らんか!我々がこの世界を統治することは唯一神エザナレルによって定められているのだ!その証拠にブルゴーニエ初代皇帝は空から降ってきた一本の剣を手にし、その加護によって死して尚現在までその威光を世に知らしめているのだ!」
ヒットレルは自身の胸を両手で二回叩いた後、胸の前で両手を広げながら怒鳴り声で云う。眉毛は逆ハの字である。
「莫迦か。其のやうなものは時代遲れだ。其のやうな宗教は社會の不平等を生み、國を腐敗させるのだ。民の中から選舉によつて選ばれた議員によつて統治されるべきなのだ。空から降つて來た劍を偶々手にした誰か等ではなくてな」
言い終わった後は口はへの字に閉める。
「黙らんか!意味の分からないことを!皇帝を侮辱するとはこの国の魔術師を侮辱したと同義!死してその償いをしてもらう!」
論争を聴く聴衆を望みつつ云う。
「彈圧するのか。見よ!此れが彈圧の現場だ!この場にゐる八萬を君一人で相手取るのか!少数が多数を彈圧することなどできない」
怒り狂った退廃的思想の魔術師は剣を引き抜いた。
二人を囲む聴衆が一歩後ずさる。
「この街にゐる八萬の勞働者よ團結せよ!彼ら貴族重商主義者、ブルジョアジーどもは瀕死である。その證據に論理を以つて我々をとめることは出來ないのだ。力に頼るしか術が無いのだ!この日を忘れるな!魔法を使へないものが魔術師に勝つた日を!」
云いながら黒髪の彼も抜刀する。
二人を囲む聴衆がさらに一歩下がる。
辺りは静寂に包まれる。
誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。
喧嘩だ、闘争だと騒ぐものはいない。
ただ、この二人の行方を見ている。
両者の距離は六歩である。
魔術師はレイピアを構える。その構えは闘志を発露して。
其の構えは右足を前に出し、左足を後ろ、体を斜めにして半身にし、右手に持ったレイピアを黒髪の女に向け、左手は左腰に添えている。
所謂、フェンシングの構えである。
その理由は相手に対する体の面積を最小に出来るからである。
レイピアとは十六、七世紀に使われていた細身で両刃の片手剣である。
全長は四尺(120cm)である。
柄を握る手の甲を覆うように護拳が付いている。
両刃ではあるが、突きが主な攻撃である。
対して黒髪の少女は軍刀を正眼に構える。その構えは悠然と、微動だにせず。
様々な流派の剣術があるが「正眼の構え」は各流派基本の構えである。
基本にして攻防どの手にも対応できる万能の構えである。
剣道においては中段構えとも呼ばれ、剣道においても基本の構えである。
彼女の持つ軍刀は帝國陸軍の九十四式軍刀である。
昭和9年に制定されたこの軍刀は、それ以前のサーベル式の軍刀から、初めて日本刀(太刀)を元に太刀型軍刀へ改められた刀である。
彼の持つ刀は「靖国刀」であり全長三尺四寸(102cm)、刃長は二尺三寸(69cm)、
鞘、柄色は茶褐色、その他は制定規定通りである。
魔術師のレイピアの先は揺れていた。それは彼の怒りの為であろうか、それとも余裕からの笑みのためであろうか。
――あの黒髪の女奴隷はサーベルの様な武器を構えた。奴隷の刀剣等の武器の所持は禁じられているはずだ。
とはいえ、その所持した武器を摘発しきれるかというとそうではない。
この鍛冶区にしろ何処にしろ、奴隷の数は多く、凡てに目が回るわけではない。
現に、ショートソード等を密かに作り、所持していた奴隷がおり、その武器を以って他の奴隷を襲って金銭を奪い殺害するなどということは頻発している。
だが、彼らは我々に対して剣を大々的に振るうなどということは無い。
もちろん、追い詰められたら彼らは剣を抜いて我々に斬りかかって来るが、鎧袖一触である。
魔法など使わぬとも素人剣術に遅れをとる己ではない。
目の前の黒髪女は剣を構え、己に立ち向かおうとしている。
しかも、何の恐怖も感じていないように見える。
両手剣を真っ直ぐに構え、微動だにしない。
背中は真っ直ぐに伸ばし、右足を前に出し、左足を後ろに引いている。
――この構えは何だ?両手剣を扱うなら腰をもっと落として構えるべきだろう!素人が!
このような素人丸出しの小娘と死合うのか。
だがこの小娘、恐怖は感じていないようだ。
それが又腹立たしいのである。
落ちぶれているとは云え、彼もまた魔術師であり貴族である。
彼が底辺と見なす者にかくも莫迦にされてただでは済まさん、楽には殺さぬ、苦痛で泣き喚いて許しを請わせてやる。
己との体格差は圧倒的に己に有利だと彼は即断した。
彼の心情など気にもかけず、黒髪の少女は「機」を伺う。
確かに体格差はこの魔術師の男の方が有利であろう。
黒髪少女は力押しの勝負では確実に敗北する。
しかし、力で勝敗が決するならば技はいらぬ。
柔道を例にすれば、圧倒的に小柄な者でも己よりも大きな者を投げ飛ばせる道理は何か。
腕力か?
実は大きい者が八百長をしたのか?
否である。
相手の体重移動を逆手にとってバランスを崩してやることによって投げ飛ばせるのだ。
いわば、技である。
だが、「技」を掛けるには「機」を捕らえねばならぬ。
「機」とは勝機の事であり、相手の気配の事である。
攻撃のタイミングであるという認識は間違いであるということを先に明記しておきたい。
日本剣術をはじめ、武道の流派は様々であるが、「機」を想定していない武道はないであろう。
黒髪少女の考える機、前世の剣道をやっていた時分の事も含めると、大きく四つに分類された。
「先々の先」
「先の先」
「先」
「後の先」
である。
「先々の先」とは、互いに「先」を狙っている時に相手の気配(目線、剣先の揺れなどの微動)を発見し、相手が攻撃動作を行う前に相手に先んじて「先」を打ち込むことである。
第三者から見れば、こちらが「先」を意図して打ち込んでいる様に見えるが、相手の「先」よりも早くこちらが先に打ち込んだということである。
これは究極の理想とも云える。見誤いやすく尚且つ見誤れば一番危険が伴う。中々出来るものではない。
「先の先」とは、相手が「先」を狙い、攻撃動作の起こり、構えを崩す瞬間の隙に打ち込むこと。先を狙う余り、守備がおろそかになっている隙に打ち込むことである。
だが、「先」を狙う相手の剣速が此方の予想を上回っていた場合、若しくは相手「先」が「後の先」を狙ったフェイントの場合、攻撃と防御は同時には取れぬことは道理であるので、斬られるのは此方である。
「先」とは、相手よりも先に打ち込むこと。相手の態勢が整わない内に打ち込むこと。相手の守勢が脆くなった隙に打ち込むこと。又は相手の油断、疲労により生じる隙に打ち込むことである。
だが、動くということは隙が出来るという事である。相手が「後の先」を意図していた場合、斬られるのはこちらである。
「後の先」とは、相手の攻撃動作中の隙、又は相手が打ち込んだ後に再び攻撃が可能な態勢まで戻すまでの隙である。
相手が動いて初めて此方が動くのである。間合いを計りつつ、相手が打ち込んだところへ仕掛ける。
若しくは相手の攻撃を避け、相手の剣が空気を切り裂いている間に打ち込むと言っても良い。
だが逆に云えば、フェイントを仕掛けてわざと相手に「後の先」を貰ったと錯覚を仕掛けようとフェイントなどをしても、相手が動くまでは何も出来ないのである。
黒髪の少女は今は「後の先」を狙う。
後の先は4つの機の中でも一番安全策である。
相手の出方が分からぬ。
魔法なる物は攻撃として有効であるのか?
不明な点が多い以上、先に動くことは極めて危険である。
微動だにせず、唯こちらを見つめる黒髪少女に対して、魔術師の男は余裕の笑みを浮かべた。
――口ほどにもない
剣を構えていたとしても所詮は小娘。体格差も歴然。
おそらくこの小娘は戦い方を知らぬ。
その証拠か未だに動けないでいる。
恐らく、どう動いていいのかわからぬのだろう。
黒髪の少女は正眼の構えを左側にずらし、右肘を突き出した。
疲労から来る物なのか、唯構えを崩しただけか。
どちらにしても、魔術師にとっては好機である。
正眼の構えは切っ先を相手の首辺りに向ける為、相手はレイピアの様に突きを主体として戦う得物を扱うならば刀を払いのけるかしなくてはならない。
何故なら正眼の構えより打ち出される最も最速で危険な技は突きであるからである。
正眼の構えからは予備動作が少なくてすむ。
相手の首の辺りに切っ先を向けるのは突きを意図したものであろう。
突きを意図していない場合であっても相手へのプレッシャーを与える、相手の突貫を牽制するなどの意図は間違いなくある。
剣道などにおいては幾ら打ち込みを受けても有効打として認められなければ一本とならない。様は死んだことにならない。
故に、相手の竹刀がどれだけ腕に当たっても胴を切られても、此方が先に一本を取れれば勝敗は決する。
しかしこの二人が持つのは真剣。
突きは兎も角、袈裟、唐竹どの太刀筋であっても斬られれば負傷するのである。
幾ら魔術師が日本剣術を知らぬとは云え、彼もまた戦人、素人と判断しているとは云え、目の前の黒髪少女の構えから打ち出されるであろう太刀筋は大方見当がつく。
だが、好機は魔術師に向いたのである。
正眼の構えがほんの僅かに崩れたのである。
精神的未熟さか、疲労からか、そう考えるまでも無く彼は「先」の機を伺った。
例へ「後の先」を狙った「誘い」であったとしても彼は自分の突きにの速度に自信があった。
――串刺しにしてくれる
あの両手剣の事だ、素早くは振れないだろう。
恐らく、叩ききる事を狙ってくるはずだ。
まずはあの右手を使えなくしてやろう。
「右手に突き」、ついで「鳩尾に突き」ついで「喉への突き」
魔術師はこの連続した突きを狙った。
魔術師は駆け出した。
互いの間合いが大きく変わる。
黒髪少女は一歩、二歩と勘定する。
黒髪少女の「誘い」に乗ったか、魔術師が油断からかどうかは分からぬが、「先」を意図して間合いを詰めたのは明白。
分かり安すぎるくらいである。
――ならば、「後の先」の技を掛ければよい
彼の云う技とは、基本的には中段(正眼)構えの際に用いる事を想定している。
相手が小手狙いにて左薙ぎ以外の太刀筋によって斬り込んで来た際に、
此方は右足を後ろへ、刀は八双の構えに近い位置まで、尚且つ右上方へ両の手を外す。
相手の刀は虚しく空気を斬る。
その一寸も待たず、足の位置を変えぬまま、足腰を垂直に落としつつ刀を振り下ろす事によって、直ちに相手の小手へ打ち込む。
その際上半身と下半身とは捻る形になる。
相手は攻撃中である為、此方の斬撃を防げない。
――緋虎流似非剣術『捻り落し』
此れが「後の先」の「技」である。
相手へいわゆるカウンター気味に小手を打ち込む際に、体を更に前傾させれば、唐竹、直斬り、胴、何処へでも打てる。だが一番確実なのが小手である。
ただ、この技、相手が小手狙い以外の場合は使えない。
此方を突きや真っ向からの直斬り、袈裟斬りなどで斬りかかって来た場合はどうしても負傷は免れない。
では、どうするか。
単純明快である。
小手に打ち込むように仕向ければよいのである。
わざと肘を出す、刀を一寸だけ上下させるだけでも、緊迫した状況であるならば相手は小手狙いで打ち込む可能性が高い。
――それでももし例えば唐竹に打ち込んできたら?
胴ががら空きである。
――突きをしてきたら?
いなしてそのまま小手を打てばよい。
etc、、、
この技が「後の先」の技であり、中段(正眼)構えを念頭にして組んである理由が之である。
だが、欠点が無いわけではない。
どのような技にも欠点がある。
その欠点を突かれぬ様に、勝機を読むのが重要である。
だが、今回の場合は案ずるに及ばず、魔術師の得物はレイピアである。
――小娘ふぜいが、奴隷の分際で粋がりおって
いまだに身構えてすらおらぬ。
おそらく、緊張の余り力が入りすぎているのだろう。
魔術師が三歩目を踏み込んだ所で、大きく右足を踏み出しつつ、レイピアを持つ右手を前へ押し出す。
力強い一撃、すばやい一撃を加えるには力んでいてはできない。
力を抜いて、いざ突く、と言う所で一気に息を吐いて、突く。
――「突き」
しかし手ごたえは無かった。
――どういうことだ?
彼の目の前からは自らの狙っていた腕は無く、黒髪の娘が持っていた刀も消えていた。
切り落としたのか?
いやいやいや、待て待て。
突きだけで、何の手ごたえもなく綺麗に手首を落とせるわけが無い。
では、何処に行ったというのか。
彼の頭上である。
彼は、魔法剣士である。
魔法剣士は一面を焼きつくす炎を出したりなどという芸当は出来ぬが、火の玉を出現させ操るだとか、自身の身体能力を瞬間的に高めることが可能である。
彼は魔法を咄嗟に用いて後ろに飛びのく。
――
軍刀の切っ先が己の額から鼻を薄く切り裂く。
――おのれ
失態である。虚栄心がすぎたか。
己は攻撃ができぬ。
バックステップにてかわしたのがやっとであり、攻撃をする態勢に入っておらぬ。
息を先ほどの「突き」から「バックステップ」
で使い果たしてしまった。
息を吸う一刹那、
それが必要である。
幾ら魔術師であっても呼吸を、息を吐くのと吸うのとを同時に行うことができないのは必至。
もう一撃を避はし、態勢を整えなければ。
冷静になれ、次の敵の一手は何処だ?
たが、瀕死の貴族主義者に息をつく暇など黒髪少女は与えてくれなかった。
魔術師の左足が地面を踏んだのと同時に、黒髪少女は直斬りで振り下ろした軍刀を、右手に力をちょいと入れて止める。
一寸の間もなく、左足を軸に右足を踏み出す。
同時に腹の高さにある軍刀を前へ押し出す。
鳩尾への刺突を狙う。
彼女の突きが入るか如何かという刹那に、
「そこまでだ!」
と言う声と共に、凄まじい風圧によって両者吹き飛ばされる。
当然、突きは入っていない。
真剣勝負を邪魔だてするのは誰ぞ!
そう思う者はいなかった。
ヒットレルの目の前で倒れこむ魔術師を除いて。
ヒットレルも魔術師も動きを止める。
声の主を見ると金髪の少年である。
タイツをはいて半ズボンをはいている。上着は青い長い燕尾服の様なものを着ていて所々金色の装飾が施されている。
魔術師が、何故止めるのかのような事を言っていた。最後に殿下と付いている。
一つ間をおいた後、金髪の少年は声を上げる。
真っ直ぐに両者の間を見て
声を透き通らせて
この鉱山区に響かせて
「この勝負、ブラゴーニエ帝国皇帝の息子にしてナジュム領主、ハリックス・サラノフが預かった!」
ヒットレルは口元を吊り上げた。
声さえ出さぬが、黒髪の彼は笑みを浮かべた。
その白い肌の中で薄い桜色の有様は三日月の如く。