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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

魔法の配信者シークレット・ステラ——地味な私が魔法のアプリで変身してカリスマ配信者になったお話

作者: Blue Storm

※一部過激な行為を想起する描写があるのでご注意ください

 星空ひまりの世界は、常にくすんだセピア色だった。


 教室という名の小さな水槽。その中でひまりは、水草の陰に隠れる小魚のように息を潜めて生きている。窓から差し込む太陽の光は、決して自分を照らすためにあるのではない――十八年の間に、とっくに学んでいた。光が当たる場所は、いつだって決まっている。


「――あ、見て、ミズキのネイル新しいやつ? 超かわいいんだけど!」

「でしょ? 昨日変えたんだー。このストーン、すごくない?」


 教室の真ん中。そこはひまりにとって、遠い外国のステージと同じだ。天宮美月は、そのステージの主役。艶やかな黒髪を片耳にかけ、太陽の光を反射してきらめく指先を友人たちに見せている。彼女の周りには、いつも楽しげな笑い声と甘い香りが渦巻いていた。ひまりの席は窓際のいちばん後ろ。その喧騒を、一枚の透明なガラス越しに眺めている気分になる。


 誰も、ひまりのことなど見ていない。話しかけてくる人もいない。たまに先生が「星空さん」と指名したときだけ、クラスメイトの視線が数秒間だけ自分に集まる。その時間が、ひまりには針のむしろに座らされているかのように苦痛だった。心臓が嫌な音を立てて脈打ち、喉がカラカラに乾いて、用意された答えさえかすれ声でしか出てこない。そして役目が終わり、自分から興味が離れていく瞬間、ひまりはいつも安堵と、ほんの少しの寂しさを覚えるのだった。


 休み時間になれば、ひまりはそっとスマートフォンを取り出す。クラスメイトとのメッセージアプリの通知は、学級連絡の事務的なもの以外はほとんど動かない。彼女が開くのは、いつも動画配信アプリ【KiraraLive】だ。


 指が吸い寄せられるようにタップするのは、トップインフルエンサーの一人【Luna】のチャンネル。画面の中に広がるのは、ひまりの現実とは何もかもが正反対の世界だ。完璧に作り込まれたパステルカラーのかわいい部屋。ふわりとしたドレスを身にまとい、銀色の髪を揺らすLunaは、まるでおとぎ話から抜け出してきたお姫様のよう。


『みんな、やっほー! 今日もLunaの配信に来てくれてありがとねっ!』


 イヤホンから聞こえてくる、甘く、それでいて芯のある声。計算され尽くした上目遣い。コメント欄は、彼女の一挙手一投足に熱狂するファンの言葉で滝のように流れていく。


:Luna様、今日も天使!

:今日の服、世界一似合ってる!

:声聞くだけで浄化される……

:愛してる! 結婚してくれ!


 無数の【いいね】がハートの形になって画面を舞い、高額なギフトが贈られるたびに、派手なエフェクトがLunaを祝福する。彼女はそれに、とろけるような笑顔で応える。


『わー、リスナーさん、いつもありがとう! 大好きだよっ!』


 そのひと言で、コメント欄の熱狂はさらに加速した。


 ひまりは、その光景を食い入るように見つめていた。すごいな、と思う。どうしたら、あんなふうになれるのだろう。見ず知らずのたくさんの人から、こんなにも強い好意を向けられるのは、一体どんな気持ちがするのだろうか。自分に向けられるすべての言葉が賞賛と愛情で満たされている世界――それは、ひまりの知るセピア色の世界とは、光の強さが違いすぎた。


――私も、あんなふうに、誰かに注目される存在になれたら。


 それは祈りにも似た、切実な願望だった。


 しかし、現実は非情だ。昼休みになれば、ひまりは誰からも誘われることなく、教室の隅で一人、母親が作ってくれた弁当を広げる。食べながらも、視線は楽しそうにグループでおしゃべりしている女子たちに向いていた。流行りのコスメの話、週末のデートの計画、好きなアイドルのゴシップ。ひまりには到底入っていけない、きらきらした話題ばかりだ。


 自分の趣味は、小さなアクセサリーを作ること。ビーズやレジンを使って、星や月のモチーフのピアスやネックレスをこっそり作っているときだけが、自分を肯定できる時間だった。けれど、それを誰かに見せる勇気はない。「地味な星空さんには似合わないね」と、心のどこかで聞こえる幻聴が、彼女の小さな自尊心をいとも簡単に砕いてしまう気がするからだ。完成したアクセサリーは、誰の目に触れることもなく、机の引き出しの奥で静かに眠っている。


 放課後のチャイムが鳴ると、ひまりは誰よりも早く教室を出る。寄り道をする友達も、一緒に帰る恋人もいない。まっすぐ家へと向かう通い慣れた道が、ひまりには世界の果てまで続く灰色の一本道のように思えた。


 その日も、同じだった。夕焼けが空を茜色に染め、電信柱の影が長く伸びる。道端に咲く小さな花、どこかの家から聞こえるピアノの音、鼻をくすぐる夕飯の香り。世界はこんなにも色彩と音と匂いで満ちているのに、自分だけがモノクロの存在みたいだ。


 ふと、スマートフォンの画面に映った自分の顔を見る。栗色のくせっ毛、少し野暮ったいデザインの眼鏡、自信なさげに伏せられた瞳。好きになれる要素が、どこにも見つからなかった。天宮さんのように太陽の下で輝くこともできない。Lunaのように、画面の向こうで誰かを熱狂させることもできない。私は、星空ひまり。十八歳。どこにでもいる、ただの地味な学生。明日も、明後日も、きっと一年後も、何も変わらない。


「……嫌だなあ」


 ぽつりと、誰に聞かせるともない本音が、アスファルトの上に落ちて消えた。


 そのときだった。茜色の空を、一筋の光がすうっと切り裂いていくのが見えた。流れ星。


 ひまりは思わず立ち止まっていた。心臓が、とくん、と小さく跳ねる。子どもの頃に絵本で読んだおまじないが頭をよぎる。流れ星が消える前に三回願い事を唱えると、願いが叶う。ばかばかしい、非科学的な迷信だ。そんなことで人生が変わるなら、誰も苦労しない。


 頭では、そうわかっていた。わかっていたのに。気づけばひまりは、スマートフォンを握りしめ、目を固くつぶり、胸の中で叫んでいた。


 一度じゃない。二度でもない。心の底から、魂を絞り出すように、何度も、何度も。


――今の自分じゃない、誰かになりたい!

――地味で、空っぽで、誰からも必要とされない私じゃない、特別な誰かに!

――お願い! 私を、ここじゃないどこかへ連れていって!


 どれくらいの間、そうしていただろうか。我に返って恐る恐る目を開けると、流れ星はとっくに消え去り、空には静かな夕闇が広がり始めていた。


「……はは。私、何やってるんだろ」


 自嘲の笑みが漏れる。あまりのばかばかしさに、涙が出そうだった。とぼとぼと、再び家に足を向けようとした、そのとき。


 ブブッ、と手の中のスマートフォンが短く震えた。メッセージか何かだろうか。そう思って画面に視線を落としたひまりは、自分の目を疑う。


 ホーム画面。見慣れたアプリのアイコンが並ぶその片隅に、今まで見たこともないひとつのアプリが追加されていたのだ。


 黒を基調にしたミステリアスなアイコン。中央には、星と猫を組み合わせたような幻想的なシンボル。そして、その下にはこう記されている。


【Metamorphose】


 インストールした覚えは、まったくない。ウイルスだろうか。不気味さに背筋がぞくりとする。だがそれと同時に、ひまりの心の奥底で、無視できないほど強い好奇心が芽生えていた。流れ星に願った直後の出来事。まるで、自分の祈りに応えるかのように現れた謎のアプリ。


 これは、偶然? それとも――。


 ひまりは、ごくりと唾を飲み込んだ。指先が微かに震えている。その震える指で、彼女は吸い寄せられるように、未知のアイコンにそっと触れた。


 セピア色の世界に、小さな亀裂が入ったような気がした。


☆☆☆


 帰宅して自分の部屋、勉強机の椅子に座ったまま、星空ひまりはスマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。心臓が耳元で鳴っているのではないかと思うほどうるさい。指先は氷のように冷たいのに、手のひらにはじっとりと汗がにじんでいた。


【Metamorphose】


 夕暮れの道端で、まるで天啓のように現れた謎のアプリ。その黒と紫がかった幻想的なアイコンは、ひまりの臆病な心を惹きつけてやまない。これはきっと、たちの悪いウイルスだ。タップすれば個人情報を抜き取られたり、スマートフォンが壊れたりするのかもしれない。危険だと、理性が警鐘を鳴らしている。


 だが、理性の声は心の奥底から湧き上がる渇望にかき消されそうだった。――特別な誰かになりたい。流れ星に叫んだ、魂からの願い。このアプリは、その答えなのではないか。もし、万が一、ほんの万が一でも、このアイコンの先に自分の知らない世界が広がっているとしたら?


「……えい」


 蚊の鳴くような声を出し、ひまりは震える指先でアイコンをタップした。瞬間、画面が真っ暗になる。心臓が跳ね上がった。やはりウイルスだったのか、と後悔が全身を駆け巡った直後、漆黒の画面に一本の細い光が走り、星屑のようにきらめく蝶がふわりと姿を現した。


『――Welcome to Metamorphose.』


 凛とした、性別を感じさせない合成音声がスピーカーから流れ、ひまりは息を呑む。画面には、利用規約らしきものが高速でスクロールしていく。あまりの速さに目で追うことなどできない。ただ、その文面の最後に、ひときわ大きく表示された一文だけが、妙に目に焼き付いた。


『――すべての責任は、ユーザー自身が負うものとする』


 そして『同意しますか?』という問いかけの下に、YESとNOのボタンが浮かび上がる。ひまりは、ごくりと喉を鳴らした。もう、後戻りはできない。何かに導かれるように、彼女は『YES』のボタンを押した。


 すると、画面の中央に黒猫のシルエットが、ぽん、と現れた。デフォルメされた可愛らしいデザインだが、その目は三日月のように鋭く、どこかこちらを見透かしているかのようだ。


『……ちっ。ずいぶん地味なのがアクセスしてきたな』

「えっ!?」


 突然聞こえてきた、少し生意気そうな少年の声に、ひまりは素っ頓狂な声を上げた。スマートフォンのスピーカーから聞こえてくる。画面の中の黒猫が、つまらなそうにしっぽを揺らした。


『なんだよ、聞こえてるぞ。つーか、それが最初のリアクションか? もっとこう、キャーとか、すごーい! とかないのかよ』

「しゃ、しゃべった……猫が……」

『猫じゃねえ。メタモルコンシェルジュのノヴァ様だ。お前みたいな初心者を導いてやるありがたい存在なんだから、ちゃんと敬えよな』


 ノヴァと名乗る猫というAIキャラかなにかが、ふん、と鼻を鳴らす。ひまりは混乱する頭で、必死に状況を理解しようとした。これは、ゲームかなにかなのだろうか。だとしたら、作り込みが精巧すぎる。


『さて、チュートリアルといくか。このアプリ【Metamorphose】は、お前が心の底で願った”なりたい自分”に変身させてやる魔法のアプリだ。説明は以上。さっさと起動してみろ』

「え、えっ!? い、今ここで!? 心の準備とか……」

『うっせえな。そんなもんは変身してからしろ。いいか、やり方は簡単だ。そこのカメラを起動して、自分の全身を映せ。話はそれからだ』


 ノヴァは有無を言わせぬ口調でそう言うと、画面の隅に引っ込んだ。ひまりの目の前には、カメラの起動ボタンだけが残されている。


 もう、どうにでもなれ。


 半ばやけっぱちになったひまりは椅子から立ち上がると、部屋の隅にある姿見の前に立った。深呼吸を一つ。そしてスマートフォンのカメラを起動し、インカメラで自分の全身を映した。


 画面に映るのは、いつも通りの地味で冴えない星空ひまり。


「こ、これで……いいの?」


 ひまりが呟いた、その瞬間だった。


『――Metamorphose. Execution.』


 無機質な音声とともに、スマートフォンの画面が閃光を放った。


「きゃっ!」


 あまりのまぶしさに、ひまりは固く目をつぶる。光は奔流となって彼女の体を包み込んだ。それは、熱くも冷たくもない、不思議な感覚。まるで自分の体が一度、光の粒子にまで分解され、設計図から再構築されていくような、途方もない浮遊感。細胞の一つ一つが未知の情報で上書きされていく。骨格が、筋肉が、肌が、髪が――悲鳴を上げるようにきしみ、そして歓喜するように生まれ変わっていく。


 どれくらいの時間が経ったのか。やがて、嵐のような光が収まった。恐る恐る、ひまりはまぶたを押し上げる。そして、鏡に映った自分の姿を見て、言葉を失った。


「……え……?」


 そこに立っていたのは、”星空ひまり”ではなかった。鏡の中の女性は、ひまりが知っている自分とは何もかもが違っていた。


 身長は十センチ以上伸び、すらりとした手足が美しい曲線を描く。部屋着のスウェットは、どこから現れたのか、星空を模した艶やかなダークネイビーのビスチェドレスに変わっていた。体のラインが出ない服ばかり選んできたひまりの体は、自分のものとは思えないほど、グラマラスで成熟した女性のシルエットを描いている。


 恐る恐る、自分の顔に触れる。滑らかな肌。通った鼻筋。ほんのり色づいた、ふっくらした唇。いつもコンプレックスだった栗色のくせ毛は、夜空を溶かしたような艶やかなギャラクシーシルバーのロングヘアへと変わっていた。光の加減で、まるで本物の星屑を散りばめたようにきらきらと輝いている。野暮ったい眼鏡は消え、そこに現れたのは、吸い込まれそうなほど深いバイオレットの瞳。瞬きをするたび、金色の光が散るのが見えた。


 何より違っていたのは、その表情だ。自信のなさからいつも伏せ目がちに揺れていた瞳は、どこか挑発的な光を宿し、見る者を射抜くように真っ直ぐ鏡を見つめている。口元には、すべてを意のままにできると知っているかのような、小悪魔的な微笑みが浮かんでいた。


 それは、ひまりが知っている”自分”ではなかった。だが同時に、誰よりも知っている”自分”でもあった。――これは、私が心の奥底でずっと”こうなりたい”と願っていた、理想そのものの姿。きらきらしていて、自信に満ちていて、誰からも愛される、完璧な女の子。


「……すごい……」


 呆然とつぶやく声は、自分のものとは思えないほど、甘く艶を帯びていた。見知らぬ自分に、ただただ圧倒される。恐怖よりも、今は目の前で起きている奇跡への興奮が勝っていた。


『おい、いつまで見惚れてんだ。悪くないだろ? それがお前の”可能性”だ』


 ノヴァの声で、ひまりは我に返った。


『さて、変身したからには活動してもらわなきゃな。配信者としてファンを集めるんだ。手始めに、活動名を決めろ。さっさとしろよ、時間は有限なんだからな』

「か、活動名……」


 突然の要求に、ひまりは戸惑う。そんなこと、考えたこともなかった。何がいいだろう。可愛らしい名前? それとも、かっこいい名前?


 ひまりは、再び鏡の中の自分を見つめた。銀色に輝く髪、星屑を散りばめたような瞳。この姿にふさわしい名前。


 ふと、自分の名字が頭に浮かんだ。星空ひまり。地味で、コンプレックスだった自分に似つかわしくない名前。でも、この姿は、確かに星のような輝きを持っている。


「……ステラ」

『あ?』

「ステラ……がいい。ラテン語で星っていう意味の……」


 ひまりがそう言うと、ノヴァは少しだけ黙り込み、やがて『ふん、まあ悪くないセンスだ』とつぶやいた。


『よし、決まりだな。【ステラ】の誕生だ。じゃ、さっそくお試し配信といくぞ。設定はこっちで全部やっといた。下の配信開始ボタンを押せば、お前は【KiraraLive】の新人配信者としてデビューだ』

「ええっ!? 今から!? む、無理だよ、何を話せばいいかわからないし!」

『知るか。そんなもんは自分で考えろ。いいか、これは遊びじゃない。お前は魔法の力を手に入れた。その力の源は、人々から集める好意だ。リアクション、コメント、ファンからの熱狂……それがなければ、お前は二度と変身できなくなると思え』


 ノヴァの言葉に、ひまりは息を呑んだ。二度と、この姿になれない? それは、嫌だ。せっかく手に入れた理想の自分。まだ何も始まっていないのに、失うことなど考えられなかった。ひまりは覚悟を決め、震える指で画面の配信開始ボタンを押す。


 画面の隅に、同時接続数を示す目のマークと数字の「0」が表示された。


「…………」


 何を言えばいいかわからず、ひまりは黙り込む。心臓は、変身前よりも激しく高鳴っていた。沈黙が怖い。誰も来なかったらどうしよう。来てくれても、つまらないと思われたらどうしよう。


 そのとき、目のマークの数字が「1」に変わった。画面の下に、ぽつりと一つのコメントが流れる。


:新人さん?


 ひまりの肩が、びくりと震えた。見られている。誰かが、私を見ている。頭が真っ白になり、言葉が出てこない。何か言わなくちゃ――でも、何を? パニックになったひまりが思わず口ずさんだのは、いつも部屋でこっそり練習していた、好きな歌手の歌のフレーズだった。


「――♪」


 声を発した瞬間、ひまりは自分でも驚いた。いつもの、細くて自信のない声じゃない。魔法の力が乗ったその声は、まるでプロの歌手のように澄み渡り、甘く響いた。吐息まじりの歌声は、自分のものとは思えないほど、聴く者の心を蕩かす魅力に満ちていた。


 コメントが、少しだけざわつく。


:え、歌うまくね?

:声、めっちゃエロい……


 同時接続数が、3、5、10と少しずつ増えていく。その数字の変化とコメントに後押しされるように、ひまりは歌い続けた。それはもう、ひまりの意思ではなかった。ステラという存在が、歌いたいと叫んでいるようだった。


 歌い終わると、画面は無数のハートマークで埋め尽くされていた。初めてもらう、たくさんの【いいね】。


:歌姫、降臨!

:名前なんて言うの? 絶対推す!

:鳥肌立った……最高!


 賞賛の嵐。今まで誰からも向けられたことのない、むき出しの好意。その一つ一つが、甘い蜜のようにひまりの心に染み渡っていく。脳がしびれるような快感。これが、注目されるということ。これが、誰かに必要とされるということ。


「……ステラ、です。よろしく、お願いします」


 やっとの思いでそう言うと、コメント欄はさらに熱を帯びた。そのとき、ノヴァの声が頭に響く。


『――時間切れだ』


 えっ、と思った瞬間、配信は強制終了した。ひまりの体を包んでいたドレスが光の粒子となって消え、視界がぐにゃりと歪んだ。立っているのがやっとなほどの脱力感が全身を襲う。鏡に映っていたはずの理想の姿は、あっという間に見慣れた地味な自分へ戻っていた。


「は……っ、あ……」


 ひまりはその場にへたり込んだ。ぜえぜえと肩で息をする。まるで全力疾走をした後のようだ。だが、体の疲労感とは別に、奇妙な感覚が残っていた。全身が、かすかに火照っている。肌の表面を薄いヴェールのようなものが覆っているみたいで、部屋着のスウェットが肌に擦れる感触が、やけに鮮明に感じられた。ピリピリとした、しびれにも似たその感覚は、不快なようでいて、どこか甘美な余韻を残している。


 これが、代償……?


 ひまりは自分の手のひらを見つめた。先ほどまでの興奮と、今感じている不思議な体の変化。その両方が、あまりにも現実離れしていて、まだ頭が追いつかない。けれど、一つだけ確かなことがあった。


 スマートフォンの画面に残っていた、たくさんの賞賛のコメント。初めて知った、あの快感。


――また、なりたい。

――もう一度、ステラに。


 その抗いがたい欲望が、ひまりの心に確かな熱を帯びて宿ったことを、彼女自身はまだ気づいていなかった。これが、快感と代償に満ちた、秘密の二重生活の始まりだった。


☆☆☆


 翌朝、星空ひまりが目を覚ましたとき、世界は元のくすんだセピア色に戻っていた。だが、何かが決定的に違っていた。


 ブラウスが素肌に触れる感触が、やけに生々しい。首筋をなでる自分の髪の一本一本の動きさえ意識してしまい、むずがゆい。昨夜の変身以降続く、全身を包むかすかな火照りと、薄皮一枚を隔てたかのような肌の過敏さ。それは、昨夜の出来事が夢ではなかったという、消えない証拠だった。


 教室には、いつもと同じ退屈な空気が流れている。クラスメイトの楽しげな会話も、窓から差し込むけだるい陽光も、昨日までと同じ風景のはずなのに、ひまりにはまるで厚いガラス越しに見えるかのように、どこか現実感がなかった。


 彼女の本当の現実は、今や別の場所にある。放課後、一目散に家へ帰ったひまりは、自室の鍵をかけると、震える指でスマートフォンを取り出した。【KiraraLive】を開くと、昨夜一度だけの配信をした【ステラ】のチャンネルには、すでに百人を超えるフォロワーがいた。アーカイブに残された動画には、「この新人、絶対に伸びる」「歌声が国宝級」「次の配信はいつですか?」といった、熱を帯びたコメントがびっしり並ぶ。


 心臓が、甘く締めつけられるようにきゅんと鳴った。これが、認められるということ。これが、期待されるということ。地味で、誰の記憶にも残らないはずの星空ひまりが、たった数分でこれだけの人の心をつかんだのだ。――いや、正確にはステラが、だが。


「……もう一度だけ」


 誰に言うでもない言い訳をつぶやき、ひまりは【Metamorphose】を起動した。閃光。体が再構築されていく、あの浮遊感。そして鏡の前に立ったとき、そこにはもう、臆病な少女の姿はなかった。銀色の髪をふわりと揺らし、バイオレットの瞳に自信の光を湛えたステラが、挑発的に微笑んでいる。


「さて、と。みんな、待たせたかしら?」


 ステラの唇から紡がれた言葉は、ひまり自身でさえドキリとするほど、小悪魔的な響きを持っていた。配信開始のボタンを押すと、待っていたかのように、視聴者数があっという間に膨れ上がっていく。


:ステラ様、待ってた!

:今日も麗しい……

:昨日の歌、最高でした!


 コメント欄の熱狂に、ステラは満足げに目を細めた。


「ふふ、ありがとう。昨日はほんの挨拶代わり。今夜はもっと、みんなを夢中にさせてあげる」


 その言葉どおり、ステラのパフォーマンスは圧巻だった。魔法の力で増幅された歌声は、聴く者の理性をまひさせる甘い毒のように響き渡る。ささやくように歌い始めたかと思えば、次の瞬間には、魂を揺さぶるハイトーンで圧倒する。それはもはや歌ではなく、魔術だった。


 歌い終わると、画面は無数のギフトとハートで埋め尽くされた。そこでひまりは、アプリの片隅に表示されているゲージに気づく。【LIKE GAUGE】と名付けられたそのゲージは、ファンからの好意を受け取るたびに、虹色の光で満たされていった。ゲージが満ちるその瞬間、ひまり(ステラ)の体を、ぞくぞくするような快感が駆け抜ける。それは、脳の芯がしびれるような、甘い陶酔感だった。


「すごい……これが……」


 これが、好意を集めるということ。これが、魔法の力の源。快感に身を委ねながら、ステラは視聴者からの質問に答えていく。


:どこに住んでるのー?


「みんなの、心の中、かな?」


:好きな食べ物は?


 ひまりとしてなら、きっと「カップケーキです」と素朴に答えていたはずだ。だが、ステラの口が勝手に動く。


「秘密。でも……君にだけ、こっそり食べさせてあげてもいいかもね?」


 そのひと言に、コメント欄は発狂したかのような盛り上がりを見せる。


:ぎゃああああ!

:食べさせてください!

:一生推す!


 ライクゲージが勢いよく上昇していく。快感が、波のように何度も押し寄せる。ひまりは、ステラという仮面をかぶった観客のようだった。自分の体が、自分の知らない言葉を紡ぎ、人々を魅了していく。その光景が、恐ろしくもあり、同時にたまらなく刺激的だった。


 配信は連日行われた。彗星のごとく現れた新人配信者【ステラ】の噂は、瞬く間にインフルエンサー好きの間で広がっていく。


「歌声が神がかっている」

「ビジュアルが完璧すぎる」

「少しミステリアスなところがいい」


 人々は、自分たちの理想をステラに投影し、熱狂した。ファンはねずみ算式に増え、数週間も経たないうちに、チャンネルのフォロワーは数万人規模まで膨れ上がっていた。


 昼間は、地味で冴えない学生・星空ひまり。クラスの誰ともろくに話せず、息を潜めて時間をやり過ごす。だが夜になれば、彼女は銀髪のカリスマ配信者【ステラ】へと変身する。スポットライトを浴び、たくさんのファンから愛をささやかれ、ライクゲージがもたらす甘美な快感に溺れる。


 セピア色の日常と、極彩色の非日常。そのあまりにも大きなギャップは、ひまりの精神を少しずつ変質させていった。以前は苦痛でしかなかった学校での時間も、今では「夜までのウォーミングアップ」だと思えるようになった。クラスメイトからの無関心も、気にならない。「あなたたちは知らないでしょう? 私が、あのステラだってこと」という密かな優越感が、彼女の心を支えていた。


 ライクゲージが満たされていく喜びは、麻薬のようだった。もっと欲しい。もっと注目されたい。もっと、たくさんの好意で満たされたい。その欲望が、ひまりの中で日に日に大きく膨れ上がっていく。彼女はまだ知らない。その欲望の先に、より強く、より抗いがたい快感と、それに見合うだけの深い代償が待ち受けていることを。


 快感と二重生活の歯車は、もう誰にも止められない勢いで、静かに回り始めていた。


☆☆☆


 昼休み。ひまりはいつものように、教室の隅でひとり、弁当のふたを開けていた。卵焼き、タコさんウインナー、ほうれん草のおひたし。見慣れた彩りが、今の彼女にはひどく退屈に映る。数時間後には、自分は銀色の髪をなびかせ、何百人もの人々を熱狂させる存在になる。そう思うと、この教室の空気も、友だちと楽しげに笑い合うクラスメイトたちの声も、すべてが遠い世界の出来事のようだった。


 ほんの少し前まで、喉から手が出るほど欲しかったはずの光景なのに。優越感と呼ぶには甘美すぎ、孤独感と呼ぶには刺激的すぎる。そんな奇妙な万能感に浸りながら、ひまりが卵焼きを口に運んだ、そのときだった。


「よっ、ひまり」


 すぐそばから降ってきた声に、ひまりは心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。危うく箸を取り落としそうになるのを、必死でこらえる。声の主は、月白奏太だった。バスケ部に所属する、爽やかな笑顔がトレードマークの人気者。そして、ひまりの家の隣に住む、幼なじみ。


「そ、奏太……。どうしたの? 珍しいね」


 どもってしまった自分に、ひまりは内心で舌打ちする。彼とは、家が隣で、親同士も仲が良いため、昔からそれなりに口は利く。だが、学校で、しかも彼の友人たちがいる前で話しかけられることなど、ほとんどなかった。


 奏太は、そんなひまりの緊張など気にも留めない様子で、にっと笑った。


「いや、ちょっとな。お前、最近【KiraraLive】とか見てる?」

「え?」


 予想もしなかった質問に、ひまりの思考が停止する。【KiraraLive】。それは、彼女がステラとして君臨する場所。まさか――いや、そんなはずはない。ステラの姿とひまりの姿は、似ても似つかないのだから。


「う、ううん。あんまり……。そういうの、詳しくなくて」


 当たり障りのない嘘をつくと、奏太は「だよな!」とうなずいた。


「俺も全然知らなかったんだけど、クラスのやつらに教えてもらってさ。今、すげーハマってる配信者がいるんだよ!」


 そう言って、奏太は興奮した様子で自分のスマートフォンを操作し始めた。ひまりの胸が、嫌な予感で早鐘を打ち始める。やめて。それ以上は言わないで。だが、奏太の口は止まらない。


「ステラって言うんだけど、知ってるか? 最近出てきた新人なんだけど、マジで歌声が半端ないんだよ! なんていうか……こう、脳がしびれる感じ? とにかく聴いてるだけでゾクゾクするんだ!」


 ステラ。その名前が奏太の口から発せられた瞬間、ひまりの世界から音が消えた。血の気が引いていくのがわかる。同時に、顔にじわりと熱が集まってくる。


 奏太は、そんなひまりの異変にはまったく気づかず、目をキラキラさせながら続けた。


「それに、見た目も超美人でさ。銀色の髪で、ちょっとミステリアスな雰囲気で……。なんか、こっちの心、全部見透かされてるみたいな、小悪魔っぽいとこもあってさ。マジで完璧なんだよな!」


 完璧。奏太が、(ステラ)のことを、完璧だと言っている。ひまりは、目の前がくらくらするような感覚に襲われた。


「ほら、これ!」


 奏太が、ずいっとスマートフォンの画面をひまりの目前に突きつける。そこには、紛れもなく、昨夜配信を終えたばかりのステラ(ひまり)の姿があった。アーカイブ動画のサムネイルの中で、ステラは蠱惑的な笑みを浮かべ、こちらを見ている。それは、ひまり自身が作り出した、偽りの姿。そして、目の前の幼なじみが、今まさに心を奪われている相手。


「……きれいな人だね」


 絞り出すようにそう言うのが、精一杯だった。声が震えなかっただろうか。顔は、赤くなっていないだろうか。ひまりの心の中は、罪悪感と優越感という、相反する感情が渦を巻いて荒れ狂っていた。


 奏太をだましている。何の取り柄もない、地味な幼なじみが、魔法の力で作り出した虚像で、彼の心をつかんでいる。その事実に、胸がチクリと痛んだ。誠実で、真っ直ぐな彼に対して、こんなにも汚い嘘をついている。もし、この秘密がバレたら、彼はどんな顔をするだろう。軽蔑されるに違いない。


――なのに。

――それなのに。


 心の奥底から、どうしようもないほどの歓喜が湧き上がってくるのを、ひまりは止められなかった。


 あの月白奏太が、私の分身に夢中になっている。いつもクラスの中心にいて、キラキラしていて、自分とは住む世界が違うと思っていた彼が、私の歌声にしびれさせられ、私の姿を完璧だと褒め称えている。地味な”星空ひまり”では決して見向きもされなかったのに、ステラになった途端、彼をこんなにも熱狂させることができた。


 なんて、甘美な復讐だろう。なんて、刺激的な秘密だろう。


「だろ!? 俺、昨日も夜更かしして全部見ちまったよ。次の配信、待ちきれないんだよな。ひまりも、よかったら見てみろよ。絶対ハマるから!」

「……う、うん。見てみるかも」


 曖昧にうなずくひまりに、奏太は満足そうに笑うと、「じゃ、またな!」と言って、友人たちの輪の中へ戻っていった。


 ひとり残されたひまりは、しばらくの間、動くことができなかった。心臓は、まだバクバクと音を立てている。奏太に秘密がバレるかもしれないという恐怖。彼をだましているという罪悪感。そして、彼を虜にしているという、背徳的な優越感。


 そのすべてがごちゃ混ぜになって、ひまりの心をぐちゃぐちゃにかき乱す。けれど、一つだけ確かなことがあった。ステラでいる限り、私は奏太にとって”特別な存在”でいられる。


 ひまりは、食べかけの弁当のふたを、静かに閉じた。もう、卵焼きの味はわからなかった。ただ、今夜の配信では、どんな歌を歌って、どんな言葉をささやいて、画面の向こうにいる”彼”を、もっと夢中にさせてやろうか――そんなことばかりを考えていた。


 セピア色の世界に落ちた極彩色のインクの染み。それはもう、決して消すことのできない、甘くしびれる毒となって、ひまりの日常を静かに、だが確実に侵食し始めていた。


☆☆☆


 ステラとしての活動は、もはや星空ひまりの日常の一部となっていた。毎晩のように配信を行い、ファンからの賞賛と”いいね”を浴びる。虹色に輝くライクゲージが満ちていく瞬間の、心がスパークするような快感――それはひまりにとって、何物にも代えがたい報酬であり、存在証明そのものだった。


 とりわけ、奏太が熱心なファンになってくれてからは、彼女の配信にいっそう熱がこもった。画面の向こうにいる何百人もの視聴者。その中に、確かに彼がいる――そう思うだけで、ステラの歌声はさらに甘く、トークはさらに巧みになる。


 その夜も配信は大成功に終わった。ライクゲージは何度も満タンになり、そのたびにひまりの体を心地よい陶酔が満たしていく。変身を解き、いつもの地味な自分に戻ったひまりは、満足のため息をついた。


『……おい』


 不意に、スマートフォンのスピーカーからノヴァの不機嫌そうな声がした。


『いつまでそんな生ぬるい遊びに満足してんだ?』

「な、生ぬるいって……。ライクゲージだって、ちゃんとたまってるじゃない」

『はっ、ライクゲージね。そんなもん、おままごとレベルのエネルギー源だ。お前、それで満足なのか? もっとすごい魔法、使ってみたいと思わないのか?』


 ノヴァの言葉に、ひまりはどきりとした。すごい魔法――確かに今のステラが使えるのは、歌がうまくなる、トークが冴えるといった、あくまでパフォーマンス補助の域にとどまる。


「たとえば……どんな?」

『たとえば? そうだな……お前の歌声を、ただの音波じゃなく、聴く者の魂に直接響かせる魔法。お前の姿を、ただの映像じゃなく、視聴者の脳裏に焼きついて離れない幻影にする魔法。観客の感情そのものを支配する、本物の魔術だ』


 魂に響く歌。脳裏に焼きつく幻影。その響きは、ひまりの心を抗いがたい力で引き寄せた。もし、そんな魔法が使えたなら。奏太は、もっと、もっと私のことを――。


「ど、どうすれば使えるようになるの?」


 食い気味に尋ねるひまりに、ノヴァは待ってましたとばかりに、にやりと笑う気配を見せた。


『やっとその気になったか。いいか、そのためには別のゲージを解放する必要がある』


 ノヴァが言うと、画面に今まで隠れていた、もう一つのゲージが表示された。ライクゲージの隣で、不気味な存在感を放つ深紅のゲージ。


【LIBIDO GAUGE】


「リビドー……ゲージ……?」


 聞き覚えのある語だ。確か――。


「そ、それって、その……性的な……?」

『ご名答。ライクゲージが集める“好意”が万人向けのコッペパンだとしたら、こっちが集める“性的興奮”は一部の熱狂的マニア向けの濃厚なステーキだ。カロリーが違う。得られる魔力の質が段違いなんだよ』


「む、無理だよ! そんな恥ずかしいこと……! 私にはできない!」

『だろうな。地味で臆病なお前には、一生縁のないゲージだ』


 ノヴァはわざと挑発するように言い放つ。


『まあ、今のまま、ぬるま湯でキャッキャしてるのがお似合いだよ。せいぜい頑張れ』


 突き放す言葉が、ひまりの胸に突き刺さる。ぬるま湯。おままごと。奏太が褒めてくれたステラは、ただのおままごと――?

 ひまりは唇をぎゅっと噛んだ。恥ずかしい。怖い。けれど――このままじゃ嫌だ。奏太がいつかステラ(ひまり)に飽きてしまうかもしれない。もっとすごい配信者が現れたら、彼はそっちへ行ってしまうかもしれない。それだけは、絶対に嫌だった。


「……どうすれば、そのゲージはたまるの?」


 震える声で問うと、ノヴァは満足げに告げる。


『簡単だ。視聴者を、その気にさせりゃいい』


 その深夜、ひまりは、いつもよりずっと遅い時間にゲリラ配信を開始した。変身後のステラは、いつもと少しだけ違う。基本コスチュームのビスチェドレスは胸元が大胆に開き、スカートのスリットは脚の付け根近くまで深く切れ込んでいる。変身の瞬間に「少しだけ、大胆に」と願ったひまりの意識が反映されたのだ。


 深夜にもかかわらず、噂を聞きつけたファンが続々と集まる。コメント欄は、いつもと違う雰囲気にすぐ気づいた。


:うおっ!? 今日の衣装やば!

:え、エッッッッ

:深夜だからってサービスしすぎでは!?


 画面を流れる、むき出しの欲望を含んだコメントに、ひまりの心臓は張り裂けそうだった。恥ずかしくて、今すぐ配信をやめたい――それでも、画面端の深紅のリビドーゲージが、かすかに反応しているのが見える。


 ステラは震える唇を無理やりつり上げ、蠱惑的な笑みを作った。


「ふふ……こんばんは。こんな遅い時間まで起きてるなんて、悪い子ね……。もしかして、私を待っててくれたの?」


 吐息を多めに混ぜた甘い声。いつもより少しだけ上目遣いで。カメラを、特定の誰かを見るようにじっと見つめる。


 コメントの熱狂が一段上がる。


:待ってました!

:その声、反則だろ……

:俺のために言ってくれた……


 リビドーゲージが、じわりと上昇する。その瞬間、ひまりの体を、今までにない種類の快感が貫いた。ライクゲージのときの、心が弾むきらきらした感覚とは違う。もっと、体の奥底から湧き上がるような、熱く、とろりとした感覚。背筋がぞくぞくし、みぞおちの奥がきゅうっと疼く。未知の感覚に、ひまりは混乱しつつも、抗いがたい魅力を感じていた。


「今夜は、みんなのために……特別な歌を、歌ってあげる」


 選んだのは、大人びたラブソング。息継ぎをわざと荒くし、歌詞の合間に悩ましい吐息を差しはさむ。脚を組み替え、スリットからのぞく太ももを、あえて見せつけるように。


 一つ一つの煽情的な仕草が、ファンの欲望を的確に刺激していく。リビドーゲージは、もはや微かな変化ではない。ライクゲージをはるかにしのぐ勢いで、ぐんぐん上昇する。それに比例するように、ひまりの体を襲う快感も増幅していく。熱い。体中が溶けてしまいそうだ。思考が、真っ白に塗りつぶされていく。


 そしてサビ。ステラが最も情熱的な声を張り上げた、その瞬間――。

 リビドーゲージが、ついに満タンになった。


「―――ッ!!!」


 ひまりは、声にならない悲鳴をのむ。今までのどんな快感とも比較にならない激烈な奔流が、全身を貫いた。もはや快感というより、暴力的なまでの衝撃。脳の芯が焼き切れるような、甘美な頂。腰が砕け、立っているのもやっとだ。


「は……っ、あ、ぁ……っ」


 カメラの前で、ステラは思わず息を漏らし、崩れ落ちそうになるのを必死にこらえた。その艶やかな姿は、結果としてファンの興奮をさらに煽ることになった。


 何とか配信を終え、変身を解いたひまりはベッドに倒れ込む。体は鉛のように重い。けれど芯には、なお先ほどの余韻が熱いしびれとなって残っていた。足ががくがくと震える。恥ずかしい。怖かった。――でも。


「……すごかった……」


 ぽつりと漏れたのは、偽らざる本心だ。すべてが蕩けていくような感覚。地味な星空ひまりのままでは一生知り得なかった、禁断の果実の味。ひまりは自分の体をぎゅっと抱きしめた。もう、後戻りはできない。あの快感を一度知ってしまったのだから。奏太を、そしてファンをさらに熱狂させるための、新しい力を手に入れてしまったのだから。


 ひまりの心に、新しい扉が開かれた。きらびやかで、刺激的で、そしてどこまでも深く、暗い堕落へと続く扉だった。


☆☆☆


 リビドーゲージを解放したあの日から、星空ひまりの世界は静かに、だが確実に変質していた。まるで世界の解像度が自分だけ一段上がってしまったかのような、奇妙で落ち着かない感覚だった。


 朝、目覚まし時計の電子音が、ただの音ではなく、鼓膜を直接震わせる不快な振動として頭蓋の内側に響く。シャワーを浴びれば、肌を打つ水滴の一粒一粒が小さな針のように感じられ、思わず身をすくめてしまう。いちばんつらいのは、制服に着替えるときだ。ブラウスの生地が肌にこすれる感触、スカートが太ももをなでるかすかな動き――そのすべてが、以前とは比べ物にならないほど鮮明に意識の表面へ浮かび上がってくる。絶えず薄い羽で全身をくすぐられているような、むずがゆくて、甘ったるい不快感。


 これが”代償”。ノヴァは、リビドーゲージをためるたびに、その代償はより顕著になると言った。昨夜の配信でも、ひまりはファンの欲望をあおり、ゲージを満たした。その瞬間に体を貫いた、脳がとろけるような激烈な快感の記憶はまだ生々しい。そしてその代償として、今朝のひまりの体は、これまでで最も敏感な状態にあった。


「……っ」


 満員電車の中、他人の腕が偶然背中に触れただけで、ひまりは小さく喉を鳴らした。びくり、と全身が震え、背筋にぞくぞくと電気が走る。ただの接触――それだけのはずなのに、触れられた部分からじわじわと熱が広がっていくのがわかった。恥ずかしくて、情けなくて、顔から火が出そうだ。ひまりは必死で体を縮こまらせ、誰にも触れられないよう、電車の隅で息をひそめた。


 学校に着いても、その苦行は続く。椅子に座っているだけで、衣服と太ももがすれる感覚に意識が持っていかれる。先生の声が、やけに低く甘く耳に響き、授業の内容がまったく頭に入ってこない。


(どうしよう……。どうしよう、私、おかしい……)


 机の下で、ひまりは強く拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む痛みで、なんとか別の感覚に意識をそらそうと試みる。


「――おい、星空。聞いてるのか?」

「へっ!?」


 不意に名前を呼ばれ、ひまりは金縛りにあったように硬直した。見ると、数学の講師が呆れ顔でこちらを見ている。


「次の問題、答えてみろ」

「あ……えっと……」


 頭が真っ白だった。黒板の数式は、ただの記号の羅列にしか見えない。クラスメイトたちの「またか」というような、冷ややかな視線が突き刺さる。


 結局、ひまりは答えられず、教室には小さな失笑が漏れた。顔を真っ赤にしてうつむくひまりの心は、羞恥と自己嫌悪でいっぱいだった。


(こんなの、嫌だ……)


 夜は、何百人ものファンを熱狂させるカリスマ配信者”ステラ”。昼は、簡単な数学の問題も答えられず、クラスの笑いものになる”星空ひまり”。その落差が、彼女の心をナイフのように切り刻んでいく。


 昼休み。ぐったりと疲弊したひまりが、机に突っ伏していたときだった。


「よっ、ひまり。ちょっといいか?」


 すぐそばから聞こえてきた、聞き慣れた声。顔を上げると、心配そうな奏太が立っていた。


「そ、奏太……」

「お前、今日なんか顔色悪くないか? 具合でも悪いのかよ」

「う、ううん、大丈夫。ちょっと、寝不足なだけだから……」


 嘘だった。本当は、体中の感覚が鋭敏になりすぎて、精神が疲弊しきっているだけだ。でも、そんなこと、言えるはずがない。


 奏太は納得していないようだったが、それ以上は追及せず、「そうか?」とだけ言って自分の席に戻ろうとした。ひまりは、その優しい気遣いに少しだけ救われた気持ちになった。彼が隣にいてくれる――それだけで、少しだけ、この過敏になった体のことも忘れられる気がした。


 だが、そのときだった。くるりとかかとを返した奏太の腕が、机の上のひまりの筆箱に、こつんと当たった。筆箱はバランスを崩して床に落ち、シャープペンシルや消しゴムが派手な音を立てて散らばる。


「わ、悪い!」


 奏太は慌ててしゃがみ込み、床に散らばった文房具を拾い集め始めた。


「う、ううん、大丈夫だから!」


 ひまりも慌てて椅子から立ち、いっしょに消しゴムを拾おうと床へ手を伸ばした。そして――。


「あ、あった」


 一つの消しゴムに、ひまりと奏太の手が同時に伸びた。指先が、触れ合う。ほんのわずかな接触――それだけ。


「――ひゃっ!?」


 ひまりの口から、自分でも信じられないほど甲高い声が漏れた。触れた瞬間、まるで高圧電流を流されたかのような衝撃が腕を駆け上がり、全身を貫いたのだ。奏太の指の温かさ。少し硬い皮膚の感触。そのすべてが増幅されて、ひまりの神経を焼き尽くす。触れた部分から熱い奔流が全身に広がり、体中の血液が沸騰したかのように熱くなる。みぞおちの奥がきゅうっと疼き、腰が砕けそうになる。


「なっ……!?」


 奏太が驚いたように目を見開いてひまりを見る。ひまりは、自分の口から漏れた声と、体のあまりにも正直な反応にパニックに陥った。


(違う、違うの! そんなつもりじゃ……!)


 顔が、沸騰しそうなくらい熱い。心臓が警鐘のように激しく鳴り響く。奏太に、どう思われただろう。気味悪がられたのではないか。いやらしい女だと思われたのではないか。


 恐怖で、涙がにじみそうになる。ひまりは衝動的にその場から逃げ出した。


「ご、ごめん!」


 意味のわからない謝罪を叫び、床に散らばった文房具もそのままに、教室を飛び出す。


 女子トイレの個室に駆け込み、鍵をかけると、ひまりはその場にずるずるとへたり込んだ。


「はっ……はぁっ……う……っ」


 息が苦しい。まだ、指先に奏太の感触が生々しく残っている。そして、それに反応した体は、熱を帯びたまま、かすかに震えていた。情けなくて、恥ずかしくて、ひまりは両腕で自分の体を強く抱きしめる。


(私の体、どうしちゃったの……っ)


 魔法の代償。リビドーゲージをためた代償。それが、こんなふうに日常を侵食してくるなんて。奏太に触れられただけで、あんなふうに、はしたなく反応してしまうなんて。


 それは恐怖だった。自分の体が自分のものではなくなっていくような、底知れない恐怖。


――なのに。


 それなのに、ひまりの心の奥底で、黒い炎のような感情が、ゆらりと揺らめいていた。


 あの瞬間。奏太に触れられて、体が熱く反応した、あの瞬間。恐怖と羞恥の奥で、ほんの少しだけ、感じてしまっていたのだ。未知の、しびれるような快感を。そして、その快感をもっと知りたいと願う、抗いがたい好奇心を。


(もし、また……。もし、今度、奏太が触れてきたら……私は、どうなっちゃうんだろう?)


 その問いが頭に浮かんだとき、ひまりは自分の思考を打ち消すように、ぶんぶんと首を振った。ダメだ。そんなこと、考えちゃダメだ。――でも、一度芽生えてしまった好奇心は、毒のように甘く、ひまりの心を蝕んでいく。代償は、恐怖だけではない。それは、ひまり自身も知らなかった彼女の体に眠る未知の扉を、無理やりこじ開けようとしていた。


☆☆☆


 リビドーゲージがもたらす禁断の快感を知ってから、星空ひまりの二重生活は、より深く、より倒錯的なものへと変貌していた。


 夜ごとステラとして、ファンたちの熱を帯びた欲望を一身に浴びる。際どい衣装を身にまとい、吐息交じりの甘い言葉で彼らを翻弄する。深紅のゲージが満たされる瞬間に身体を貫く、脳が焼き切れそうなほどの絶頂感。それはもはや、ひまりにとってなくてはならない刺激となっていた。


 だが、その代償は、彼女の日常を静かに、しかし確実に蝕んでいた。朝、目覚めた瞬間から、世界はひまりに過剰な情報を叩きつけてくる。シーツが肌をこする感触。窓から差し込む光の粒子。遠くで鳴く鳥の声。そのすべてが増幅され、神経に突き刺さる。


 最も過酷なのは、朝の通学電車だった。鉄の箱は、人の熱気とさまざまな匂いで満ちている。香水、汗、整髪料、誰かの朝食のパンの匂い――それらが混じり合ったむせ返るような空気が、過敏になった嗅覚を麻痺させる。ぎゅうぎゅう詰めの車内で、他人の服が腕に触れるだけで、肌に静電気が走ったかのような不快な疼きが走った。


 その日も、ひまりは車両のドアの隅に身体を押しつけ、必死に気配を消していた。ヘッドホンで耳をふさぎ、スマートフォンの画面に視線を落とす。そうして自分の周りに小さな殻を作り、外界からの刺激を少しでも遮断しようと必死だった。


(早く……早く着いて……)


 祈るような気持ちで、ひまりは固く目をつぶる。昨夜の配信は、これまでで最も過激なものだった。リビドーゲージは何度も振り切れ、そのたびにひまりは凄まじい快感の奔流に飲み込まれた。その結果、今日の身体は、まるで剝き出しの神経そのもののように、あらゆる刺激に過敏に反応する状態にあった。


 電車が大きく揺れた。その瞬間、ぐっと後ろから強い力で押しつけられる。満員電車ではよくあることだ。だが、次の瞬間、ひまりは息を呑んだ。背中に、誰かの手のひらが、ぴたりと押しつけられていた。最初は、ただの偶然だと思った。混雑しているのだから、仕方がない――そう自分に言い聞かせた。しかし、その手は揺れが収まっても離れなかった。それどころか、まるで意思を持つかのように、腰のあたりをゆっくりと、確かめるようになでた。


「――っ」


 ひまりの全身が、恐怖で凍りついた。血の気がさっと引く。頭が真っ白になり、声が出ない。痴漢――ニュースや噂でしか聞いたことのなかった卑劣な犯罪。その対象に、今、自分がなっている。


(やめて……)


 心の中で叫ぶが、声にはならない。身体は恐怖で金縛りにあったように動かず、助けを求めることも、身をよじって逃げることもできなかった。周りの乗客たちは自分のことで精一杯で、ドアの隅で起きている小さな地獄には誰も気づかない。


 そして、呪いは発動した。恐怖と嫌悪に支配されているはずの身体が、裏切る。男の手が臀部の谷間をなぞった瞬間、びくん、とひまりの腰が大きく跳ねた。下腹部の奥深くがきゅう、と甘く痙攣する。熱いしびれが太ももの内側を蟻が這うように駆け上がり、足の指が勝手に丸まった。


 プシューという音とともに、電車のドアが開く。ひまりは、何かに突き動かされるように、転がるようにして電車から降りた。降りるべき駅ではなかったが、もう一秒たりとも、あの空間にいることはできなかった。


 ホームの柱の陰に隠れ、ひまりはその場にずるずるとへたり込んだ。


「はっ……う、ぇ……っ」


 吐き気がする。胃の中のものがせり上がってくるようだ。だが、それ以上に、自分自身に対する強烈な嫌悪で、頭がおかしくなりそうだった。まだ、身体の火照りが消えない。男に触られた部分の感触が、幻のようにこびりついて離れない。そして、それに反応してしまった、自分の身体の記憶。


(気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……!)


 ひまりは、自分の太ももを、爪が食い込むほど強くつねった。痛みで、この汚らわしい感覚を上書きしたかった。ステラとしての活動がもたらした、魔法の代償。それは、ただ五感が鋭敏になるというだけではない。ひまりの意思とは無関係に、彼女の身体から「羞恥心」という名のブレーキを奪い取り、欲望に対してあまりにも無防備で、正直なだけの肉体へと作り変えていく――呪いそのものだった。


 この日を境に、ひまりは自分の身体そのものを恐れるようになった。それは、いつ裏切るかわからない見知らぬ獣を内に飼っているような、絶え間ない恐怖だった。


☆☆☆


 朝の満員電車でのおぞましい記憶は、ねばりつくタールのように、星空ひまりの心にこびりついていた。昼間の彼女は、以前にも増して影が薄くなった。常に何かに怯えるように肩を縮こませ、他人、特に男性の視線や気配に過敏に反応し、びくりと体を震わせる。自分の体が、いつまた意に反して裏切るかもしれないという恐怖。その呪いは、彼女の日常を静かに、だが確実に蝕んでいた。


 だが、夜は違う。【Metamorphose】を起動し、光の奔流の中でステラへと変身するとき、ひまりは一時的にその呪いから解放された。いや、解放されたかのように錯覚していられた。


 銀色の髪、バイオレットの瞳。成熟した、完璧な体。鏡に映るステラの姿は、ひまりが失ってしまった自己肯定感そのものだった。この姿である限り、自分は誰にも傷つけられない。無力ではない。むしろ、他者を支配し、熱狂させる力を持っている。


「みんな、こんばんは。今夜も私に会いに来てくれたのね……嬉しいわ」


 その夜も、ステラの配信は熱狂の渦の中にあった。痴漢の記憶がもたらした自己嫌悪は、皮肉にも彼女のパフォーマンスに、どこか退廃的で、痛みを帯びた妖艶さを加えていた。憂いを帯びた瞳、か細く震えるようでいて、聴く者の心を鷲づかみにする歌声。ファンたちは、ステラのその危うげな魅力に、以前にも増して心を奪われていた。


:ステラ様、なんだか今日、雰囲気違う……?

:儚げで、守ってあげたくなる……

:その瞳で見つめられると狂いそう


 コメントが滝のように流れ、【LIKE GAUGE】と【LIBIDO GAUGE】が心地よい速度で上昇していく。体の奥から湧き上がる、あの甘美なしびれ。それが、昼間の恐怖と嫌悪感を一時的に洗い流してくれる、唯一の麻薬だった。ひまりは、それに溺れることでしか、精神の均衡を保てなくなっていた。


 その事件が起きたのは、配信が最高潮の盛り上がりを見せていたときだった。突如、画面にこれまで見たこともないほど豪華絢爛なエフェクトが咲き乱れた。漆黒の薔薇が咲き誇り、そこから金の蝶が舞い上がる。それは、このプラットフォームにおける最高額のギフトだった。


 コメント欄が、一瞬で凍りつく。そして次の瞬間、爆発した。


:は!? !? 金蝶!?

:嘘だろ、誰だよ投げたの!?

:金額やばすぎ……

:え、ていうか、このギフト投げた人の名前……!


 ひまりも、驚きに目を見開いた。ギフトを送ったユーザーの名前を見て、心臓が大きく跳ねる。


【Dusk】


 その名前を知らない者は、この世界にはいない。【KiraraLive】の頂点に君臨する男性配信者。ゴシックな世界観と、哲学的な語り口、そして聴く者の理性をとろかす甘い低音ボイスで、男女問わず絶大な人気を誇るカリスマ。ステラが”光”ならば、Duskは”闇”。対極に位置しながらも、同じように人々の本能的な欲望を糧とする、夜の世界の王だった。


 なぜ、彼がここに? ステラは、動揺を必死に押し殺し、優雅に微笑んでみせる。


「あら……これは、驚いたわ。まさか、Dusk様が私の配信を見てくださっているなんて」


 その言葉に応えるように、コメント欄に、ひときわ異彩を放つ一文が流れた。それは、紛れもなくDusk本人からのコメントだった。


Dusk:――美しい。まるで、壊れかけのガラス細工のようだ。だからこそ、人は触れたくなる


 そのコメントは、ファンたちが送るような、ただの賞賛ではなかった。ステラのパフォーマンスの本質、そして彼女が心の奥底に隠している脆さまでをも見透かしているかのような、鋭利な分析だった。ひまりは、全身の血が逆流するような感覚に陥った。心の奥の、誰にも見せたことのない柔らかい部分を、無遠慮に暴かれたような気がした。


 Duskのコメントは、続く。


Dusk:その歌声は、祈りか? それとも呪いか? どちらにせよ、聴く者を破滅させる甘美な響きだ

Dusk:沈黙の使い方が、実に巧みだ。君は、無音こそが最高の扇情であることを、本能で理解している


 他のファンたちが熱狂する中、ひまりだけが、その言葉の持つ本当の意味を理解していた。彼は、わかっている。私が、ただのキャラクターを演じているのではないことを。この歌声が、心の叫びであることを。そして、私がこの活動に救いを求めていることを。


 恐怖が、ひまりの心を支配した。この男は危険だ。関わってはいけない――本能が最大級の警報を鳴らしている。だが、それと同時に、恐怖を上回るほどの強い歓喜が、彼女の胸を突き上げた。認められた――この世界で最も高みにいる人間に、私の本質を、才能を、理解してもらえた。それは、痴漢被害によって深く傷つき、自己嫌悪に陥っていたひまりにとって、あまりにも甘美な救済の言葉だった。


 そのとき、配信画面とは別に、DMの通知が届いた。差出人は【Dusk】。


『はじめまして、ステラ。彗星の如く現れた君の才能に、すっかり魅了されてしまったようだ』


 丁寧で、紳士的な文面に、ひまりは戸惑う。


『突然で驚かせてしまったかもしれないが、君のその類いまれなる才能に、純粋な興味を抱いている。もしよければ、一度コラボレーション配信をしないか?』

『もちろん、君にとってのメリットは大きいと思う。私のファンにも、君という素晴らしい才能を知ってもらう絶好の機会になるだろう。共に、この夜の世界を、もっと面白くしないか?』


 コラボ配信。それは、新人であるステラにとって、破格の提案だった。Duskとコラボすれば、彼女の名声は間違いなく、今の比ではなくなるだろう。トップ配信者への道が、一気に開ける。危険だ。わかっている。――でも、断るという選択肢は、ひまりの中にはもうなかった。ここで断れば、二度とこんなチャンスは巡ってこないかもしれない。そして何より、このDuskという男をもっと知りたいという、抗いがたい好奇心が、恐怖を上回っていた。


 ステラは、配信画面に向かって、最高の笑みを浮かべてみせた。


「Dusk様、素敵なコラボの提案をありがとう。……光栄だわ。ぜひ、前向きに検討させてちょうだい」


 その言葉に、ファンたちは熱狂し、コメント欄は祝福の言葉で埋め尽くされた。誰も知らない。画面の向こうで微笑む女神が、今まさに、自らの魂を悪魔に売り渡す契約書にサインしようとしていることを。ひまりは、震える指で、Duskへの返信を打ち込んだ。


『ご連絡ありがとうございます。とても光栄です。ぜひ、詳しいお話を伺わせてください』


 送信ボタンを押した瞬間、ひまりは、もう後戻りのできない、甘く暗い道へと足を踏み入れてしまったことを、まだ理解していなかった。


☆☆☆


 Duskとのコラボ配信は、大成功に終わった。二人のカリスマが織りなす化学反応は視聴者を熱狂の渦に巻き込み、「ステラ」の名は一夜にしてトップクラスの知名度を得た。フォロワー数は爆発的に増加し、それに伴い【LIKE GAUGE】と【LIBIDO GAUGE】は、以前とは比べ物にならないほど容易に満たせるようになった。


 だが、ひまりの心は晴れなかった。コラボを重ねるたびに、Duskという存在が、じわりじわりと彼女の心の領域を侵食してくるのを感じていたからだ。彼は、ステラの心の奥底にある承認欲求や、地味な学生である”ひまり”としての劣等感までをも、完全に見透かしているようだった。そして、その弱さに的確に付け込み、甘い言葉で彼女の警戒心を巧みに解いていく。


「――今日の配信も素晴らしかったよ、ステラ」


 配信を終え、コラボで使ったプライベートなボイスチャットで、Duskは吐息交じりにささやいた。その声は、ヘッドホンを通して直接脳に響き、ひまりの身体をぞくぞくと震わせる。


「君の才能は、やはり本物だ。だが……まだ殻を破りきれていない。君は、もっと高く飛べるはずだ」

「殻……?」

「そう。君はまだ、本当の意味で”自分”を解放できていない。視聴者は、君の完璧なパフォーマンスの奥にある、もっと生々しい、むき出しの魂に触れたがっているんだ」


 Duskの言葉は、いつもそうだ。まるで、ひまりが心の奥底で求めていることを見抜き、それを代弁するかのように語りかける。


 その日、彼は「今後の活動についての大事な打ち合わせがある」と言って、ステラをある場所へ呼び出した。指定されたのは、都心にそびえ立つ超高層ホテルの、最上階にあるバーラウンジだった。


 変身したステラの姿で、ひまりは恐る恐るその場所に足を踏み入れた。眼下には、宝石を散りばめたような東京の夜景が無限に広がっている。庶民であるひまりにとっては、一生縁のないような、絢爛豪華な世界。窓際の席で、Duskは一人、優雅にグラスを傾けていた。


「よく来たね、私の歌姫(ミューズ)


 Duskは立ち上がると、まるで王子のようにステラの手を取ってエスコートした。その紳士的な振る舞いに、ひまりの心臓が小さく跳ねる。


「素晴らしい眺めだろう? 君に相応しい場所だ。君は、やがてこの夜景のすべてを手に入れることになる」

「私が……?」

「ああ。だが、そのためには、越えなければならない境界線がある」


 Duskはそう言うと、隣の席に座ったステラの頬に、そっと指を這わせた。ひやりとした指先の感触に、ステラの身体がびくりと震える。痴漢の記憶が一瞬だけ脳裏をよぎった。だが、Duskの触れ方は、あの卑劣な男とはまったく違っていた。壊れ物を扱うかのように優しく、それでいて逃さないという強い意志を感じさせる、支配者の手つきだった。


「ステラ。君と私は、ただのコラボ相手じゃない。同じ夜の世界を生きる、魂の片割れのような存在だ。そうだろう?」

「……ええ」

「ならば、我々の間には、絶対的な信頼関係が必要だ。互いのすべてを理解し、受け入れ、共有する……。そうでなければ、本当の意味で観客の心を揺さぶるパフォーマンスなどできはしない」


 Duskの声は、催眠術のように甘く、ステラの理性を麻痺させていく。彼の言うことはもっともらしい気もした。――でも、何かがおかしい。本能が、危険だと叫んでいる。


「信頼関係……?」

「そう。言葉だけではない。もっと深く、本能的なレベルでのつながりだ」


 Duskの指が、ステラの顎を捉え、くい、と上を向かせた。紫と金の光が交錯する瞳が、Duskの闇のように深い瞳にとらわれる。


「これは儀式だよ。君が、本当のスターになるための、最初のステップだ」


 ステラは、彼が何を言わんとしているのか、悟ってしまった。顔から血の気が引いていく。


「ま、待って……。私、そういうのは……」

「怖いか?」


 Duskは、すべてを見透かしたように、静かに尋ねた。


「わかるよ。君はまだ、本当の自分を知らない。だが、その身体は正直だ」


 彼の指が、ステラの首筋を、鎖骨を、そしてドレスの胸元のわずかな隙間へと滑り込んでいく。


「―――ひぅっ!」


 過敏になった肌は、その指の動きに、あまりにも正直に反応した。ぞわぞわと鳥肌が立ち、熱いしびれが背筋を駆け上る。下腹部の奥が、きゅうと疼いた。


「ほら……。君は本当は望んでいる。未知の快感に、この身を委ねることを。私に、君のすべてを暴かれることを」

「ちが……っ、私……」

「これは仕事だ、ステラ。君をスターにするための、最も効率的で、最も刺激的な方法だ。君は、この快感を知ることで、さらに妖艶な輝きを放つことになる。ファンは、そんな君に熱狂するだろう」


 仕事。その言葉が、ひまりの最後の抵抗を打ち砕いた。これは星空ひまりとしての私的な行為ではない。ステラがスターになるための、仕事なのだ。そう言い聞かせれば、恐怖が少しだけ薄れるような気がした。


 Duskは、抵抗しなくなったステラを抱き寄せると、そのまま客室へと導いていった。


 どれくらいの時間が経ったのか。ひまりが我に返ったとき、彼女は自室のベッドの上で、いつものパジャマ姿で横たわっていた。窓の外は白み始めている。身体には、どこにも異常はなかった。痛みも、傷跡も、何もない。変身後のひまりの身体は、ステラが受けた肉体的な損傷を一切反映しないのだ。身体は元のまま。処女のまま。


――なのに。


 記憶だけが、あまりにも生々しく、脳裏にこびりついていた。Duskの指の感触。唇の熱。身体を貫いた、あの衝撃と快感。そのすべてを、ひまりの神経は寸分違わず記憶していた。


「あ……あ……うわあああああああ!」


 ひまりは、自分の頭をかきむしった。混乱と自己嫌悪が濁流となって彼女を飲み込んでいく。身体は処女なのに、経験の記憶だけがある。この身体は、嘘をついている。私はもう、汚れてしまったのに、この身体だけが、何もなかったかのように澄ましている。その乖離が、ひまりの精神を、ゆっくりと、だが確実に狂わせていく。


 彼女は、確かに境界線を越えた。スターダムへと続く、輝かしい光の階段。そして同時に、二度と後戻りのできない、暗く歪んだ精神の迷宮へと、その第一歩を踏み出してしまったのだった。


☆☆☆


 体育の授業は、地獄だった。跳び箱を飛び、マット運動で転がり、体育館の中を走り回る――ごく普通の、健全な学校生活。だが、今の星空ひまりにとって、それは拷問に等しかった。


 汗が首筋から背骨の谷間へ、一筋の熱い線となって流れ落ちる。その一滴ごとの動きが、まるでねばつく指でなぞられているかのように感じられて、ひまりは何度も身を震わせた。汗で肌に張りつくジャージの感触は、満員電車であの男に身体を押しつけられたときの、卑劣な記憶を呼び覚ます。


「はっ……はっ……」


 乱れる呼吸。激しく脈打つ心臓。それは運動による健全な疲労ではない。身体の内側から、得体の知れない熱がじわじわと湧き上がってくる。


(熱い……身体が、おかしい……)


 Duskに抱かれた夜から、この火照りは常に身体の芯にくすぶっていた。そこへ痴漢の記憶が油を注ぎ、炎を上げる。恐怖と嫌悪。Duskとの記憶が生む、罪悪感と背徳的な興奮。それらが最後には一つの濁流となって下腹部に集まり、疼くような、むずがゆいような、それでいて甘い熱の塊となって、ひまりの思考を少しずつ麻痺させていく。


 授業の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、ひまりは誰よりも早く体育館を飛び出した。もう、限界だった。誰かの視線にさらされているだけで発狂しそうだ。この、意に反して火照り、疼きつづける身体を、どこかへ隠さなければ。


 逃げ込んだのは、校舎の隅にある、ほとんど使われていない古い女子トイレ。ひんやりとしたタイルの空気が、火照った頬に心地よい。ひまりは一番奥の個室に飛び込み、乱暴に鍵をかけた。カチャン――無機質な音が、彼女を世界から隔離する。


「はぁ……っ、はぁ……っ、う……」


 便座に座ることもできず、その場にずるずるとへたり込む。ジャージのまま冷たい床に背中を預けても、芯の熱は冷めなかった。目を閉じると、記憶が奔流となって襲いかかる。満員電車での、粘りつく指の感触。ホテルのベッドで、Duskにこじ開けられたときの痛みと快感。記憶の残像が、今の身体に重なってくる。


「……っ、や……」


 違う。思い出したくない。そう思って身をよじると、汗で蒸れた太ももの内側をジャージの布地がこすった。――その、ほんのわずかな摩擦が引き金だった。


「――ひぅっ!」


 びりり、と稲妻のような快感が脚の付け根から背骨を駆け上がる。下腹の奥で熱の塊がきゅう、と締めつけられ、そこからじゅわ、と熱いしびれが全身へ広がっていくのがわかった。


(だめ……だめ、なのに……っ)


 ひまりは身体を押さえつけるように、両腕で強く抱きしめた。だがその行為すら、ジャージ越しに胸を圧迫し、新たな刺激になってしまう。


 もう、思考は正常ではなかった。恐怖も羞恥も自己嫌悪も、身体の芯で暴れるこの巨大な熱の前では意味をなさない。どうにかしてほしい。この疼きを。この熱を。誰か――違う。もう誰かに触れられるのは嫌だ。汚されるのは、こりごりだ。ならば――。


(私……何を……?)


 ふらふらと立ち上がり、個室のドアを開ける。そして鏡に映った自分を見て、絶望に息をのむ。汗と涙でぐちゃぐちゃの顔、紅潮した頬、潤んで虚ろな瞳、乱れた髪。そこにいたのは、まるで獣のように、ただ欲望の波をやり過ごしただけの雌の姿だった。


(これが……私……?)


 ステラのようなカリスマも輝きもどこにもない。かつて、地味でもまだ純粋だった自分の面影もない。ここにいるのは、トイレで疼きに耐えきれず、自分を持て余した空っぽの抜け殻。奏太の爽やかな笑顔が脳裏をかすめる。もう、顔向けできない。こんな自分で、彼の隣にいることなど許されない。


 鏡の中の自分が、絶対的な真実を突きつける。もう、後戻りはできない。

 ひまりはその場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。それは悲しみの涙ではない。自分自身を完全に見失ってしまったことへの、絶望の慟哭だった。


☆☆☆


 Duskという悪魔に魂のありかを教え、自らの手で身体の疼きを鎮める術を覚えてしまった星空ひまりは、もはや以前の彼女ではなかった。昼間の彼女は、まるで夢遊病者のように現実感を失い、ただ夜の訪れを待つだけの抜け殻だった。恐怖も、羞恥も、自己嫌悪も、すべてが麻痺した心の奥底で鈍い痛みを放っているだけで、もはや彼女の行動を縛るかせにはならなかった。


 夜ごとステラとして配信を続けるうち、彼女のパフォーマンスは神がかり的な妖しさを帯び始めていた。それは、自らの崩壊を燃料にして輝く、破滅的な美しさ。ファンはその危うい輝きに熱狂し、ステラの人気はアンダーグラウンドの枠をとうに超え、ひとつの社会現象になりつつあった。


 そんなある日、運営を通じて一通の公式メッセージが届いた。差出人の名を見て、ひまりは息をのんだ。


『株式会社スターダスト・クリエーション 第一制作部プロデューサー 神楽坂怜』


 スターダスト・クリエーション。日本最大手の芸能事務所。神楽坂怜(かぐらざかれい)。その若さで数々のトップアーティストを世に送り出し、業界では「氷の審美眼」の異名を持つ敏腕プロデューサー。Duskが夜の世界の王だとするなら、神楽坂は昼の世界――誰もが知るメジャーシーンを支配する王だった。


 メッセージは極めてビジネスライクで、ステラの才能に注目しており、今後の活動について一度直接お話ししたい――と結ばれていた。ひまりの心は、もはや驚きも興奮もない。ただ、乾いたスポンジが水を吸うように、その事実を淡々と受け止めるだけだった。


(そう。こうなるわよね。当然よ、私はステラなのだから)


 肥大した万能感と、底なしの虚無感。その二つが、彼女の心を支える歪んだ柱となっていた。


 指定の日時、変身したステラ(ひまり)は、都心の一等地にそびえ立つスターダスト・クリエーションのオフィスビルを訪れた。大理石のロビー、洗練された受付、すれ違う人々が放つオーラ――そのすべてが、配信の世界とは別次元の、まばゆい光に満ちていた。最上階の役員応接室に通されると、大きな窓を背にして、一人の男が立っていた。


「はじめまして、ステラ。私が神楽坂だ」


 振り返った男は、氷の彫刻のように冷たく、そして完璧に美しい顔立ちをしていた。寸分の隙もない高級スーツ。鋭い切れ長の瞳は、ステラをアーティストとしてではなく、まるで競走馬の価値を値踏みするかのように、頭のてっぺんからつま先までを分析していた。


「……どうも。ステラです」


 ステラは、Duskの前とは違う、ビジネス用の完璧な笑みを浮かべてみせた。


「座りたまえ」


 神楽坂は感情の読めない声でそう言い、テーブルに分厚いファイルを広げた。そこには、これまでの配信データ、視聴者層の分析、楽曲の評価、コメント傾向までが、グラフと数値でびっしりとまとめられている。


「君のデータは、すべて分析させてもらった。結論から言おう。君は、本物だ」


 それはDuskのように魂に触れる甘いささやきではない。医者がカルテを読み上げるような、冷徹で客観的な事実の宣告だった。


「君の歌声には、人の本能を刺激する特殊な周波数が含まれている。加えて、ビジュアルとミステリアスなキャラクター性は、特に経済力のある二十代から四十代の男性に対して極めて強い訴求力を持つ。君は、売れる。いや、売れないはずがない」


 神楽坂はそこで言葉を切り、ステラの目をまっすぐ射抜いた。


「ステラ。この小さな画面の中で王様気分でいるのは、もう終わりだ。君を、メジャーデビューさせる」


 メジャーデビュー――それは、ひまりがかつて漠然と抱いた「特別な誰かになりたい」という願いの、最も具体的で輝かしい到達点だった。CDをリリースし、テレビで歌い、街中のポスターが自分の顔で埋め尽くされる。日本中の誰もがステラの名を知ることになる。心の奥で、麻痺していたはずの何かが、ちりりと熱を帯びた。


「私が、君を本物の『(スター)』にしてやる。ドームツアー、紅白、ミリオンセラー。君が望むなら、そのすべてを与えよう」


 それは、悪魔の誘惑よりもなお抗いがたい響きを持っていた。感情の入り込む余地のない、絶対的な成功の「契約」が提示されていたからだ。


 だが、ステラはもう夢見るだけの無垢な少女ではない。


「……それだけを頂くには、相応の『対価』が必要でしょう?」


 挑発的に微笑むステラに、神楽坂は初めて満足げな笑みを浮かべる。


「話が早くて助かる。その通りだ。この業界は、才能だけで生き残れるほど甘くない。必要なのは、すべてを差し出す覚悟だ」


 彼はゆっくり席を立ち、ステラの隣に腰を下ろした。そして、契約書の条項を読み上げるかのように淡々と言う。


「今夜、私と時間を共にしてもらう。ホテルは取ってある。それが、君がこの契約書にサインするための、最初の”投資”だ」


 ――枕営業。あまりにも直接的で、情緒のない要求。


 一瞬、満員電車のおぞましい記憶と、Duskに支配された夜が濁流のように押し寄せた。再び身体が道具として扱われる。再び汚される。強い嫌悪と屈辱が、麻痺した心の表面をナイフでひっかいた。


 ――だが、その痛みは、もう彼女を縛らない。


 Duskとの経験は、あまりにも衝撃的で暴力的で、魂を根こそぎ奪う出来事だった。それに比べれば、これは何だ? ただの取引だ。感情も、魂のつながりも、支配も被支配もない、極めてドライなビジネス。成功のための、合理的な手段。そう、これも仕事――ステラが本物のスターになるための必要経費。汚れるのはステラであって、ひまりではない。ひまりの心も身体も、もうとっくに壊れて、空っぽなのだから。


 ひまりの中で、最後の何かがぷつりと切れた。


 ステラは顔を上げた。バイオレットの瞳からは、いっさいの感情が消え失せている。これまでで最も完璧で、最も美しい、しかし温度のない笑みを浮かべた。


「覚悟……ですか。分かりました、プロデューサー。”投資”のご提案、謹んでお受けいたします」


 その返答に、神楽坂は満足げにうなずいた。彼の瞳は、ステラをアーティストとしてではなく、これから莫大な利益を生むであろう高価な商品として見ている。ひまりの心は、もう何も感じていなかった。目の前にぶらさがる成功という名の、きらびやかな地獄へ――自ら進んで身を投じることを決めただけだ。彼女は、自分の魂に自分で値札を付けたのだ。その値札の先にあるのが栄光か、完全な破滅か。もはや、彼女にはどうでもよかった。


☆☆☆


 神楽坂怜という権力者にその身を投資し、メジャーデビューという名の輝かしい地獄への切符を手に入れたステラは、破竹の勢いでスターダムを駆け上がっていた。テレビ、雑誌、ラジオ――彼女の妖艶なビジュアルと、魂を揺さぶる歌声は、瞬く間に日本中を席巻した。


 だが、光が強くなれば、影もまた濃くなる。 ひまりの心は、成功という名の喧騒の中で、急速に摩耗していた。昼も夜もなく繰り返されるスケジュール、常に完璧なステラを演じ続けることへのプレッシャー、そして何よりも、神楽坂との間に定期的に行われる、魂のこもらない”投資”という名の行為。それら全てが、彼女から人間らしい感情を奪い去っていった。


 そんなある夜、鳴り響いたプライベート用のスマートフォン。画面に表示されたのは、しばらく連絡を取っていなかった、夜の世界の王の名前だった。


「――久しぶりだね、私の歌姫(ミューズ)。メジャーの世界の空気は、君のその美しい喉を潤してくれているかな?」


 電話口から聞こえてくる、ねっとりとした甘い声。ひまりは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「Dusk……。何の用?」


 ステラとして、冷たく、ビジネスライクな声を装う。だが、Duskには、その声が虚勢であることがお見通しだった。


「つれないな。君をここまで導いたのは、この私だということを忘れたわけではあるまい」

「……用件を言って」

「ふふ、焦らないで。君への、素晴らしいプレゼントを用意したんだ。君を、ただのアイドル歌手ではない、真の”伝説”へと昇華させるための、究極の企画をね」


 Duskが語ったASMR企画の内容は、ひまりの麻痺しかけた倫理観をもってしても、正気の沙汰とは思えないものだった。


「――アートだ、ステラ」


 Duskは、うっとりとした声で語った。


「君と私が交わる、その聖なる瞬間の”音”を、作品として全世界に配信する。姿は見せない。画面には、君の美しいイラストを一枚表示させるだけ。リスナーたちは、君の息遣いや、そして甘いささやきだけを頼りに、想像するんだ。これほど、人間の本能を刺激する芸術が他にあるだろうか?」

「……狂ってるわ」

「芸術とは、常に狂気の産物だよ。そして、伝説とは、誰もやらなかったことを成し遂げた者の上にのみ築かれる。神楽坂が君に与えるのは、ただの”成功”だ。だが、私が君に与えるのは、”伝説”だ。どちらが、君に相応しい?」


 伝説。その言葉が、ひまりの心の空虚な部分に、毒のように染み渡った。もう、普通の成功では、彼女の心は満たされなくなっていた。より強い刺激、より絶対的な賞賛、より過激な背徳感。そうでなければ、自分が生きているという実感さえ、もはや得られなくなっていたのだ。これは仕事。これはアート。これは、伝説になるための儀式――ひまりは、壊れたレコードのように、自分にそう言い聞かせた。


「……いいわ。やりましょう、そのアートとやらを」


 数日後、ひまりはDuskが用意した、都内の高級マンションの一室にいた。そこは、レコーディングスタジオと見紛うばかりの、完璧な防音設備が整えられていた。部屋の中央にはキングサイズのベッドが置かれ、その枕元には、人間の耳の形を模した高性能なバイノーラルマイクが鎮座している。あれが、これから繰り広げられるであろう自分たちの行為を拾い上げるのだ。


「準備はいいかい、ステラ?」


 バスローブ姿のDuskが、背後からひまりの肩を抱いた。ひまりは、シルクのネグリジェを身にまとったまま、無言でうなずく。配信画面には、すでにカバーイラストが表示されていた。人気イラストレーターによる、憂いを帯びた表情でこちらを見つめる妖艶なステラの一枚。タイトルは、ただ一言。


【For My Dearest Listeners...】


 時間になると、ひまりはマイクの前に、Duskに促されるまま横たわった。Duskはその隣に静かに身を滑り込ませる。約束どおり、彼は一切声を発さない。すべてのパフォーマンスは、ステラ一人の双肩にかかっていた。


 配信開始のボタンが押される。あっという間に視聴者数は数万人規模に膨れ上がった。深夜のゲリラ配信、そして意味深なタイトル。ファンたちの期待は、最高潮に達していた。


「……こんばんは、ステラです」


 最初の声は、自分でも驚くほど震えていた。だが、リスナーはそれを好意的に解釈した。


:ステラ様、声震えてる……緊張してるの?

:今日の配信、いつもと全然違う……ドキドキする


「ふふ……ごめんなさい。今夜は、みんなのことを思うと、なんだか胸がいっぱいで……。少しだけ、感傷的になっているのかもしれないわ」


 そうささやいた瞬間、Duskの手がネグリジェの薄い布地の上から、ひまりの太ももをゆっくり撫で上げた。


「――っ!」


 びくり、と身体が跳ねる。漏れそうになる息を、必死で飲み込んだ。マイクは、衣擦れの音を正確に拾っている。


:今の音、なに!?

:布がこすれる音……? え、もしかして……

:ステラ様、脱いでる!?


 コメント欄が、ざわつき始める。


 Duskの指は、さらに大胆に、ひまりの身体を探索していく。ネグリジェの裾から滑り込み、無防備な素肌に触れる。その冷たい指先の感触に、ひまりはあえぎそうになるのを必死でこらえた。


「みんなのコメント……見てるわ。一つ一つが、私の宝物……。本当に、ありがとう……っ」


 語尾が快感で微かに震える。だが、それすらも、リスナーには感動で声が詰まったようにしか聞こえない。


「んんっ……!」


 もう、ごまかしきれない。ひまりは、とっさにマイクに向かってささやいた。


「ん……みんなの声、もっと、聞かせて……?」


 それは、絶望的な状況が生んだ、天才的なアドリブだった。漏れ出た声を、リスナーへの呼びかけへと瞬時に変換したのだ。


:うおおおおお!

:はい! ここにいます!

:ステラ様! 愛してる!


 コメント欄は熱狂の渦に包まれた。そして、その熱狂に比例するように、【LIBIDO GAUGE】が凄まじい勢いで上昇を始めた。


「はっ……ぁ……ぅ……」


 息が、どんどん荒くなっていく。もう、普通の言葉を紡ぐことさえ難しい。


「みんなを……思うと……っ、息が、はぁっ……上がっちゃう……みたい……」


 マイクは、残酷なまでに高性能だった。ひまりの荒い息遣い、必死に声をこらえる喉の音、湿った水音。それらすべてが組み合わさって、ひとつの倒錯的な音楽となり、リスナーたちの鼓膜を直接愛撫する。もはや、コメント欄は言葉にならない絶叫で埋め尽くされていた。


「――あっ……!」


 ステラは絶叫を押し殺し、シーツを強く握りしめた。ベッドがぎしり、と軋む音を立てた。その音さえも、マイクは拾ってしまう。


「だめ……っ、もう……そんなに、愛されちゃったら……私……」


 途切れ途切れの、懇願するような声。リスナーには、それは「みんなの愛が強すぎて、もうだめ……」という甘い悲鳴に聞こえた。だが、本当は違う。


(やめて、もう、やめて……! これ以上は、本当に、壊れちゃう……!)


 波が、何度も、何度も、ひまりの意識を刈り取りに来る。思考はとうの昔に麻痺し、身体は、ただ与えられる感覚に、獣のように正直に反応するだけの肉塊と化していた。


 だめだ。絶叫だけは、上げてはいけない。最後まで、ステラを演じきらなければ。最後の理性を総動員し、ひまりはマイクに唇を寄せた。


 全身が大きく弓なりに反り、硬直する。意識が真っ白に染め抜かれた。その、絶頂の、ほんの一瞬前。ひまりは最後の力を振り絞り、震える声で、こうささやいた。


「……愛してる」


 その言葉を最後に、配信は、ぷつりと切れた。【LIBIDO GAUGE】はとっくの昔に振り切れ、アプリが計測できる上限値をはるかに超えていた。


 静寂が、部屋に戻る。Duskは満足げに息をつくと、汗で濡れたステラの髪を優しく撫でた。ステラは、虚ろな瞳で、天井の染み一つない白を見つめていた。身体は、まだ余韻で小さく痙攣している。だが、心は、完全に凪いでいた。いや、凪いでいるのではない。死んでいるのだ。自分の声が、身体が、魂が、完全に切り刻まれ、コンテンツとして消費された――その事実だけが絶対的な虚無感となって、彼女を支配していた。


 ステラ(ひまり)は、静かに、一筋の涙を流した。


☆☆☆


 ステラのメジャーデビューアルバム【Galactic Tears】は、発売初週でミリオンセラーを記録した。神楽坂怜の完璧なプロデュース戦略と、Duskとの禁断のASMR配信によって伝説化されたステラの存在は、社会現象という言葉すら生ぬるいほどの熱狂を巻き起こした。彼女の歌声は、昼はラジオやテレビから、夜は若者たちのイヤホンから、この国の隅々にまで染み渡っていった。


 そして今夜、その集大成であるデビュー記念ライブが、ドームで開催されていた。五万人の観客が掲げるペンライトの光が、銀河のような絶景を作り出している。その中心、巨大なステージに立つステラは、もはや人間ではなく、まさしく降臨した女神そのものだった。


「――ありがとう。私の星たち」


 最後の曲を歌い終え、マイクを通してささやいた言葉に、ドーム全体が割れんばかりの歓声で揺れる。銀色の髪をなびかせ、完璧な笑みを浮かべるステラ。その姿に、誰もが心を奪われ、熱狂し、涙を流していた。だが、そのバイオレットの瞳の奥深く、ステージの強烈なライトさえも届かない魂の深淵に、何の光も宿っていないことに、気づく者は誰もいなかった。


 ステラ(ひまり)の心は、とうの昔に壊れていた。メジャーデビューしてからの日々は、人間としての感覚を麻痺させるには十分すぎるほどの、目まぐるしい喧騒に満ちていた。感情は、スケジュールという名のベルトコンベアの上で、ただの不要な部品として削ぎ落とされていく。今の彼女を動かしているのは、もはや承認欲求ですらなかった。ただ、求められるステラという完璧な偶像を演じ続けることへの、機械的な義務感。そして、その行為の果てに得られる【LIBIDO GAUGE】という名の、刹那的な刺激だけだった。


 ライブが終わり、鳴りやまないアンコールを振り切ってステージを降りたステラを、バックステージで神楽坂が出迎えた。


「素晴らしいステージだった。売上も、事前の予測を大幅に上回るだろう。君という商品は、まさに最高傑作だ」


 彼は、汗ひとつかいていない冷徹な顔で、ビジネスの成功を祝福した。


「ありがとうございます、プロデューサー」


 ステラもまた、感情の抜け落ちた完璧な笑みで応える。


「だが、本当の仕事はこれからだ」


 神楽坂は、当然のように続けた。


「君をここまで支えてくれた、最も貢献度の高いファンへの、特別なファンサービスの場を用意してある」


 言葉の意味を理解するのに、時間はかからなかった。案内されたのは、ステージ裏に設えられた、豪華なVIPルームだった。そこには、何故かDuskが、闇色の笑みを浮かべて待っていた。


「やあ、ステラ。君が、地上に舞い降りた女神から、神話そのものになる瞬間を、この目で見届けに来たよ」

「……どういうこと?」


 ステラの問いに答えたのは、神楽坂だった。


「簡単なことだ。君のアルバムには、十枚だけ、プラチナチケットを封入しておいた。それを手に入れた幸運なファンが、今夜、この場所で、君と直接会う権利を得る」

「ファンミーティング……?」

「そうだ。だが、ただのファンミーティングではない」


 Duskが、うっとりとした表情で言葉を引き継いだ。


「神は、信者の祈りに応えるものだ。そして、信者の最も根源的な祈りとは何か?――偶像との、一体化だ。今夜、君は十人の選ばれし信者に、その身をもって、究極の救済を与えることになる。それは、もはやエンターテインメントではない。宗教的な儀式だよ」


 おぞましい想像が、ひまり(ステラ)の脳裏に浮かんだ。だが、もう、恐怖も、嫌悪も、湧き上がってはこなかった。心が壊れているというのは、こういうことなのだ。ただ、これから起きるであろう事実を、天気予報を聞くように、淡々と受け止めている自分がいるだけだった。


(ああ、そう。そうなんだ)


 これが、成功の対価。これが、伝説になるということ。納得、ですらなかった。ただ、理解した。


 ドアが開き、十人の男たちが部屋に入ってくる。年齢も、雰囲気もばらばらだったが、その瞳だけは、全員が同じ色をしていた。理性を焼き切った、狂信的な欲望の色。彼らは、ステラを女神と崇めながら、同時に、これから蹂躙する獲物として見ていた。


「ステラ様……!」

「ああ、本物だ……!」


 男たちは、震える声でステラの名を呼び、その前にひざまずいた。

 ひまりは、ゆっくりと目を閉じた。そして、最初の男が、震える手で彼女のドレスに触れた瞬間、彼女の意識は、肉体から完全に切り離された。


 ――ここからは、ただの「記録」だった。


 一人目、二人目、三人目……。男たちが、代わる代わる、女神の肉体を貪っていく。そのたびに、【LIBIDO GAUGE】は狂ったように上昇を続けた。アプリからは警告音のような甲高い音が鳴り響き、ゲージは何度も振り切れ、その上限値を書き換えていく。それは、もはやエネルギーというよりも、魂を喰らう呪詛の奔流だった。ステラ(ひまり)の意識は、その奔流の中で、さらに深く、暗い場所へと沈んでいった。痴漢の記憶がよみがえる。Duskに抱かれた夜がよみがえる。トイレで自らを慰めた、あの日の絶望がよみがえる。だが、それらの記憶さえも、もう何の痛みも伴わなかった。すべてが、他人事のようだった。


 十人の男たちが、欲望の残滓を残してVIPルームから去った後、部屋には不気味なほどの静寂が訪れた。 床に転がされたままのステラは、人形のように動かなかった。汚れた身体、虚ろな瞳。彼女は、もはや呼吸をしているだけの、美しい肉塊にすぎなかった。


 部屋のドアが静かに開き、神楽坂とDuskが入ってくる。 神楽坂は、床に転がるステラを一瞥すると、興味なさげに肩をすくめ「後処理は任せる。私は次のビジネスプランを練る」と言い残し、部屋を出て行った。


 "最後の仕上げ"を終えたDuskは、名残惜しそうに汗ばんだステラの額に、一度だけ、所有の証を刻むかのように、唇を押し付けた。 そして、彼は満足げに立ち上がると、服を整え、静かに部屋を去っていった。 後に残されたのは、”完成”させられてしまった、美しい人形だけだった。


 横たわるステラの身体から、ふ、と力が抜けた。 魔法の時間が、終わろうとしていた。 身体の輪郭が、微かに揺らぎ始める。銀色の髪が、その輝きを失っていく。 やがて、光の粒子が、その穢された肉体を包み込み、分解していく。


 光が収まった時、そこに横たわっていたのは――。 いつもの制服姿の、小さな、星空ひまりだった。 彼女の身体には、いつも通り、傷一つなかった。 清らかな、無垢な、処女のままの身体。 ただ、その瞳だけが、磨りガラスのように白く濁り、どんな光も、どんな感情も、映し出してはいなかった。


☆☆☆


 世界から、色が消えた。


 VIPルームで魂を摩耗させてから、どうやって帰宅したのか記憶が曖昧だった。食事の味はせず、ただ砂を噛むように栄養を摂取する。眠りは訪れず、ただ意識が途切れるだけの時間をやり過ごす。感情の起伏は、完全に消失していた。悲しみも、苦しみも、喜びも、もはや何もない。空っぽの器の中で、冷たい風が吹き抜けていくだけだった。


 ひまりは自室のベッドの上で、人形のように天井を見つめていた。ステラとしての仕事もない、静かな夜。そんな静寂が、彼女に残された最後の、そして最も根源的な恐怖を呼び覚ます。


 ふと、枕元のスマートフォンに目がいく。まるで生命維持装置のモニターを見るかのように、彼女は【Metamorphose】のアプリを起動した。画面の隅に表示された、二つのゲージ。虹色の【LIKE GAUGE】は、メジャーデビューの熱狂によって、いまだに上限値で輝き続けている。だが、問題は、もう一つのゲージだった。深紅の【LIBIDO GAUGE】。計測不能なほどのエネルギーを叩き出したゲージは、新たな供給がない今、まるで砂時計の砂が落ちるように、ゆっくりと、しかし確実に、その数値を減らし始めていた。


 それを見た瞬間、ひまりの空っぽの心に、唯一残された感情の残滓が、警鐘のように鳴り響いた。恐怖。だが、それは、かつて感じたような、人間的な恐怖ではなかった。誰かに嫌われるかもしれないという不安ではない。自分の居場所がなくなるかもしれないという孤独感でもない。もっと、本能的で、根源的な恐怖。――ゲージがゼロになる。それは、自分という存在が、この世界から完全に”消滅”することを意味するのではないか。誰からも求められず、誰からも欲望されず、エネルギーを得られなくなった時、この空っぽの器は、塵となって消えてしまうのではないか。


(溜めなければ)


 思考ではない。それは、飢えた獣が餌を求めるような、抗いがたい衝動だった。


(ゲージを、溜めなければ)


 ひまりは、無意識に、変身シークエンスを始めようとした。ステラにならなければ。あの完璧な身体で、人々を熱狂させなければ。だが、画面には、無慈悲なメッセージが表示された。


『ERROR: CONTINUOUS ACTIVITY TIME EXCEEDED. COOL DOWN REQUIRED.』


 今日のステラの活動時間は、とうに限界を超えていた。次の変身が可能になるまで、まだ12時間以上も待たなければならない。変身できない――その事実が、ひまりの心を、最後の崖っぷちへと追い詰めた。どうすればいい? ステラになれないのなら、どうやってゲージを溜めればいい? 正常な判断能力を失った彼女の脳裏に、一つの、最も単純で、最も破滅的な答えが浮かび上がった。


 ステラになれないのなら。ひまりのままで、やればいい。


 その考えに至った時、彼女の心には、何の躊躇も、葛藤もなかった。良いことか悪いことか。恥ずかしいことか、そうでないか。そんな判断基準は、とうに壊れてしまっているのだから。


 ひまりは、機械のような、ぎこちない動きでベッドから起き上がると、スマートフォンを手に取った。【KiraraLive】のアプリを開く。そして、【ステラ】の輝かしい公式チャンネルではなく、【新規チャンネル作成】のボタンを、何の感情もなくタップした。チャンネル名は付けない。サムネイルも設定しない。ただ、そこにあるのは、匿名で、誰でも、何の目的もなく始められる、空っぽの配信枠だけだった。


 部屋の照明を落とし、勉強机のデスクライトだけをつける。スマートフォンをブックスタンドに立てかけ、カメラの角度を調整した。胸から下、太もものあたりまでが映るように。決して、顔が映り込まない、完璧な角度。すべては、手慣れた作業だった。ただ、今からカメラの前に立つのが、ステラではなく、ひまりであるという一点を除いて。


 配信開始。画面の隅に表示される同時接続数は「0」。ひまりは、無言のまま、カメラの前に立った。見慣れた、地味な服装。少しだけくたびれたブラウスと、膝丈のスカート。やがて、数字が「1」に変わり、ぽつりとコメントが流れた。


:誰?


 ひまりは、反応しない。数字が、3、5、10と、少しずつ増えていく。深夜の、誰とも知れない、顔も映らない配信。好奇心を持った夜更かしの人間たちが、何事かと集まってきていた。


:無言配信?

:何これ、放送事故?

:顔見せろよ


 戸惑いと、少しの苛立ちが混じったコメント。ひまりは、それらを、ただの情報として認識するだけだった。そして、アプリの画面に表示された【LIBIDO GAUGE】が、まったく動いていないことを確認する。


(これでは、だめだ)


 ひまりの指が、ゆっくりと、自分のブラウスの一番上のボタンにかけられた。その、ほんのわずかな動きに、コメント欄が、ざわりと揺れた。


:え?

:おいおい、まさか……


 一つ、また一つと、ボタンが小さな音を立てて外れていく。ひまりの心は、凪いでいた。まるで、着古した服を脱ぐかのように、彼女は、ただ淡々と、自らの制服を脱ぎ捨てていく。ブラウスがはだけ、あどけないレースの縁取りがついた白いブラジャーが露わになる。スカートのホックが外され、床に落ちる。残されたのは、上下揃いの、何の変哲もない下着姿の、ただの少女。


 コメント欄の空気が、一変した。戸惑いは、興奮へと変わる。


:うおおおおおお! マジか!

:現役? コスプレ? どっちにしろ最高!

:もっと見せろ!


 むき出しの欲望が文字となって画面を埋め尽くす。そして、それに呼応するように、深紅の【LIBIDO GAUGE】が、ほんの微かに、ぴくりと動いた。


(……足りない)


 ひまりの指が、ブラジャーのホックへと伸びる。背中に手を回し、慣れない手つきで金具を外すと、彼女の小さな胸が、重力に従って、頼りなげに解放された。まだ、あどけなさを残す、淡い色の乳輪。さらに、ショーツのゴムに指がかかる。


:やべええええええ!

:全部脱ぐのかよ! 神配信!

:どこまで脱ぐの? 金出すぞ!


 下劣な言葉の洪水。かつてのひまりなら、その一言一言に深く傷つき、絶望しただろう。だが、今の彼女には、その言葉の意味さえ届いていなかった。彼女が見ているのは、ただ一つ。ゲージの数値だけ。


 やがて、カメラの前には、生まれたままの姿の星空ひまりが立った。地味で、垢抜けない、どこにでもいる十八歳の少女の、生身の身体。ステラのような、神々しいまでの完璧さはない。だが、それ故に、それは、あまりにも生々しく、倒錯的な魅力を放っていた。


(……まだ、足りない)


 その夜、ひまりは世界に自らの全てをさらけ出した。


 画面が暗転する。部屋に静寂が戻った。ひまりは、スマートフォンを机の上に置くと、ふらふらとベッドに戻り、そこに倒れ込んだ。


 彼女は、何を得たのだろう。【LIBIDO GAUGE】は、確かに溜まった。消滅の恐怖は、一時的に遠のいた。だが、その代償として、失ったものは?


 ステラとひまり。その二つを隔てていた、最後の、そして最も重要な境界線。理想(ステラ)の身体ではなく、現実(ひまり)の身体という、最後の聖域。それを、彼女は、自らの手で汚し、コンテンツとして切り売りした。


 もう、どこにも、逃げ場所はない。ステラは、無数の男たちによって汚された。そしてひまりは、自らの手で、世界中の見知らぬ人々の前に、その身を晒した。


 ひまりの瞳から、光が完全に消えた。星空ひまりという少女を構成していた、最後の欠片が、今夜、彼女自身の手によって、粉々に砕け散った。


☆☆☆


 夜は、月白奏太にとって聖なる時間だった。バスケの練習で疲れた身体をベッドに投げ出し、部屋の明かりを消す。暗闇の中、スマートフォンの画面だけが、まるで祭壇の灯火のように煌々と輝く。そこに映し出されるのは、ただ一人の女神、ステラ。


「……はぁ。やっぱ、すげえな」


 その日も、奏太は数日前のライブのアーカイブ映像を、もう何度目か分からないほど見返していた。ドームを揺るがす圧倒的な歌声、五万人の視線を一身に集めるカリスマ性、そして、ふとした瞬間に見せる、憂いを帯びた儚げな表情。そのすべてが、奏太の心を掴んで離さなかった。彼女は、完璧な存在だ。地味で、冴えなくて、いつも自信なさげに俯いている幼馴染のひまりとは、何もかもが正反対。奏太はひまりのことも気にかけてはいたが、それは庇護欲に近い感情だった。だが、ステラに対して抱くのは、純粋な憧れと畏敬の念、そしてティーンエイジャーらしい淡い恋心だった。


 動画が終わり、エンドロールが流れ始める。奏太は、満たされたため息をつくと、画面を閉じようとした――その時だった。【KiraraLive】の自動再生機能が作動し、画面が暗転した後、次の動画へと切り替わった。タイトルはない。サムネイルもない。ただ、薄暗い、誰かの部屋らしき場所が映し出されているだけだった。


「んだこれ? 放送事故か?」


 怪訝に思いながらも、奏太は画面を見つめた。深夜のネットサーフィンでは、時折こういう偶然のハプニングに出くわすことがある。やがて、カメラの前に、一人の少女がフレームインしてきた。顔は映っていない。胸から下、太もものあたりまでが、ぼんやりとしたデスクライトに照らされている。着ているのは、見慣れたデザインの制服だった。


:誰?

:JKか?


 コメントが流れ始め、奏太の心臓が、どきりと跳ねた。これは、もしかして、いわゆる()()()()配信なのではないか。健全な男子である奏太の身体に、じわりと熱が集まる。いけないことだと分かっていながらも、視線を逸らすことができない。


 少女は、無言のまま、自分のブラウスのボタンに、ゆっくりと指をかけた。その、ためらうような、しかし確実な指の動きに、奏太はごくりと喉を鳴らした。コメント欄が、一気に興奮のるつぼと化す。


:おいおい、脱ぐのかよ!

:神配信キターーー!


 一つ、また一つとボタンが外れ、白いブラジャーが露わになる。スカートが床に落ち、上下揃いの、何の変哲もない下着姿が晒された。


(うわ……マジかよ……)


 奏太の心臓は、破裂しそうなほど激しく脈打っていた。背徳的な興奮が、彼の理性を麻痺させていく。だが、その時だった。彼の目の端に、少女の背景に映る、あるものが引っかかった。


 机の隅。ブックスタンドの隣に、小さなコルクボードが立てかけられている。そこに、作りかけの、星の形をした小さなピアスが、ピンで留められていた。


(……あれ?)


 既視感。少しだけいびつな星の形。ビーズの素朴な色合い。それは、昔、幼馴染のひまりが「練習で作ってみたんだ」とはにかみながら見せてくれた、手作りのアクセサリーによく似ていた。


(……いや、まさかな)


 奏太は、頭を振った。そんなはずがない。手芸が趣味の女子なんて、日本中にごまんといる。ただの偶然だ。そう自分に言い聞かせ、再び画面に集中する。


 少女の指が、ブラジャーのホックに伸び、そして、ショーツのゴムにかかる。そのすべてが、スローモーションのように見えた。やがて、生まれたままの姿になった少女の、白く、まだあどけなさを残す身体。奏太は、息を飲む。興奮は、最高潮に達していた。


 だが、違和感は消えない。あの部屋。どこかで、見たことがあるような気がする。カーテンの、少しだけ色褪せた花柄。勉強机の、端が少しだけ剝げた木目。そして、何よりも。少女の、その身体つき。ステラのような、完璧でグラマラスな肉体ではない。もっと、華奢で、頼りなくて、奏太がずっと隣で見てきた、よく知る誰かの……。


(やめろ、考えるな)


 奏太は、自分の思考を無理やりねじ伏せた。これは、ただのそういう配信だ。それ以上でも、それ以下でもない。深く考えるだけ、野暮だ。


 そして、ついに、その瞬間が訪れた。少女の身体が、大きく、一度だけ、弓なりにしなる。その瞬間。彼女の唇から、今まで必死に抑えていたであろう、甲高い声が、迸った。


「――ひゃっ……ぁ……っ!」


 それは、言葉ではなかった。ただの、臨界点に達した、叫び。だが、その音色を、その声の震えを、月白奏太は、知りすぎていた。小さい頃、転んで泣きじゃくっていた時の声。中学の時、合唱コンクールで、緊張しながらも必死に歌っていた時の声。そして、学校の廊下で、何かから逃げるように彼を振り払った時の、あの悲痛な声。


 間違いない。あれは、星空ひまりの声だ。


 配信が、ぷつりと終わる。部屋に、完全な静寂が戻った。スマートフォンの画面は真っ暗になり、そこに、呆然とした自分の顔が映っている。


 奏太は、動けなかった。興奮は、もう跡形もなく消え去っていた。後に残ったのは、胃の奥からせり上がってくるような、強烈な吐き気と、絶対的な寒気。頭の中で、バラバラだったピースが、悍ましい形に組み上がっていく。作りかけの、星のピアス。見覚えのある、部屋の景色。華奢な、身体つき。そして、決定的な、あの声。


 あの配信は、ひまりだったのだ。


 奏太の心の中で、何かが、音を立てて崩れ落ちた。一つは、ステラへの、純粋な憧れ。今となっては、あの完璧な偶像の裏に、自らを慰める幼馴染の姿が、どうしてもちらついてしまう。そして、もう一つは――幼馴染・星空ひまりへの、長年抱いてきた”守るべき存在”という、ある種の聖域。


 彼女が、なぜ? 一体、何があったら、あんなことを? 最近、様子がおかしかったのは、このせいだったのか? 最近休みがちだったのは、このせい?


 混乱と、恐怖と、そして、これまで感じたことのないほどの、深い、深い悲しみ。奏太は、スマートフォンをベッドに放り出すと、両手で自分の頭をかきむしった。ひまりの、あの虚ろな喘ぎ声が、耳から離れない。それは、助けを求める悲鳴のように、奏太の心を、いつまでも、いつまでも締め付け続けた。


☆☆☆


 秋風が、枯れ葉をアスファルトの上で乾いた音を立てて転がしていく。放課後の帰り道。夕焼けが、空と校舎を茜色に染め上げていた。かつては、この何気ない日常の風景の中に、小さな温もりを感じられたはずだった。だが、今の星空ひまりにとって、世界はただの色のない、音のない、意味のない情報の羅列にすぎなかった。


 彼女は、ただ歩いていた。感情も、思考もなく、プログラムされた通りに手足を動かす人形のように。学校が終わり、家に帰る。その、あまりにも単純なルーティンを、ただこなしているだけだった。


「――ひまり!」


 背後から、自分を呼ぶ声がした。ひまりは、足を止めなかった。その声が誰のものであるかは、認識できた。月白奏太。隣に住む、幼馴染。だが、その情報が、彼女の心に何のさざ波も立てることはなかった。彼は、風景の一部だった。電信柱や、自動販売機と、何ら変わりない。


「待てよ、ひまり!」


 駆け寄ってきた奏太が、ひまりの行く手を阻むように、目の前に回り込んだ。バスケ部の練習帰りなのだろう、少し汗の匂いがした。息が弾んでいる。その、あまりにも生々しい「生」の気配に、ひまりは無意識に、ほんの少しだけ顔をしかめた。


「……なに?」


 ひまりの唇から漏れたのは、温度というものがまったく感じられない、ガラスの破片のような声だった。


 奏太は、その声と、ひまりの虚ろな瞳に、一瞬言葉を失った。あの日、あのおぞましい配信を見てしまってから、奏太はずっと地獄の中にいた。眠れぬ夜を過ごし、何度も、あれは間違いだったのだと思おうとした。だが、学校で見るひまりの姿は、彼の絶望を肯定するばかりだった。魂が抜け落ちたかのように、ただ機械的に動く姿。誰とも視線を合わせず、まるでこの世界にいないかのように、ただ存在するだけの少女。


「……お前、最近、本当におかしいよ」


 奏太は、意を決して切り出した。声が、自分でも情けないほどに震えているのが分かった。


「ちゃんと、飯食ってるのか? 顔色、真っ青だぞ。授業中も、ずっとぼーっとしてるし……。何か、あったんだろ? 俺、何かしたか?」


 その言葉は、ひまりの耳を通り抜け、意味をなさずに消えていった。おかしい? 何が? 私は、いつも通りだ。学校へ行き、授業を受け、家に帰る。何一つ、変わらない。


「……別に。何も」


 ひまりは、奏太の脇をすり抜け、再び歩き出そうとした。


「待てって!」


 今度は、奏太は、ひまりの腕を強くつかんだ。――その瞬間だった。


「―――っ!」


 ひまりの身体が、氷のように硬直した。


 腕をつかまれた。男に。その、あまりにも直接的な情報が、閉ざされていたひまりの心の扉を、無理やりこじ開ける。記憶の濁流が、奔流となって、空っぽの器に流れ込んできた。


 満員電車での、粘つく指の感触。Duskの、魂を暴くような冷たい指。神楽坂の、商品を検分する無機質な指。そして、あの夜の、VIPルームでの、無数の、おぞましい、男たちの、手、て、テ、て、テ、テ―――。


「いや……っ」


 ひまりの口から、か細い悲鳴が漏れた。身体が、意思に反して、ガタガタと震え始める。過呼吸になり、息がうまくできない。


「ひまり!? どうしたんだ、しっかりしろ!」


 奏太は、彼女のあまりの変貌ぶりに狼狽し、さらに強くその肩をつかんで揺さぶった。


「誰かに、何かされたのか!? 言えよ、ひまり! 俺が、なんとかしてやるから!」


 奏太の言葉は、善意からだった。純粋な、幼馴染を想う心からの、必死の叫びだった。だが、その善意が、今のひまりにとっては、最も残忍な暴力となった。やめて。思い出させないで。私は、何も感じない、空っぽの人形になることで、やっと呼吸ができているのに。その優しさで、私の世界を、壊さないで。


 ひまりは、最後の力を振りしぼり、奏太の手を振り払った。乾いた、拒絶の音が、夕暮れの道に響く。奏太は、弾かれたように、二、三歩後ずさった。


 ひまりが、顔を上げる。その瞳には、もはや虚ろな光さえなかった。ただ、絶対的な”無”が、そこにあるだけだった。そして、その”無”の奥から、彼女は、最も言ってはならない、最も残酷な言葉を、紡ぎ出した。


「……うるさいな」


 冷たく、静かな声だった。だが、その言葉は、どんな罵声よりも、奏太の心を深く抉った。


「奏太には、関係ない」


 それは、突き放す、というレベルではなかった。それは、存在そのものの、完全な否定だった。小さい頃から、ずっと隣にいた。嬉しいことも、悲しいことも、一番近くで見てきた。お互いの人生が、交差しているのが当たり前だった。その、すべての歴史を、思い出を、絆を、彼女は今、この一言で、完全に切り捨てたのだ。


「……っ」


 奏太は、言葉を失った。まるで、頬を全力で殴られたかのような衝撃。頭が、真っ白になる。ひまりの瞳を見つめ返す。そこに映っているのは、憎しみでも、怒りでも、悲しみでもない。ただ、邪魔な石ころを見るような、絶対的な無関心。それが、何よりも、奏太の心を折った。


「もう、話しかけないで」


 ひまりは、そう言い残すと、くるりと背を向けた。そして、一度も振り返ることなく、夕闇に沈んでいく道を、人形のような足取りで、去っていった。ひとり、その場に取り残された奏太は、動けなかった。伸ばしたままの自分の手が、ひどく空虚に見えた。助けたかった。守りたかった。力になりたかった。だが、届かなかった。それどころか、彼女をさらに深く傷つけ、拒絶された。


 関係ない。――その言葉が、木霊のように、頭の中で何度も繰り返される。そうか。関係、ないのか。俺は、もう……。


 夕焼けが、完全に沈み、一番星が空に瞬き始めた。奏太とひまりの間に、深く、冷たく、そしてもう二度と渡ることのできない、決定的な溝が生まれた瞬間だった。彼は、ただ、遠ざかっていく幼馴染の小さな背中を、唇をかみしめながら、見つめていることしかできなかった。


☆☆☆


 魂が消え去った器に、安息の地はない。星空ひまりという少女の心が死んだ後も、ステラという商品は、その価値を失ってはいなかった。むしろ、その逆だった。感情というノイズが消え、完全に制御可能となったその肉体は、創造主であるDuskにとって、究極の芸術作品となっていた。


 その日、ひまりはステラの姿で、都内某所のペントハウスにいた。そこは、誰かの生活を感じさせる場所ではなかった。家具は最低限に抑えられ、部屋の中央には、シーツの色さえも計算され尽くした、巨大な円形のベッドが鎮座している。そのベッドを取り囲むように、複数の無人カメラ、照明機材、そして高性能な集音マイクが、冷たい機械の目で被写体を狙っていた。ここは、Duskが所有する、プライベートな撮影スタジオだった。


 ステラは、ベッドの縁に、ただ座っていた。シルクのガウンを一枚羽織っただけの、完璧な肢体。その瞳は、虚ろに宙の一点を見つめ、瞬きさえも忘れているかのようだった。彼女は、電源の入っていない美しいアンドロイドのように、ただ、主の命令を待っていた。


「――準備は整ったようだね、私の最高傑作」


 部屋に入ってきたDuskは、監督椅子に腰かけると、満足げにステラの姿を眺めた。彼の服装は、ラフな黒のシャツとパンツ。これから情事に及ぶ男の姿ではなく、作品の出来栄えをチェックしに来た、アーティストのそれだった。


「今日のテーマは、”聖なる虚無”。魂が抜け落ちた器が、ただ快感という名の神の恩寵を受け入れ続ける。その、あまりにも純粋で、冒涜的な美しさを記録する」


 彼は、ステラに語りかけているのではない。これから創造する作品のコンセプトを、自分自身に言い聞かせているかのようだった。


「さて、始めようか」


 Duskが、ぱちん、と指を鳴らす。それが、開始の合図だった。



「―――カット!」


 Duskの声が、部屋に響いた。彼は、名残惜しむでもなく、すぐに身体を離すと、監督椅子に戻り、撮影されたばかりの映像の再生を始めた。


「……完璧だ。光、音、そして何より、”虚無”の表情。これぞ、私の最高傑作だ……」


 後に残されたのは、ベッドの上に無惨に横たわる、一体の美しい人形。魔法の時間が終わり、やがてその姿は、光と共に消えていく。後に残るのは、いつも通り、傷一つない、星空ひまりの身体。だが、その魂のキャンバスには、また一つ、決して消すことのできない、おぞましい瑕が、描き加えられてしまったのだった。


☆☆☆


 その日、都市はいつもと同じ顔をしていた。人々は忙しなく交差点を渡り、スマートフォンに視線を落とし、ランチのメニューを悩み、ありふれた日常という名のタペストリーを織り上げていく。スクランブル交差点。林立するビルの壁面に設置された巨大なデジタルビジョンは、最新のポップソングのミュージックビデオや、きらびやかな化粧品のコマーシャルを、飽きることなく垂れ流していた。


 星空ひまりは、その群衆の中にいた。学校を早退し、目的もなく、ただ人の流れに身を任せて歩いていた。魂が消え去ってからというもの、彼女は時折こうして、雑踏の中に自らの空虚な器を置くことで、かろうじて存在の輪郭を保っていた。誰も彼女のことなど見ていない。その完全な匿名性が、今の彼女にとっては唯一の安息だった。


 その、瞬間は、何の前触れもなく訪れた。ブツッ、というノイズと共に、交差点を囲むすべての大型ビジョンが、一斉に暗転した。陽気な音楽が途絶え、色鮮やかな映像が消える。人々は、何事かと足を止め、一斉に空を見上げた。


 数秒の静寂。そして、漆黒の画面に、一つの紋章がゆっくりと浮かび上がった。―――漆黒の薔薇と、金の蝶。


 ざわ、と群衆がどよめく。


「え、何これ?」


 人々の戸惑いと期待が入り混じった、その刹那。すべてのスクリーンに、映像が映し出された。


 そこに映っていたのは、ひまりにとって見覚えのある、ペントハウスの一室だった。そして、円形のベッドの上に横たわる、銀色の髪の女神(ステラ)


「―――は?」


 ひまりの足が、アスファルトに縫い付けられたように、ぴたりと止まった。思考が停止する。なぜ。あれは、Duskが”作品”と呼んでいた、あの動画。世に出るはずのない、二人だけの、冒涜的な記録。それがなぜ、今、白昼の大型ビジョンに。


 そのすべてが、数十メートルの巨大なスクリーンに、ハイビジョン画質で、克明に映し出されていく。


 群衆は、最初、呆然としていた。やがて、それが何であるかを理解した時、悲鳴と、歓声と、どよめきが、スクランブル交差点を支配した。


「うそ……だろ……」

「やばい! 公共の場で流していい動画じゃないだろ!」

「ステラ様……なんて姿に……!」

「最高だ! もっと見せろ!」


 スマートフォンを取り出し、食い入るように撮影を始める者。顔を真っ赤にして、興奮したように叫ぶ者。子どもの目を、必死で覆う親。純粋なファンだった少女たちの、絶望の悲鳴。


 だが、それは、ただの放送事故ではなかった。Duskの、悪意に満ちた魔術だった。映像と共に、スクリーンからは、人間の可聴域ギリギリの、特殊な周波数が放たれていた。それは、人々の心の奥底に眠る、欲望や、嫉妬、憎悪といった負の感情を増幅させる、呪いの音波。映像という視覚情報と、音波という聴覚情報。その二つが相乗効果となって、人々の理性の箍を、強制的に引きちぎっていく。


 交差点の空気が、みるみるうちに、ねっとりと粘度を増していくのが分かった。


「おい、てめえ、今ぶつかっただろ!」

「んだとコラ!」


 些細なきっかけで、男たちが殴り合いを始める。ショーウィンドウに飾られた高価なバッグを、恍惚とした表情で見つめていた女が、突然ハンドバッグでガラスを叩き割り始める。信号待ちをしていた車のクラクションが狂ったように鳴り響き、ドライバー同士が胸ぐらを掴み合っている。


 欲望が、解放されていく。食欲、物欲、支配欲、そして性欲。街のあちこちで、小さな暴動が連鎖的に発生していく。理性という名の薄皮を剥がされた人々は、もはや人間ではなく、ただの本能のままに動く、獣の群れだった。街は、わずか数分で、阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えた。


 ひまり(ステラ)は、その地獄の中心で、ただ、立ち尽くしていた。彼女の周りだけ、時間が止まっているかのようだった。暴徒と化した人々が、彼女のすぐそばを通り過ぎていく。だが、誰も彼女には気づかない。彼女は、この地獄を生み出した元凶でありながら、同時に、誰からも認識されない、透明な存在だった。


 彼女は、空を見上げていた。巨大なスクリーン。そこに映る、自分(ひまり)の、もう一人の自分(ステラ)の、汚されていく姿。ああ、そうか、とひまり(ステラ)は思った。魂が消え去った、その深淵の底で、一つの、絶対的な真実を理解した。


 私の身体は、私の魂は、ただの”燃料”だったのだ。Duskの芸術のため、神楽坂のビジネスのため、そして今、この街を地獄に変えるための、ただのエネルギー源。私が、特別な誰かになりたいと願った、あの夜の、小さな祈り。その果てに待っていたのは、輝かしいステージでも、誰かを幸せにする力でもなく、ただ、世界を破滅させるための、引き金になるという役割だけだった。


 絶望? もう、そんな人間的な感情は、どこにも残っていなかった。ただ、そこにあるのは、絶対的な”無”。そして、その”無”が、このおzpましい光景を、ただ、ただ、肯定している。


(これが、(ひまり)

(これが、(ステラ)の、本当の価値)

(これが、(ひまりとステラ)が、生まれてきた、意味)


 その時だった。ひまりのスマートフォンの画面が、ひとりでに点灯した。表示されているのは【Dusk】。


 ひまりは、人形のような、ぎこちない動きで、スマートフォンを耳に当てた。


『―――見ているかい、ステラ』


 電話の向こうから聞こえてくる、Duskの、恍惚とした声。その背後では、人々の悲鳴や、破壊音が、まるで交響曲のように鳴り響いている。


『美しいだろう? これが、人間の、剥き出しの姿だ。そして、この素晴らしい光景を生み出したのは、君だよ。君という、最高の芸術作品が、世界を、真実の姿へと導いている』


「…………」


『さあ、私の元へ来るんだ、ステラ。君はもう、光の世界にはいられない。君の居場所は、この私と同じ、すべてを絶望させ、支配する、闇の世界だけだ。共に、この世界の終わりを、見届けようじゃないか』


 甘い、誘惑の言葉。それは、ひまりに残された、最後の選択肢だった。光を捨て、闇へと堕ちる。すべてを諦め、Duskの道具として、芸術の一部として、永遠の虚無を生きる。それが、きっと、一番、楽な道なのだろう。


 ひまりは、ゆっくりと、スクリーンを見上げた。


 Duskの甘い誘いの言葉は、ひまりの耳を通り抜け、虚空に消えていった。今の彼女には、その言葉の意味を理解することさえできなかった。ただ、目の前で繰り広げられる、地獄の光景。巨大スクリーンに映し出される、自分の、もう一人の自分の、おぞましい記録。そして、それに煽られ、獣へと姿を変えていく、無数の人々。


 その、狂乱の群衆の中に、ひまりは、一つの影を見たような気がした。いや、それは幻だったのかもしれない。だが、彼女の壊れた心は、その幻影を、はっきりと捉えていた。夕暮れの帰り道。「奏太には、関係ない」――そう言って、自分が突き放した、幼馴染の、傷ついた顔。彼の、信じられないというように見開かれた瞳。絶望と、深い悲しみに彩られた、あの表情。


『―――奏太には、関係ない』


 そうだ。私は、彼を傷つけた。ずっと隣にいてくれた、たった一人の、大切な人を、私は、自分の都合で、最も残酷な言葉で、切り捨てた。


 なぜ? どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。ああ、そうだ。私は、怖かったのだ。汚れて、壊れてしまった自分を知られるのが。彼がくれる、まっすぐな優しさに、この汚れた身体が、心が、触れるのが。だから、彼を、遠ざけた。


 そして、今、この街で起きていること。殴り合う男たち。泣き叫ぶ子ども。破壊される日常。苦しむ、たくさんの、顔も知らない人々。その中心にあるのは、何?


 スクリーンに映る、ステラ。


(……ああ)


 ひまりの、白く濁っていた瞳に、ほんの僅かな光が宿った。それは、希望の光ではない。すべてを理解してしまった、絶望の光だった。


(私のせいだ)


 奏太を傷つけたのも。この街が、地獄になったのも。


(ぜんぶ、私の、せいだ)


 私が、「特別な誰かになりたい」なんて、愚かな願いを抱かなければ。私が、ステラという虚像に、溺れなければ。私が、快感に、承認欲求に、負けなければ。こんなことには、ならなかった。


 奏太は、今もきっと、どこかで傷ついている。この街の人々は、今、この瞬間も、苦しんでいる。その、すべての元凶は、私。星空ひまり。


 その、あまりにも単純で、絶対的な真実にたどり着いた瞬間。ひまりの空っぽだった器に、感情の濁流が、堰を切ったように流れ込んできた。罪悪感。後悔。自己嫌悪。そして、自分が犯した罪の大きさに、身を裂くような、耐えがたいほどの、痛み。


「あ……ああ……ああああああああああああ!」


 声にならない叫びが、喉から迸った。ひまりは、その場に崩れ落ち、アスファルトの上に蹲った。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」


 誰に言うでもない謝罪の言葉を、壊れたレコードのように、何度も、何度も繰り返す。涙が、枯れ果てたはずの瞳から、熱い奔流となって溢れ出した。もう、嫌だ。もう、耐えられない。私が、存在しているだけで、誰かが傷つき、世界が壊れていく。ならば、私が消えるしかない。この、すべての元凶である、私が。


 ひまりは、震える手で、スマートフォンを取り出した。すべての始まり。すべての元凶。この、呪われたアプリ。


【Metamorphose】


 その、黒と猫のアイコンを、ひまりは、憎悪と絶望を込めて、睨みつけた。これを、消せば。ステラという存在を、この世から完全に消し去れば。そうすれば、もう誰も傷つけずに済む。この、おぞましい連鎖を、終わらせることができる。


 ひまりは、アイコンを長押しした。画面の隅に表示される、小さな「×」印。あとは、これをタップするだけ。そうすれば、私は、ただの、空っぽで、無価値な、星空ひまりに戻れる。いや、もう、戻れなくとも、それでいい。せめて、これ以上、誰かを傷つけるだけの存在ではなくなる。


 指が、震える。あと、数ミリ。その、永遠のようにも思える距離を、指先が進もうとした、その瞬間だった。


『―――待て』


 頭の中に、直接、声が響いた。それは、いつも憎まれ口ばかり叩いていた、あのメタモルコンシェルジュの声だった。だが、今日のその声は、いつものような軽薄さはなく、どこか厳かで、そして静かな力強さに満ちていた。


「……ノヴァ……?」

『今、それを消したところで、何も解決しない。街の混乱が収まるわけでも、君が犯した罪が消えるわけでもない。ただ、逃げるだけだ』

「逃げて、何が悪いの! 私がいるから、みんなが不幸になるんじゃない!」

『勘違いするな』


 ノヴァの声は、ひまりの絶叫を、静かに、だがきっぱりと遮った。


『ステラは、君が作り出した、都合のいい幻なんかじゃない』


 画面の中の、黒猫のアバターが、三日月のような目で、じっと、ひまりを見つめている。


『ステラは、君自身だよ』


 その言葉に、ひまりは、息を呑んだ。


『君がずっと、心の奥底に隠してきた、本当の君の姿だ』


 本当の、私の、姿?


「……じゃあ、私は……?」


 じゃあ、私は、どうすればよかったの? どうすれば、こんなことにならずに済んだの?

 ひまりの心の中の独白に、ノヴァは、静かに答えた。


『認めるんだ。弱い自分も、汚れた自分も、強い自分も、輝きたいと願う自分も。そのすべてが、お前なのだと。そして、選ぶんだ。その力で、何をしたいのかを。誰かの道具になるのか。世界を破滅させるのか。それとも――』


 ノヴァは、そこで、言葉を切った。ひまりの、白く濁っていた瞳の奥で、ほんの、ほんの僅かな光が、再び、灯った。それは、絶望の光ではない。初めて、自分自身と向き合う覚悟を決めた、小さく、しかし、決して消えることのない、意志の光だった。ノヴァの言葉は、ひまりの心の中で、静かに、しかし大きな波紋となって広がっていった。


『ステラは、君自身だよ』


 その言葉が、すべてのパズルのピースを、あるべき場所へと導いていく。ひまりは、ゆっくりと立ち上がった。周囲の喧騒や、巨大スクリーンに映し出される自分のおぞましい姿は、もはや彼女の意識には入ってこなかった。彼女は、自分の内なる宇宙の最も深い場所へと、旅をしていた。


(そうだ……私は、ずっと、言い訳をしてきたんだ)


 地味で、冴えない自分。クラスの隅で、息を潜めて生きてきた、星空ひまり。そんな自分が嫌で、「特別な誰かになりたい」と願った。そして、現れたのがステラだった。


(これは、ステラがやっていること。私じゃない)


 ただ喝采の喜びだけを享受して。

 ただ賞賛の快感だけを掠め取って。

 Duskに、神楽坂に、そして、あの夜の男たちに、この身体を蹂躙された時でさえ。


(汚されたのは、ステラ。ひまりの身体は、無事だから)


 そうやって、自分に言い聞かせ、痛みから、罪悪感から、魂の軋みから目を逸らし続けてきた。ステラを、便利な”盾”にしていたのだ。自分(ひまり)の欲望をかなえるための道具として利用し、その代償として負うべき責任や痛みは、すべて彼女(ステラ)に押し付けて。


 ”代償”は、私自身に課せられていたというのに。彼女(ステラ)が傷つくたびに、(ひまり)も傷ついていたというのに。


 自信に満ちあふれた、あのカリスマ性。それは、私が心の奥底でずっと”こうなりたい”と願っていた、強さそのもの。ファンを熱狂させ、奏太さえも夢中にさせた、あの妖艶な魅力。それは、私が自分にはないと諦めていた、私自身が自分の奥底に押さえつけていたもの。リビドーゲージがもたらす、あの禁断の快感に溺れたこと。それは、私がずっと心の奥に押し殺してきた、「もっとつながりたい」「もっと愛されたい」という、剥き出しの”願望”だった。


 地味な自分(ひまり)も、私。大胆な自分(ステラ)も、私。臆病な自分(ひまり)も、私。強い自分(ステラ)も、私。誰かを傷つけてしまった、罪深い自分も、私。


 そのすべてがあって、初めて、星空ひまりなのだ。どちらか片方だけなんて、ありえなかった。光と影のように、それらは分かちがたく、私という存在を形作っていたのだ。


 ひまりが見上げたスクリーンの中の『ステラ』が、男の身体の下で、虚ろな瞳をしていた。


(ごめんね)


 ひまりは、心の中で、もう一人の自分に語りかけた。


(今まで、ひとりで、全部背負わせて。つらかったよね。痛かったよね)


(でも、もう、大丈夫。もう、ひとりにはしないから)


 その瞬間、ひまりの中で、何かが、カチリ、と音を立ててつながった。分裂していた自己が、ひとつになる。地味で臆病なひまりの心と、強く大胆なステラの魂が、混沌の中で、ようやく手を取り合った。


「―――私は、私だ」


 ひまりの唇から、静かな、しかし、揺るぎない意志を宿した声が漏れた。その声は、もう、か細く震えてはいなかった。Duskの呪縛も、神楽坂への投資も、ファンミーティングのおぞましい記憶も、すべてが、今の彼女の前では、意味をなさなくなっていた。それらはすべて、紛れもなく、自分が犯した過ちの”結果”だ。ならば、そこから逃げることは、もう許されない。


 ひまりは、覚悟を決めた。


 逃げるのではない。忘れるのでもない。自分自身の弱さが招いた、この最悪の現実。奏太を傷つけ、多くの人々を苦しめている、この地獄。そのすべてを、この身に受け止める。そして、自分自身の力で、決着をつける。


 それが、星空ひまりとして、そしてステラとして、彼女が果たさなければならない、最後の責任だった。


 ひまりは、スマートフォンを握りしめた。そのアイコンを、もう憎悪の目では見ていなかった。これは、呪いの道具ではない。これは、私の、もう一つの顔。私の、力。


 彼女は、Duskのアドレスを自らの指で、着信拒否にした。そして、その空っぽだった瞳に、初めて、自分の意志で、強く、澄みきった光を灯した。その光は、夜空で最も強く輝く、明けの明星のように、この絶望の街を、静かに照らし始めていた。


☆☆☆


 街の喧騒が、嘘のように遠のいていく。サイレンの音も、人々の悲鳴も、巨大スクリーンから垂れ流される自分のおぞましい映像も、もはや星空ひまりの心には届かなかった。彼女は、静寂に包まれた自分の内なる宇宙の中心で、ただ一つの、絶対的な真実と向き合っていた。


 ステラは、私自身。その事実を認めた瞬間、ひまりの心に、冷たく、そして澄みきった一本の光の柱が立った。それは、すべての絶望を貫き、すべての罪を照らし出す、覚悟の光だった。


 彼女は、人の流れをかき分けるように、まっすぐに歩き始めた。目指す場所は、ただ一つ。すべての始まりであり、すべての過ちを犯した、あの小さな自室。家に帰り着いたひまりは、鍵をかけるのももどかしく、勉強机の前に立つと、震えも迷いもなく、スマートフォンを手に取った。


 【Metamorphose】――呪いであり、祝福でもあった、そのアプリ。ひまりは、アイコンをタップした。だが、そこに宿る祈りは、もはや以前とはまったく違っていた。


(お願い、力を貸して)


(特別な誰かになるためじゃない)


(今の自分から逃げるためでもない)


(私が犯した過ちのすべてに、私自身の力で、決着をつけるために)


 その、ひたむきな意志に応えるかのように、スマートフォンから放たれた光は、これまでとはまったく異質なものだった。それは、目を焼くような閃光ではない。夜明けの空のように、どこまでも優しく、そして荘厳な、白金の光。光の粒子が、彼女の身体を再構築するのではない。まるで、ひまりの魂そのものに、失われた光を再び織り込んでいくかのように、その身を、心を、そっと包み込んでいった。


 やがて、光が収まった時。姿見に映っていたのは、もはやステラではなかった。


 髪は、夜空を溶かしたような銀色ではない。ひまり本来の栗色と、ステラの銀色が溶け合ったかのような、柔らかなプラチナブロンド。光を受けるたびに、星屑のように、淡く、温かい光を放っている。瞳は、すべてを見透かすような妖艶なバイオレットではない。ひまりの持つ、心優しい茶色の奥に、ステラの自信に満ちた紫の光が、星雲のように渦巻いていた。それは、すべてを受け入れた者の持つ、深く、そして哀しいほどに澄みきった星屑のバイオレット」。


 そして、その身を包む衣装。それは、男たちの欲望をあおるための、扇情的なビスチェドレスではなかった。夜明けの空を切り取ったかのような、純白を基調とした、騎士の礼装を思わせるドレス。胸元やスカートの裾には、金色の星屑を散りばめた刺繍が施され、そのデザインは、肌を隠すことで、むしろ彼女の内なる気高さと神聖さを際立たせていた。それは、ただ妖艶なだけの偶像(アイドル)でも、欲望の器でもない。自らの罪を背負い、それでもなお、誰かのために立ち上がろうとする、一人の魔法少女の決意の鎧だった。


 ひまりのひたむきな意志と、ステラの揺るぎない自信。その二つが、ようやく一つに融合した、真の姿。彼女は、自らのチャンネル、【ステラ】の公式チャンネルを開いた。そして、何の告知もなく、ゲリラ配信のボタンを押した。


 その瞬間、インターネットの世界は、爆発した。例の事件で、ステラの動画は、すでに世界中に拡散されていた。彼女のチャンネルには、この数時間、地獄のような光景が繰り広げられていたのだ。


:ビッチがまた配信してんのかよ!

:あの動画、最高だったぜ! 今日も脱ぐんだろ?

:信じてたのに……裏切り者!

:あれはディープフェイクだ! ステラ様は無実だ!

:金返せ!


 憎悪、欲望、擁護、罵詈雑言。あらゆる感情が渦を巻く、混沌の坩堝。その、灼熱の地獄の真っ只中に、新しい姿の彼女は、静かに現れた。


 コメント欄の動きが、一瞬だけ、止まった。画面に映る、そのあまりにも神々しく、そしてどこか哀しげな姿。それは、彼らが知っている、どのステラとも違っていたからだ。


:……誰?

:え、本人……? 雰囲気が、全然違う……

:なんだ、この格好……コスプレか?

:なんか……泣きそう……


 ざわめきが、新たな混沌を生み出そうとした、その時。彼女は、ゆっくりと、目を閉じた。何かを弁明するでもなく、謝罪するでもなく、ただ、静かに息を吸い込む。そして、その唇から紡がれたのは、言葉ではなかった。


 歌だった。


 伴奏はない。ただ、彼女の、生身の声だけが、何万人もの視聴者のスピーカーから、静かに、流れ出した。


 その歌は、これまでの、どの歌とも違っていた。ファンをあおるための、甘い毒のような歌声ではない。リビドーゲージをためるための、計算され尽くした媚薬でもない。


 それは、あまりにも拙く、不器用で、そして、どこまでも正直な、”星空ひまり”の歌だった。


 一番の歌詞が語るのは、彼女の”弱さ”だった。教室の隅で、息を潜めていたこと。窓の外の光が、自分だけを避けていくように感じていたこと。流れ星に、「私じゃない誰かになりたい」と、みっともなく叫んだ、あの夜のこと。その、あまりにも情けない告白に、コメント欄は戸惑いに包まれる。


 二番の歌詞が語るのは、彼女の”ずるさ”だった。手に入れた力に、有頂天になったこと。ステラという仮面に隠れ、現実から目を逸らしたこと。誰かを虜にする快感に溺れ、それが誰かを傷つける可能性から、無自覚に目を背けていたこと。それは、ファンへの裏切りを、自ら認める、痛みを伴う告白だった。


 そして、サビのメロディーが、静かに、しかし力強く、紡がれていく。それは、彼女の、たった一つの、純粋な”願い”だった。


『――それでも、あなたに、会いたかった』

『――傷つけてしまうと、知っていても』

『――ただ、つながりたいと、願ってしまった』


 ”あなた”とは、誰なのか。奏太のことか。それとも、画面の向こうの、ファンのことか。いや、違う。その両方であり、彼女がこれまで出会ってきた、すべての人々への、心の叫びだった。


 歌声が、震える。それは、技術的な未熟さからではない。こらえきれない感情が、声となって、あふれ出しているのだ。彼女の瞳から、一筋、光の雫がこぼれ落ち、頬を伝っていくのが、カメラに映し出された。


 コメント欄の、憎悪と欲望の濁流が、その一筋の涙によって、少しずつ、その勢いを失っていくのが分かった。


 最後の歌詞が語るのは、彼女の”覚悟”だった。弱い自分も、ずるい自分も、もう目を逸らさないこと。傷も、汚れも、犯した罪も、すべて抱きしめて、それでも前を向くこと。地味な私と、派手な私。臆病な私と、強い私。そのどちらもが、紛れもない、たった一人の、『私』なのだと。


 歌声は、いつしか、震えを乗り越え、澄みきった、それでいて、どこまでも力強い響きとなっていた。それは、もう魔法の力に頼ったものではない。絶望の底から、自らの意志で這い上がった、星空ひまりという一人の人間の、魂そのものの、咆哮だった。


 歌が、終わる。後に残ったのは、完全な静寂だった。あれほど荒れ狂っていたコメント欄が、ぴたり、と動きを止めている。配信中に集まってきて増え続けた、何十万人もの人間が、ただ、息を呑んで、画面の中の、涙を流しながらも、凛として立つ、一人の少女を見つめていた。


 憎悪は、戸惑いに。欲望は、畏敬に。そして、裏切られたという怒りは、彼女が背負った、あまりにも大きな痛みに触れ、共感へと、変わっていった。


 彼女は、ゆっくりと、目を開いた。そして、カメラの向こうの、世界中の人々に向かって、初めて、心の底からの、ほんの少しだけ、はにかんだような、それでいて、どこまでも優しい笑みを浮かべた。そして、一言も発することなく、静かに配信を終了した。


 ひまりの、長く、秘密に満ちた夜が、終わろうとしていた。彼女の歌声は、まだ混沌の中にある街に、夜明けを告げる、最初の光となって、静かに、しかし確かに、響き渡っていた。


☆☆☆


 配信を終えたひまりは、その場に崩れ落ちることもなく、ただ静かに、窓の外を見つめていた。彼女の身体は、まだ覚醒した姿のままだった。プラチナブロンドの髪が、部屋の明かりを吸い込んで、柔らかく輝いている。もう、涙は流れていなかった。やるべきことは、やった。あとは、この身に何が起ころうとも、すべてを受け入れるだけだ。


 その時、手の中のスマートフォンが激しく振動を始めた。画面には、信じられない光景が広がっていた。【LIKE GAUGE】【LIBIDO GAUGE】――あの、彼女の心を支配し、狂わせてきた二つのゲージが、ガラスのように粉々に砕け散るグラフィック。そして、その破片の中から、まったく新しい第三のゲージが生まれ、すさまじい勢いで満たされていく。それは、何色でもなかった。純粋な、光そのもの。白金(プラチナ)の輝きを放つ、神々しいゲージだった。


【―――EMPATHY GAUGE】


『……嘘だろ……』


頭の中に、ノヴァの、呆然とした声が響いた。


『【いいね】や【性的興奮】なんかじゃない……。【共感】……ただ、純粋な”心がつながった”という想いだけが、エネルギーに変換されている……。リビドーゲージが石油なら、これは、恒星そのものじゃねえか……! 桁が、違いすぎる……!』


 ノヴァの驚愕をよそに、ゲージは一瞬で上限値を振り切り、メーターそのものが光の中に消滅した。スマートフォンが、もはや物理的な法則を超えたかのように、熱く、そして神々しい光を放ち始める。


 その光は、ひまりの部屋の中だけにはとどまらなかった。彼女の歌声が届いた、すべての場所で、奇跡は静かに、そして同時に、起こり始めていた。


 スクランブル交差点。巨大スクリーンはいまだにステラのおぞましい映像を垂れ流し、Duskの準備した呪詛の音波は、人々の理性を蝕み続けていた。殴り合い、罵り合い、奪い合う、獣たちの饗宴。だが、その地獄の風景に、小さな、しかし確実な変化が生まれ始めていた。


 拳を振り上げていた男が、ふと、動きを止める。彼の脳裏に、今しがたインターネットの彼方を超えて聞こえてきた、あの悲痛な歌声が、こだまのようによみがえっていた。『――ただ、つながりたいと、願ってしまった』そのフレーズが、彼の胸の奥深く、忘れていたはずの、純粋な孤独に触れた。なぜ、自分はこんなにも怒っているのだろう。なぜ、見ず知らずの他人を、傷つけようとしているのだろう。男の拳から力が抜けていく。その瞳から獣の光が消え、戸惑いと、悲しみの色が戻ってきた。そして、彼の胸の中心から、ぽつり、と。温かい小さな光が、灯った。


 ショーウィンドウを叩き割っていた女が、その場にへたり込む。彼女の耳にも、あの歌声が残っていた。『弱い自分も、ずるい自分も……』そうだ。私も、弱くて、ずるい。欲しいものが手に入らないからって、こんな形でしか、自分の心を表現できない。なんて、みっともないんだろう。彼女の頬を、後悔の涙が伝う。そして、その涙の雫と共に、彼女の心からも、温かい光が、ふわりと、あふれ出した。


 それは、連鎖した。一人、また一人と、歌声の記憶に触れた人々の心に、”共感”という名の小さな光が灯っていく。それは、誰かを断罪する光ではない。それは、自らの弱さや、ずるさや、孤独を、そっと認め、許す、赦しの光だった。


 やがて、その無数の小さな光は、一つに集まり、共鳴し、大きな光の波となった。白金のオーロラが、街を、地上から天へと向かって、優しく洗い清めていく。


 その純粋なエネルギーの奔流に触れた、Duskの呪詛の音波は、霧のように、かき消えていった。街を覆っていた、ねっとりとした負のエネルギーの瘴気が、朝もやが晴れるように、浄化されていく。人々は、次々と、我に返っていった。そして、目の前で自分たちがしでかした光景――殴り合った相手、壊された店、泣き叫ぶ人々――を見て、言葉を失い、その場に立ち尽くす。後悔と、羞恥と、そして、どうしようもない悲しみが、静寂を取り戻した交差点に、満ちていった。


 巨大スクリーンに映し出されていたステラの映像もまた、その光に触れると、まるで陽光にさらされた古いフィルムのように、その色を失っていった。冒涜的な記憶は、聖なる光の中に溶けていき、やがて、すべてのスクリーンは、ただの真っ白な光の板となり、そして、静かに、その電源を落とした。


 ―――その頃。街を見下ろす、超高層ビルの最上階。Duskは、目の前で起きている信じられない光景に、最初、ただ呆然としていた。


「……何だ……これは……?」


 自分が作り上げた、完璧な地獄。人間の本質を暴き出した、最高の芸術作品。それが、得体の知れない、温かいだけの光によって、台無しにされていく。


「馬鹿な……! 私のエネルギーが……負の感情が、消えていく……!」


街から吸い上げていた、膨大な力の供給が途絶えた。それどころか、その光は、彼自身の存在そのものを、脅かし始めていた。


「ステラ……! あの小娘が……! 最後の最後に、こんなくだらない奇跡を起こすというのか!」


 怒りと、屈辱に、Duskの顔がゆがむ。彼は、自らの内に秘めた、すべての負のエネルギーを解放した。漆黒の、怨念の塊のような闇が、彼の身体からあふれ出し、窓ガラスを突き破って、天を衝く光の奔流に、抗おうとする。


「消えろ! 偽善の光め! 欲望こそが真実だ! 孤独こそが、人間の本質だ!」


 だが、闇は、光に触れた瞬間、いとも簡単に、その輪郭を溶かしていった。それは、戦いですらなかった。ただ、夜が、必ず朝に取って代わられるという、自然の摂理。Duskの闇は、ひまりの歌声が生み出した、"共感"という名の夜明けの光の前では、あまりにも無力だった。


「ぐ……ああ……あああああああ!」


光が、Duskの身体を、内側から灼いていく。それは、肉体的な痛みではなかった。彼の魂そのものに、直接、語りかけてくるような、情報量の奔流。ひまりの、弱さ。ひまりの、ずるさ。ひまりの、孤独。ひまりの、後悔。ひまりの、痛み。そして、それでもなお、誰かとつながりたいと願った、ひたむきな想い。その、あまりにも人間的で、不器用で、そして温かい感情が、Duskの、孤独と憎悪だけで塗り固められた魂を、強制的に溶かしていく。


(……やめろ……)


 Duskは、生まれて初めて、恐怖を感じていた。消滅する恐怖ではない。理解してしまう、恐怖だ。自分もまた、ただ、寂しかっただけなのだと。誰かに、分かってほしかっただけなのだと。その、あまりにも単純で、みっともない、自分自身の本心を、認めさせられてしまう、恐怖。


「私は、Duskだ! この世界の、闇の王だ! こんな……こんな温かいものなど……認め……ない……!」


 彼の最後の抵抗もむなしく、白金の光は、完全に、その身を包み込んだ。漆黒の闇が、光に洗い清められていく。憎悪が、悲しみに。嘲笑が、後悔に。支配欲が、ただ純粋な、誰かに触れたいという渇望に。彼をDuskたらしめていた、すべての歪んだ鎧が、一枚、また一枚と、はがれ落ちていく。


 やがて、光が収まった時。そこに、夜の世界の王Duskの姿は、もうなかった。後に残されていたのは、高価なスーツを身にまとったまま、その場にへたり込み、子供のように、ただ声を上げて、泣きじゃくっている、一人の、孤独な青年の姿だけだった。それは、彼が、ずっと昔に捨ててしまったはずの、本来の、弱くて、ただ愛されたかっただけの、本当の姿だった。


 奇跡の光は、街の傷を癒し、最大の敵の心さえも、洗い清めていった。それは、ひまりが、絶望の底で、自分自身を、そして、もう一人の自分であるステラを受け入れたことで生まれた、あまりにも優しく、そして、あまりにも力強い、夜明けの光だった。


☆☆☆


 夜が、白み始めていた。街を洗い清めた白金の光は、夜明け前の薄明かりに溶けるように、その役目を終えていた。狂乱は過ぎ去り、後に残されたのは、まるで巨大な祭りの後のような、静かで、どこか物悲しい静寂と、破壊の爪痕だけだった。遠くで、サイレンの音がまだかすかに響いている。


 月白奏太は、走っていた。息が切れ、肺が痛い。バスケの練習よりも、ずっと苦しい。彼を突き動かしていたのは、恐怖と、後悔と、そして、ほんのわずかな希望だった。あの日、見てしまった配信。うつろな瞳で、自らを慰めていた、幼馴染の姿。そして、今夜、地獄と化した街の空に響き渡った、あの歌声。最初は、ただステラの悲痛な叫びだと思った。だが、聴いているうちに、分かってしまったのだ。あの不器用な言葉の選び方、メロディーの隙間にのぞく、痛ましいほどの優しさ。あれは、紛れもなく、星空ひまりの歌だった。


 ステラは、ひまりなのか? いや、そんなばかなことがあるはずがない。だが、もし、万が一。奏太の頭は、混乱の極みにあった。だが、確かめなければならない。自分の目で。自分の耳で。


 彼は、自宅への見慣れた道を走っていた。公園の脇を通り過ぎようとした、その時だった。ベンチに、一人、座っている少女の姿があった。見慣れた、制服姿。少しだけくせのある、栗色の髪。


「―――ひまり!」


 奏太は、思わず叫んだ。少女が、ゆっくりと、こちらを振り返る。


 奏太は、息を呑んだ。それは、紛れもなく、星空ひまりだった。だが、その雰囲気は、奏太が知っている彼女とは、まるで違っていた。いつも自信なさげに伏せられていた瞳は、静かに、まっすぐに、彼を見つめ返している。その瞳の奥には、嵐が過ぎ去ったあとの湖面のような、深く、そして哀しいほどの静けさが広がっていた。彼女は、ただそこに座っているだけで、夜明け前の冷たい空気の中でさえ、凛とした存在感を放っていた。


「……奏太」


 ひまりが、静かに彼の名を呼んだ。奏太は、どう言葉を切り出せばいいのかわからなかった。聞きたいことは、山ほどある。問い詰めたいことも、心配なことも。だが、目の前の彼女の、あまりにも変貌した姿に、すべての言葉がのどの奥で詰まってしまう。


「お前……無事、だったのか……?」


 やっとの思いでしぼり出したのは、そんな当たり前の言葉だった。


「うん」


 ひまりは、小さくうなずいた。そして、ベンチからゆっくりと立ち上がると、彼の前に、まっすぐに立った。


「ずっと、言えなかったことがあるの」


 その声は、震えていた。覚悟を決めた瞳とは裏腹に、その声には、まだ臆病な少女の面影が、確かに残っていた。奏太は、ゴクリとのどを鳴らした。これから、自分が聞かされるであろう言葉の重さを、予感していたからだ。


「あのね……私、ずっと、嘘をついてた」


 ひまりは、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。それは、長い、長い夜の物語の、始まりだった。


「今の自分が嫌で……私じゃない、特別な誰かになりたいって、流れ星に願ったの。そうしたら……私のスマートフォンに、不思議なアプリが入ってて……」


 ひまりは、顔を上げ、奏太の目をまっすぐに見つめた。


「ステラは……私が、変身した姿なの」


 その告白は、衝撃的であるはずなのに、奏太の心には、すとん、と落ちてきた。ああ、やっぱり、そうだったのか。心のどこかで、ずっと感じていた違和感の、最後のピースが、はまった気がした。ステラの、ふとした瞬間の仕草。歌声の奥に感じる、不器用な優しさ。そのすべてに、ひまりの面影が、確かにあったのだ。


「最初は、楽しかった。キラキラしてて、みんなに褒めてもらえて……奏太が、ステラのこと、好きだって言ってくれた時、本当に、嬉しかった」


 ひまりの瞳が、罪悪感に揺れる。


「でも、嬉しくて、その嘘が、もっと楽しくなって……私は、どんどん、溺れていった。もっと注目されたい、もっと必要とされたいって……。そのために、しちゃいけないことも、たくさん、した。自分のことも、みんなのことも……そして、奏太のことも、たくさん、傷つけた」


 彼女の震える声が、奏太の胸を締め付ける。彼女が言う「しちゃいけないこと」。その言葉が、あのおぞましい配信の光景と、街のスクリーンに映し出された地獄の映像を、鮮明によみがえらせる。奏太は、唇を強く噛みしめた。怒りではない。ただ、どうしようもないほどの、無力感と、悲しみが、こみ上げてくる。なぜ、気づいてやれなかった。一番近くにいたのに。彼女が、こんなにも苦しんでいたことに。


「ステラは、理想の誰かじゃなかった。あれは、私自身だったの。私の弱さも、ずるさも、強がりも、全部……。地味な私も、派手な私も、どっちも、私だった」


 ひまりの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。


「ごめんなさい……奏太。ずっと、だましてて、ごめんなさい……!」


 彼女は、深く、深く、頭を下げた。震える、小さな背中。その姿を見て、奏太は、もう、何もかもどうでもよくなった。ステラが誰であろうと、彼女が過去に何をしたのであろうと、そんなことは、もう関係ない。ただ、目の前で、たった一人で、すべてを背負って泣いている、幼馴染がいる。守りたかった、大切な女の子がいる。それだけで、十分だった。


 奏太は、一歩前に出ると、震えるひまりの肩を、そっと、優しくつかんだ。


「……顔、上げろよ」


 ひまりは、びくりと身体を震わせたが、ゆっくりと顔を上げた。涙で濡れた瞳が、不安そうに彼を見つめている。奏太は、できるだけ、優しい声で言った。


「……薄々、気づいてたよ。お前だってこと」

「え……?」

「ステラの歌、時々、お前が昔、合唱コンクールで歌ってた時みたいな、変な癖、出てたからな」


 それは、奏太なりの、不器用な冗談だった。ひまりの瞳が、驚きに、少しだけ見開かれる。奏太は、続ける。


「つらかったんだろ。……全部、一人で抱え込んで」

「…………」


「俺は、何も気づいてやれなくて……それどころか、ステラに夢中になって、お前を、追い詰めてたのかもしれない。……ごめんな」


 奏太が頭を下げた瞬間、ひまりの瞳から、再び、涙があふれ出した。


「ううん……! ううん、奏太は、悪くない……! 私が、私が、弱かっただけだから……!」


 夜明け前の、冷たい空気。二人の間には、もう、嘘も、隠し事も、何もなかった。ただ、傷つき、それでもなお、互いを思いやる、二人の少年少女がいるだけだった。


 奏太は、ひまりの頬を伝う涙を、そっと、指で拭った。そして、少しだけ、はにかむように、笑った。


「地味なひまりも、キラキラしたステラも、どっちもお前なんだろ」

「……え」

「俺は……どっちのお前も、ちゃんと、見てたから。どっちのお前も、好きなんだ」


 その言葉は、どんな魔法よりも、強く、温かく、ひまりの心を包み込んだ。ずっと、誰かになりたかった。ずっと、自分を否定し続けてきた。でも、彼は、全部、受け入れてくれた。弱い私も、ずるい私も、汚れた私も、全部含めて、”お前だ”と、言ってくれた。


「……ありがとう……」


 ひまりの唇から、心の底からの、感謝の言葉が漏れた。それは、彼女の、長く、暗い夜が、完全に明けた瞬間だった。東の空が、ゆっくりと、白んでいく。新しい朝の光が、涙に濡れた二人の顔を、優しく、照らし始めていた。


☆☆☆


 あの告白から、数日が過ぎた。世界は、あの異常事態を「大規模なサイバーテロによる集団ヒステリー」として処理し、驚くべき速さで日常を取り戻そうとしていた。だが、星空ひまりと月白奏太の世界は、あの日を境に、全く新しい、そしてどこまでも不器用な第一歩を踏み出していた。


 その日の夕方、ひまりは奏太の部屋にいた。奏太は一人暮らしで、この時間の部屋は静かだ。社会人チームの練習もない、穏やかな午後。窓から差し込む西日が、部屋の隅の埃をきらきらと光らせていた。二人は、ただ、とりとめのない話をしていた。小学生の頃の思い出、好きだった給食のメニュー、中学の時の文化祭のこと。失われた時間を取り戻すかのように、空白を埋めるように。だが、その会話の端々には、まだ消えない緊張と、互いを気遣う、ぎこちない優しさが漂っていた。


 奏太が、不意に、ひまりの手にそっと触れた。


「―――っ!」


 ひまりの体が、条件反射で、びくりと硬直する。脳裏を、おぞましい記憶の断片が稲妻のように駆け巡った。粘つく指、冷たい指、無数の、汚らわしい、手、て、テ――。


「……ごめん」


 奏太は、慌てて手を引っ込めた。その顔には、どうしようもないほどの、悲しみと後悔の色が浮かんでいる。


「やっぱり、まだ……怖かったよな。悪い」


 その表情を見た瞬間、ひまりの心に、ちくりと痛みが走った。違う。違うの、奏太。怖いのは、あなたの手じゃない。あなたの手にさえ、汚らわしく反応してしまう、この私の体が、怖いだけ。


 ひまりは、意を決して、自らの手で、奏太の大きな、少しだけ硬い、バスケットボールの感触が残る手を、つかんだ。


「……ううん。大丈夫だから」


 震える声だったが、その瞳は、まっすぐに彼を見つめていた。


「奏太の手は……温かいから」


 その言葉が、スイッチだった。奏太は、ひまりの小さな手を、そっと、包み込むように握り返した。そして、ゆっくりと、彼女の体を引き寄せる。ひまりは、抵抗しなかった。彼の胸に、顔をうずめる。トクン、トクン、と、彼の心臓の音が、耳元で聞こえる。生きている音。優しくて、力強い、生命の音。それは、ひまりがずっと求めていた、安心できる音だった。


 奏太の指が、ひまりの髪を、そっと梳く。その、あまりにも優しい手つきに、ひまりは、ずっと張り詰めていた心の糸が、ぷつり、と切れるのを感じた。涙が、彼のTシャツを、じわりと濡らしていく。


「……ひまり」


 奏太が、囁くように彼女の名を呼んだ。ひまりが顔を上げると、彼の顔が、すぐそこにあった。そして、二人の唇が、初めて、そっと、重なった。


 それは、キスとも呼べないような、ただの、柔らかな接触だった。だが、ひまりの体を、これまで経験したことのない、全く新しい感覚が貫いた。Duskの、魂を奪うような支配のキスではない。神楽坂の、価値を値踏みするような無機質なキスでもない。あの夜の、暴力的なだけの、おぞましい接触でもない。それは、ただ、温かくて、少しだけ不器用で、そして、どうしようもなく優しい、”心”の味がした。


 唇が、ゆっくりと離れる。奏太の瞳が、不安そうに、ひまりの反応をうかがっていた。ひまりは、声にならない声で、ただ、小さくうなずいた。それが、彼女の、精一杯の「YES」だった。


 二人の呼吸が、重なり合う。肌と肌が触れ合う音が、部屋に響く。そして、二つの魂が、完全に一つになった瞬間。ひまりの体は、柔らかな光に包まれるように震えた。


 終わった後も、二人は、どちらからともなく、固く、抱きしめ合っていた。奏太の胸の中で、ひまりは、自分が、ようやく、本当の意味で”救われた”ことを、知った。失ったものは、あまりにも大きい。犯した罪が、消えることもない。体に刻まれた、おぞましい記憶が、完全に癒えるには、まだ、長い時間がかかるだろう。


 でも、大丈夫。もう、一人じゃないから。私の弱さも、ずるさも、汚れも、すべてを知った上で、こうして、抱きしめてくれる人が、隣にいるのだから。


 窓の外では、最後の星が、その輝きを、朝の光に譲ろうとしていた。ひまりの、長く、暗く、秘密に満ちた夜は、完全に明けた。そして、奏太という、温かい光と共に、彼女の、新しい朝が、今、始まろうとしていた。


☆☆☆


 翌朝、星空ひまりが目を覚ました時、世界は、ほんの少しだけ色を取り戻しているように感じられた。差し込む朝日が、舞う埃ごと部屋を照らし出す――ありふれた光景。だが、その光はもう、自分だけを避けていく残酷なスポットライトではない。ただ優しく、平等に、新しい一日が始まったことを告げている。


 ベッドの脇、奏太の腕の温もりがまだシーツに残っているような気がして、ひまりは無意識にその場所をそっと撫でた。頬が、少しだけ熱くなる。昨夜の記憶は、おぞましい過去の記憶とは全く違う、温かく、そして少しだけくすぐったい大切な宝物となって、彼女の心のいちばん柔らかい場所にしまわれていた。


 身体を起こし、枕元に置かれたスマートフォンを手に取る。画面には、あの黒のアイコンが、静かに存在していた。【Metamorphose】――すべての始まりであり、彼女を地獄の底まで突き落とし、そして最終的には本当の自分と向き合わせてくれた、呪いであり祝福でもあったアプリ。かつては、このアイコンを見るたびに、期待と恐怖で心臓が跳ねた。だが今、ひまりの心は、凪いだ湖面のように静かだった。


 あれ以来、ノヴァは語りかけてこない。もう、タップすることもないだろう。もう、この力に頼る必要はない。ひまりは、アプリを削除しなかった。それは、紛れもなく自分自身の一部だからだ。逃げ出すことも、目を逸らすこともしない。ただ、そこにあるものとして、静かに受け入れる。


 鏡の前に立つ。そこに映っていたのは、いつも通りの、地味で少しだけくせっ毛の星空ひまり。だが、何かが決定的に違っていた。彼女は、鏡の中の自分から目を逸らさなかった。自信のなさからいつも伏せがちだった瞳で、まっすぐに自分自身を見つめ返す。その瞳の奥には、まだ嵐の夜の記憶が哀しい影として残っている。だが、それ以上に、その哀しみごとすべてを受け入れた者の持つ、静かで凛とした強さの光が、確かに宿っていた。


 ひまりは、すう、と息を吸い込むと、意識して少しだけ背筋を伸ばした。ほんの数センチ、視線が高くなる。それだけで、見慣れた部屋の景色が、少しだけ違って見えた。


 玄関のドアを開けると、同じタイミングで隣の家のドアも開いた。


「おはよ、ひまり」


 少し眠そうに目をこすりながら、奏太がはにかむように笑った。


「……おはよ、奏太」


 ひまりも、頬を染めながら小さな声で返す。二人で並んで歩く、通い慣れた通学路。気まずさと照れくささ、そしてそれらをはるかに上回る、どうしようもないほどの幸福感が、二人の間の空気を甘く満たしていた。


 学校の昇降口で奏太と別れる。一人になり、教室へと向かう廊下を歩く。ここは、かつて彼女にとって、息を潜めて生きるだけの透明な水槽だった。周りのクラスメイトたちは、自分とは違う世界を生きる、きらびやかな熱帯魚。今も、その感覚が完全に消えたわけではない。心のどこかで、まだ臆病な小魚が震えている。だが、もう一つ、知っている。私の中には、どんな嵐の夜でもステージの中心で歌うことのできる、強い光がいることを。


 教室のドアを開ける。ざわめき。笑い声。自分とは関係のない日常の音。ひまりは、自分の席へと向かった。その途中――以前は決して視界に入ることのなかった、クラスの少し隅のグループで、数人の女子が楽しそうにおしゃべりをしているのが目に入った。その中の一人、佐藤さん。特別目立つわけではないけれど、いつも穏やかに笑っている優しい子だ。


 かつてのひまりなら、気づかないふりをして、ただ俯いて自分の席に直行しただろう。だが、今の彼女は違った。心臓がどきりと音を立てる。まだ、怖い。――でも。


 ひまりは一度だけ、きゅっと唇を結んだ。そして、自らの足で、そのグループのそばへ歩み寄った。


「――おはようございます」


 ひまりの口から紡がれたのは、自分でも驚くほどはっきりとした声だった。おしゃべりに夢中だった佐藤さんは、一瞬きょとんとひまりを見た。すぐに、それが誰であるかを認識すると、ぱあっと花が咲くように笑う。


「あ、星空さん! おはよう!」


 その、当たり前の、しかしひまりがずっと手に入れられなかった温かい返答。――それが、どれほど尊いものであるか。ひまりは、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。


「……うん、おはよう」


 少しだけはにかんでそう返すと、ひまりは今度こそ自分の席へと向かった。


 彼女の中には、もう”ステラ”はいない。彼女の中には、もう”ひまり”だけがいるわけでもない。そこにいるのは、弱さも、ずるさも、傷も、罪も、そしてほんの少しの自信と、誰かを想う優しさも――そのすべてを抱きしめた、たった一人の星空ひまり。


 彼女の、長く、暗く、秘密に満ちた夜は明けた。そして、新しい人間関係、新しい日常、新しい恋。彼女の本当の朝が、今、始まろうとしていた。

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