表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/12

第四話 告白

 ビートルズの「let it be」を聴きながら村上春樹の小説を読んでいた。時折、オンザロックのジョニーウォーカーを口に含んで、見開きの二ページを読むのと同じくらいの時間をかけながら嚥下した。その行動は、大学生が一気飲みをしたり、中学生が夏祭りの日だけ髪を染めたりするのとは違っていて、最適化されたものだった。夜のドライブにはホテルカリフォルニアが合っているようなものだ。私には、村上春樹の小説のために、ビートルズが曲を描き下ろしたかのように感じられた。二回目のサビに差し掛かった時、音楽が止まった。二回目のサビの二回目の「let it be」という所をジョン・レノンが歌っている途中だった。私はスピーカーの方向(私はソファに横になっていて、スピーカーは私の頭の方向にあるサイドデスクの上にあった。)を見た。妻が私を見ていた。裸の上にバスローブを着て、ベージュのヘアバンドをしている。バスローブの胸元ははだけていて、身体の動きに合わせて乳首が見え隠れしている。

「今日一緒に寝ない?明日、久しぶりに休みだから」甘みのあるハスキーな声だ。妻はのどのケアのために、風呂上がりにはちみつを飲み、その後に白湯を飲んでから歯を磨く。左手には手には空のマグカップ、右手には歯ブラシを持っている。その様子を見ながら、私は一瞬、整形によってこの声が失われることを危惧し、いくらか冷たい汗をかいた。この声を失ってしまったら、それはもう別人であるように感じられた。しかしながら、顔を整形する訳ではなく、胸や尻を変えるのだからという結論に落ち着き、それと同時に「水商売の女がみんな似たような声なのは、酒ばかり飲んでいるからだ」という考えにも至った。冷や汗はほとんど手汗のみにとどまり、スマホの画面には小さなしずくがついた。

「わかった。歯磨きしてくる」

私はそう言って、本にしおりを挟み、洗面所に向かった。妻は、ビートルズの代わりに、レベッカのフレンズを流し始めた。歯ブラシが口の中を引っ掻き回しながらも、音楽はかすかに聞こえている。もう死んでしまった彼女の父親が好きな曲で、「こんな風に歌いたいと幼い時から思っていた」という話を、彼女はインタビューやテレビ番組でよく話していた。

緊張していた。手のひらには汗が滲んだ。首の後ろが冷たくなり、その後熱くなった。整形のことを妻に説明しなければならない。私は暗い森に一人で取り残されたような感覚を覚えた。夜風が静かに吹き、枝葉がざわめく音が、私の背筋を震わせる。私はただ、この闇の中で一刻も早く、安全な場所へと逃げ出したくなった。私はヨーロッパの童話の、森に迷い込んでしまった少年のような気分だった。大学入試の時、何日も緊張が続き、手のひらの皮が剥けてしまったことを思い出した。

 妻と一緒に寝るのは久しぶりだった。とはいえ、私たちはセックスレスでもなく、とりたてて仲が悪いということでもなかった。そういうことを誰かに話すと、アイドルと結婚した人が結婚数年後の一般的なセックスの頻度と比べるなということを、必ずと言っていいほどの頻度で主張される。

初めて出会った日から、付き合った日、結婚した日、そして現在に至るまで、私は彼女の顔を見ることに抵抗を覚えていた。

 初めて会ったのは、私の会社が関わった妻の初のソロコンサートの打ち上げ会場だった。掘りごたつの長テーブルが3つあり、それぞれ二三十人ほどが座っていた。乾杯が終わり、各テーブルで話が進み始めた頃、私はプロジェクトリーダーだった上司とともに名刺を持って、彼女に挨拶に行った。その時も、私は彼女の顔を見ることができなかった。首から顎の辺りに目線を合わせるのが精一杯だった。 

 彼女が10代の時(その時私は20代前半だった)から、私は彼女の言葉や歌やダンスに夢中だったし、彼女の顔が好きだった。握手会などのイベントには行かず、ライブには数え切れない程足を運び、バイト代やまだまだ安かった給料で取った遠くの席から、彼女の顔を見つめていた。時にはステージが全く見えず、首が痛くなっていくのを我慢しながらモニターを見上げ続けたこともあった。それが、知り合い、付き合い、結婚してからは顔を合わせるのが、当たり前になった。しかし、彼女の顔の美しさや、彼女の存在(私は信者のように、彼女の一挙手一投足に熱中していた)は、私の中では決して当たり前にはならず、ゆえに目を見ることや同じベッドで寝ることには抵抗を覚えていた。

「こうやって寝るの久しぶりだね。」彼女は、いつものごとく少し鼻声がかったハスキーな声で囁くように喋った。そして、手で口を隠して少し笑った。口を隠しながら目を細めて笑うのは、彼女がデビューした頃から変わらないクセだった。

「そうかもしれない」

私は返事をすると同時に、あることを思い出した。そして、どのように切り出せばいいかを考えた。まるで脳みそがコンピューターになったような気がした。ありとあらゆる可能性を考え、そして、結論を出した。

「最近、やってないじゃん。マンネリ化って言うか。あと、子供いないからお金はあるし、もう20代後半になったんだから、色気も出さないといけない時期だろ?だからさ、ちゃんと貯金してあるから、整形しない?整形っていうのは、顔じゃなくて、胸とかおしりとかのことなんだけど。体型に文句があるんじゃなくて、整形した方が円満になると思うんだよ。歌以外の仕事も増えるだろうし、」

最後だけが計算通りではなかったが、概ね良いだろうと満足しながら、私は彼女の返事を待った。私には幼い頃から計算高いところがあり、それに伴った楽観的な性格もあった。彼女はなかなか返事をしなかった。それどころか、「うーん」や、「えー」や、息づかいすらも、同じベッドの上にいるというのに、私には聞こえなかった。そして、私は彼女の顔を見ることが出来なかった。彼女が私の顔を覗き込んでくることもなかった。それに、私たちは指一本動かさなかった。私は目を開けたまままっすぐ天井を見ていて、おそらく彼女も同じことをしていた。であるから、天井からカメラを向ければ、シュールな映像が撮れたのかもしれない。

「もう年齢的に痩せてるアイドルでいる必要もないし、冬だからグラビアとかもやらないと思うし、老けていくのを毎日ケアしてため息ついてるよりは健康的だと思うし、いいよ」

妻は、いきなり返事をし、私の左腕に抱きつき、いつもよりも更に囁くような声で、「でも、手術したことないし、少し怖い」と言った。妻の唇は私の腕に触れるような場所にあり、妻の吐息が私の肌を濡らした。

「色々話聞いて、良さそうな所見つけて、話聞いてきたんだ。次は本人連れてきてってさ」

私たちは、久しぶりに抱き合った。そして、お互いの身体のありとあらゆる場所を触りあった。性的な場所に対する接触だけではない。髪や鼻や指、身体の全てに触れた。妻はスキンシップが多い方ではなく、何のために私の身体中を触っているのか、私には不明だった。妻はなにか理由があるとき以外、私に触れようとしなかった。それはアイドルの頃からの癖なのかもしれなかった。私は妻に最後に触られた時の記憶がなかったが、直近で妻に触れられたのは、やはりセックスの時なのだろうと思った。私の上半身をあらかた触り終えた後、性器に唇をつけ尻から膝の裏までを撫でた。その行為が愛情を示すものなのか、性的な興奮ゆえのものなのか、全く想像もできなかった。印象派の絵や哲学者の理論のようなもので、私には妻の意図は何一つ汲み取ることが出来なかった。

その一方で、私の目的は明確であった。これはおそらく、この身体に触れる最後の機会だと考えたからだ。整形をする前の妻の身体を私の中で、感覚として保存すべきであると考えた。それは転校生に寄せ書きを書いたりするようなもので、通過儀礼として必要なものであるように感じたし、私には保存しなければならない使命感のようなものがあった。10年近く愛し続けた女の、生まれ持った身体。乳房はそれほど大きくはないものの、柔らかく、皮膚の中に液体を詰めているようだった。腹も尻も足も、引き締まっていて、陰毛は、私の人差し指と同じくらいの範囲だけ残っていた。

身体中を触りあった後、私たちはセックスをせずに寝た。私は、射精の感触が妻の身体中を触った感触を塗り替えてしまうことを恐れた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ