第五話 さんぽ
何故わたしたちはこんなに困窮しなくてはならないのだろう。
同じ人間であるはずなのに、魔法が使えると云うだけで暖かい家で寝ているだけで腹いっぱいになれるのだろう。
魔法が使えないわたし達は過酷な労働をし、寒い日も凍えて暮らし、食えるものはパン一つ。
もちろん金はもらえる。だが、やっと食っていけるだけの金しかない。その日の食い物を買ったらそれでおしまい。
食い物を作っている人達も今が精一杯で、食い物と引き換えに貰った金も次の食料を確保するために無くなってしまうと云う。
わたし達が作った芋やムギはどこに行ったのだろう。
わたしは魔術師が憎い。彼らもここで働いてみると良い。
巡回にくる監視の魔術師は働いてない者を見つけるとひどいことをする。
何のために金を払っているかと怒鳴る。
何故わたし達は働けど働けどその日暮らしなのか。
わたしは其れを解明したい。
そして魔術師たちを踏みつけたい、わたし達の分まで働かせたい。
そんなことを、やんわりとヒットレルさんに話してみた。
ヒットレルさんは不思議な人だ。
見た目は私と同じ女の子なのに何故だか兄の様な、いや何とも云えぬ物がある。
それでいて博識だ。
今朝の食事のときに「どうしてこの黒パンは3オウラもするんだろう」といったら、
「そもそも物には値段は無い。例へばこのパンも元々は値段は無い。なぜ値段がつくかといふと、それは人の手、勞働が加はつたからで、そして市場へ出されたからだ。市場に出されればそれは何でも價値、値段がつく。さういへば、みんなが使つてゐるであらう金には元來價値などない。金を食へば腹が膨れるのかといふことだ。
人間生活にとつて一つの物が有用であるとき、その物は使用價値になる。使用價値といふのは役に立つもの、つまりこのパンを食へば空腹をしのげると云ふ工合のこと。
使用價値は消費されてこそ實現されるといふ事。パンは食へば無くなるからね。その使用價値は富の社會的形態がどうであれ、交換價値とはイコールの關係なんだ。
交換價値といふのは、少しばかり難しいかな。例へば君が服を作つて、このパンと交換したとしよう。服が欲しかつた者はそれが滿たされるし、君もパンが欲しかつたのが滿たされるだらう。
何故、違ふ物なのに、交換できるんだらうね。そして今は何故、パンと金は交換できるんだらうね。
……私はこの世のことをあまり知らぬ。だが、君の話を聞くに、君達のやうな状況を搾取されてゐると云ふ 」
そう云った上でわたしの事を褒めてくれた。
こういうことに気づく人は凄い人なんだと云った。そういう者がいるからこそ、万人が幸せな国が作られると云った。
話の途中で兄が割って入ったのでこの話は又今度ということになった。
ちょっとふくれていたら、ヒットレルさんが笑顔のほうが良いと云った。
そして言葉について教えてくれた。
まだ難しく、理解はできないが、どうしてヒットレルさんはそんな事が理解できるのだろう。どこで知ったのだろう。
そんなに物知りなのに、常識的なことは全く知らないみたいだ。
金の単位も昨夜初めて知ったらしい。
魔法石を粉砕した粉を紙に振りかけて、それに魔法を掛けたものがこの国の通貨で、その通貨をオウラと云う。と教えてあげた。
大体鍛冶区の奴隷が貰える1日の給金が12オウラで、飯が一食5オウラ程度であると教えたら、驚嘆すると共に、納得した様子だった。
ヒットレルさんと話していると面白い。
ヒットレルさんは今は兄と共に出かけている。
今夜は何を話そうか。
その交換価値について聞いてみたいな。
突然ノックがした。
誰何をした。
「僕だ。ハリックス・サラノフだよ。」
なんだ、ナジュム領主様か。
この国の王の息子でナジュム領主、つまりここの魔術師達の親玉である。わたしよりも3歳年上。
奴は事あるごとにわたしの部屋にお忍びで来る。兄がいないときに。
わたしは魔術師やらが嫌いなので相手にしない。
何時も、僕は奴隷と魔術師の関係を嘆いてるだの、わたしを城で働かせてやるだの云ってくる。
何が「嘆いている」か。ならこの現状は何故続くのか。そう云ってやると黙って帰る。
今日は何用か。
開けてくれとせがんできた。しかしわたしはいつもも開けない。
するといつもドアの前で語り始める。
奴隷に対する給金の改善を官吏たちに相談したという話を聞かされた。
しかしこのパターンの時はいつも、
「だが聞き入れてくれなかった。しかし、いつか僕が変えてやる。」
という話。今日もこの通り。
ここの領主ならなんとかしたらどうなんだ。魔術師様の泣き言なんか聞きたくない。
「……あなたも結局、わたし達を搾取して……お腹いっぱい食べて、暖かい部屋で寝ているのでしょう?……理想じゃわたしたちは食べていけないの。あなたたちの所為でね。」
「さ、搾取?えと、どういう意味の言葉だい?」
わたしもまだ良く理解していなかった。ヒットレルさんの言葉をつい使ってしまった。失態だった。
暫く黙っていたら、足音がして、しだいに遠のいていった。
ドアを開けてみるとドアの前にアランカザンダッカの花が置いてあった。
その花を拾い上げて花瓶に入れてベットに潜り込んだ。
わたしは自らを戒めた。
こんなことでは駄目だ。
彼らは力でねじ伏せてくる。
力の差は圧倒的だ。
だが口は平等だ。
口と頭は彼らと変わらない。
だから口ですら負けていては何も成し得ない。
わたしはもっと学ばなくてはならない。
この世界の仕組みを学ばなくてはならない。
そしてこの現状を打倒する術を見つけなくてはならない。
窓の向うから聞こえてくる屈強な男達はなにもできない。
兄もなにもできない。
ならば、わたしがやるしかない。
もっと勉強しないといけないな。
ヒットレルさんと話をもっとしたい。
兄では駄目だ。話をしてもついてこない。
今夜はヒットレルさんと話をして夜を明かそう。
アルの後ろに尾いて居住區を歩いてゆく。
彼は良い奴だ。或いは無鐵砲な奴だ。
得體の知れない奴に醫者の仕事をさせて、そいつを更に内に泊めてしまはうなんて考へるからだ。
現代日本人でもさう云ふ藝當は中々出來るものぢやない。
道中に、兩親はどうしたかと問うたら死んだと歸つてきたので、さうか、とだけ云つておいた。
あまりこの手の話に首を突つ込むのは心持良く思はないだらう。
彼の家族は妹のアンのみであると云ふわけで、なるほど大層大事に箱に入れてゐるわけである。
太陽は眞上を過ぎた頃である。
背負子を背負つて走り囘る子供達にぶつかりさうになりながら、すいすいと避けて歩いていつた。
ところでこの子供達、ボロ着を羽織り、痩せてゐたりして榮養状態が宜しくないやうに見えるのには同情した。
かと云つて私も文無しであり、居候までさせて貰ひおまけにただ飯を貪つてゐる立場であるので何か出來るわけでもなく同情するだけの僞善の時を過ごした。
暫く行つたところで何やら服を賣る露店のやうなのをみつけた。
ここで商賣していいのかと聞いたら、勞働者内での物のやり取りは居住區内でなら認められてゐるとの事だつた。
木綿の樣な材質の服だが、質が惡いなと云つたら、これは出荷できなかつたできそこなひで、我々はここからしか物を得られないとのことだつた。
幾らなのかと問うたら6オウラださうだ。オウラはこの國の通貨ださうだ。
ちなみに他の國ではどうなのかと問うたら、それぞれの國で違ふらしい。
他國との貿易の際には、昔ながらの金貨、銀貨、銅貨を使ふらしい。
變動するらしいが、だいたい銅貨一枚は十萬オウラに相當して、銅貨100枚で銀貨一枚、銀貨1000枚で金貨一枚ださうだ。
一文も無い私にとつては無縁の話である。
前世に有つても裕福な方ではなかつたが、腹一杯に飯を食ふのには困らなかつた。
だがここでは腹八分目まで食へるかどうかわからぬと云ふさうである。
銅貨だ金貨だなどと喚くのはブルジョアジーのみでよろしい。
いづれ勞働者を搾取した對價として共産革命が起こつて私有財産は沒收されるのだ。
暫く歩くと廣場があつた。此處は全ての區の中央に位置する場所らしい。
廣場の眞ん中には杖と劍を持ち甲冑を着込んだ偉さうな人の銅像が立つてゐた。大方戰爭の英雄だとか國王とかだらう。
見上げるとかなり大きい。10メートルくらゐあるのではないかと思ひ、一體どれくらゐの高さなのかとアルに尋ねた。
「9メートルちょっとですね」
と返つてきたので、ここは私の居た世界とは違ふのにメートル法なのか?と不思議に思つてメートルとは何かと尋ねた。
「メートルの前にセンチがあって、1センチは私の小指の爪ほどです。そのセンチが100になったら1メートルと数えます。」
メートル法は各国共通なのかと問うた。
「国によって様々です。統一しようとしたこともあったらしいですが、各々の国が自国の単位を推すのでまとまっていません。」
「ちなみにこの像はこの国、『ブラゴーニエ帝国』皇帝『ニーカ・サラノフ』の像です」
なるほどメートルは前の世界とそれほど變はらない長さであるので助かつた。
それにしてもこの國は「ブラゴーニエ」と云ふのか。王の名前が「ニーカ・サラノフ」とは、名前の同じメートルやら、この世界ができそこなひの子とはよく云つたものだ。
その名前を聞いて、私がこの世界でやるべきことが分かつたやうな氣がした。
だが、今はまだ早い。きつかけが必要だ等と思案しつつ、アルと喋つてゐたら農業區へついた。
結構廣く、東を見るとなだらかな平原の樣な土地で南を見ると森、山があつた。
この土地は比較的寒冷で青森縣のやうな寒さであつた。
森には毛皮向きの動物がうろつき、川には魚が群れを成してゐる。
所々で牛や羊などを放牧してゐる樣が見える。
栽培してゐるのは小麥、芋だらうか。田畑も一面に廣がり、見えるだけで三里先まで廣がつてゐる。
人々がせわしなく働いてをり、集團農場を髣髴とさせる。
川沿ひに歩いていくと見事な引水、治水工事の後が見える。
水田のそばには彼岸花が咲いてゐた。
リヤカーの樣な物を引いて行く人達に、君があの時の黒髮ちやんか、など云はれるのでそこそこに挨拶しつつ、暫く歩いていくと林道があり、あなたはあの邊で倒れてゐたんですよと指差された先には、一寸した空間があり、そのなかに彼岸花の花畑が見える。ここは元は田であつたが、立地が惡いので使はず放置してゐたら斯樣になつたと云ふ。
林道を歩いていくと綿の栽培をしてゐる區劃に出た。
ここらは人通りが少ないやうだ。
地面がぬかるんでおり、穿いてゐるブーツが一寸沈み込んで足跡ができる。
そこに件のグラマア姉ちやんことゼアニが居た。
あれこれかう云ふ植物を探してゐると云つたら案内するから着いて來いと云ふことで着いて行つたら、少し乾燥した地面に見事にアヘンが咲いてゐた。
彼らは「ダスモニ」と呼ぶさうだが、目立つ花だ程度の扱ひだつた。
私はこの植物の藥學的效果をアルにかうだ あゝだと説明した。
それほど詳しくは無かつたが、鎭痛劑、麻醉藥として此れほど效果的なものはないと云つて收穫法を紹介した。
「こんな凄い花だったとは思わなかったよ」とゼアニ
「少しだけなら鎭痛、催眠、消化促進、咳止め、腹部疾患の治癒等に效果がある。但し多量に服用すると昏睡状態になる恐れがある。アルなら藥に就いての心得はあるから大丈夫だらうが」
と現代人の知る苦い歴史もあるので義務として一つ忠告して置く。
草に關はつた所爲で戰爭などやらかすなど莫迦らしいことである。
何はともあれ、これは新たに栽培すべきだと一同一致。
しかしこれは内密に栽培したいとお願ひをした。
理由を知りたがつたので、件の魔術師の話をだした。
しかし魔術師は怪我や病氣も魔法で治療もするし、水の淨化もできるし、火も起こせるし。なんでもできるのでそんな草など見つけても何も氣にしないから大丈夫だらうなどと云はれたが、私はどうしても栽培してゐることは内密にしたい。
「ダスモニ」の發見は大きい。
この草が爲にブルジョアジー達はこぞつてしのぎを削るのであらうから、卷き添へを喰らふ勞働者が可哀相である。
そもそも彼等ももう少し汗を流してはどうだらうかと思ふ。
他にも思ふところはあるが、兔に角この草の栽培は内密にしておきたい。
話は、ゼアニが責任を持つて隱匿して栽培をし、藥劑としてはアルが新たな調合法の結果かう云ふ藥劑ができた。と云ふことにすると云ふことになつた。
ゼアニの瞳を見つめて力説してやつたら頬を染めて頷いてくれた。
矢張り女子でも可愛い娘の視線には敵わないと云ふことだ。
己の美少女ぶりを譽める。
それにしても話を聞くに魔法とやらは隨分と便利な代物のやうだ。
そんな事が出來るならカイゼル髭に魔法を使はせて呉れと頼んでも良かつたかも知れない。
そんなこんなで部屋へ歸つてきた時にはもう夕暮れであつた。
もうこんな刻限か。體内時計によると、どうやら一日は二十四時間であらうとの事だつたので少し安堵する。
同じ腹の子であるので、さう云ふもんなのだらう。
戻ると我々を待つてゐたのだらうか、何人かの人が部屋の前に居た。
アンがその人達と會話してゐたので、彼女に唯今と云ひつゝこの方々は何だと問うたら、どうやらうちにきた患者らしい。
なるほど腕がパックリ切れて出血してる者やら、熱でも出たかつらさうにしてゐる者やらがゐる。
アルと共に彼らの治療をしてゐたら、もう日は沈んでゐた。
夜空を見上げたら、面妖なことにお月樣が一つと、月の囘りに土星の輪のやうなのがある。
面白い月だなどと思つてゐたら、もう飯ださうだ。
さう云へば私は金を持つてゐないぞと思ひ、その旨をアルに傳へたところ彼が私の分まで食はしてくれるさうだ。
かなり働いて呉れて、凄く助かつてゐる、そもそも自分一人でやつていくのは無理であつた等と云はれたので、彼の耳元で有難うと云つておいた。
そもそも3人ほどは養へる給金は貰つてゐるので構はない等と云ふことを云つてゐたが、ろれつが囘つてゐないのか、カミ過ぎであつた。
本當に純眞で良い奴だ。
アルは食事を取つてくると云つて部屋を出て行つたので、アンと話さうと、さて何の話題を振らうかなどと考へる前に向ふから口を開いた。
「あの、わたしたちが搾取されている、と云うことについて教えてください」
と云つた。
見た目は十二、三歳ほどなのに隨分と難しい事を聞くものだ。
私が其れを理解したのは高校生の時分であると云ふのに。
だが、其れを教へて呉れと云ふのだ。
今朝も話をしたが、難しすぎて興味がないのだらうと思つてゐた私は、そんなことを口走つた事などさして記憶に無かつたのだが、若しかしたら彼女はこの國を顛覆させられる器なのかもしれないなと思つた。
なら誰が斷れようか。
この國は封建社會であり、國王の權力がそこそこ強く、領主、貴族(所謂魔術師)達は商賣熱心な、トンデモ社會である。
そんな社會に不滿や疑問を浮かべる者もゐるだらうが、今、目の前の赤髮三つ編み少女のアンジュルペナがさうだとは。
アンは妹のやうだ。なら理想の女子に育てたくなるのは當然。
私はアンに凡てを教へてあげようと思つたのは、言葉を交はしてから、ほんの一日しか掛からなかつた。
「搾取されてゐる。と云ふ話をする前に、勞働に就いて語らないといけないね。搾取に就いての話はまだまだずつと先だね。つまらないかも知れないが良いのかい。」
アンは強く肯ひた。
「えと、勞働の前に交換價値に就いて續きを話さなければならないか。今朝は何處まで話したか覺えてゐるか。」
「違ふ物なのに、價値が違ふ物と交換できるか、と云ふ所までですね。」
「さうだつたか。思ひ出したよ。」
「鐵、パン、小麥…さう云ふ商品は凡て使用價値と云へる。使用價値だからこそ、交換價値になる。」
例へば…と云ひ掛けたところでアルが食事を持つて戻つてきた。
アンは苛立ちの顏を見せたが、私はいい匂ひにつられて特段氣にしなかつた。
今日は芋を入れたスープであるやうだ。
味は香辛料が入つてゐないので述べるまでも無いが、食つてゐると云ふ感覺が嬉しいと思つた。
なぜなら、此處最近、まつたく食欲が無く、そして腹が減ることがなかつたのだ。
理由を考へたら當然で、私はカイゼル髭に「不老」にして呉れと云つたのだつた。
屹度それに關聯して、腹が空かないやうになつたのだらう。
飢ゑる事は無くなつたが、食の樂しみが無くなると云ふのは悲しいことだ。
だから、食事をする機會が得られるのは嬉しいことだと思つた。
食事をしながら、この國の情勢を教へてもらつた。
今いる街、「ナジュム」は「ブラゴーニエ帝國」の首都「ウェルカ」から南西に下つて、ブラゴーニエの東と西の丁度中央附近にある丘陵地帶からウェルカ方面へ東に流れてくるブラヴ川沿ひ900キロの地點にあるらしい。
この國の、東から西への總距離は8000キロにも及ぶさうだ。
ロシア邊りを想像すると理解できた 。
その他諸々、述べるまでもない事を話してゐたら、一同食ひ終はつた。
ところで風呂に入りたい。
老化しないので新陳代謝は無いと思はれるが、一日の終はりは風呂に入らなければ落ち着かないとは日本人の性質か。
昨夜は體を拭ひただけである。
それを話したら、大衆浴場、個人風呂は魔術師だけのもので、我々は入れないとの事だ。
小さいので良いから風呂に入りたいのだが、この樣子では無理なのか。暫し落ち込む。
仕方が無いので自分の部屋で體を拭ひて我慢することにする。
體を拭き、部屋を出たら、アンが話がしたいので彼女の部屋へ着てくれと云ふさうだ。
だが、アルがその前に私と話したいことがあると云ふので、どうしたものかと思つてゐたら、アンは後でいいとの事だつたので、謝辭を述べつつ、アルの部屋へ行つた。
アルの話は、例の白髮少女サウサンに就いてだつた。
何日後に手術を行ふかと云ふ話だつたので、ダスモニを收穫し、藥劑へ加工しなくてはならないので、其れができしだいと云ふことになつた。
手術に關しては、私にやつて欲しいとの事だつたが、アルの方が經驗が上で私は經驗がとても少ない等と云つて彼にやつてもらふことにした。
そもそも手術などやつたことが無いので、下手に私が切るより、經驗者に任せたはうが得策だらう。自分の腹は二囘斬つたが。
しかし、改めて、盲腸である自信が無いと云ふ事と、衞生が惡いので破傷風になる可能性が高いと云ふ旨を話したが、經驗からこのまま置いておいても死ぬであらうし、髭も承知だらうと云つてゐた。
何もせずに死なせるよりは、手を盡くしたいとの事ださうだ。醫者の鑑である。中世ヨーロッパももう少し斯う云ふ醫者が多ければあんな評價は受けなかつたのかもしれないなと思つてゐると、アンが部屋に來てくれとせがんだので、アルとはどうせ明日また一緒に仕事をするのだからと云ふことで、おやすみとだけ云つておいてアルに手を引つ張られるまゝ、彼女の部屋へ行つた。
部屋に入つたら、よい香りがした。
所々に花が飾つてある。
女の子らしい可愛い部屋だなどと見てゐたら、ベットの横の棚には「軍事要覽」やら「神學」やら「魔法圖鑑」やら「戰爭と金」やら「奴隸を用ゐた生産のすゝめ」等と云ふ題の本が置いてあり、なるほど彼女の熱意の程が伺へた。
豫想してゐた通り、晩飯前の話の續きをとせがまれた。
その前に、羊皮紙とペンを持つてきてもらひ、受け取ると同時に、何故そんなに知りたいのかと聞いたら、
私たちが出かけてゐる時の話と共に、兩親が死んだ事やらを泣きながら話すので、その邊からはなんと云つてゐるのか聞き取れなかつたが、
最後にアンは、魔術師と奴隸、富む者と貧しい者がゐる世界をひつくり返したいと云つた。
私は十分だと云つて抱きしめてやつて、今夜は月が綺麗だと云つて暫く月を一緒に眺めた。
小川の流れる音と蟲の鳴き聲を聞いてゐた。
ふと私の胸の中で顏を上げて私の目を見つめてきたので、少し恥づかしかつたが見つめ返してやつた。
――たとへば人間の勞働があらゆる富の源泉であり、資本家ーつまり云ふところの魔術師は、勞働力を買ひ入れて勞働者を働かせ、新たな價値の附加された商品を販賣することによつて利益をあげ、資本を吸收する。
資本家の際限の無い、競爭は生産を破綻させ、勞働者は生活が困窮する。
他人との團結の仕方を學び、組織的な行動ができるやうになると、やがて革命を起こして、貴族重商主義、奴隸經濟主義を顛覆させる。
――私がこの世界に来て成し得る事は唯一つ。
階級の打倒である。
貴族主義者も労働者も、階級という概念があるからいけないのである。
――一見するとこの世界は平和そのものである。
搾取され貧しい人々もゐるが何とかやつてゐる。
私が共産主義の思想の石ころを投げ込んだらどうなるか。
私が前衞黨の旗手となつたらどうなるか。
人々を啓蒙し煽動したらどうなるか。
だが、しかし、大義の爲ならばそんな物は知らぬ。
マルクスの云ふ所の共産主義による革命ではない。
だがこの世界においてはそんなことなど氣にしてはゐられぬ。
私が割腹し、この世界に導かれた理由。
前世においては共産主義の實驗は失敗に終はつた。
だが、この世界では如何だらうか。
人類社會の最終的な理想は共産主義社會であると確信してゐる。
もはや私に祖國なく、想ひ人に會ふ事など叶はぬ夢。
――革命を成功に導くには、己が命を惜しんでゐては成功などせず。
ブルジョアジーの劍に斬られようとも絞首臺へ行かうとも、腹を斬らうとも大義の爲なら悔いは無し。
だが唯一つ、鬪爭に卷き込みたくないのがアンジュルペナである。
何やら彼女は私の心の中で大切な人になつてゐるやうだ。
出會つて一日。
それほど親睦を深めたはけではない。
だが前世の因縁かわからぬが彼女は卷き込んではいけないやうな氣がする。