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第九話 偽り

 ホームの自販機でコーヒーを買い、新幹線に乗った。新幹線は空いていた。私が乗った車両には片手で数えられる程の人しかおらず、大きな音でいびきをかきながら寝ても、全く支障がないような気がした。

今朝は、爽快な目覚めだった。部屋には窓が無く、陽の光や鳥のさえずりがあった訳では無い。しかしながら、私はこのような爽快な朝は久しぶりであると感じた。彼女はソファーの上で赤い布団をかぶって寝ている。横顔には髪が覆いかぶさっていた。私は静かに着替え、部屋代を確認して財布から1万円札を出し、それをテーブルの上に置き、メモ用紙に「ありがとう」とだけ書いて部屋を出た。

牛丼屋で朝ごはんを食べ、開店したばかりの本屋に寄って新聞を買った。地元の新聞というのは、どこか懐かしさを感じるもので、毎回帰省する度に買うのがルーティンになっていた。

彼女は月曜日に丸一日休みを取っていて、すぐに帰る必要がなかったが、私は午後から仕事だった。駅は学生服を着た学生や通勤客で混んでいたが、新幹線の自由席には人は殆どいなかった。こんな時間に新幹線に乗ったことはなかったなと思った。

京都を過ぎると、窓の外は田んぼだらけになった。まだ新年度になって間もなかったから、あるいはただの畑であったのかもしれない。私には田んぼと畑の違いは(少なくとも時速三百キロで走る車内からは)分からなかったし、生命のエネルギーを感じる景観という意味では同じようなものだった。

岐阜の米原という駅で、週刊誌と缶ビールを持って灰色のくたびれたスーツを着た男が、私の横に座った。車内はまだ空いていたが、彼はひとつ間に席をあけ、私の隣に座った。持ち物は持っておらず、右手に週刊誌を持っていた。男は二三日ほど剃っていないような無精髭を薄っすらと生やし、おおよそ出勤するとは考えられないような緩さでえんじ色のネクタイをしていた。第一ボタンを開けていて、ネクタイの結び目は第二ボタンよりも下にあった。

勤め人には見えない外見ながら、彼にはある種の清潔さが垣間見れた。赤茶色の革靴は照明を反射するほどに磨かれていて、髪の毛もオールバックにセットされている。服にはひとつのシワもなく、シトラスの柔軟剤の匂いがした。テーブルも出さず、席も倒さず靴を脱ぐこともなかった。

 それに彼は妙に姿勢がよかった。書道でも習っていたのかもしれない。彼は音読しそうなほど背筋を伸ばした姿勢で、週刊誌を読み始めた。軍人のように、大きな声で、我々は云々と言い出しそうな雰囲気があった。

あまりの姿勢の良さと彼の左側に私が座っていることから、私は表紙を見せつけられるような格好になり、「私は週刊誌を読んでいるのだ」というメッセージを感じたような気がした。その表紙には、与党の不正会計疑惑と、大物芸人の性加害疑惑がデカデカとかかれていて、それとはなんの関係もなさそうな30代後半であろう女がそのゴシック体の背景で、肘をくっつけるようにしてビキニの胸を精一杯強調している。この女も服を着ると、性的搾取だと叫ぶのだろうか。隣の男がどのような需要をもってこの雑誌を買ったのかは知らないが、「勝ち組である大物芸人や政治家の人生が崩れ行くさまは愉快だし、このくらいの女ならやれそうだ」という需要があるのだろうということを推測した。まるで、これらの疑惑は消費されることを前提に作り出され、売り出された商品であるように思った。被疑者たちは、この雑誌の売上にある程度貢献しているのだろう。であるならば、彼らは罪を犯しただけではないのではないかという疑問が私の中に起こった。そしてその疑問は、私と彼女の間に昨夜おきた事柄について、罪の意識を想起させた。

 私は彼女と共に犯してしまった罪について考えた。不倫あるいは不貞に当たるという自覚がなかったし、妻と別れるのは想像もできなかった。実をいうと、私は彼女のことを犯したのかどうか分からなかった。私が確信を持っているのは、二次会の後に二人だけでバーに行ったことと、その後にラブホテルに入った事、彼女が私の前で下着姿になった事、朝起きると彼女はバスローブを着て寝ていたことであった。セックスやその他の性的な接触については、全く記憶がなく、やったという証拠(使用後のコンドームや、ティッシュ等々)は、部屋のどこにもなかった。少なくともセックスをしたとするならば、その主導権が私になかったというのが確実なことのように思われた。

 彼女の着ていたワンピースや下着については、はっきりと至極明確に思い出すことができた。パンツには装飾が多く、ブラジャーには全く装飾がなかった。その形やホックの数や手触りや、レースの模様について、いやその他のいかなる部分においても説明することが可能であった。その詳細さの度合いは、隣りに座っている週刊誌を読んでいる男について説明するのと比べると、何倍も細かく的確なものであるはずだった。

 一方で、彼女の裸体については、全く何も思い出すことができなかった。服を着ている時の彼女の身体については、確かな記憶があり、その記憶は確信を持てるものだった。同じ服を着ている人を見ればすぐに指摘できるような鮮明なものだった。ネックレスの真珠の大きさまでも思い出すことが出来た。もし、同じ色あるいは色違いの同じ服を着ている人を見かけたら、彼女のことを間違いなく思い出すだろう。もちろん服だけではなく、彼女の指や足や、首筋や胸の谷間など、それらは詳細に思い出すことができた。

 彼女の服の下、裸体に関しては、なにか断片的にあるいはぼんやりとというものではなく、彼女の裸体はこの世に存在しないかのように、何も思い浮かぶことはなかった。彼女の裸体だけではなく、彼女の裸体を見たであろう時の記憶すらもなかった。私はブラジャーに手をかけた後、ビールを飲んだのだろうか。何時頃に寝たのだろうか。どのような内容の会話をしたのか。シャワーには入ったのか。それらの質問について、私は答えになるべき記憶を持っておらず、したがって彼女と私がホテルに入ったということが、不貞行為なのかどうか判断するすべがなかった。

 なぜ思い出せないのか、私には見当もつかなかった。初めてセックスをした相手から妻に至るまで、すべての裸体について詳細な記憶があった。ほくろの位置やあばら骨の浮き出方など、どのような場所においても、おおよそ服で隠れているであろう場所の記憶は明瞭であった。彼女たちが現在どういう身体になっているのかは知らない。相撲取りのように太っていたりアフリカの戦争孤児のように痩せていたり、あるいは身体中にタトゥーを彫っているのかもしれない。そういうことを除けば、裸体の一部だけでも見れば、私はその個人を特定できる自信があった。

しかしわかっているのは、彼女と同じ部屋で一晩過ごしたということと、私と彼女の関係性に全く変化がなかったということだけだった。

 隣の男は、岐阜羽島という駅で降りた。彼の荷物は週刊誌だけだった。財布や携帯電話くらいは持っていたのかもしれないが、週刊誌以外の持ち物を一切出さずに出て行った。月曜日の午前中に週刊誌だけを持って新幹線に乗り、鈍行でもよさそうな距離だけで降りるというのはかなり珍しい人のような気がした。私は午前中の間に家に帰り、新幹線の中で探したラーメン屋に行き、一時から六時まで働いた。


 「同窓会どうだった?」というような質問は一切されなかった。妻は昔から人に関心が薄く、ほとんどすべての関心が音楽と食べ物に向けられていた。特に出会ったばかりのころには、ギリシャに出張に行くと言うと、ギリシャで一番人気な歌手のCDを買ってきてと言ったこともあった。タイのCDショップに行くと、今年のランキングというようなことが英語で書いてある棚があり、ナンバーワンというところにはアメリカ人の女性シンガーのアルバムがあった。二位は韓国人のアイドルで、三位におそらくギリシャ人らしき男のアルバムがあった。ジャケットの写真では、古代ギリシア時代のような服と70年代にフォークソングにハマっていた大学生を合わせたような服を着て、釣竿のようにギターを担いでいた。そのCDと日本人用のお土産詰め合わせのようなものを買って帰った。妻は仕事の内容についての質問は一切せず、タイの音楽と食べ物についてのみ知りたがった。それはギリシャのタクシーで流れていた音楽にまで至った。

それにもかかわらず、私のどこかには罪の意識があって、妻に同窓会について質問をされたらどんな顔をすればいいのだろうという考えを練ってしまっていた。

 同窓会については何も尋ねない代わりに、地元で郷土料理を食べたのかという質問をした。牛丼を食べたというと、牛丼屋の新メニューに話は移った。久しぶりに妻の顔を見たような気がした。同窓会で会った女も美しかったが、妻も劣らないレベルの美しさを持っているであろうことは明白であった。妻は色の薄い唇と、滑らかな髪においては、彼女を圧倒的に凌駕しているように思えた。

彼女が住んでいる町までは、電車で一時間もかからない。であったとしても、その一時間によって妻を捨てることはできなかった。ショートパンツから見える太ももや、パーカーのチャックの先に見え隠れしている胸の谷間、それらの性的な魅力は、毒ガスのように私を麻痺させていった。あるいは、麻薬のように私はそれがないと生きていけない状態になっていたのかもしれない。私は妻の裸を思い出しながら、目の前にいる妻を見た。服の下にあの肉体を持っていることを想像すると、勃起した。それは時系列的にそうなったものであったのか、因果関係を持っているものなのか私にはわからなかった。ジョニーウォーカーを一口飲んだ。食卓に出ている刺身と、スコッチとの相性は最悪だった。その最悪な組み合わせは、口の中を嵐のように駆け抜けることによって、私にいくばくかの冷静さをもたらした。

 妻は米を半分ほど食べ、カツオとタイの刺身を食べきっていた。刺身の皿にはサーモンとマグロとアボカドだけが残っている。グラスに注いだビールはまだ三分の二ほど残っている。食事の時は長い髪を縛っていて、蛍光灯の下で黒の中に時々星が光る。四口に一回ほどビールを飲み、テレビで何か面白いことがあると、口を隠して笑う。それらの行動を、私は何にも口をつけず、コップを持った状態で観察していた。CMが入り、私が何もしていないのに気づいたのか妻が私のほうを見た。私は、なんでもないよという表情を作り、ジョニーウォーカーを一口飲んだ。嵐で荒れてしまった大地を均すような味だった。しかし、勃起はまだ収まっていなかった。


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