8 狐とぶどう
菱川は女の扱いになれているので、いつも光夫が二人で出張している色っぽい平賀亜紀をうまく夜の食事に誘った。平賀は愛想のいい女で、何人か男とつき合ったこともあるので菱川に合わせてうまく会話を盛り上げた。
会話が弾んだのでこれはいける、と思ったのだろうか、レストランを出て歩き出したところで不意に平賀にキスをしようとすると彼女はそれをサッとかわして菱川の股間に鋭い蹴りを入れた。彼女は学生時代に空手をやっていたのだ。
「ぎゃー、いててて。何すんだよ。死んじゃうだろ。君、殺人犯になっちゃうよ。」
「何すんだよ、はこっちのセリフだよ。ちょっと食事につき合ったくらいでいきなりこんなことをするなんて舐めんじゃないわよ。
あんたなんか絶対につき合ってあげない。もう絶対につき纏わないで。今の蹴りは50%のパワーよ。今度近寄ったら100%、どうなっても知らないからね。」
痛い目に遭った菱川は今度はもっと大人しい女子に近づくことにした。それは純真で男とつき合ったことのない、真面目でおとなしい北条瑠璃だ。
光夫のいる部屋をそっと覗き、瑠璃がコートを着て出て行くのを確認すると気づかれないようにそっとつけていき、会社のゲートを出て周りにほぼ人気がなくなったところで話しかけた。
「北条さん、こんばんわ。」
「うっ、驚いた。あなた誰?」
「あなたと同じ会社で働いている菱川です。ほら、君のセクションに杏野っていうパッとしないやついるでしょ、そいつの友達だよ。」
「友達だかなんだか知らないけど杏野さんのことを悪く言うのやめてください。」
「なんだ、あいつのポーカーフェイスに見事に騙されているようだな。あいつ本当は悪い奴なんだぜ。あいつのこといろいろ教えてやるからちょっとつき合えよ。」
「私帰るところなので。」
「少しくらいいいじゃん。ご馳走してあげるからさ。」
「お断りします。」
「おい、俺のことよく見ろよ。超イケメンだぜ。モテてモテて困ってるんだぜ。そんな俺に誘ってもらえるなんて社内の女子から羨ましがられるぜ。」
「私、あなたのこと何にも知らないし、知りたいとも思いません。知らない人といきなり二人でお茶とか食事なんてしない主義なんで。」
「なに女子高生みたいなこと言ってるんだよ。もう二十歳超えているんだろ。いつまでもお子ちゃまのままじゃだめだよ。自分の殻を破って脱皮して大人にならなきゃ。俺が色々教えてあげるからさ。」
「結構です。」
「おい、超イケメンの俺に恥かかせるなよ。」
「嫌なものは嫌です。」
「これだよ。女の言ういやいやっていうのは大抵 yes ってことなのさ。君はまだお子ちゃまだから自分の気持ちもわかってないんだよ。さあ、行こうぜ。奢ってやるから。」(肩を抱こうとして触れる)
「あんたみたいな下品で無礼な人だいっきらい。肩に触れないでよ。」
「だだこねてんじゃねえよ。さあ、自分の気持ちに正直になれよ、ほら。(再び肩に触れる)」
「嫌だったら。肩に触らないで。今度触ったらひどいわよ。」
「面白いね。さあ、どうなるのかな。」(三度肩に触れる)
「やめてったら!」(思いきり菱川の股間を蹴る)
「うぎゃ、いてて、ちきしょう、おまえなんかもう絶対相手にしてやらないからな。」
菱川は痛いのと気持ち悪いのとで地べたにうずくまったまま動けない。瑠璃は足早に菱川から離れていく。歩きながらつぶやく。
「やったー、うまくいった。この前見ていたドラマで女の子が不良に襲われそうになった時腕力じゃ敵うわけないから絶体絶命だと思ったら、女の子は不良のあそこを思いっきり蹴ったわ。
そうしたら屈強な男なのに地面に倒れて苦しがってて女の子は逃げおおせたわ。男ってあそこが弱点なんだなって思ってドラマと同じようにやってみたらうまくいったわ。ああよかった。」
菱川はしばらく地面にうずくまったままであったが、しばらくすると立ち上がって独り言を言った。
「もう美人四天王なんて真っ平ごめんだ。なんであんなにお堅いのかな。
ま、いいや。俺はモテるんだ。俺のことを慕っている女の子は山ほどいるんだからな。」
菱川はイソップの童話に登場するブドウを諦めて去っていく狐のような独り言を言って帰っていった。