第三話 であひ
幼少時から咳が出ると長期にわたって止まらなくなるので、何度か死に掛けた。
咳が出ると呼吸ができなくなって窒息しそうになる。
咳が止まらなくなるたびに背中を押してもらいつつ手を引っ張ってもらって胸を張ると幾分か楽になるので、咳が出るたびにそれを繰り返していた。
しかし、月日がたつごとに酷くなる一方で、周りには成人まで生きられそうにないと思われている。
何とか治療をと、くそったれの魔術師共に両親が何度も懇願したが叶わなかった。
おかげで虚弱体質扱いで女として生まれたが体で働くこともできないので労働は免除されたがその分を部屋族に負担をさせてしまった。
その所為か両親は3年前に死んだ。
兄は魔法以外の治療方法を、少ない書物から学び、居住区でも片手で数えるくらいしか居ない、「異端の医者」と認められ重労働の義務は免除されたが居住区内の健康管理を一手に引き受けることになった。
元々、魔術師たちは奴隷など使えなくなったら補充すればよいという考えでいたが、ある時期異常な数の奴隷が死んだのでお上の命令で一定の治療をするということになった。
しかし奴隷の治療などしようと思う者など居ないので――中には物好きもいたが――奴隷達が自ら古代の「魔法を使わない治療」を行うようになっていた。
兄は私の病を治そうと様々な手を尽くしてくれたが、未だ直っていない。
毎日寝たきりで、外から聞こえてくる鉄を打つ音や坑道が爆発して崩落する音、見栄えのいい女の子が奉公だといって魔術師に連れて行かれるときの声を聞くのが唯一の楽しみだ。
我ながら随分と曲がった性格になったものだ。
ある日、何時もよりも調子がよく、農業区にあるアランカザンダッカの花畑に遊びに行った。
調子がいいとよくここに来る。アランカザンダッカは大抵奴隷が住む場所に多く生えているので奴らからは奴隷の花と呼ばれているが、私は好きだ。
花と花の間を通りながら花畑の中心まで散歩する。お決まりの散歩コースだ。
しかしいつもとは違う風景が視界に入った。
人が倒れているのを見た。
思わず自らの体のことを忘れて駆けて行く。どうやら大怪我をした女の子のようだ。
大方、強姦された後に殺されたのだろう。よくあることだ、ほかって置こうと思ったのだが、私を探しにきた兄が――大抵抜け出したときはここに居ると知られている――この子を見つけてしまった。
ほかっておけばよいものを、世話好きな兄は部屋へ運ぶと言い出した。
私が、
「でも死んでいるんでしょう?」
と言ったが、気を失っているだけでまだ生きている、担架と人を呼ぶからここで待てと言って駆けていった。
しかし同じ奴隷同士でも強姦して殺すなんて良くあることなのにそんなことに一々構っていては手が回らないだろう。
そもそもまだ近くに犯人が居るかもしれないのに私を置いて行くとは、私が襲われるとは考えないのだろうか。
兄は優しいが、焦ると思考が浅くなるのは玉に瑕だ。
ふと斃れている女の子を見る。すごくきれい。綺麗な黒髪をしている。私よりも年上だろうか。しかし身長が低い。センチであらわすと150センチもないのではないだろうか。そう見るとそれほど年は離れていないのかもしれない。
なんだか周りに咲くアランカザンダッカと相まってすごく絵になる。
ふと、このまま倒れていてくれた方が美しいと思った。
視界に色が燈つて最初に見へたのは木造部屋屋の天井だつた。左側から外の光が入つてきてゐる。
觸覺が戻つてきて感じたのは、柔らかい、布團の中にゐる感覺だつた。
嗅覺が戻つてきて最初に嗅ゐだのはドクダミに似た草の匂ひだつた。
聽覺が戻つてきて、活氣のある大勢の人の聲が遠くの方から聞こへる。
こゝは一體どこだらうと體を起こしてみると、部屋は大分狹い、簡素な木製のベットの上に寢てゐるやうだ。きしむ音が聞こへる。
ふと横を望むと三つ編みの赤髮の少女が坐つてをり、私と目が合つた。
「や……やあ」
と聲をかけたら向ふへ驅けて行つてしまつた。
何かまづかつただらうか。どうやらこゝは日本では無ゐやうであるし、言葉が違つたか。
然し赤髮とは面妖な色だ。染めてゐるのか。
唯、革命的な色ではある。
「うぐっ」
腹部に痛みが走る。
そふゐえば割腹したんだつたか。
しかし転生と云ふ形で黄泉の国から戻つてきたと云ふ訳では無いやうだ。
其れにしても腹部くらい治してからこの世に送ってほしかった。
治療の後がある。包帯が巻いてあつたが赤く滲んでゐる。体を起こしたのはまづかつたか。
ふと自分の體に違和感を感じた。腹部が痛いのとは別に、股間に何ぞ足らない。
まさかと思ひ、傍らに於てあつた水の入つた桶の樣なものの水面に自らの面を映してみた。
おゝ、要望どほりだ。
綺麗な緑髮を肩で切りそろへたあの娘と同じだ。
ふと自らの胸を弄る。柔らかく、氣持ちが良い。
そんなことをしてゐたら益々腹部が痛くなつてきた。繃帶が更に滲んでゐる。
此れはまづい。
其のまゝ體の力が拔け、倒れてしまつた。
視界が霞む。
妹は昔から体が弱い。
体力が無いと言うわけでは無く、呼吸に難があるようだ。
咳が出始めたら直ぐに胸をはらせて少しでも息を吸うのを楽にしてやらないといけない。
埃っぽい周りの環境の所為もあって、よくつらそうな顔をしている。
妹を何とか治してやりたくて、何度も魔術師に懇願したが跳ね除けられてしまった。
居住区の医者にも相談したが彼を以ってしても治療法はわからないと言う。
そもそも彼らの治療と言うのは外傷に対してが主であるので、妹の様なのは打つ手がないと言われた。
しかし、彼によるとそもそも外傷に対する治療法にしても、古代の書物から得られる情報が主らしい。
古代の書物は我々奴隷が労働させられる鉱山で採掘作業中に出土したりする。
基本的には魔術師らに持っていかれるが、彼らからしてみれば魔法についてなど書かれていないらしく一度目を通したら必要ないらしい。
彼らがそれを欲するのはいわば知的好奇心を満たすためと言うのと、骨董的価値から欲する。
結構世に出回っているので、話のわかる監視員に調達してもらった幾つかの古い書物に様々な治療法が書かれていた。
自分は読み書きを覚え、その本を読み解きつつ、医者に教えを請い、勉強に励んだ。
おかげで今は労働者達の治療健康係の一人として魔術師に認められたので、妹共々肉体労働は免除されている。
しかし、とてつもなく忙しい。
医者は自分を含め5人しか居なく、正確な統計は出てないが、この都市ナジュムには約七万四千六百人の奴隷が収容されている。
坑道ではよく爆発事故が起こったりするがそれをたった5人でさばかなくては成らない。
おかげで妹を治療するという本懐を遂げられていない。そもそも治療法は未だわからないのだが……
妹は体調のいい日はよく部屋を抜け出して農業区にアランカザンダッカが多く群生する場所があり、そこに散歩に出かける。
心配でしょうがない。
もし出かけた先で咳が出始めたらどうするのか。又、いやな話だが襲われると言う可能性もある。唯でさえ妹の散歩ルートは人気が少ないのだ。
閉じ込めてばかりも良くないとは思うが、唯一の家族なのだ。心配をしてしまうのは仕方が無いだろう。
ある日患者をさばくのもひと段落を見て、妹の様子を見にいったら、どうやら例の散歩に出かけたようだった。
場所はわかっているので迎えに行くことにした。
アランカザンダッカの花畑の中央付近に妹の姿を見た。
近寄ると、どうやら倒れている人を見つけたらしい。
一目見たら雷に打たれた。
なんてかわいい、いや可憐なのだろうか。
奴隷身分にしては綺麗な白い肌と、何より綺麗な黒髪だ。
自分達奴隷は基本的に赤髪か白髪。貴族、魔術師は金髪が多い。稀に青髪やらが生まれてくるようだが、黒髪は稀の稀である。
黒髪は奴隷身分にしか生まれない。そして希少価値が高いので基本的に直ぐ魔術師らに取り上げられ、恐ろしいことをされるのが常なのだが、このような場所で出会うとは。
今まで黒髪がここらに居るなんて聴いたことが無かった。
やはり奴隷同士で生んで隠して育ててこられたのだろうか。
しかし、これはこんな世でも神は居ると言うことか、運命の出会いとやらが許されているのなら今この瞬間がそうだろうと思った。
普段ならこの様に重症と見える素性もわからぬ者は手が足りないので放って置くが、この子は別だ。
この子を助ければ自分は命の恩人なわけで、自然と彼女とお近づきになれよう。
手当てをすれば暫くは安静にしている必要があるわけで、うちに泊めておく口実もできよう。
また何か事情があり行く先もないのなら自分の助手としておけば労働も免除されるので恩も売れよう。
打算が働くのは仕方が無いが、兎に角この子を助けねばと思った。
担架と人を呼ぶため、妹に様子をみて待っててもらうよう言って駆ける。
よく考えたら妹一人を残すのは危険かもしれないが、幸い農業区の労働者が近くに居る。
持ち場を離れているのを巡回している監視員に見られれば罰が与えられるが、医者と一緒ならそれも免除される。
奴隷の治療をしたくない魔術師にとって自分の様な医者は便利であるから、治療行為の為と言えば何人か連れて行っても認められる。
自分の部屋まで運び、治療を施した。
腹部が綺麗に斬られている。危うく臓器が出てくる一歩手前だった。
唯、とても綺麗に切れていたので、消毒と縫合をして安静にしていればくっつくだろう。
ひとつ気になるのが彼女が着ていた服と持っていた剣である。
見たことのない素材、形の服だったし、剣の形状も見たことが無い。
そもそも剣など武器を持っているなんてどういうことだろう。
とり合えず一緒に持ってきておいたが……まぁ意識を戻したら聞いてみるかと思案していたら、また坑道で爆発があったようだ。そちらに行く必要がありそうだ。
妹も部屋で寝ているし、心配は要らないだろう。
再び氣がついたら邊りは暗く、もう夜に成つてゐるのだらうか。
周りは靜寂に包まれ鳥の鳴き聲と、時折部屋の外かどこから聲がするだけだ。深夜に成つても車の走る音が絶えなかつた日本とは大違ひだ。
靜かに、心地よい靜けさ。ランプのオレンジ色の光がうつすらと部屋を照らす許り。此のランプはアルコールランプか何かだらうか。電球ではないやうだ。
起き上がり、邊りを見渡す。
視線の低さに驚いた。
前世の身長は大體170cm位はあつたが、此の身體は150cm、いや其れ以下かもしれない。
首の邊りが髮の所爲か暖かい。然し不快では無く、寧ろ心地よい。
試しに其の場で右足を軸に一廻轉。今度は反對周り。
前世とは違ふ高さの視線。
奇妙な感覺に捉われつつも、髮を手ぐしで整へる。
腹に卷いてある繃帶以外何も着てをらず自分が裸である事に氣がついた。
流石に裸で歩き囘るのは良くないだらう。傍らにあつた白裝束を着て部屋を出た。
部屋を出ると狹い廊下の樣な空間があつた。
廊下の先には少し廣い空間があるやうで、其処には隨分とゆがんだ木製の卓子の上に食事がおいてあるのが見える。
ふむ、さう云へばよい匂ひがする。
すると件の赤髮少女が向かひの部屋から出てきた。
さう云へば前囘目を覺ましたときには彼女が傍らにゐたな。
私は屹度此の子が世話をして呉てゐたのだらうと思ひ、禮を述べようとした。
赤髮の少女は私が口を開くよりも先に
「あの、もう動けるんですか?」
と云つた。
私の身體のことを云つてゐるのか。
私の腹の治療を施して呉れたのも彼女だらうか。
「えゝ、お陰樣で。私の治療をして呉れたのは君か。」
「いえ……私ではありません。」
改めて見ると若いな。
年は十二、三歳邊りだらう。
治療をして呉れたのは別の者か。とは云へ、面倒見て呉れたのは彼女だらう。
何はともあれ有難う、と禮を述べた。
すると此方に向かつてくる人影が在る。
またしても赤髮である。
實に革命的な色だが少し目に痛い。
松の木肌のやうな色の服、ローブの樣なものを着た青年がやつてきた。
然し目立たないが、其の茶色い姿の所々に赤黒い血の痕がある。
「あ、兄さん」
兄さん、すると彼女の兄か。
「あれ、貴女は……まだ動かないほうがいいと思いますよ。綺麗に切れていたので直りは良いとは言え、お腹をばっさり大きく切られてましたからね。肩を貸すので部屋に戻りましょう。安静にしていてください。」
兄妹共に身體の心配をして呉れる。
「いや、もう大丈夫です。其れよりも君が治療して呉れたのか。」
「ええ、そうですよ。妹が倒れている貴女を見つけてね。急いで治療所に運んだんです。」
「すると君は醫者か。迷惑を御掛けしたやうで。」
「いえいえ、しかし本当に安静にしていたほうがよいですよ。」
だが實際に活動に支障は無い所まで恢復してゐる。此の場所が如何いう場所なのかも不明である故、布團の上で暇を貪るのは私の性分からして心持の良い事ではない。
「己の體の事なので云へるが、まあ大丈夫でせう。其れにしても少しお腹が空ゐてね。何か食べないと落ち着か無ゐので食べ物を探しに行かうかと。」
「さいですか。では立ち話もなんですし、私の部屋へ行きましょう。粥なら食べれるでしょう。」
と云つて彼の部屋で食べると云ふことに成つた。
彼と赤髮兄妹が食事を取りにいくと言ふことで、私は部屋で先に待つてゐるやうにと云はれた。
部屋を見てみると、藥草と思しき者や、鋸、縫合用の針、絲などがおいてあつた。
なるほど、醫者の部屋らしい。
机の上には幾つかの本が置いてあつた。先ほどまで讀んでゐたと思しき本をふと手にとつて讀んでみる。
アラビア語に似てゐるが見た事のない文字だ。ふむ、然し自然と讀める。此れはカイゼル髭のおかげか。
題は「外傷に於る燒灼止血法の有效性」と云ふものだ。
中を開くと四肢切斷などの重傷の場合に有效な止血法として云々。特別な技術・器具・藥品を用ゐずに行へるので危急の際でも云々。
と云ふ近代以前の内容が書かれてゐた。
大丈夫か此處は。
いつの治療法の本を讀んでゐるのだらうか。
彼の趣味だらうか。
然し私には燒ゴテで止血はして貰ひ度くは無いな。
ふと机を見るとメモがおいてあつた。
妹の治療案
・カンゾウ、タイソウ、バクモンドを調合した藥を試す。
物は農業區にて確認濟み、明日採取
などと走り書きがあつた。
ふむ、甘草、大棗、麥門冬(バクモンド=バクモンドウ)のことだらうか。漢方藥でも作る積りか。
麥門冬湯と言ふ漢方藥があつたはずだ。
咳に效くと言ふ代物の筈だが、妹さんは風邪か何かか?
と考察してゐたら彼らが戻つてきた。
「そこのテーブルへどうぞ。」
見ると廊下の先にみえた大層歪んだ卓子よりも幾分マシな卓子があつた。
椅子にかけると――軋む音が聞こえてくるが――粥を差し出された。
然し此の粥の中身、米ではないやうだ。ぐぬ、米が食ひ度かつたがさう贅澤も言へまい。
彼らも粥のやうだ。
「では、頂きましょうか。」
と青年が云つて食べ始める。
木で作つたスプーンで食す。
うむ、不味くない。然し美味くも無い。なんとも云へぬ味。だが腹は膨れるので今は文句はない。
「それにしても妹がアランカザンダッカの花畑の中で倒れている貴女を見つけて、ここに運んでから四日間も意識が無かったんですよ。一体何があったんです?」
醫者の青年が質問した。
どうしたものか。私は此の場所のことを良く知らない。抑も兄妹そろつて赤髮がゐるやうな場所だ。其れでゐて片方は醫者だと云ふ。下手に囘答は出來ない。
此處は日本か等とも問へない。此處の常識がわからない以上、下手に喋るのはまづい。
旅の者で行き倒れた。
や
旅をしてゐたら何者かに襲はれたのだ。
等とも云へない。
旅が非常識な行動であつたらどうするのか。
抑も此處は現代なのか。
どうも此の建物に現代科學の匂ひを感じない。
石造りの壁に木の天井。棚等を見ても規格があつたりするわけでもなささうだ。
彼らの着る服は北歐邊りの民族衣裝の香りがする。
では邊疆の村かどこかに飛ばされたのか。
だが、何かが違ふ。
如何答へたものか。
答へやうによつては不信感を與へかねない。
頭をうんうんひねつてゐたら、
「……何か訳が……あるのでしょうか」
と赤髪少女が云ふ。
ふむ、其れもありかもしれない。
「よろしければ、聞かないでもらへないか。」
「そうですか……何か理由がおありなのでしょう。何、こんな世です。逃れなくてはならん時もありましょう。」
案外うまく事は運んでゆくものだ。
屹度彼らもさう云ふことが在るのかも知れない。
「恐らく寝泊りする所も無いのではないでしょうか?よければ患者用の部屋を一つ貸すので、使ってもらってもかまいませんよ。」
「なんとかたじけない。有難う。」
此處までされると、せめて名前くらゐは名乘らねばなるまい。
ナナシで通るわけにはいくまい。
どうしたものか……此處は現代日本ではないやうだ。此處で日本の名前を言ふのも違和感があるだらう。
此處は先に彼らの名前を聞いてみるか。彼らの名前にあはせて此方も適當な名前を言はう。
「ところで二人の名前は……」
「あゝ、そういえばまだ名乗っていませんでしたね。自分はアルヘルワです。」
「私は……アンジュルペナです。」
青年はともかく、少女は可憐な名前だ。
ふむ、矢張り此處で日本式は違和感があるだらう。
どうする。なんて名乘らうか。
目の前の彼らは日本人ではなささうだ。然し、骨骼やら肉のつき方やらが確實に違ふとも云へない。
日本人のやうで日本人ではないやうな。
おそらく同じアジア系の人が見たら彼らを日本人だと思ふだらう。
然し私にはさうは見えない。
半島か大陸か。いやどうも其れらしい血の香りはしない。
彼らの名前はど此の國とも言へない。
強ひて言ふならアラビア語に近い。
私が日本人だからと云つて日本式の名前を名乘れば違和感があるわけだ。
一つ案が浮かんだ。
適當な歴史上の人物の名前から借りてこよう。
若しも此處が現代なら、何かしらの反応が見れる筈だ。
特に何も無ければ、此處は少なくとも現代ではない、と言ふことがわかる。
では誰から貰はうか。其れほど詳しいものではなくとも皆が知つてゐる人物……。
獨逸第三帝國總統から戴かう。
彼ならば知らぬ人は少ないだらう。
然し其のまま其の名前を云つては問題があるな。
若しも此處が現代で彼らがユダヤだつたりしたら?獨逸の辺境だつたら?若しくは過去でソ連の僻地であつたら?
また、明らかに其のまゝ使つては問題が起こりさうだ。
少しもぢつて「ヒットレル」と名乘つた。
性根の腐つたファシストの豚め!と云ふ極端な共産趣味思考はないので、此れは問題ない。
響きでわかるだらうから何か反応があるだらう。
そしてもしも其れで問題があつても、發音やらつゞりが違ふ、などと云へばごまかせるだらう。
然し、特に此れと云つた反応は無い。
視線や筋肉などを見ても、變化は無い。
ヒットレルさんですか、華麗な名前ですね。などと青年に言はれる始末。
うむ、此處が現代ではないと假定しても良いかもわからない。
然し、其れだけで判斷するのは腦がない。
「さう云へば、今は西暦何年か?」
「西暦?紋章歴の間違いでは。いまは紋章歴1901年ですよ。」
紋章歴?聞いた事の無い名前だ。
まさかとは思ふが此處は前世にゐた世界ではないのか。
若しも彼らの頭がイカレてゐるか、おちよくつてゐるのかでなければ、
所謂、異世界にゐると云ふことか。
異世界に飛ばされる類の小説はいくつか讀んだことがある。
有名どころならガリバー旅行記だらう、
然しまさか來世は異世界で過ごすことに成るとは。
ならば早急に此の世界の常識を知らねば。
では先ほど讀んだ「外傷に於る燒灼止血法の有效性」と云ふ本は現行の彼らの醫療技術か。
若しも此處が中世の暗黒時代のやうなところなら、智識を得ねばやすやすと屍をさらすことに成る
此處は芝居を打つか
「あいすいません、私は長い間、兩親に隱されて育てられたのです。私が倒れてゐたのも其れに關係があります。」
「そうでしたか、いや黒髪など珍しいので、屹度親御さんはあなたが連れて行かれるのを恐れていたのでしょう。」
「なので私には常識が少し足りません。よろしければ暫く此處にお世話に成り度いのです。勿論、タダ飯を食べるわけではありません。貴方は醫者とみえます。少しくらゐなら私にも醫療に關して嗜みがあります。助手としてお手傳ひをさせてください。」
此れでよいだらう。若しも此處が中世歐羅巴なみの醫療技術なら私の本で得た附け燒刄智識でも十分役立つ筈だ。
其れに此の天井は低いが大きな建物。其の建物を兄と妹で二部屋、私の寢てゐた部屋で三部屋、そして私に其処を使つても良いと云ふのならもう一つくらゐは部屋はあるはず。
最低でも四部屋。此の世界で醫者であると言ふのは中々有利に働くことなのだらう。
其の醫者の助手と成れれば何かしらのトラブルがあつても少しくらゐの後ろ盾と成るだらう。
「なんと、貴女は魔法を使わない治療ができるのですか。まぁ奴隷区にいるのだから魔法は使えないでしょうが、それでも最低でも読み書きはできると見える。わかった。実は自分も手が足りなかったところです。貴女の事情は聞かないから、此処にいてください。」
「自分達のことは家族だと思って接してください。そうですね、自分事は『アル』とでよんでください。」
なんと快諾して呉れた。斷られたらどうしようかと思つてゐた。
然し、此處でまた一つ新たな情報が得られた。
「魔法」と「奴隸区」と云ふ單語が出てきた。
話からすると此處は奴隸区であると云ふことか。奴隸区と云ふからには恐らく我々は奴隸の身分にゐると云ふことか。
然し我々がよく想像する樣な奴隸ではないやうだ。
かなりの自由が認められてゐると見える。でなければ何故こんな個室が與へられるのか。
おそらく羅馬帝國のやうな奴隸、若しくは此の二人は奴隸区の診療を担當してゐる奴隸ではない人、と言ふことだらう。
そして「魔法」についてだ。
魔法と云ふ單語か平然と出てきたからには恐らく魔法なるものがまかり通る世界なのか?
奴隸區にゐるのだから魔法は使へないでせうが、と云ふことは奴隸ではない者は魔法が使へるのか?
それもどのやうな魔法なのか。
此の際魔法の存在を疑ふのは止めておき、魔法が平然と使はれる世界と考へたはうが良いだらうが、魔法にも色々あるだらう。
唯單に雷やら炎やらを起こせるのか、其れとも人の心を操つたり、死者を甦み還えらせる事が出來る魔法なのか。
不安要素は多いが取り敢へず此の世界で生きる糧を得られた事には感謝だ。
青年、もといアルは家族だと思つて接してください。とも云つた。打算なくして云つた言葉ではないだらうが、今は其れに乘つからう。
ふと、赤髮少女のアンジュルペナと目が合ふ。微笑んでやつたら恥づかしさうにしてゐた。